殻
少年は殻を持っていた。ここで言う殻を、心の壁とか、他人との境界線と置き換えても差し支えはない。殻と言うものは、少なからず皆持っているものだが、少年の持つ殻は他人のものよりはるかに高く、堅かった。
その殻は、肉体的で、精神的で、現実で、幻想だった。殻は少年に向けられたあらゆる作用を遮断し、彼の考えをその身を震わさん程反響させた。そうして、少年は、あくまで他の人にとってはと言う事だが、特異な人間になった。
夏のある暑い日。財布、携帯電話、MDウォークマン、少し迷ってから果物ナイフをポケットに入れ、少年は家を出た。本当の母親に会うために。太陽が少年の姿を照らし、風が少年の影を揺らした。少年にとっては、太陽が無邪気を演じ、風が無関心を装っているように感じられた。まるで道化師のようだな、と少年は思った。いずれ、笑いながら僕達を傷つけて来るかもしれない。
少年にとっては、育ての親=実の親ではなかった。その意味で少年は、いくらか特殊な環境で育ったと言えるかもしれない。少年がその事を知ったのは、今から二年前。中学二年生の時だった。学校からの帰り道、知らない女性に声をかけられた。女性はきちんとした服装をしていて、高価そうな指輪をつけていた。大きな唇には真っ赤な口紅が塗られていた。女性は少年の名前を確認し、
「大事な話があるの」と言った。怪しい者じゃないわ、とも付け加えた。
「喫茶店で良いかしら」女性の声は心なしか震えているように、少年には感じられた。少年は頷き、同行した。この人が実の母親かもしれないと、薄々感じていた。
喫茶店に着くと、女性はアイスコーヒーを頼み、少年に
「何でも頼んで良いのよ」と言った。
「同じもので良いです」と少年は言った。別にアイスコーヒーが飲みたいわけではなかったが、選ぶのが面倒だった。その声があまりにも無愛想だったためか、女性の体がびくんと震えた。
店員が飲み物を運んでくるまで、二人は一切言葉を交わさなかった。少年は沈黙する事に慣れていたが、女性はそうではなく、少年に悟られないように少年を見ていた。それは我が子の成長を喜んでいるというよりは、得体の知れない者を観察しているようだった。
女性はアイスコーヒーを口に含んだ。今から話し始める合図のように少年には見えた。少年の思ったとおり、女性は話し始めた。初めは弱く、ゆっくりと、だんだん強く、はっきりと。
内容は良くある話だった。あなたを親戚に預けた時、私達はどんなに貧乏だっただとか。これはあなたの為を思っての事だとか。その後、どれほどあなたを心配していたのだとか。後悔してもし切れなかっただとか。
そう言うような事ばかりをベラベラと喋った。少年は女性の真っ赤な唇が動くのを見つめていた。まるで真っ赤な虫が羽をばたつかせているように見えた。
要するに、今はお金があるので少年に戻ってきて欲しいという話だった。女性の老後の為に。
「一人では答えは出せません」と少年は言った。
「そう」と女性は残念そうに言ったが、声にはいくらかの安堵が交じっていた。今日は事情を話せただけ良しと思っているのだろう。
「良く考えておいてね」と女性は言い、少年にお金を渡そうとした。
「何ですか、これは」と少年は言った。
「お小遣いよ、これで好きなものでも買いなさい。でも親戚の人には言っちゃダメよ」と女性は言った。
会って数時間も経たない内にもう母親面をしているのかと思うと、少年は笑えてきた。この人とっては僕の両親はただの親戚なのだ。お金は受け取っておいた。経済的余裕を見せたいのなら、見せれば良い。お金はいくらあっても困らない。
送るわ、という女性の申し出を断って、少年は家まで歩いて帰った。家への帰り道、少年は育ての親について考えた。今考えると不自然な点はいくつもあった。それも実の親じゃないとすると納得のいくものだった。例えば、父は少年を怒る時、と言ってもそんな事はめったになかったが、絶対に手を出さなかった。少年にしても、心の底から母に甘えた事は無かった。
家に帰ると、母が晩御飯の料理を作っていた。煮物特有の匂いがしていた。
「おかえり」と母がこちらを見ずに言った。
「ただいま」少年も母を見ずに言った。
「さっき、本当の母に会ったよ」母の背中に投げかけた。
一瞬、間があってから、母がこちらを向き
「何を言ってるの」と言った。目、口、顔のそれぞれのパーツは笑っていたが、顔全体は完全にひきつっていた。その顔は、少年に、罰ゲームをうける芸能人の顔を思い起こさせた。
少年はその反応だけであの女性が本当の事を言っているのだと確信した。後ろで母が何か言っていたが、無視して二階にある自分の部屋に行った。
コンポで音楽をかけて、ベッドに寝転んだ、今日は家族会議だな、なんて考えてみる。音楽を聴いていると、自分の周りに張り巡らされた殻がほぐれていくのが分かる。どんな音楽でも良い。メロディーと歌詞を結び合わせ、頭の中でイメージに転換させる。そのイメージは映像と言うには程遠いものだった。もっと漠然とした意味の無いものだった。でも、そのイメージの中に浸っていると何かを感じられるよう気がした。そうしていると、嘘みたいに早く時間が過ぎていった。
一階から、少年の名前を呼ぶ声がした。時計を見ると、晩御飯の時間だった。降りてみると、両親が神妙な顔をしてテーブルについていた。テーブルにはいつもより、豪華な食事が並んでいた。分かりやす過ぎて、少年は笑いそうになった。
「いただきます」と言って少年は食事を始めた。
母が父の肘をつつくと、父が口を開いた。
「お前には今まで黙っていたけどな……」
そこからはまたも、良くある話だった。俺達はお前を本当の子供だと思って育ててきた、その気持ちは今でも変わらないだとか。あいつらは今まで何の連絡もしてこなかっただとか。
要するにこちらも同じで、老後の保険に自分を置いておきたいのだ。
「分かった。良く考えてみる」と少年は言った。
「信じてるぞ」とわざとらしく両親は少年の手を握った。まるで映画の一シーンだな、と少年は思った。もっとも涙を流さない時点でどちらも二流役者だが。
一週間、少年は悩んでいる振りをした。実の母親である女性は毎日、学校から帰ってくる少年を待っており、レストランや、本屋に連れて行った。別れる時にはいつも、少年にお小遣いをあげた。育ての親はご飯を豪華にし、毎晩お前をどんなに大事に思っているかを説いた。
少年はそんな一週間を自分なりに楽しんでいた。愛してる、大切なんだ、お前が居ないとどうすれば良いんだ。そんな言葉の裏に隠された人間特有の欲望の匂いを少年はありありと感じた。見ちゃいけないものを、見ているような楽しさがあった。
少年は結局は育ての親を選んだ。理由は、引っ越すのが面倒くさかったのと、新しい環境に馴染むのが遅いと自分でも分かっていたからだ。それに、いつかこの家を出て行きたくなった時の理由に出来ると思ったからだ。実の母のところに行くと言って。
自分の決断を育ての親に話すと、育ての親はいかに少年の決断が正しいかを力説した。
そして、その後
「あの人の所にも行ってやりなさい。実の母親なんだから」と勝者の余裕をみせさえした。
育ての両親曰く「あの人」は、いつも少年に声をかけていた場所に居た。少年が自分の決断を話すと女性は涙を流して
「しょうがないね」と言った。綺麗な涙だった。大人の流す涙で綺麗だなんて思ったのは、少年にとって初めてだった。
「ねえ、握手してくれない」と女性は手を出した。ほっそりとした、それでいて力強い手だった。その手に触れた瞬間、少年はこの人は本当に僕の母親なんだと実感した。少年の頭が、体が、血が、母の暖かさを欲していた。それを感じたのか女性は少年を強く抱きしめた。少年は自分の持つ殻が崩れる音を耳にした。それはどんな破壊音より、儚く、脆かった。少年は泣きそうになったが、泣かなかった。ここで泣いたら、今まで築き上げてきたものが全て台無しになる事が分かっていたからだ。
母からは、今まで嗅いだ事の無い匂いがした。人を酔わせて食らう植物がいれば、こんな香りを放つのだろうかと思った。少年は自分が壊れていくのを感じた。少年は、自分の中にある何かを振り絞って本当の母親から離れた。
「ごめん、そういうことだから」と言って少年は家に帰ろうとした。家に帰って音楽が聴きたかった。壊れてしまった殻をほぐし、また築かなければならない。
「気が変わったら、いつでも、来て良いからね」と女性は言うと、少年に住所と電話番号を書いた紙を渡した。
少年はそれを受け取ると、家まで走って帰った。本気で走るなんていつ以来だろうと少年は思った。家に帰るとそのまま自分の部屋にこもった。音楽もかけなかった。少年はショックを受けていた。自分が信じられなかった。
今までの自分の生き方が、十数年間合っていなかっただけの実の母親に触れただけで、否定されてしまったのだ。少年にとって殻とは生きていくための指標であり、傷つかないための装備であった。殻は少年の精神を絶対化し、少年は殻を神話化した。しかし、神話は母の真なる愛情によって暴かれた。
それからというもの、少年は殻を高く、堅く、強く、厚くする事に努めた。育ての親を、父さん、母さん、と呼ぶのをやめた。どんな時でも、嫌な事は嫌と言った。名作と呼ばれる、映画、音楽、本をむさぼった。その中で共感できるものを集め、自分なりの考え方を体系付けた。両親や、友達、教師、つまり彼以外の人達は少年を疎んじ、遠ざけた。少年にとってそれはありがたい事だった。
でも、いつもより闇が濃い夜。少年は呼吸が出来ないほどの息苦しさを覚えた。体の芯が凍り、体が自分の物ではないような気がした。どんなに好きな本の世界に入り込もうと、どれだけ好きな音楽のイメージに浸ろうと、心は満たされなかった。そんな時は、実の母親の香りを、暖かさを思い出して、眠りについた。目覚めた時、世界で一番みじめな気持ちになった。
そんな風にして、二年が過ぎて、少年は高校一年生になった。良くも、悪くも、少年は二年前から全く変わっていなかった。それは進化しているとも、退化しているとも言えた。
夏休みのある日。少年は家を出た。本当の母親に会うために。紙切れを握り締めて。会ってからどうしようとは考えていなかった。とりあえず、会わない事には始まらないと、少年は考えていた。それほどまでに、少年は追い込まれていたと言っても良かった。
実の母親の家は、電車で数駅行ったところにあった。後々のことを考えて、少年の近くに引っ越してきたのかもしれない。少年は駅まで歩いて行った。歩きながら、少年はまだ会った事のない父親について考えていた。少年にとっての父親とは、本や映画の中だけに存在するものだった。育ての父親は父親と呼ぶには程遠いものだった。彼が少年に何らかの効果を及ぼした事はなかった。
蝉が鳴いていた。その鳴き声は世界中に響いているような気がした。道路の真ん中で蝉が一匹、死んでいた。この蝉は地上に出てきてから、何日で死んだんだろうと考えた。生まれた時の記憶を背負ったまま死んだのだろうか。それとも、そんな事は考える事もせずに死んだのだろうか。
電車の中は空いていた。少年は座席に座って、MDウォークマンで音楽を聴いた。そんな事あるはずないのに、音楽の中に人々の笑い声が交じっているような気がした。少年は音楽を止めて、辺りを見まわした。電車の中は奇妙な程、静かだった。少年の向かいがわに座っている女性は携帯電話で話している声だけが聞こえた。
変な女性だな、と少年は思った。髪の毛を赤っぽく染めていて、すごく短いミニスカートを履いていた。そんな大胆な格好をしているくせに、電話で話す声は小さく、顔や身振りから、なんだかおどおどとした少女のような印象を受けた。まるで、二種類のジグソーパズルを適当に組み合わせたみたいだった。
電話を終えた少女は、少年を見て顔を歪めた。それが顔を歪めたのではなく、微笑んだのだ、と少年が気付くまで少し時間がかかった。電話での会話が聞かれた事に対する照れ隠しなのか、少年に電話の使用を注意されるのかと思ったのか。
「あの……」と少女は少年に話しかけた。
「何ですか」少年はいつも他人に向けて放つ声で言った。これ以上話しかけないでくれ、という気持ちを全面に込めていた。
「何でそんなに構えているの」と少女は少年の隣に座り言った。
少年は驚いて少女の顔を見つめた。少女の顔はまるで、何年か振りに親友に会った時のように、和んでいた。なんでこの人は他人に向かってこんな顔を見せる事が出来るんだろう、と少年は不思議に思った。そして殻を破ろうとしている。
「大丈夫だよ、こんな髪の毛してるけど、取って食べはしないから」少年がじっと顔を見つめていたからだろうか、少女がそう言った。まるで母親が子供に話すような口ぶりだった。
「すいません、何歳か聞いても良いですか。」少女は中学生にも見えれば、働いているようにも見えた。少年は純粋に興味があった。こんな顔が作れるなんてこの人は何年間、この世界を生きてきたのだろう。
「一五歳だよ、だから、君と一緒だね」
「え、何で僕の歳が分かったんですか?」少年は驚いて少女を見た。その顔があまりにも可笑しかったからだろうか、少女は可笑しそうに笑った。
「何となくよ」
「何となく、ですか?」少年は納得いかなかった。どちらかと言えば、実際の年齢より、年上に見られる事の方が多かった。実際、そうなるように少年は体を大きくしていた。
「うーんとね、強いて理由を挙げるなら君の顔かな」
「顔、ですか」そんな幼い顔をしてるかな、と少年は思った。
「うん、だって難しい顔してるんだもん。俺は全てを拒絶する、みたいな感じ?」
「そんなこと……ないです」
「何、今の間、図星とか」
全てを拒絶する、確かにそうかもしれないな、と少年は思った。でも、拒絶できないものもある。母の愛情、温もり、優しい記憶。だから、傷付く、壊れる、崩れる。僕はそれを拒絶するために母に会いに行くのかもしれない。
「何で、難しい顔をしているから、一五歳なんですか?」
「うーんとね、私もそうだから、かな」と言って少女は薄く笑った。その笑顔は見ようによっては自虐的にも見えた。窓から光が射し込み、少女の顔に影を差した。髪の赤色がきらきらと映えた。まるで炎のようだな、と少年は思った。
「君も?」少年は疑問に思った。そんな風には見えなかった。むしろ、日常のちょっとした出来事にも喜びを見つけ出せる事の出来るタイプに見えた。
「そう言う風には見えないけど」少年は本心を言った、
「そう言う風に見えないように、してるもん」少女は悪戯っぽく笑ったが、どこか悲しげだった。
「そう」と少年は言った。
僕らの他には、三人組の品の良いお婆さんがいた。その三人組はもこもこと小さな声で何かを話していた。彼女等の目には何が映っているのだろうと少年は思った。それとも何も映ってないかもしれない。
少年も少女も黙っていた。少年は不意に少女の手に触れてみたいと思った。そうしたら、彼女の考えている事が分かるかもしれない。彼女の不安や、心配を取り除けるかもしれない。そして殻を壊せるかもしれない。あの時、母が僕にしてくれたように。
「ねえ、何か聞かないの?」しばらく経ってから、少女が言った。
「聞いて欲しいの?」
「うん、そうかもしれない。分からない」と少女が言った。
少年はゆっくりと、少女の手に触れた。少女の体は強張り、顔は完全に戸惑っていた。
「ごめん」と少年は言った。会って数十分も経ってない男の子に触れられたら、誰でもびっくりするよな、と少年は思った。やっぱり、関わるんじゃなかった。この電車はまだ着かないのか。
「ありがとう」と少女が言って、笑った。それはとても素敵な微笑だった。少年は自分の体が暖かくなって行くのを感じた。まるで、好きな音楽を聴きながら、夢の中をさまよっているような気分だった。
「私が世界を拒絶している理由知りたい?」少女は不安げに言った。
「僕なんかに話して良いの?」
「うん、君が良いな。同じ雰囲気がするから」
「全然違うと思うけど」
「いや、似てるよ。中身は同じ。君は素だけど、私は仮面を被ってるの、傷付きたくないくせに、友達にはいてほしいの。弱いね、私は」
「そんなことないですよ」僕だって弱いです、と言おうとして少年はやめた。こんなの慰めにもならないだろう。
「で、聞いてくれる、私の話」
「は。」
「私は双子なの、それも一卵性のね。私と全く同じ顔の姉がいたわ」
「いた?」過去形になっていると言う事はその人は死んじゃったって事か、と少年は思った。
「そう、姉はいないわ。今はね」少年の疑問を感じたのか、少女はそう答えた。
「交通事故だった。学校からの帰り道に、信号無視の車に衝突されてね、即死だった。いつも一緒に帰ってたのに、その日だけは違った。私の方が遅くて姉は一人だった」
「部活でもやってたの?」何を聞いてるんだ、と自分でも思ったが、そんな事しか頭に浮かばなかった。
「ううん、姉が交通事故に遭ったのは、小学生の時よ。小学六年生の時だから、部活はなかったわ」
「そう」相槌一つ上手く打てない自分に、少年はいらついた。
「だから、家に帰った時にはもう、姉はこの世に存在してなかったの。そう思うと、変な気分になったわ。自分の居場所がなくなっちゃったって言ったら良いかしら。知らない場所で迷子になった気分だったわ」
「迷子ですか」その気持ちなら分かる、と少年は思った。実の母親に触れた夜、少年はそんな気分だった。自分はどうやって生きていったら良いのかが分からなかった。
「うん、当時の私はずっと姉と一緒だった。姉と一緒にいれば安心だと思ってた。姉と私は全くと言っていいほど同じ顔だったわ。でも、誰も間違わなかった。何でだと思う?」少女は当時の事を思い出していたのだろうか、楽しそうに、得意げに言った。
「うーんと、なんか目印があったとか、黒子とかそういうものが」双子の見分け方と言えばそういうのが一般的だ。
「うん、違う。そんなんじゃないわ」少女は少年の答えを楽しんでいるようだった。
「じゃあ、性格が全く違ったんだ」
「うーん、おしいかも。確かに性格は正反対だったわ」と言って少女は首を振った。
「じゃあ、何なんですか」と少年は言った。当たり前の会話を楽しんでいる自分はいた。
「前を歩いているのが姉、その後ろに隠れてるのが妹の私。今、思うとおかしいけど、そうしていると私は絶対大丈夫なんだっていう根拠のない自信があったわ」
「でも、そんな人はいなくなってしまった」
「そう、その時気付いたの、私は姉の影なんだってね」
「影?」と少年は聞き返した。
「ううん、その言い方は適当じゃないわね。姉が光だとすれば、私は影。姉が影だとすれば、私は光だったわ。つまり、私の存在の定義は『姉とは違う』というものだったの」
少年は少女の言っている事が分からなかった。自分は自分、他人は他人として生きてきたからだ。他人と違う、と感じる事は多くあったが、それは自分の存在を確かめるものではなく、他人の存在を否定するものだった。
「どういうことかな」と少年は言った。知らず知らずの内に何故か優しい声になっていた。
「姉が強気なら、私は弱気。姉が活発なら、私はおとなしい。そうやって自分でも気付かない内に姉を指標にして、バランスを取っていたの。でも、その指標を失ってしまったら、もう私は一人では立てなくなっていた」
「その指標を再び得ようとは思わなかったの?」
「無理よ、姉はたったひとりだもの」少女は明るい声で言った。でも、そんな少女を少年は痛ましく感じた。悲しかった。悲しいという感情を抱くのはいつ以来だろうと考えた。
「でも、指標を作り出す事は出来たわ。だって自分の反対が姉なんだもん。姉はいつも私の心にいたわ。そしてその反対が私なの」
「何だか良く分からないな」と少年が言った。本当に良く分からなかった。ひとりの人間が二人の人格を抱えて生きていけるものだろうか。
「私も良く分からないわ。でも、姉の仮面を被っていれば、少なくとも傷つかないわ。そうやって、本当の私は何も受け取らない」
「そうやって拒絶している」
「そうよ」少女は決意を滲ませたような声で言った・
「ごめん」と少年は言った。
「なんで、謝るの?」
「僕は君に何もしてあげられない」だって少女の姉はもういないのだから、と少年は思った。僕とは違う。彼女は全てを拒絶する事も、全てを受け入れる事も出来ない。その意味では、僕は幸運なのかもしれない。母を拒絶する事も、受け入れる事も出来るのだから。
「話を聞いてくれてありがとう。私、もう降りないといけないから」少女は笑顔で言ってから、少し悲しそうな顔をした。この顔はどちらのものなのだろう、と少年は思った。少女の姉のものか、それとも少女自身のものか。
「僕も話せて嬉しかった」と少年は言った。嘘ではなかった。少なくとも似た境遇にいる人と喋れて嬉しかった。でも、もう二度と会う事はないだろう。
電車が駅に着き、プシューという音とともに扉が開いた。少女のほかに降りる人はいなかった。
「じゃあね、バイバイ」と少女は言った。
少年は返事をしなかった。少女は僕の返事なんて求めてない、と感じたからだった。理屈じゃない、ただ単にそう感じたのだ。
「ありがとう」少女はとても小さな声で言った。その声は少女自身の声に聞こえた。少なくとも少年にとっては。
電車が再び、動き出した。三人組のお婆さんはまだお喋りを続けていた。彼女等にとっては、世界はその三人だけで成り立っているのかもしれない。
電車が次の駅に着いたら、母の家はもうすぐそこだった。電車の揺れに身を任せながら、少年はある考えを固めつつあった。ポケットのナイフにそっと手を触れてみた。不思議に暖かいような気がした。もしかしたら、ナイフにも僕達人間のように、血が流れているのかもしれない。
電車が駅に着き、少年は駅に降りた。何だか時間の流れがおかしい、と少年は思った。
少年の他には降りる人はいなかった。彼らは何処に行くのだろう。もしかしたら目的地なんてないのかもしれない。
少年は苦笑した。何々なのかもしれない。そんな空想ばかりして何になる。
住所の書いてある紙を見ながら、母の家まで歩いた。紙に記された場所に一般的な一軒家があった。それほど裕福そうに見えなかった。表札には母とは違う苗字が刻まれていた。という事は父が居るらしい。
チャイムを鳴らすと、家の奥から眼鏡をかけた男性が出てきた。やさしそうな顔をしていた。母と同じぐらいの年齢だろうか、この人が僕の父親だ。この人と僕は血が繋がっているのだ。
そう思うと、頭がぼうっとしてきた。殻が揺らぐのを僕は感じた。やめろ、僕を壊すな、崩すな。
「どうかしたのかい」と父が少年に声をかけた。
「いいえ、何でもないです」と少年は答えた。父の声が頭に届き、体を巡った。
「あの、久美子さんに用があるんですが」久美子というのは、母の名前だ。母の名前を呼んだのなんて、初めてだな、と少年は思った。その名前は驚くほど、自分の唇に馴染んでいた。
「久美子は散歩に行ってます。ところで、君は誰かな」
少年は自分の名前を言った。その瞬間、父が何かを言うのが聞こえたが、その声を振り切り、家の玄関から出た。
体がふらついているのを自分でも感じた。僕は動揺しているのだ、と少年は思った。実の父に出会い、実の父の声を聞き、実の父と少し言葉を交わしただけで、僕の殻は壊れようとしている。
なんて弱いんだ、と少年は思った。たとえどんなに頑張っても一人で生きていくのは無理なのか。
道路の向こうから、母が歩いてくるのが分かった。まだ、少年には気付いてないらしい。二年前より少し痩せている気がした。唇には何の口紅も塗られていなかった。
少年は母に向かって、一歩を踏み出した。