第1話 憧れの社会人
サイフォンがポコポコと沸騰し始めたので、翔子は話を止めてそちらを見た。
「なんかあったのか。」
スマホの中から壮太は聞いた。翔子はサイフォンでコーヒーを淹れるのが大好きだ。
でもだらだら話している間に、二回も沸かすなんて、ちょっとやり過ぎかなと思う。
この前の三月、翔子は大学を卒業した。
お嬢様としてのんびりするのかと思いきや、伯母の早希子に
「うちみたいな零細企業は、一族総出で働かないとやっていけないのよ。何か仕事しなさい。」
と言われたとかで、伯父が社長をやっている藤沢商事の総務課にコネ入社した。が、どうやら早々につまずいたらしい。
最初の週末から雰囲気が微妙だったが、週末ごとに表情が固くなっていく。
「うーん。何かって言うか。仕事って大変だよね。」
早希子のマンションのキッチンで、一人でコーヒーを淹れている。早希子はデートとかで留守である。
「憧れのOLさんだったんだろ。」
「うん。なんかもっと楽しいかと思ってた。」
「楽しくないのか?」
「だって・・・そーちゃん、インドだし。」
サイフォンのポットからコーヒーを注いで、翔子用のブレンドのできあがり。
三月までは、週末はいつも壮太の実家の喫茶店を手伝っていたが、新しい仕事に慣れるまでは休みをもらっている。どのみち副業禁止だし、壮太も今、インドに出張中である。
壮太は大学卒業後、翔子の伯母の会社「フジサワフーズ」に就職した。
ここは紅茶を扱う会社で、フェアトレードを謳い文句にしている。採算はやや厳しいらしい。赤字続きでつぶれそうだ、と息子の和登がブーブー言っていたが、早希子に聞いたところ、イメージ戦略の一環だし税金対策でもあるので問題ないらしい。事業の拡大を目指していないので、通常そんなに人手を必要とせず新人の採用もほぼないが、もしよかったらと誠司に誘われて、壮太はここに就職した。
いずれコーヒー豆も扱いたいし、知識が増えれば実家の喫茶店に何かしら還元できるかもしれない。
藤沢商事の入るビルの三階にあるので、一緒の職場だね、と喜んでいたら、三月の末から壮太はインドに長期出張になった。二か月ぐらいで帰ってくるらしいが、ちょっと寂しい。
「早希子さんは?相談したのか?」
「うーん。なんか言いにくい。早希子さんて、ミソノの専務だからさー。直接は関係ないじゃん。」
他の親族はみんな、藤沢の名前が付いた企業で働いているのに、なぜ早希子だけ、「ミソノ繊維」で働いているのかというと。
「え、だって早希子さんて、そもそもうちの良二叔父さんの婚約者だったんだもん。」
ニュージーランド留学から帰ってきた御園彩佳は、急に現れたはとこに興味津々で、しばらく早希子のマンションに入り浸った。その時に聞いた話である。
いずれ結婚するがせっかくだから社会人経験も積みたい、どうせなら嫁ぎ先の会社で、というので、早希子は大学卒業後、従兄の会社に新人として入社した。
「そしたらさ、早希子さんてめっちゃ仕事出来るでしょ。2年目ぐらいで、うちのお祖父様に直談判して、それまでタイから糸とか原料とかだけ輸入してたのを、タイに工場作らせて、布にして輸入するようにしちゃったの。」
会社は増収増益。めちゃくちゃ儲かったらしい。そして会社としては、早希子を手放せなくなった。
ところが御園良二という人は、妻になる人には仕事を辞めて家庭に入って欲しかったらしい。
早希子はどっちでもいい、と言ったらしい。
が、何度も両家で話し合いが持たれ大揉めに揉めた挙句、結局彩佳の祖父である当時の社長が、何度もコメツキバッタのように頭を下げて、婚約は解消。
海外事業部を新設して、早希子がそこの事業部副部長になる、ということでまとまったとのことである。
早希子はまだ二十代だったのだが、社員の反応は「そりゃそうでしょうね。」という感じだったらしい。
御園良二はタイの支社長に就任して、通訳だった日本人女性と結婚した。日本にはほとんど帰ってこないらしい。
「まー、今でもうちのパパママと仲悪くないからいいけどさ、こじれてたら恐ろしいよね。」
ゆるふわパーマにピンクのつけ爪の彩佳は、話しながら、んふふ、と謎の笑いを浮かべた。まあ、どっちでもいい、と言った時点で、早希子はそんなに従兄と結婚したいって訳でもなかったのだろう。
とにかく、早希子は藤沢商事の外部取締役ではあるが、直接業務を見ているわけではない。
「誠司さんとかは頼りにできないのか?」
「誠司兄ぃはねー。仕事が忙しいみたい。社内でもあんまり見ない。この前ちょっと話したけど。」
そして、翔子より一年早く藤沢商事に入った和登は、今は会長のお供で、取引先のメキシコの工場を見に行っている。この後バングラデシュにも行くらしいので、こちらも帰ってくるのは五月半ばになりそうだ。
「そうか。俺もあと半月はインドだからなー。とにかく俺が帰るまで、頑張れ。駄目っぽかったら、我慢せずに早希子さんに言うんだぞ。」
「うん。分かった。ありがと。」
スマホを切った後、翔子はハァとため息をついた。
せっかくのGWなのにつまらない。いっそインドまで遊びに行ってもよかった。でも思い立ったのが遅かったので、飛行機が取れなかったのだ。
祖父母と、従兄弟の誠司と諒輔、それからハトコの峻と彩佳に誘われて、箱根の温泉で三泊した。諒輔は北急ハイランドも行こう、と粘ったが、そんな元気あるの学生のお前だけ、と言われて却下になった。
それなりに楽しかったし、職場での悩みも聞いてもらった。でも壮太がいればもっと楽しかった。
明日は月曜日だ。気が重い。
話は四月にさかのぼる。