集中
わたしは、仕事の手をとめた。
区切りはついていない。
むしろ、これからが佳境なのだ。あとは、いわゆるオチの部分を書くだけである。
ひとつ、ぐいっと伸びをする。
ふう、と熱い息を吐く。
椅子から立ち上がる。
階段を降りる。キッチンへ向かうのだ。コーヒーでも飲んで、仕切り直そう。
――おや。
下にいるとばかり思っていた、妻の姿が見えない。
キッチンにはいない。
居間にもいない。
となると手洗いだが、1階の手洗いにも、2階の手洗いにもいなかった。脱衣所にもいないし、浴室にもいない。
玄関へ行ってみた。
妻の靴がない。
ああ、と思ってカーポートを見ると、自動車がなかった。
たぶん、買い物か何かだろう。
こういうことが、よくあるのだ。
妻は、出掛ける前に、ちゃんとわたしに声を掛けたのだろう。
しかし、わたしは集中すると、とことん集中するたちだから――わたしも空返事はしたのだろうが、その会話じたい、まるきり忘れてしまったのだ。
まあいい。そういうことなら――
わたしは思い立ったとおり、キッチンへ戻り、コーヒーを飲んだ。それから和菓子などをつまんで栄養をとり、また、2階の仕事部屋へ戻ってきた。
さあ。
やるぞ。
さっさと終わらせてしまおう。
仕事を再開する。
もちろん、物語の筋は、頭の中にできあがっている。あとは、それを文章にして、パソコンに打ち込んでいくだけなのである。
パチパチ。
流れるようにキーボードを叩く。
パチパチパチ。
カタカタカタ。
パチッ。
こういう仕事をしている人は、だいたい同じ話をするのだが、本当に筆(筆というのは変だな。キーボードのキー、と言うべきだろうか)がのっているときには、登場人物の目はぎょろぎょろ動いているし、一挙手一投足がいきいきと、まざまざと見えているものだ。わたしは、ただ、そのさまを描写していけばいいので――人物をどう動かそうか考えなくても、彼らが勝手に動いてくれるのである。
今日も、まさにそうだった。
それは、あたかも記者の速記である。
人物の挙動を、逃さずに書きとらねばならない。筋はたしかに自分がつくったものだが、ちょっとした、人物の身振り手振りは、こちらにも予想がつかない。あ、いまうなずいたな。かぶりを振ったな。後ずさりした、にやついた、わめいた、きびすを返した、前に進んだ。これを書きとるのである。
カタカタカタ。
カタ。
パチッ。
最終盤まできた。
あと少し。
パチパチパチ。
カタ。
カタカタ。
パチッ。
――物語はおわった。書ききったのだ。
ふう。わたしは息をついた。
脱稿の余韻に浸りながら……、椅子に座ったまま、ぐいと伸びをした。
ひと段落ついた。これをメールで送って……、ひと区切りなのだ。
時計を見る。
あっという間に、2時間も経っていた。
――おや。
思い出した。
そう言えば、2時間前に、妻の姿を探したが――妻は、家に帰ってきただろうか?
わたしは、例によって、集中していたから気が付かなかったが……。
しかし、声や、物音くらいは聞こえてくるはずだ。それに、しょっちゅうこの部屋をのぞきに来る妻である。まったく音沙汰がないとは、考えにくいのだ。
そのとき。
ガラガラガラ。
階下から、玄関の戸が開く音がした。
「ただいま」
妻の声だ。
帰ってきたのだ。
わたしは下へ降りて、妻を出迎えた。妻は、買い物袋を両手に持っていた。上がりがまちに、どさりと袋を置いた。はあ、と大きなため息をついた。疲れたようすである。
「はあ。もうくたくただわ」
「くたくた?」
妻は、冷蔵庫に買ってきたものを詰め込みながら――自分の身に起こったことを、口をとがらせて、わたしに話した。
買い物を終えて、スーパーの駐車場から出たはいいが、今日は、いやに赤信号にぶつかったらしい。ほとんどすべての信号にぶつかったという。
おまけに、大きな交差点で右直事故があったせいで……片側交互通行になり、ずいぶん長い間、渋滞にはまっていたらしいのだ。
「それに」
と妻は言った。
「カーポートに、なかなか車庫入れができなくて」
「車庫入れが?」
聞けば、いつも一回で車庫入れができているのに、今日は変だったらしいのだ。
というのも、自動車を後進させて、カーポートに収めようとすると、カーポートの横幅が、急に狭くなったように見えたり……、カーポートの両壁が、うねうねとゆがんだり、斜めになったりして……、そのために、何度も何度もハンドルを切り返して、やっとのことで、車庫入れをしたというのである。
この奇妙な話を、わたしはだまって聞いていた。
まさか。
荒唐無稽だ。
いや、しかし。
もしかしたら、わたしの、過度な集中を途切れさせないために、妻の帰宅を遅延させるような事象が、次々と発生したのだろうか? おかげで、仕事を終えることはできたのだが……。
いや。
偶然だ。
カーポートが縮まったとか、歪んだとかいう話も……。
そうだ。夜目で、今日はたまたまそう見えただけなのだ。
それに――
もしも、こんな仮説を妻に話したら、そんなにわたしを邪魔に思うの? いないほうがいいの? などと不機嫌になるのは確実なのだった。そんなことは、わたしはごめんだ。
だから、まあ、なんにせよおつかれさん、と適当に相槌を打ちながら、食材の収納を、黙々と手伝ったのであった。
了