第9話 横取り計画
別に藤沢商事で働かなくてもいいって、前に早希子さんも言っていた。
翔子が、あまりにも人づきあいが苦手なので、他よりマシかと勧められただけで、ここでなくてはならないという訳ではない。
早希子に相談すると、
「いいんじゃない? 好きな事を色々やってみるといいわよ。」
どのみち、株の配当だけで一生食べていけるぐらいの収入はある。新しいことに挑戦してみるに如くはなし。
「・・だって。」
ランチの時に、壮太に話す。社食は他の人の目がうるさいので、外の定食屋さんに来ている。
「いいんじゃねぇ? なんか居心地悪そうだしな。他に向いている仕事があると思う。」
いざとなったら、俺が養ってやる、と壮太は笑った。
「それってプロポーズみたい。」
翔子も笑いだした。壮太は食べていたものを吹きそうになった。
「なんっ・・あー。そ。そうだな。まー、なんだ、それぐらいの気持ちって事だ。」
「えー。プロポーズじゃないの?」
翔子はからかうように言って、うふふと笑った。
壮太はだらだら汗をかきながら、行儀悪くお箸の先をタクトのように動かした。
「俺にも心の準備をさせてくれって。」
午後、人事課の坂井奈々子に転職を匂わせたら、すぐに人事課長が飛んできた。
「何か問題があった?」
さすがに、人事課長と総務部長は、翔子が藤沢会長の孫娘だという事を知っている。
「えーと。総務課が向いていなかったようなので、転職しようかな?と考えています。」
「ちょっ、ちょっと。待っ。いや、総務課を一年ほどやって、慣れたら秘書課に異動をと言われているんだよ。」
「え。誰にですか?」
「社長。会長が君をどうしても自分の秘書にしたいって言ってるらしいんで。でも最初っからはちと無理があるから、徐々にな、仕事を覚えてから、と。」
無邪気にわがままを言う祖父と、ちょっと困っている伯父の顔が目に浮かぶ。
「そもそも総務課に新人三人は多いですよね?明らかに私はイレギュラーって感じがします。それは異動前提だからって事ですか?」
人事課長は、こめかみの汗を手の甲で拭った。
「いやまあ、それだけじゃないけど。」
1年目の間に秘書検定を受けて、資格を生かせるようにとの口実で秘書課に異動、との腹積もりだったらしい。
「一年は我慢できないかもです。」
「受付はどうかな。一階の。」
いつも制服を着た二人が立っている。受付担当はシフト制で四人いて、どう見ても人は足りている。そこに割り込んでも、居心地の悪さには変わりない。
「とにかく、退職しちゃおっかな?という気持ちには変わりないので、一度伯母と相談します。」
話を聞いた由紀子は、軽く肩をすくめた。
「そうなるんじゃないかとは、思っていたのよねぇ。異動前提で新人取るなんて、普通はしないものねぇ。齟齬が生じても仕方ないわ。」
フジサワフーズの社長室で、翔子と話している。
「翔子ちゃん優秀だから、ホントは営業か企画部で取りたかったのよね。だけど早希子がダメだしするもんだからね。会長もうるさいし。どうする?転職するならフジサワフーズに来てもいいわよ。それかもう異動で会長の秘書になっちゃうか。」
選択肢を並べられると迷う。逃げるのは得意だが、踏み出すのは苦手だ。迷った末に。
「フジサワフーズでもいいんですか?」
「いいわよ。壮太君がね、コーヒー豆の方もやってみたいんだって。手を広げるとなると、ちょっと人手が必要だから。ただ、会長がうんと言ったらになるけど。」
予想通り、祖父はゴネた。経営の第一線から手を引いているが、あちこちの人脈作りに余念のない会長は、日々あっちのパーティ、こっちのゴルフと顔を出し、しかも余った時間は、新しく作った農業法人の方に顔を出すという忙しさで、もちろん専任の秘書も一人ついてはいるが、大変なので人数を増やしてほしいと要望を出されているのだ。
それに、翔子は祖父母の家に引き取られて三か月後には、そこから早希子の家に引っ越している。翔子はまめに顔を出すようにしてはいるが、祖父としてはちょっと寂しいらしい。
そう聞くと、翔子も申し訳ない気分になる。
「もうばれてもいいかな? それならすぐ秘書課に異動させられるよ。」
伯父の社長に言われて、翔子は頷いた。とりあえず秘書をやってみて、辞めるのはそれからにしよう。
流されている感じもあるけど、あと壮太と一緒に働きたい気持ちもあるけど、求められている所があるならそっちの方がいい。少なくとも居心地の悪さからは解放されるだろう。
異動すると決まったら、どんな嫌がらせも気にならなくなった。
社内配達も書類の清書も、会議室のお茶汲みや簡単な清掃も、あと備品の管理なんかも、鼻歌交じりで終わらせて、さっさと定時で帰る。
他の二人がワープロソフトのフォントの変え方を教わっている間に、もう全部プリントアウトまで終えて、
「お疲れ様でした!お先に!」
と壮太と待ち合わせて帰る。森田は、先輩を差し置いて帰るのか、と文句を言いたそうだが、新人に任せられる仕事は限られているし、総務課の残業は基本認められていない。
七月に入って雨続きだが、相合傘する~?とか言いながら帰る二人を、総務課の面々はうらやましくも妬ましく見送る。
「最近、開き直ったよね。」
浦野が言うと、広田はうなずいた。
「ちょっと申し訳なかったけどねー。意外に神経太そうでよかった。」
「だって佐藤さんの味方すると、森田さんの機嫌がすっっごく悪くなるんだもん。仕方ないわ。」
新人には新人の事情がある。
「彼氏、かっこいいよね。うらやましい。」
「いいよね。細マッチョって感じで。一見オレ様っぽいのに、女の子に優しいし。」
「そーそー。この前コピー用紙運ぶの重くて困ってたら、さっと手伝ってくれたんよ。惚れるわー。」
女子ロッカー室で、背中で聞いている坂井奈々子は、心の中でうんうんとうなずく。そうなんだよ。壮太はすごくいい感じなんだよ。あのギャップにやられちゃう。
だけど残念だったな、あの二人の間に割り込むのは至難の業だし、もう親公認みたいなもんだし。あれを狙うぐらいなら、まだ営業二課の藤沢主任を狙ったほうがワンチャンある。
新人たちがロッカー室から出て行くと、別の方向から声がした。
「彼氏が出張から帰ってきてから、生意気になったよね。」
うわ。誰。
「そうそう。堂々と待ち合わせてるし。ムカツクわ。」
「彼氏、奪っちゃう?」
「えー。また? すぐ振っちゃうくせに。やめときなよ。」
「向こうが勝手に好きになるには構わないでしょ。」
隅っこで話を聞いている奈々子は、そんなことあるかなぁ、と思う。
大学生の頃、同じ空手部のサークルの後輩だった壮太をちょっとだけ好きだったけど、翔子の蕩けるような笑顔を見た後では、勝ち目はないと悟らざるを得ない。
どうするつもりだろう、と聞き耳を立てるが、しかしその後の声は急に低くなって、聞き取ることは出来なかった。
誰が話していたのかは分からない。