Side.水浴び
シルヴィアが水浴びに向かうのを自然な動作で後ろをついて歩くアナスタシアは内心でため息を一つ零していた。本当に、どうして自分がこんなことをしているのだろうか、と。
本来であれば自身の目的のためだけに行動していれば良かったのに、まさかこの依頼に勇者であるシルヴィアが参加しているなど全く考えていなかった。いや、参加するかもしれない、と考える方が異常だと言える。普通は勇者に課せられた役目である自身の存在を広く世界に知らしめるための旅に出るのだから。
それでもシルヴィアは放っておいて最悪の場合は命を落とすことになるかもしれない。そうなれば帝国に対する抑止力となり得る勇者を失うことになり、下手をすれば王国と帝国の間で戦争が起こってしまうかもしれない。だからこそ、アナスタシアは気乗りしないとはいえシルヴィアの護衛のようなことをしている。
そのことについてどうしても不満を抱えてしまうアナスタシアだったが、自身の目的を達成するために必要なことだと自分自身に言い聞かせながらシルヴィアの護衛を行うのだった。
それにアッシュに対して任せて欲しいとも言った手前、気乗りしないからと離れることは出来ない。アッシュとアナスタシアも仕事に関しては個人の感情を優先するべきではないと理解している。そして信用問題に繋がるので有言実行の大切さもまた理解している。
シルヴィアとアナスタシアの二人が泉に辿り着くと、先行していた冒険者たちが既に水浴びを始めていた。当然、衣服は脱いでいるのだがただ誰一人として例外なく腕や太腿にベルトが巻き付けられており、それによってナイフを固定していた。
これは水浴びのために衣服や武器を手元に置いておくことが出来ないが、何かあった際に丸腰では対処することが出来ない。だからこそこうしてナイフを身に着けていられるようにしているのだ。
だが当然のようにシルヴィアはそういったことを考えてはおらず、他の冒険者たちのようにナイフを手放さないようにする、ということは出来ない。
シルヴィアは冒険者たちが全員ナイフを持っていることに、どういった意図があるのか理解したが同じように出来る準備はしていなかった。だからこそどうしたら良いのかと考える。
そして辿り着いた考えは二つ。冒険者たちの傍で水浴びをしていざとなったら守ってもらうか、泉の畔で水浴びをして聖剣を近くに置いて何かあれば聖剣をすぐ手にすることが出来るようにするか、そのどちらかを選ばなければならない。
いや、選ばなければならないというのは少し語弊がある。シルヴィアはその二つを考えてすぐに後者を選択したからだ。とはいえシルヴィアが一人で水浴びをする、というのは安全面から考えてあまり良くないと判断したアナスタシアもその近くで水浴びをすることにしたので、何かあれば真っ先に動くのはアナスタシアだ。
軽装とはいえ身に着けていた鎧を外したシルヴィアだったが、こうした場で衣服を脱いで裸になるという経験は全くなかったためにやはり躊躇してしまう。それでも汗をかいているので、水浴びをして汗を流したいと考えている。
どうしたものかと少し考えていたが、意を決したように、ただそれでも躊躇いが残っているのか少し恥ずかしげに衣服を脱いでから、水に濡れない場所にまとめて置いた。そして誰にも覗かれていないかと周囲を見渡してから水浴びをするために泉の中へと足を踏み入れた。
泉の水はシルヴィアが思っていたよりも冷たく、だが慣れない行軍と野営地に到着してすぐに行われた野営の準備で僅かなりと熱を帯びていた体には心地の良いものだった。
そのまま二歩三歩と歩き、腰が浸かる深さの場所で足を止めた。そこで膝を折り、大きく息を吸ってから水の中へと潜った。
最初は全身に受けた水は冷たく感じたがほんの数秒でその冷たさにも慣れ、残ったのは汗を流せたことによる清涼感のようなものだった。それを感じながら水から出てきたシルヴィアは止めていた息を整えてからゆっくりと後ろに倒れるようにしてぷかりと水に浮かんだ。
泳ぐわけではないが、そうして水に体を預け、溺れない程度の浮力に任せて水に浮いているシルヴィアはその体勢のまま少し前に話をしたアッシュに対して思いを馳せる。
シルヴィアが初めてアッシュを見たのはパレードの際に一人だけ屋根の上に登って自身を見下ろしている姿だった。普通であれば感じるはずの不信感や警戒は何故かなく、不思議とそのことを他の誰かに言おうとは思えなかった。ただ、直接会って話をしたいとは思ってしまっていた。
何故あんな場所にいたのか、というのは当然として意味のあまりない本当に他愛のない話をしたいと思っていた。例えば好きな食べ物は何か、普段は何をしているのか、何か美味しい料理が出てくるお店を知らないか、そんな本当にどうでも良い話をしたいと、名前も知らない、誰かもわからない相手に対して思っていた。
それが今回の盗賊団討伐の依頼に参加してみると、シルヴィアは気づいていなかったがアッシュも参加していて、更にはアッシュから声をかけてくる。という状況になっていた。
望外のそれが嬉しくて、ついあれこれと喋ってしまったがその間アッシュは嫌な顔一つせず、せいぜいが少し皮肉を返す程度で比較的穏やかに会話をすることが出来ていた。それが本当に、本当に嬉しくて、別れる時には子供のように手を振ってしまっていた。
それを今になって思い出すと恥ずかしくなってしまい徐々に顔が熱くなり、ほんの数秒ほどで真っ赤になっていた。それを誤魔化すため、もしくはどうにかして赤くなった顔を元に戻すためにもう一度水の中に潜った。
そして顔を出す頃には多少はマシになっていた。だが少しでも思い出すとまた顔が熱くなるので、思い出さないようにとブンブンと顔を振り、頭の中から追い出そうとした。それが上手くいったのかわからないが、ふと楽しげな声が聞こえてそちらに目を向けると、他の冒険者たちがわいわいと楽しそうに水浴びをしている姿が目に入った。
当初シルヴィアが考えていたように泉の畔で水浴びをするだけに留めているのだが、泉のより中心に近い場所で非常に楽しそうに水浴びをしている冒険者たちを見ていると自分も同じようにそちらに行ってみたいと思い始めてしまっていた。
元々シルヴィアはもしかしたら水浴びをしている他の冒険者と何らかの交流が持てるのではないか、と思っていたこと、また単純に一人で水浴びをするよりも複数名で会話をしながらの方が楽しいと思ったからだ。
ただ、武器が手元にない状態では何かあった際に迷惑をかけることになるのでは、と考えると躊躇ってしまう。
少しだけ離れた場所で同じように水浴びをしながら見ていたアナスタシアはそんなシルヴィアの心境を察して、気乗りはしないが本格的に接触を図ることとなった。
「少し、よろしくて?」
どうしようかと悩んでいたシルヴィアの傍に寄ってからアナスタシアはそう声をかけた。
シルヴィアは驚いて声がした方へと振り返ると、惜しげもなく裸体を晒した真紅の髪をした美女が立っていた。とでも言えば良いのだろうか。初めてアナスタシアを見たのであればそう思うだろう。
濡れた髪が張り付いた肢体、肌の上を滑る雫、そして自身の僅かな膨らみとは違った豊満なそれを含めた全体の艶やかさに同性だというのに見惚れてしまい、シルヴィアは言葉を返すことが出来なかった。
「……少し、よろしくて?」
返事がないことを訝しみながらアナスタシアがもう一度声をかけると、ハッと我に返ったシルヴィアが漸く言葉を返した。
「は、はいっ!な、何でしょうか!?」
「あ、いえ……そこまで畏まらなくとも良いと思いますわ。というよりも……第三王女である勇者様に対してわたくしが畏まるべきではなくて?」
「え、あ……いえ!僕としては変に畏まった態度を取られるよりも、普通に接してもらえたら嬉しいです!」
「そう言っていただけるとわたくしとしても有難いですわ。あぁ、わたくしの名前はアナスタシアと申しますわ」
「僕はシルヴィア。第三王女とか、勇者とか、そういうのはあまり気にせずにシルヴィアって呼んで欲しいです」
何故かアナスタシアを相手に敬語で話すシルヴィア。それに対してアナスタシアはどうしてなのか疑問符を浮かべながらも、その言葉に対してこう返した。
「申し訳ないとは思いますわ。ですけれど、やはり第三王女と勇者という肩書を持つ貴女のことを呼び捨てにするわけにはいきませんの。ですから勇者様、もしくはシルヴィア様とお呼びすることを許してくださいますよう、お願い申し上げますわ」
アナスタシアとしてはシルヴィアとそう仲良くなろうという気はないので、とりあえず一線を引いておく。というつもりでそう口にした。
元々アナスタシアはシルヴィアと仲良くなる気などない。あくまでも護衛として傍にいるだけで、本来であればこうして傍にさえ居ようとは思わない。
「そう、ですか……」
「あぁ、それと敬語は必要ありませんわ。勇者様にそのような言葉遣いをされていては周りにどう思われるかわかりませんものね」
「……うん、そうだよね。わかった、敬語はなし、だね」
「ええ、それでお願いしますわ。とはいえ……何故、わたくしを相手に敬語など?わたくしはあくまでも一介の冒険者であり、勇者様の方が遥かに地位が高いのに……」
「え、あ、いや、あの……ぼ、僕よりも、大人の女性、って感じだったから……」
アナスタシアが疑問を口にすると、しどろもどろになりながらもシルヴィアはそう言った。確かにアナスタシアはシルヴィアに比べても年上であり、身体のラインや言葉遣いの優美さや落ち着きは大人の女性、と表現しても良いだろう。
それにシルヴィアよりも背が高く、そしてとある部分が非常に豊かで自身と比べると天と地ほどの差があるように思えてならなかった。そのことをシルヴィアの視線から察したアナスタシアは不快に感じられない程度にシルヴィアを上から下までスッと目を通した。
勇者として剣術を修めているからか引き締まった、それでいて筋肉質ということはないしなやかな肢体と小さいがそれ故の可愛らしささえ感じる膨らみ、王族でありながら人懐っこく、冷たさよりも温かさを感じられる顔立ち。確かに大人の女性というよりも成長段階の少女だと言える。
「ふふふ……ええ、確かに勇者様はまだまだ少女、と言ったご様子。これから大人の女性へと成長していきますわ」
「そうだと良いんだけど……」
「焦る必要はありませんわ。それに勇者様は勇者様でとても魅力的ですものね」
「んー……僕としてはアナスタシアみたいに大きくなりたいな……」
何処を見て大きくなりたい、と言ったのかは伏せておこう。シルヴィアの名誉のために。
羨ましそうに見ていたシルヴィアだったが、ふと思い至ったように口を開いた。
「あれ……そういえばアナスタシアはどうして僕に声をかけたのかな?」
「何と言いましょうか……」
そこまで口にしてアナスタシアにはふと思いつくことがあった。シルヴィアとはそこまで仲良くなろうとは思っていないが、こうして話をしているとシルヴィアに懐かれてしまうのではないか、であるならば普通に会話をしていたアッシュに押し付けてしまおう。ということだ。
わざわざそうしたことをしなくても良いのかもしれないが、アナスタシアとしてはある意味で保険をかけておこう。と考え付いたのだ。
「アッシュさんに頼まれましたので」
「え?アッシュに?」
「ええ、勇者様のことが心配なので傍で見守ってあげて欲しい。ということでしたの」
「そ、そっか……アッシュが……」
事実のようで、事実ではない言葉を口にしたアナスタシアだったがそれを聞いたシルヴィアは非常に嬉しそうにしていた。花が綻ぶような笑みを浮かべているシルヴィアだったがアナスタシアはそれを不思議そうに見ていた。
どうしてアッシュの名前を出した途端にそんな反応をしたのかわからない。だがちゃんとアッシュに押し付けることが出来たようなので良しとした。
何にしてもこうして傍にいるのであれば何があってもシルヴィアを助けることが出来る。当初の予定通りということだ。予定外、もしくは予想外のことがあったとすればどうしてかシルヴィアがアッシュのことを相当気に入っている、もしくは好意的に見ているということだ。
それに何の意味があるのか今はわからないが、勇者であるシルヴィアの意識を自分から逸らせたのでアナスタシアはそれを考えないようにしながら、ここから続く会話でどうにか全てアッシュに押し付けてしまおうと悪いことを考えるのであった。




