競馬中毒者の独白
唐突な質問だが、『最終レース症候群』をご存知だろうか。
知らない?
そんな言葉、見たことも聞いたこともない?
当然だ。今ここで俺が作った言葉なのだからそんなものあるわけがない。
これは、「競馬依存症患者」が罹りうる精神状態に俺がつけた名だ。
競馬に負けた日の最終レースが終わると、現実を直視できず次の日を生きる意欲が著しく減退する。三度の飯より競馬が好きな者ですら、今週の競馬の復習も来週の競馬に関する予習もままならないほどに精神を病んでしまうのだ。
つまり、この『最終レース症候群』というものは『サザエさん症候群』の競馬バージョンだと考えると話が早いのだが、人生に及ぼす悪影響が大きいためこちらの方がタチが悪い。
眠気――これが『最終レース症候群』の前兆だ。負けが込んでくると、どうしようもない睡魔が襲ってくる。
競馬の予想にはかなりの思考力と精神力を要する。だからこの眠気は脳の疲れによるものだと思えるが、むしろ眠ることによって現実逃避し、更なる負けの蓄積を避けるために備わった防御機構なのかもしれない。
眠くなったとしても勝てば瞬時に症状は寛解するが、多くの場合は追加購入した馬券で現状を打破するどころか負けに負けを重ね、より絶望の色が濃くなった結末と対峙せねばならなくなり、症状が悪化する。
この病気には予防法がある。「馬券を買わない」こと、もしくは「馬券の購入額を常識の範囲にとどめる」こと。ただそれだけなのに、俺達は毎週同じ過ちを繰り返している。
予防できなくても対症療法的ではあるが治療法もあるのだ。「馬券で勝つ」だけのことだ。
しかし、馬券は金の奪い合い。勝てる者の方が少なくなるようにできている。だから、馬券で勝つというのは容易なことではなく、『患者』自身がこの病気を治すことは不可能に等しい。
競馬への入口はそれぞれだろう。きっかけは人それぞれだとしても、ほとんどの競馬ファンが馬券を買うことになるのではなかろうか。
まあ、馬券が売れないと競馬自体が成り立たなくなるので、こうしたファンの存在が極めて重要である。ギャンブル中毒者だけで成り立つようになっては困る。
馬券を買うとしても、初めは程々に楽しめていたはずだけれども、時が経つとどうしても「程々」とは言えなくなる者が出てくる。
金を何の躊躇いもなく賭け始めたときからその人にとっての競馬が趣味の範囲を超えた、と俺は見なしている。具体的な例を挙げるとしたら、定食に1000円出すのが高いと感じるくせに、馬連を5頭ボックスで見境なく買うのが平気になってくる頃だ。
1レースに1000円も出していれば、仮に1つの競馬場の全レースで馬券を買ったとすると、1日に1万2000円の出費だ。もし全部外れたとしたら目も当てられない大損害だ。そりゃあ競馬を見るのが苦しくもなりますわ。
競馬を見るのは本来楽しいことであったはずなのに、自ら辛くて苦しいものにしているのだから、我々馬券師というものは傍から見ていると頭がおかしいとしか言いようがない。
ここまで競馬に関して否定的なことばかり述べてきたが、競馬は本来面白いものだ、ということも強調しておきたい。
レースは迫力があっていいものだ。名の知れた実力馬同士の勝負はもちろんだが、平場でも手に汗握るような熱戦が繰り広げられる。とくに定期的に行われる大レースは、単調な日常に彩りを与えてくれる存在になるだろう。
レース以外でも競馬の楽しみ方はたくさんある。
競馬に関しては、例えばあるレースや馬についてタラレバを語るも良し、古の名馬に思いを馳せるも良し、また実際に馬に会いに行くのも良し、そして血統を深く考察してみるのも面白い(ただ、血統を学ぶうちに『最終レース症候群』ルートに突入する場合もあるため注意するべきである)と思う。
競馬に限らず、物事の楽しみ方は他人に決められることではないから十人十色で当たり前だ。だが、『最終レース症候群』を発症しない――すなわち競馬という競技を楽しいものだと感じられ、競馬が人生が狂わない――程度で嗜むことが肝要だと私は考えている。
まあ、俺は齢22にしてそれが慢性化してしまった救いようのない患者なのだが。