1話
「———お前は気色悪い」
「———お前は才能がない」
「———お前は選ばれなかったんだ」
どこからか声が聞こえてくる。聞き覚えのある言葉ばかり吐き捨ててくる誰か。はっきりとせず、ぼやけて見える羽の生えた“誰かたち”がそこにいた。
「———お前は醜い」
「———お前はいらない」
「———お前は邪魔だ」
彼らが発する言葉は、どれも聞き覚えのある言葉だった。しかし、僕は彼らのことを知らない。覚えていない。だれなんだ。
「———お前は×!&?*」
「———お前は?%@=?」
「———お前は!~>#@¥」
だんだん聞き取れなくなってきた。だけど、もう聞きたくない。
うるさい。うるさい。
うるさいうるさいうるさいうるさいうるさいうるさいうるさいうるさいうるさいうるさいうるさいうるさいうるさいうるさいうるさいうるさいうるさいうるさいううるさい———。
気が付くと知らない場所に倒れ込んでいた。洞窟?天井から水が滴っている。冷たい。感覚があるのがわかる。湿った土の冷たさ。指先から、振るえるように動かし、周りを見渡す。どうやらここは洞窟の最奥のようだった。
僕は状況を飲み込もうとする。が、しかし記憶がない。ここに至るまでの経緯が思い出せなかった。まるでここで、この瞬間生まれ落ちたような感覚。唯一思い出せるのは嫌悪感だけだった。
僕は立ち上がり、何かに駆られるように道なりに歩み始める。奥に進めば進むほど白色と黒色の霧が足元を漂う。滴る水の音。砂利と水たまりを踏む音。変化の少ない静かな洞窟を歩み続ける。狭いが、奥から風が吹いているから出口はあるのだろう。素足のまま砂利の上を歩き、冷たい水を蹴る。ゆっくり、ゆっくりと。
5分ほど歩いたか、入り組んだ道を歩くと広い場所に出た。天井に穴が開いて光が漏れ出ている。
その真ん中にあったのは黒い木で出来た小さな門だった。黒い靄がかかり、門に変化が起こる。その門は黒く、クレヨンで書いたような黒で塗りつぶされていく。そこから霧が発生しているように見える。
すると、門に変化が起こる。暗闇が赤く色付き、異様な雰囲気を発している。そして、中から腕が伸びてきた。人の体を容易に切り裂けるだろう大きな爪、黒い獣の毛皮を纏った腕、そして僕より一回り大きい身体。それは狼のような頭をした獣だった。
〈アァァァァッッ!!!〉
顔を出した獣は、甲高い咆哮を上げながら一目散に僕に襲い掛かってきた。素早い。でも僕の体は見慣れた光景をなぞる様に避ける。記憶はなくとも身体に染みついたものは忘れないらしい。記憶を失くす前の自分はどんな境遇だったのか、そんなことを考える余裕があるほど目の前の獣の猛攻を容易に躱す。
身体を動かすことを覚えているように、記憶はなくとも自分の力を覚えていたようだ。違和感も、疑問も浮かばない。影は———自分の手足になった。右腕は影に包まれ、大きな爪に肥大化する。その腕と爪を大きく振りかぶり、獣を壁に叩きつけ、抑え潰す。獣は黒い血を吹き出し、グチャグチャになった。
なにも感じない。まるでただの作業を行ったような感覚。罪悪感もあるはずがなく、ただミンチになった死体を見下ろしていた。血の水面に映る自分の姿は、黒い髪に黒い羽を広げ大きな腕を持つヒトガタだった。これが自分。名前を思い出せないが、その姿を見て一つ思い出したことがある。
僕は———悪魔だった。天使に殺された一人の悪魔だということ。産まれはわからない、悪魔という種。それは虐げられる忌み子、人に危害を加える精神的生物。目が覚める前のあの夢は生前の記憶だろうか。ならあの羽の生えたやつらは———。
———パキッ!
考えるうちに背後で崩れ落ちる音がした。門が崩れた音だった。黒い木で出来た小さな門は、その形を保てなくなり、手のひらサイズの破片になったんだ。結局何だったのだろうか。僕はその崩れた門に近づく。
樹の、門の破片に拾うとなにか変な感覚を覚える。違和感?黒と黄色の配色の木片だが精神に、心の中に入り込むような何かを感じる。変としか言い表せないもの。これはなんだろうか。頭の中疑問でいっぱいだ。わからないことだらけだ。
「———ここにいたか」
———何処からか声が聞こえた瞬間、白い光に包まれいつの間にか景色が変わった。狭い洞窟から一変、白い霧が立ち込める湖の上に立たされた。どこまでも空は雲が広がっており、見渡しても水平線の先まで白い霧に覆われている。まるで別世界。さっきまでいた場所はどこへやら。
ぴちゃ、ぴちゃと何もない湖を歩いていると突然、悪寒が走った。視線を感じる。誰かがこちらを見ている。明らかな敵意を持って。その敵意に、確かな既視感があった。
次第に雲が晴れ、月が見えた。綺麗な満月をした月を背に、それは下りてくる。その冷たい視線の正体が、白い翼を生やして。かつて見た“死の天使”が舞い降りた。
やばい。身体が、本能が、危険信号を発してる。フラッシュバックするようにあの天使の姿を思い出す。生前の最後に見た天使。やつだ。やつが一番の脅威。さっきの獣とは比べることすらおこがましいほどの威圧。僕は目の前の天使の威圧に押されていた。
やつと———天使と目が合った。明らかな殺意、ここから逃がさないつもりらしい。こんな霧で囲まれた湖に出口なんてあるのかそんなもの分からないが。ゆっくり、ゆっくりと距離を詰めてくる。一歩、一歩と歩みを進めてくる。僕はそれに合わせて後ずさることしかできなかった。
金色の髪と蒼白い鎧、容易に切断できるだろう大きな鎌。しかし目に入ったのはその顔立ちだった。おそらく何度も見てきたであろう相手の顔が、あろうことか自らの顔に酷似していることに今気がついた。鼻筋、口、その他パーツの大きさ。色褪せた自らの目以外、あのとき洞窟で見た自分の顔と似ていた。違っていたのはあの白い眼光だけ。冷たくこちらを見ている。
不意になにか自分の顔目掛けて飛んできた。僕は咄嗟に当たる寸前で避ける。微かにしか見えなかったが、金色の矢だろうか。その隙を意図的に狙ったのか、天使の猛攻が始まった。首、腹、腕を断ち切る様に大きな鎌を自由自在に振り回す。神々しくも、その根幹に黒く悍ましいなにかを感じる。
僕は影を使って猛攻を首の皮一枚で捌いていく。僕の影の力は僕の体自身に重なる影が離れて動かすことが出来る。大きくしたり、鋭くしたり、大雑把に言えば影で皮作って自在に大きくする力だ。その強度は鎌の切れ味を辛うじて防ぐ程度だが振り下ろす方向を逸らす程度には条件は満たしている。ただ、一歩間違えれば影ごと腕も切り落とされそうだ。それを天使もわかっている。フェイントを織り交ぜながら鎌と矢の攻撃の速度をどんどん上げていく。色々思い出してきた。あの金色の矢は天使たち特有の技。悪魔を殺すための聖なる力が宿っている(らしい)。実際、あの矢が頬をかすっただけとは思えないほどの痛みが、体の内側から弾ける。
矢もそうだけど鎌も致命傷になりかねないため、細かく素早い猛攻を捌くのは骨が折れる。が、なんとか10分近く生きている。まだあの冷たい目がこちらの命を、魂を狙っている。執念か、それともまた本能か。
そろそろしんどくなってきた。鎌の攻撃をなんとか捌いてるけど矢のほうは何本刺されたかわからない。痛みがどんどん広がっていく。というか、矢の手数が増えすぎて捌ききれない。最初は攻撃の合間に数本飛んでくる程度だったのに毎分200本とか近く常に撃ってくる。影で防がないと距離も詰めれない。そして、僕の攻撃を全て避けられる。弾幕が濃いとはいえ、まるで手の内を全部知られているような感覚だ。推測だが、生前に会ったことがあって、その時に同じ戦法で戦ったのではないか。だとしたら、相手の知らない自分にならないとこれは攻略できない。そこに勝機が———。
その時、突然腹部に痛みが走る。矢じゃない。背後を取られた。
致命の、一撃。
———ぁぁぁ…。痛い。痛い。血が。意識が飛ぶ。何をされた?鎌じゃない。常に警戒を…。———影の…刃?一瞬気を抜いただけで…。
自分の腹部を影の刃が深く貫いていた。僕は痛みに耐えきれず、膝をつく。目の前の天使に刃を突き立てられる。首に。
———死にたくない。死にたくない。動け身体。自分の中の本能が、生存本能が叫んでいる。それでも届かず、無慈悲な天使はその鎌を———無慈悲に振り下ろした。
「———影は…まだ死なない…」
霞む意識の中、静かに聞こえた声。誰かの声かもわからず意識が消えた。
———既視感を抱きながら。
目が覚めるとあの洞窟だった。うつ伏せの状態から起き上がり自分の腹を弄る。あの天使から受けた傷跡はもうなかった。まるで全て悪い夢だったように。しかし、覚えている。あの痛みを。金色の矢で撃たれた痛みを。腹を貫かれたあの痛みを。あの場所は、あの天使はいったい何だったのだろうか。
うつ伏せだったからか身体が少し汚れている。軽く土を掃い、立ち上がる。すると、手に何か握っていることに気づく。それはあの破片だった。黒い木で出来たあの崩れた門の破片。しかし、周りを見てもその門の残骸はどこにもない。あるのは手元の破片だけ。これもなんなのかわからない。だが、これを持っているとやはり違和感を覚える。この破片は心の奥底に干渉する力があるのだろうか。そして、なぜだが過去にもこれを見たことがあるような気がする。
———風。奥から風が吹いているのを微かに感じる。僕は破片を懐に入れ、風上に向かう。少し奥に進むと明かりが見えた。緋色の、火の明かりだった。松明が間隔を空けて壁に掛けてある。松明を一本、取り外して辺りを照らしながら奥に進む。
すると、上への階段があった。が、出口がふさがれていた。石材のようなもので蓋がされている。蓋がされているならば壊せばいい。僕は徐に影の腕で破壊した。外の光が入り込む。月の光だった。要らなくなった松明を捨て、階段を上り外に出る。
そこは廃れた礼拝堂だった。背後に僕が壊したであろう大きな像がある。神の像だったのだろうか、階段を隠すように配置されていた。いつか罰が当たりそうだ。
目的もなく、ただ歩く。今の僕に記憶はない。ないのだけれど何かを忘れているという感覚を覚えている。パズルのピースが埋まっていない、空欄を認識している、そんな感覚だ。
そこから思うに、僕はかつてこことは違う別の世界から来たのではないかと考えた。その根拠はこの破片だ。この破片を手に持ち、意識を集中すると映像のようなものがフラッシュバックする。そこに写るは書庫のようなもの。本棚がズラリと並んでいる。それに人影が一つ、僕の知っている人物だろうか。ピンク色の髪と獣耳をしている。そして、黒い木の門。そう、件の門が自分の記憶であろう映像に写っているのだ。門は異様な雰囲気を漂わせていた。あの時見たようにクレヨンで書いたような黒色、それと黄色で塗りつぶされている。まるで吸い込まれるように。映像はここで途切れている。おそらくあの門に吸い込まれたか、どちらにしろあの門に関係があるのだろう。
映像の場所に帰れるのであれば帰ろう。おそらく写っていたあの人影の人も心配しているだろう。目標が決まった。あの黒い木で出来た門を探す。この破片が手掛かりになるだろう。
礼拝堂を出て歩き続けると外に出た。切り離されたように崖になっている。不意に不思議な感覚を覚える。衝動、いや本能なのか。この崖の下になにかいる。かなり高いが翼があれば問題ないだろう。翼はある。僕は静かに目を瞑り、飛び降りた。
———運命に、因果に、本能に従った。そう、これは必然的衝動だった。