失ったものと得たものと ~ 藤崎 修太郎 ~
ユイの幼なじみの話です。
僕には大切な記憶がある。
僕の中の一番古い記憶。
その小さな手を精一杯伸ばして、僕に抱きついてくる小さな女の子。
ふにゃりとした笑顔、体温と匂い、舌っ足らずに僕を呼ぶその声。
しゅうちゃん。
僕の唯一の女の子。
僕の唯。
それに気が付くのに、ものすごく時間がかかってしまったけど。早く伝えたい。
気が付けばいつも一緒にいた。当たり前に家族だと思っていた。朝起きてから夜寝るまで一緒の時も多かった。
僕と唯は兄弟でも親戚でもなく、ただ家が隣同士で、仕事が忙しい唯の両親に代わって、僕の母さんが唯の面倒を見ていただけ。僕の家で唯を預かることになった理由は知らないけど、唯と一緒にいると、僕はとても安定した存在でいられたから、他のことはどうでも良かった。
しばらくぶりに隣の家のおばさんが唯を連れて帰る時には、僕は誘拐だと泣いて抵抗したこともあるらしい。覚えていないけど。
僕は髪の色と目の色が明るい茶色だ。母方のひいおばあちゃんが外国の人で、ひいおばあちゃんに似たのよ、と母さんは嬉しそうに言うけれど、母さんは純和風の顔立ちで、僕は母さんにそっくり……。嫌じゃないけど、どうせならバランス良く外国の血とやらは出て欲しかった。
「子ども」なんてものは、自分たちと少しでも違うところがあると、輪の中からはじくために立ち向かう、本能レベルで統率のとれた生き物だ。
「茶髪、不良」だとか、「あの家の子じゃないんだって」とか、「橋の下のみかん箱に入ってた子」なんて、もはや言っている意味が分からない言葉を僕にぶつけて楽しんでいる同級生たち。誰か大人が言っているのを真似しているだけかもしれないけど、向けてくる悪意は本物だった。
僕の耐える顔を見て喜ぶ集団、それが僕の幼稚園だった。
唯は幼稚園じゃなくて、保育園に通っていた。
隣のおじさんとおばさんが仕事でお迎えに間に合わないと、母さんと僕で唯を迎えに行く。
休みの日は二人で遊ぶことも多かった。外で二人遊んでいると、近所の子が寄ってきて僕だけいじめてきたが、唯が飛び出していって、震えながら涙をこぼして僕を庇ってくれた。
まあ、女に庇ってもらう軟弱野郎と、嫌味を言われ続けたけど。
子どもという狭い輪の中で、僕を対等に扱ったのは唯だけだった。
唯はあまり口数が多くない。頭の中ではぐるぐるとたくさんのことを考えていたり感じていたりしているのは、顔を見ていると分かる。でも、それを話すのは苦手みたいだ。
その代わりか、唯はピアノを弾くのが大好きだった。ずっと近所の教室に通っていた。自分の心の中の言いたいことや感情を、音符に乗せていたように思う。あれは唯の言葉だ。
ずっと一緒。家族より家族。この先も、ずっと。そう、勝手に思っていた。
少しずつ関係が変わっていったのは、小学校くらいからだと思う。
小学校に入るまでは一緒にお風呂に入っていたのに、入学してからは別に入るようになった。一緒に入った方が効率的だし、何より髪の毛の洗いっこは気持ちいいし楽しかったから、僕は不満だった。とても不満だった。
唯がいつもは分けてくれない大好物のピザまんを半分くれたから、別々に入ることに渋々頷いた。半分こしたピザまんの伸びたチーズはどっちの取り分か喧嘩になったけど。唯はピザまんだけは譲らないのに。
高学年になった頃には、一緒の布団で寝てくれなくなった。唯は「恥ずかしいから」と言うが、父さんと母さんみたく裸になるわけじゃないのに。ただ、犬の子みたく布団に寄せ集まって寝ているだけなのに。
これにはとても拗ねた。とにかく拗ねた。
唯が膝枕でいい子いい子してくれたから、渋々話を飲んだ。その後、膝枕は週に一回はしてもらうようになった。
中学校に入ると、唯の言う「恥ずかしい」が何となく分かった。ムラムラした時、隣に唯が寝ていると処理できないし。
僕は陸上部に入って、部活に打ち込んだ。背がぐんぐん伸びて、手足も伸びた。中学でも僕の髪と目の色は浮いていたけれど、その「浮いている」は、なぜか「格好良い」に変換されるようで、これまでとは打って変わって良好な人間関係を築いていたと思う。
唯の家のおじさんとおばさんは相変わらずの仕事人間で、唯は毎日のように僕とご飯を食べていた。朝も夜も、弁当も大きさが違うだけで同じものだ。
中学二年の時、初めて唯とクラスが分かれた。小学校から中学一年までずっと同じクラスだったのに。クラスに唯がいないだけで、結構寂しかった。昼休みには、会えなくても遠目に唯を見に行った。
唯は自分のクラスに馴染めないようで、この頃、唯の家から聞こえるピアノの音は、とても悲しい音ばかりだった。
僕のクラスは団結が強く、男子も女子も明るい奴ばかりだったけど、陸上部のマネージャーもしている女子が僕につきまとうようになって、お昼休みに唯に会う時間がどんどん減っていった。部活外でも寄って来るその行動を疑問に思いながらも、家に帰れば唯はいるし、僕が騒ぐことでクラスの団結にひびが入るのが嫌だったから、学校で唯に会わなくなっても、その女子マネが僕の側にいても、僕は唯に何も言わなかった。
家に帰れば会える「家族」だから。
中学三年でも唯とはクラスが分かれた。女子マネとはまた同じクラスなのに。唯と修学旅行で一緒に回りたかった。とても残念で結構落ち込んだ。
唯が膝枕で耳掃除をしてくれるようになったから、気を持ち直した。
まあ、新しいクラスは二年生ほどじゃないけど、穏やかで良いクラスだったと思う。唯は相変わらずあまりクラスに馴染めていないみたいだった。
僕は部活の引退に向けて益々時間がなくなったし、唯は唯で、進路調査の時、おじさんとおばさんに反乱を起こした。
唯は忙しい両親に対して、約束しては「仕事」を理由にすっぽかされることを繰り返しされてきたから、親に何かを要求しなくなっていたのに。
音楽科のある高校に行きたい。寮に入りたい。国立を第一志望にするけど、難関だから私立も考えて欲しい。受験のための予備校に通いたい。今すぐからでも通いたい。と。
僕も唯から聞いてなくて驚いた。
なんとなく一緒の普通科高校に進むものだと思っていた。
何で言ってくれないんだ、と頭の中が真っ赤になった。
寮に入ったら、家で会うこともなくなっちゃうじゃないか。そんなの嫌だ。
でも、唯が一生懸命に気持ちを言葉にして伝えたんだから、それほどのことなんだから、どうか叶えて欲しい。
そうも思った。
僕の思考回路は混乱して堂々巡りだった。
長い話し合いがあったみたいだった。唯とおじさんとおばさんで何日も何日も。
そして、唯は僕と同じ普通科の高校に進んだ。
音楽科を諦めてから、ピアノ教室も辞め、弾くことすら辞めた。
唯はすべて諦めた。自分の両親を説得することもピアノを続けることも。
見ていられなかった。
なんで、唯の希望を叶えてあげなかったのか、さっぱり分からなかった。
反面、これからも一緒なんだと、心の底から安心した。
僕は嫌な奴だ。
高校では唯とはまた別のクラスだった。
僕はまた陸上部に入った。自分の好きなことをやるのに、誰からも反対されることなく。
唯と同じクラスに、中学の女子マネもいたのは少し驚いた。彼女も同じ高校だとは知らなかった。いや、言っていたかもしれないけれど、興味なかったし。
唯は高校に入学してから、あまり家に来なくなった。自分で自分だけのご飯を作って、一人で食べていた。
ピアノの音が聞こえない。唯の気持ちが見えない。
唯が、側にいない。
胸が締め付けられるように痛むけど、なぜだか分からない。
秋の大会が終わって、いまいち身が入らなかったせいか、成績が振るわなかった。俗にいうスランプってヤツかもしれなかった。
分かってる。唯のせいじゃない。自分のせいだ。
でも、唯が側にいないせいだと思う自分がいた。
そんな時、高校でもマネになっていた女子から告白された。
ずっと僕のことが好きだったと。付き合って欲しいと。
即効で断ろうとすると、遮るようにその女子が呟いた。
そう、あの女のせいなの。まだ邪魔するの。まだ懲りないの。高校でもハブにしてやるから。隣に住んでるだけのくせに、図々しくまとわりついてるなんて、身の程を知らせてやる。
クラスに馴染めていないだけ。そう思っていた。
知らなかったんだ。僕のせいで、コイツのせいで、あんな悲しい音を出していたなんて。
いじめられていた僕を庇ってくれた唯を、僕は……。
僕はコイツと付き合うことにした。
浅はかかもしれない。
でも、付き合っている間は、唯にちょっかいをかけないだろう。自慢じゃないが僕は外見は派手だけど、走ることしかしてこなかったつまらない男の自覚がある。コイツが僕に飽きるまでか、高校を卒業するまで、僕が我慢すればいい。
そうすれば、唯の高校生活は、もっと笑って過ごせるはず。
唯に笑ってて欲しい。
翌日には学校中に付き合っていることが広まっていて、恐怖を覚えた。
それを聞いた唯がどういう反応をするか気になったけど、怖くて会えなかった。
それからすぐのことだった。
唯のおじさんとおばさんが二人とも交通事故で亡くなった。
葬式の時も、火葬の時も、涙一つこぼさず無表情でいた唯に心が軋んだ。色々思うところがあっても、唯の大切なお父さんとお母さんには違いないことに、今更ながら気が付いた。僕が今、父さんと母さんを亡くしたらどうなるだろうか。想像しただけで、辛かった。それが現実の唯は、どれだけの辛さだろうか。
両手で持てるくらいの箱に納まったおじさんとおばさんは、唯の家の和室の白い台にいた。黒い額縁に二人の少し若い頃の写真が飾られていた。その写真に向き合って、焦点の合っていない唯が、ただ、座っていた。
今日は家においで、と母さんが声をかけたけど、微かに顔を横に振るだけだった。
父さんがそっと唯に話しかけた。
親戚がいないと聞いているよ。うちの子にならないか。と。
「イヤだ」
返事をしたのは僕だった。自分でも驚くくらい低い声が出た。父さんと母さんが目を見開いている。唯は何も反応しない。
唯とは家族だ。
でも兄弟じゃない。兄弟になりたいんじゃない。
死ぬまで一緒にいる、家族になりたいんだ。
兄弟なんて、イヤだ。
ああ、そうか。
僕は、唯が好きなんだ。唯が側にいないとイヤなんだ。
そう認めたら、すとんと気持ちが落ち着いた。
母さんは何かを言おうとしていたけど、父さんが止めて、「そうか」とだけ言って、知り合いの弁護士を呼び出した。
父さんは唯に、弁護士をお願いしたので何でも相談しなさいと言った。そして今まで通りいつでもご飯を食べにうちにおいで、と。
唯は小さく頷いた。
それから、唯は学校に出て来なくなった。弁護士とは自分でやりとりをして、家の片づけをしていたみたいだ。
ご飯に誘っても、唯は来てくれなくなった。母さんがおかずや果物を容器に詰めて玄関先に置く日が続いた。空になって洗った容器がうちの玄関に返されてたので、食べてはいるようだけど。
気持ちを整理する時間が必要だと、父さんと母さんに言われて、メールはするけど、無理矢理会うことはしなかった。メールは何回かに1回、短いけど返事をくれた。
僕は、僕たち家族は唯を見くびっていた。
今までも唯は何かを諦める時、妥協することはなかった。手に入らないなら、すべてを諦めてきた。未練が残らないように、一切を。
年が明けて、唯は何も言わずに高校からいなくなった。家も引っ越していた。携帯電話もつながらない。僕たち家族を「諦めた」唯は、何も残さず、僕の前から消えた。
弁護士は依頼人の守秘義務を盾に、唯の居場所も連絡先も一切教えてくれなかった。
女子マネとは即行で別れた。もう付き合ってる意味もないし、唯をいじめた女と話したくもない。何かわあわあ騒いでいたけど、知ったこっちゃない。僕は唯を探すのに忙しい。
唯を探すために部活を辞めようとした僕を、父さんが止めた。
居場所は直に分かる。でも、しばらくはそっとしておこう。それまでにお前は迎えに行けるようになりなさい。気持ちは言葉で言わなければ正確に伝わらないものだ。
説教なんか意味がない。葬式後もそっとしておいたら、唯は居なくなったじゃないか。僕は唯に会いたい。
僕の様子を見た父さんは、ひとつの条件を出した。
今後、公式大会で自己ベストを出して、学校の成績が一桁の順位になったら、唯ちゃんに会いに行って良い。そうだな、テストの順位がいいだろう。自分が打ち込んでいること、やらなきゃならないことを放って会いに行くことはダメだ。居場所が分かっても、会ってはダメだ。
僕はこの条件を呑んだ。そしてひとつのお願いをした。
父さんは、唯ちゃんが良いのなら、と承諾してくれた。
結局、競技の自己ベストは夏には叩き出すことができたけど、そこそこ進学校の中で、テスト成績が学年上位一桁になるのは容易ではなく、二年の学年末になってしまった。七位は上等だと思う。
唯からの連絡は一切ない。父さんと母さんが弁護士に手紙を託しても、唯に渡してはいるようだけど、返事はなかった。
相変わらず窓口は弁護士で、唯の連絡先は教えてくれなかった。
しかし、父さんが色んな伝手を使って、ようやく唯の居場所を突き止めた。遠い遠い聞いたことのない町にある高校に転校して、寮で暮らしていると。
僕たちは三年になっていた。
居場所が分かってすぐの土曜日の朝、皆で向かった。
新幹線とレンタカーを使って、午後も大分過ぎた頃になってようやくその町に着いた。
まずは唯が住んでいる寮に行ってみる。女子寮なので母さんが受付に訪ねると、唯は不在で、寮母さんがたまたま近くにいた寮生の子に聞いてくれた。
唯? ああ、さっきお腹空いたからってピザまん買いにコンビニ行ったよ。すぐ帰るんじゃない?
僕は泣きそうになった。
今もピザまんが好きなんだ。
唯らしい。
唯がここにいる。
寮母さんに寮の外で待たせてもらうことを伝えて、僕たちは唯を待った。行ったというコンビニまでは歩いて10分くらいだという。
早く帰ってきて、唯。
どうせ帰るまで我慢できずに、行儀が悪くてもピザまんを食べながら帰ってくるんだろう。前みたく幸せそうに、チーズを伸ばして頬張りながら。
早く帰ってきて、唯。
僕は唯が好き。
唯は僕が好き?
今はそうでもなくても、少しでも好きだったら頷いて欲しい。僕が経済的に自立するまでは、父さんたちに甘えることになるけれど、父さんは唯が良いならと約束してくれたし、母さんも賛成してくれているから。
僕と家族になろう。兄弟じゃない。ずっと一緒にいる、僕の唯一になってほしい。
僕が18歳になったらすぐに入籍しよう。
早く帰ってきて、唯。
早く会いたい、唯。
唯の言葉を聞かせて。
僕の唯。
読んでくださり、ありがとうございました。