3話
穢れ
:人間性に干渉し、変容させる何か。発現元は黒い森の入り口と人間性であり、人間性———自らの可能性に抵抗できず飲み込まれることでケモノ化する。また、穢れの濃さによってその姿は変容し、穢れに侵される苦しみは計り知れない。
理性と記憶を失い、尚も動いているのは穢れによって本能を無理やり動かされていることに他ならない。そこに、彼らの意志は存在しないのだ。
白巫女の力を授けられた聖者は高い対抗を持つが、身体にとどめることしかできない。聖者には特別なロザリオを授けられる。
『…守ル…たメに…通さナい…ナにモ…』
ルプスにもう理性なんて持ち合わせていない。あれはまさしく“ケモノ”だ。
『アアアアアアアアアァァァァァァァッッッ!!!』
甲高い悲鳴を上げ、剣を振り上げこちらに飛びかかってきた。ルピナスを庇いながら間合いから距離を取る。剣が思い切り床にめり込むのが見えた。ルプスは暗い目でこちらを見つめている。こちらも迎撃態勢を取らなければ———。
「…だめです…天使様。あれは…私のお姉ちゃんなんです…」
ルピナスが言う。あんな気配を漂わせているのが、殺意を向けられているのがわからないのか?それとも解決法があるのか?話を聞く限りケモノ化したものを助けることは出来ないだろう。それならばなぜ———。
「ちょっと、暴れるな落ちるってっ」
彼女は手足をばたつかせ、振りほどこうとしてくる。こんな状況で何を考えているんだ。このままじゃ動きにくい。一瞬、注意が疎かになった所をルプスは剣を突き刺してくる。僕は間一髪で影の腕を盾にする。その刃は僕の影を貫通して鼻の先まで届いた。なんてフィジカルだ。痛みで僕の顔はしかめる。あの天使の聖なる矢———ほどじゃないけど刺さりどころが悪かったのか、かなりの痛みだ。影で防ぐのは得策じゃないだろう。
僕はルピナスを抱えたままの状態でルプスの猛攻を捌く。どうにか彼女だけでも遠くに避難させないと怪我を負わせてしまう。…投げ飛ばすか?いや、そんな時間を与えてもらえそうにない。攻撃の速さだけならあの天使といい勝負するんじゃないのか。それでもあれと比べれば遅い。時間さえあれば———。
あれから3分程度。相手の剣筋にだんだん慣れてきた。ルプスが振るっているあの剣の間合いも見切った。刺突を混ぜ合わせた独特な剣撃だが見切ってしまえば問題ない。
「ちょ、ちょっとそろそろ降ろしてください!そんな激しく動かれるとぱ、パンツが…!」
「もうちょっと我慢して」
「そんな!?」
しかし、このままだとなにも進歩もなしに時間が過ぎてしまう。そろそろ行動に移すべきだな。今まで自分の力———影のような腕を纏うものと考えていたがこれは自分の影から生えているわけではない。身体に二重に被さっているように存在している、分身のようなものだ。その形状は、人型である必要はない。あの天使にやられたように影はあらゆる形に変える。刃のように鋭く———。
影の刃。僕はルプスの突進に合わせ地面から影の刃を生やし、切り上げた。上空へ弾き飛ぶルプスの剣。ルプスは少し驚いた表情をする。———隙が出来た。そこを逃さず腹に一発、追撃を加える。蹴りを入れ、大きく吹き飛ばす。
とりあえずルピナスを下す。これ以上戦いが激化したら無傷では済まないだろう。するとルピナスが喋りかけてきた。
「天使様…どうにか、お姉ちゃんを元に戻すことは出来ないのでしょうか…穢れからお姉ちゃんを救うことは出来ないのでしょうか…」
僕の手を掴み、祈りを捧げる様に助けを請う。その願いは叶えられぬものだった。穢れから救う方法など、ないことはルピナス自身が知っているはず。それでもなお、僕に祈るその姿は、不可能を認めたくないからだろう。自身の姉を失いたくない。その一心で。
「穢れから助ける方法は、僕も知らない。そもそも穢れ自体、君から初めて知った知識だ。その願いは叶えることは出来ない」
掴んでいる手をゆっくりと離し、俯く。悲しそうな顔が伺わなくてもわかってしまった。せめて、苦しみ無く眠らせてやらなければ。
ルプスに視線を向ける。なにか雰囲気が変わった様子。ケモノの———穢れの気配が濃くなっている。穢れの浸食がまだ進んでいるようだ。このまま長引かせると良くないような気がする。やはり早く終わらせた方がいいな。
影で出来た刃を実体化させ、刀剣を生成し、戦闘を再開する。その戦闘は激しい攻防と化した。突然、ルプスの動きが急に素早くなった。行動パターンは変わり、縦横無尽に戦うその身体能力は、まさに聖者と呼ばれるにふさわしいものだろう。目で追えるスピードではなくなり、風を切る音と穢れの気配だけを頼りに反応する。刺突による素早い剣術は受け流すことも難しく、何度も僕の体を突き刺した。それでも慣れというものは恐ろしい。天使との戦闘と比べ比較的楽であること、剣の間合いを既に見切ってることを踏まえて、その剣術を完封することに数分もかからなかった。
幾度となく続く切り合いの中、僕はルプスの脇腹を切り裂く。血飛沫が床に飛び散り、彼女は怯み、後退る。少し動き鈍り始めているように見える。あの身体を動かしているのは、穢れによって侵された本能だろうか。であれば、身体の構造は人間であるはず。人間の体は脆く、急所の数は多い。痛みを感じるかどうかはわからない。しかし、本能だけで動いているのであれば感覚が残っている可能性もある。痛み無く葬るには、首を切り落とすしかないか———。
ふいにルプスが頭を抱え始めた。それと同時に穢れの気配が一気に濃くなる。
『オアアアアアアアアァァァッッッ!!!』
甲高い声を上げると同時に姿が変容する。その姿はケモノ———いや、化け物だ。ルプスは3~4メートルあるだろう大きな身体のケモノに変容した。骨のような翼も体に合わせて歪み大きくなっている。獣そのもののような、もう人とは言えない、悲惨な姿だった。
しかし、その巨体とは裏腹に、動きは人の姿と同様の速さで、瞬きをすれば目と鼻の先に近づき、大きな手と爪で腹を切り裂かれ吹き飛ばされた。
「———ッッっ!!」
———痛み。聖なる矢を刺されたような痛み。僕の血が勢いよく吹き散らし、背後の壁に叩き付けられる。
「だいじょぶですか、天使様!?」
「大丈夫、だから下がってて」
このまま一緒にいるとルピナスに狙いが移りかねない。離れないと。にしても変容しすぎだろう。あれは人間の原形をとどめていない。ただ、二足歩行している巨体だ。前にあったデーモンより大きいサイズ。前のように影の腕で消し飛ばすのは無理だろう。それでも使える。あの様子から例の剣は使わない様子。なら余程のことがない限り心配はいらないはず———。
巨大化したルプスがこちらに突進してくるのが見えた。すかさず天井ギリギリまで跳躍し、なんとか背後に回る。化け物は振り返る。溶けたようにくり抜かれた眼、骸骨のような顔立ちでこちらを見ている。ルピナスには眼中にないようだ。それはそれで好都合。戦闘に集中できる。
左わき腹の痛みがじわじわと広がっていく。腹の痛みを抑えながら動き回り、化け物の攻撃を躱す。目の前に集中すれば攻撃を躱すことは容易だ。しかし、痛みのせいで思うように動けなくなっていく。影の腕で殴りつつ距離を取り、羽を駆使して飛び回る。じりじりと、こちらの体力が削れていく。汗が頬を垂れる。このまま持久戦を続けてはダメだ。むしろこっちが殺される。———二度も殺されてたまるか。
隙が出来れば何でもいい。あの化け物は穢れに飲みこまれた結果あんな姿になった。手足を振るう度、傷を与える度、黒い血のようなものが噴出しては霧になって消えている。それは黒い森の入り口から現れた霧に酷似していた。ならば人体と同じ致命傷となる傷をつけることが出来れば、体内に貯め込まれた穢れを少しでも放出できる。そうすれば元に戻す鍵の一つになるかもしれない。今はなにもわからない。が、わからないなりにやるしかない。彼女の願いを叶えるためにも。
「お姉ちゃん!!!」
ルピナスが僕とルプスの間に立ち、両腕を広げていた。
「ってなにを———!?」
自殺行為だ。彼女を庇おうとした瞬間———。
『ウアアア…ガアア…!』
化け物が———ルプスが頭を抱えだした。傷跡から穢れの霧が溢れ出す。何が起きたんだ?わからない。わからないが———隙が出来た。今だ。
ルプスが使っていた剣を拾う。この剣は不思議な力がある。ならば、ケモノ化したものにも有効かもしれない。根拠もなにもないがなんとなく感じるのだ。細い見た目と裏腹に重い剣を握り締め、地面を擦りながら巨体の左脇腹———腎臓を狙って切り上げる。
切り裂いた脇腹から血が大量に噴き出す。その血は瞬く間に霧になり蒸発するように消えていく。
『———アアアアアアアァァァァッッッ!!!』
ルプスは甲高い悲鳴を上げ、後ろへのけぞる。が、両腕を振り下ろそうと振りかぶるのが見える。このままじゃルピナス事圧し潰される。すかさず剣を手放し、影の腕で押し返そうと対抗する。
「ぐ、ぎぎぎぎ…!」
お、重い…!まるで建物を丸々抱えているような重さ。このままじゃ身動きも取れず圧し潰されてしまう…!
ルプスの両腕を抑えるのに必死になっていると間に立っているルピナスが剣を両手で持つ。
「な、なにを———」
「やああああああああ!!!」
———ルピナスがルプスの胸を剣で突き刺した。
パキィッ!!
なにかが割れる音がし、突き刺した傷から血が噴き出る。それと同時に、圧し潰そうとした圧力が抜けていく。ルプスは膝から崩れ落ち、地面に手を付け、動きを止める。ルプスの傷だらけの体から血が霧になって消えていく。その様子と気配から穢れが抜けているように見えた。
『———ァァァァァァァ…』
擦れるような悲鳴。ルプスは空を求める様に見上げようとした後、力尽きたように顔を落とした。戦いになってから月が沈むような時が流れる。しかし、それは錯覚であり実際の時間は30分も満たなかった。そのような戦いの末、穢れた聖女、ルプスを鎮圧することが出来た。
「あぁ…ぁぁ…」
声が、手が、身体が震えている。ルピナスは絶望した顔をしながら膝から崩れ落ちていた。穢れに飲み込まれたとはいえ、実の姉を自らの手で、剣を突き刺したのだから。
ルプスの体全体が灰色のように色褪せていく。そんな中、微かに声が聞こえた。
『———私が…守るって…約束…したのに…』
それは、初めて聞く声のはずなのにルプスの声だと、はっきりと理解した。そして、僕が何をすべきか、どこからともなく湧いた根拠もない感覚が、本能が理解した。
「ルピナス、こっちに来て」
「…え?」
「手を」
僕はルピナスの手を取り、ルプスに近づく。これはきっと同じ聖者であるルピナスが一緒じゃなければできない。姉妹の絆か、聖者の奇跡の力か、それとも見知らぬ過去が繋いでくれたのか。ルプスに手を触れ———その光景をのぞき込む。
穢者〔ケモノ〕を葬るために生まれた私たち
生み出された闇を知ってもなお、あなたは優しく接してくれた
他の魔女に異端だと言われてもなお
本当の母親のように
私は恩返しがしたかった、闇はいつか光へと変わるのだと
私はそのために剣を握った
そんな時、あの入り口が開いた
黒い森から穢れ、穢者が溢れ出る
まだ戦えないルピナスを逃がして、一人残る
この命はそのために使う
ルピナス…ごめんなさい
一緒にいてあげられなくて…
ずっと一緒に…
それはルプスの記憶と思いだった。魔女への思い。ルピナスへの思い。黒い森の入り口から湧き出る穢れとケモノを封じ込めるために一人残るルプス。しかし、穢れを溜めこみ続けやがて自らもケモノになり果てた。しかし、僕らがここに来るまでケモノに遭遇したのはルピナスを追っていた牛頭のデーモンの二体のみ。おそらく、その二体の出処は別の場所にあり、それ以外のケモノたちは全て倒していたのだろう。ルピナスを———妹を守るために。
あの時、ルピナスの声に反応したのは、その並々ならぬ思いからだろう。ケモノになっても思い出す妹への思い。それがあの隙を生んだ。彼女にとって大切なものが、まだ奥底にあったから。
「…お姉ちゃん…」
ルピナスは泣いていた。同じ光景を、姉の思いを見たのだろう。ルプスが使っていた剣を抱きしめて、色褪せたルプスの元へ歩み寄る。すすり泣く彼女はいま、何を思っているのだろう。僕は後ろからそっと見守ることしかできなかった。