81.現実とは信じがたく
アナスタシアも放ったらかしにされて戸惑いを隠せていないアルに気づいたようで、俺とのやり取りを一旦終わらせてアルへと顔を向けた。
これから先ほどの俺の問いの答えが聞ける。それを理解したアルも同じようにアナスタシアへと向き直った。その表情は真剣そのもので、俺とアナスタシアが人を信用しない理由を理解したいようだった。
ただそうして真剣に話を聞いたとしても理解出来るかどうかはわからない。
「では、気を取り直しまして……わたくしとアッシュさんは信じていた人から裏切られたことが原因で人を信用しなくなった。というわけではありませんわ。勿論、そういうことが原因で、という方もいるとは思いますけれど」
「続けてもらっても良いかな?」
「勿論、よろしくてよ。人を信用しない理由は非常に簡単なことで、そうしなければ生き残れなかったから、ということになりますわ」
「そうしなければ、生き残れなかった……?」
アナスタシアが言うように、人を信用した場合利用される、裏切られる、というのがスラム街では当たり前のことだった。だからこそ人を信用していては生き残れない。生き残りたいのであれば、他人を信用するべきではない。
それがスラム街の住人たちの中では暗黙の了解というか、常識というか。仲間を作るにしても、それは本当に信用して背中を預けられる相手にしなければならない。少しでも疑う気持ちがあるのなら、それは当然のように相手にも悟られるのがスラム街だ。
そして、それを悟られたなら仲間としてはやっていけないだろう。
「ええ、スラム街のような場所では人を信用したとして、利用されて裏切られて捨てられる。そういうことが当然のように行われていますわ。だからこそ、わたくしもアッシュさんも人を信用しませんわ。ただ……長い付き合いの中で、もしくは自身の直感などで信用しても良いと思った相手であれば信用もしますわね」
「……そんなことがスラム街では当たり前のことなのかい?」
「信じがたいとは思いますが、事実ですわ。こういったことは実際にスラム街で生きていないとわからないかもしれませんものね。とはいえ、実際にスラム街で生きてみれば良い。などとは言えませんわ。あれは地獄のようなものですもの」
「地獄のようなものって……二人はそう表現するのが相応しい環境で生きてきたことになるのか……」
スラム街のことを地獄と表現したが、王都のスラム街は一番地区と二番地区はそうでもない。ただ三番地区から先は本当に地獄のようなものだとは思う。というか、零番地区が一番地獄だ。あんな場所で生きて行こうとするのなら人間性なんてものはさっさと投げ捨てた方が良いだろう。それと、まともな神経も、だ。
もしくはあの場所で生きていくうちに狂ってしまう。そして、そうした狂った人間ばかりが集まって、人間性もまともな神経も捨て去った人間ばかりの地獄の完成だ。
とはいえ、そこで生きようとするのは無理でも利用するくらいは問題がない。それに俺はそうして利用している間に有益な人間として判断されたのか、襲われることはほとんどなくなった。まぁ、本当にそうなのかはわからないので憶測の域を出ないのだが。
「わたくしにとっては地獄でしたわ。アッシュさんは如何でしたか?」
「地獄と言えば地獄だろうな。とりあえず、まともな人間が必死になって生きてるのを外道共が嗤いながら殺して何かを奪っていく。そういうのが毎日何処かしらで起こってたんじゃないか?」
「…………本当にそれは王都の話なのかな……王政によって統治されたこの王都に、そんな場所があるなんて僕にはとてもじゃないけど信じられないよ」
「普通にあるんだよな。それに統治されたとか言ってるけど、王家でも手が出せない場所がスラム街と色町だからな」
「え……?」
「聞こえなかったのか?王家でも手が出せないヤバい場所がスラム街と色町だ」
元々王家が、というか王政による統治がされていたのは一般の住人が生活をしている大通りを中心とした地区や、貴族たちの屋敷がある貴族街くらいのものだった。
そんな中で貧困層、犯罪者、捨てられた子供たち、捨てられた老人たち、障害を負った者、その他諸々。そういった人間が集まるというか集められた地区があり、それがいつの間にかスラム街と呼ばれるようになった。そして、王家の人間はそのスラム街の統治を続けることを放棄した。
あまりにも悪辣な環境であり、それを元に戻る労力を惜しんだことが原因だ。いや、それだけではなくスラム街に存在する人間の処理、処置が出来ないと考えたことが原因か。
「スラム街は王都の鼻つまみ者たちが集まった掃き溜めがいつの間にか誰にも手をつけられないような場所になったのが成り立ちだ。それに対して王家の人間は悪辣な環境になったその場所と人間の処理と処置が出来ないってことで統治することを放棄した。元々は多少なりと憲兵が立ち入ることもあったのがなくなって、気づけば今の環境が出来上がっていた。らしい」
俺がスラム街の成り立ちを知っているのは、スラム街の住人である老人から話を聞いたのが始まりだ。
自分の力では生きていけないというその老人が、食料と引き換えにスラム街と色町の成り立ちを聞いたのだが、他にもハロルドやジゼルにも聞いた結果同じことを言っていた。
それを聞いてあの老人が言っていたことは本当なのだと理解し、スラム街で生きて来たにしては随分とまともな人間だったことを思い出したものだ。
ああいうまともな人間ばかりなら、誰も彼もが地獄の窯の底で必死に踊り続けることもなかったのかもしれない。まぁ、考えるだけ意味がないことなのだが。
「らしい、か。それは誰かから聞いたということで良いのかな?」
「そういうことだ。スラム街と色町が出来てから百年以上経ってるから俺が成り立ちを見てきた訳じゃない。あぁ、百年以上って言ったけど正確にいつからスラム街と色町が出来たのか何て知らないからもしかするともっと昔からあったかもな。勿論、その時はそういった区別がつかなった可能性があるわけだ」
「なるほど……確かにそういうことはありそうだね。それにスラム街や色町の成り立ちというのは自分で知ろうと思わなければ情報は入ってこないだろうからね……」
何かに納得するように頷きながらそう言ったアルは、スラム街の成り立ちについては疑問を抱いていないようだった。てっきり王家が統治することを放棄した。ということについてもっと何か言われるかと思っていたのに。
アルとしても王家がそうするだけの何かがスラム街にはある。と思い当たることがあったのかもしれない。その辺りのことはライゼルが何か言っていた可能性はあると思う。それだけスラム街は危険な場所というか、異常な何かが潜む場所なのだから。
「スラム街の成り立ちはわかりましたわ。色町については……ええ、成り立ちが少し気になるので聞かせてもらってもよろしくて?」
「あぁ、それくらいなら良いとも。色町も最初はスラム街と同じような物だった。ただ生き残ることを考えた一人が娼婦の真似事を始めたのが色町の本当の始まりだ」
「娼婦の真似事……ですが、スラム街と同じような物だったというのであればそれは……」
「まともに商売にはならなかったそうだ。乱暴に扱われて、料金が払われることは極稀で、それでもそうやって手にした金でどうにか生きていたらしい。そんな状態のときに色町の主になる偉大なる母なんて呼ばれる人間が出てきたんだ」
偉大なる母。色町の主に贈られる称号というか、尊称のようなものだ。当代の偉大なる母が時代の偉大なる母を選び、受け継がれている。
一つ前にその称号を得ていた人物は既に高齢であったがために亡くなっている。現在はジゼルがその称号を受け継いで色町の主となっている。まぁ、そんなジゼルと縁があったおかげで色々と生きやすくなったのは有難い限りだと、今なら思える。
ジゼルの性格上、時々面倒くさいとも思ってしまうのだがそれはそれ。あまり気にしないようにしよう。
「元々は外の人間だったらしいんだけど、そんな状態を放ってはおけないってことで飛び込んできた変人だったって聞いたな。それもかなりの武闘派だったって話で、最初は武力でその地区を支配下に治め、後に人柄や思想によって多くの人望を得た。そしてその地区の誰もが認める支配者となり、偉大なる母と呼ばれるようになった。そういう話を俺は聞いたな」
わざわざ外の人間が飛び込んできたことには、当時その地区にいた人間は驚いたのではないだろうか。そしてその人間が瞬く間に地区を支配下に置いたことにも、我欲ではなく住人のことを思っての統治をおこなったことにも。
とはいえ全てが伝聞であり、細かいことは曖昧だったりするので一つの説、のようなものとして二人には伝えておこう。
「けどあくまでもこれは俺が聞いた話であって真実なのかはわからない。ただ、そうした話を複数から聞いてるからたぶん本当のことなんじゃないか?」
「なかなかに壮絶な方だったようですわね……それで、その方はどうして色町となる地区の支配を行ったのでしょう?何か自身にとって利益が……いえ、大きな利益があったのは間違いないのですが、リスクが高くはなくて?」
「そうだね……どう考えても単身で乗り込むようなものじゃない。それに王家が統治することを放棄するような状況だったなら尚更だ。相当に危険だったはずだよ」
「さてな。俺が聞いた話だと、弱者を虐げることを良しとしない性格だったとか、人を助けるためには自らを省みなかったとか、偉大なる母というよりも聖母のような方だったとか、そういう話を聞いただけで実物を見たわけじゃないんだ」
確証はないのだが、もしかするとイシュタリアはその人物を見たことがあるのかもしれない。あの女神は暇つぶしと称して世界中を眺めるのが日課のようなものらしいので、当時としてはイシュタリアにとって娯楽になったのではないだろうか。
とはいえ、それをわざわざイシュタリアに確認するつもりは微塵もないのだが。
それと、どういった人物なのかという話で聞いたことがある言葉を続けるとアルもアナスタシアも非常に驚いていた。そういった人間が本当に存在したのか、俄かには信じがたかったからなのか、もしくはそういった善良な人間の存在を信じられなかったからなのか、それはわからない。
「何にしても、本題はそれじゃないだろ。とにかく、そういった地獄みたいな場所で俺とアナスタシアは生きて来た。これは紛れもない事実だ。信じてくれるか?」
だが本題はスラム街と色町の成り立ちではないので少しばかり強引だが話を元に戻すことにした。
俺の言葉を聞いて考え込むように黙ったアルをひとまずは置いておくとして、アナスタシアに目を向ける。こちらはこちらで偉大なる母について何か考えているのか、アルと同じように黙り込んでいた。
こうなっては俺が何かをする。ということもないので、とりあえずは二人の考えがまとまるまで手持ち無沙汰になってしまうが待つよりなかった。




