41.始まりの一歩
シャロは今にも泣き出しそうになりながら必死に言葉を紡ぎ続けている。そんな様子を見て、不安になったとしても耐えていたのだと理解した。
「どうしたら良いのか、まったくわかりませんでした……!だって!主様は何も言ってくれなくて!私に悪いところがあるのなら直そうとも思います!それなのに、主様は!!」
既にシャロの瞳からは涙が溢れていて、もはや感情を抑えることなく叫ぶように言葉を叩きつけてくる。
「どうして優しくしてくれたのですか!?どうして何も言ってくれなかったのですか!?どうして……どうして!」
「……警戒しなくても良いのに警戒して、壁を作ってる罪悪感からお前に優しくしてた。そんな罪悪感を誤魔化すことはしてても、そんなことを伝える必要はないと思ってた」
「そんなの知りません!私は!私は主様にちゃんと言って欲しかったです!!主様の言葉を聞いて、ちゃんと話をして!それで、それで……主様に、名前を呼んで欲しかったです……!」
「悪かった……それに、やっぱり不安にさせたよな……」
「一度だって私の名前を呼んでくれなかったのですから、不安になるのは当然です!!」
ぼろぼろと流れ出る涙を拭うことなく叫ぶシャロに対して何も言えずに黙ってしまう。何がちゃんと話がしたいだ。これだけで何も話が出来なくなってしまうというのに。
話をするために覚悟は出来ているはずだったのに、蓋を開けてみればシャロが言葉を紡げば紡ぐだけ俺は言葉を失っていく。
ただシャロを傷つけて、感情を吐露させているだけの、話し合いとは程遠い状況に我がことながら情けなくなってきた。
「……でも!」
そうして何も言えなくて黙っていると、そう言ってからシャロは涙を拭って立ち上がると俺の傍まで歩いて来た。
俺としてはこのまま叩かれようと殴られようと仕方ないと思っていた。シャロにはそうするだけの権利があるのだから、そうするのであれば甘んじて受けようと思いシャロを見る。
それだけのことをしてしまった自覚があるのだからきっとシャロはそうするのだろうと思ったのだが、それは違った。
「でも、それでも……主様は私を助けに来てくれました。微笑みかけてくれました。それだけで、今までの不安が一気になくなっていきました。だって、主様はちゃんと私を見つけて、手を取ってくれて……すごく、すごく嬉しかった……」
まだ瞳には涙が浮かんでいるが、それ以上涙を溢すことはなくシャロは俺の手を取った。
そして、愛おしそうに俺の手を小さな両手で包み込むようにしながら言葉を続けた。
「私を撫でてくれた手は少し乱暴でしたが温かくて、私の手を取ってくれた手は優しくて、主様のこの手で触れてもらえるだけで不安がなくなっていきます」
言いながら俺の手を自分の頬に添えるようにして、まるで先ほど自分で言っていたように俺の手の温かさを確かめるようにしている。
シャロは幸せそうに微笑んでいて、そんなシャロを見ていると俺の方が恥ずかしいというか照れてしまうというか。ただ、それ以上に幸せそうなシャロの姿を見ていると少しずつ自業自得の罪悪感が薄れていくような気がしてしまう。
だって、不安にさせてしまったと、傷つけてしまったと思っていた子供がそれ以上に幸せそうにしているのだから。それでも罪悪感が薄れていくような気がしたとしても俺がやったことは変わらない。
「だから、主様が私の名前を呼んでくれなくても、大丈夫です。この手の温かさと、優しさをちゃんと覚えていますから。きっと、不安になってしまったとしても、それだけで私はその不安を押し退けて、主様のお世話役としてやっていけると思います」
そう言って俺の手を自身の頬から退けて、俺に対して微笑みかけた。
恨まれて、許されなくて、殴られても、そうされたとしても当然のことをしたのにシャロはたったそれだけのことで大丈夫だと言った。
ただ謝らなければ罪悪感と自己嫌悪に圧し潰されてしまいそうになったからシャロを見つけ出して、助けただけなのに。俺の自分勝手な都合のための行動でしかなかったのに。全部全部、自己保身のためのろくでもない行動原理だったのに。
「…………そうだとしても、お前を傷つけたことに変わりはない。不安にさせたことに変わりはない。許されないのもわかってて、それでも放っておけば罪悪感と自己嫌悪に圧し潰されそうで、それが嫌で助けただけで。お前の思うようなものじゃ、決してない」
「そうでしょうか。もし主様の言うように自分のための行動だったとして、どうして私に怪我がないとわかった時にあんなに安堵して微笑みかけてくれたのですか?どうしてあんなに優しく私の手を取ってくれたのですか?あれはきっと、自分のためだけに行動をしている人には出来ないことのはずです」
「違う。お前にはそう思えたかもしれないけど、違うんだ。俺はろくでなしのクソ野郎で、お前が主様だなんて呼ぶには相応しくない、どうしようもない人間なんだ」
「いいえ、違います。私にとっては、主様が御自身で言うようなろくでなしのクソ野郎というものではなくて、あの時の微笑みと手の温かさ、そして優しさは本物でした。そんな主様だからこそ、私はイシュタリア様の神託は関係なしに、お傍にいたいと思うのです。それに主様は少し難しく考えすぎではありませんか?人は、たったそれだけで。と思えるようなことで救われてしまうような、単純な生き物なのですよ?」
たったそれだけで、か。シャロに言われて思い出すのは、幼い頃にスラム街で出会った名前も知らない誰かに今の名前を呼ばれた時のことだ。
あの頃は本当に酷く荒れていたのに、新しく俺を俺と認識する名前で呼ばれたというたったそれだけのことで多少はマシになっていた。あれも、救われたということなのだろうか。その相手が相手なので素直に救われたとは思いたくないのだが。
ただ、シャロの言うように確かに人は他人から見ればそれだけで、と思えるようなことでも救われてしまうのだと理解した。
「主様にも何か心当たりがあるのではありませんか?」
「……あるけど、そうだとしても、俺は……」
「あるならわかるはずです。救われた側にとって、その相手はかけがえのない存在となることを」
「それは、確かにそうだ。でも……俺が不安にさせて、俺が不安を取り除いて。そんなのがかけがえのない存在なんて、おかしいだろ」
「ふふ……そうですね。おかしい話ですね。でも……それだけではなかったのだと思います。だって、不安になって、辛くて、でもそれと同じように主様と一緒にいると楽しいことや嬉しいこと、私の知らないことがほんの短い時間の中で色々ありました。それはきっと、主様でなければそうはならなかったような気がします」
「そんなことは、ないだろ……俺じゃなくても、お前ならきっと楽しいことも、嬉しいことも、知らない何かも。色々体験出来たと思うぞ」
そうだ。シャロの言うそれらは俺じゃなくても良かったはずだ。たまたま俺がその時に傍にいて、シャロが俺がいたからだと思い込んでいるだけに違いない。
そう思ったから俺はその言葉を口にした。けれど、何だろうか、これは。まるで俺は―――。
「主様、言い訳ばかり並べて、逃げるのはやめてください」
シャロの言うように、言い訳を並べてシャロから逃げているようではないか。
「実は、ハロルドさんに少しだけ相談したのです。本当にどうしたら良いのかわからなくて、このままだとダメだと思って。でも主様とそうした話をするのは怖くて……だから、主様のことを知っていて、そうした相談に乗ってくれそうなハロルドさんに……」
「ハロルドか……」
「そうしたら、主様のことをいくつか教えてもらえました」
さて、ハロルドは俺の何を語ったのだろうか。ハロルドとの縁は俺がスラム街を出てからになる。そう多くをハロルドが知っているとは思えないが、察しの良さや情報網によって俺が思っている以上のことを知っているのかもしれない。
その知っていること、察していることによってはもしかするとシャロの背中を押すような何かを、こうして俺が逃げているとシャロでもわかってしまうような何かを語っている可能性はある。
「主様が色々と悩んでいることや、その結果として私に対して罪悪感を抱いていたこと。それと……主様が気づかないようにしていることがあるのではないか。ということです」
「ハロルド……今回のことに関わることは全部言ってたのか……」
「はい。それを聞いてから主様とちゃんと話をしようと思いました。でも……」
「人攫いに捕まった?」
「その通りです。ストレンジを出て歩いていると甘い香りがしたと思ったら急に眠気が襲ってきて、気づいた時にはあの状況でした」
「……甘い香りと眠気か。ヒュプノスローズでも使われたんだろうな。確かにそれなら怪我がないのにも納得出来る」
「不意打ちだったので逃げることが出来なくて……いえ、それは良いのです。それから主様が来てくれて、今に至ります」
「…………だから、微笑んだことや手を取ったことに繋がるのか……」
「はい。その時にハロルドさんの言っていたことが本当のことで、不安が消えていって……主様の傍にいたいと、そう思えたのです。だから主様。言い訳ばかりして私から逃げないでください。私とちゃんと話をしてください。私のことを……ちゃんと、名前で呼んでください」
もしも許されるなら名前を呼んで、ちゃんと話をしたいとは思っていた。
それでもシャロの言葉を聞けば聞くほどに俺にはそんな資格はなくて、そう望むべきではないと俺は感じていた。
それなのに、名前を呼んで欲しいと言われる。そんなしたいない。でも、シャロが望んでいる。どうするのが正しいのだろうか。自分の考えを通すか、シャロの想いを受け止めるて名前を呼ぶか。
どうするべきなのかと悩みながらシャロを見れば、それ以上は何も言わず、ただじっと俺を見つめていた。その瞳を見ると涙はなく、ただ本当に名前を呼んで欲しいだけなのだと、何故かそう思えた。
あぁ、うん、ダメだ。これは勝てない。どう言い訳を並べても、逃げようとしても、結局俺はシャロのように真っ直ぐな言葉を向けられてはどうしたって勝てるわけがない。
俺のようなろくでなしで、人を疑ってばかりで、人を信じることがあまり得意ではない人間でも、真っ直ぐな言葉と真っ直ぐな瞳を向けられては、どうしようもない。
「……本当に、俺なんかで良いのか?」
それでもこんな確認をしてしまう辺り、情けないと思う。確認を取るまでもなく、シャロの返事はわかっているのに。ただ、そのわかっている返事が躊躇っている俺の背中を押してくれると思ってのことでもあった。こんな状況で背中を押されないといけない時点で俺自身のどうしようもなさがわかって更に情けなくなるのだが。
「主様なんか、ではなくて……主様が良いと、私は思っています」
本当に何だろうこの子は。俺が言って欲しいと思っていた言葉を的確に口にしてくる。それが悪いことではないし、背中を押してくれるので名前を呼ぶ決心もついたが、割とちょろいと自覚のある俺はちょっとときめきそうになるんだが。
何て、馬鹿なことを考えながらたった一言、名前を呼ぶことに対する緊張を鎮めてから自分でも、もう少し声を出せと思えるような小さな声で言った。
「……シャロ」
あぁ、本当に情けなくて恥ずかしいほど小さな声しか出なかった。
それでも本当に小さな声で呼ばれたシャロは花が綻ぶような笑顔を浮かべて、嬉しそうに。
「はいっ!」
そう返事をして、少し前までの涙などなかったように笑顔を浮かべるシャロ。
何だろうか。元々俺は謝って、名前を呼んで、話をする。というつもりだったがどうにもほとんどシャロの言葉や勢いに乗っかっただけのように思える。
どうしようか。情けな過ぎてやばい。頭を抱えたくなってくるが、シャロが傍にいる以上はそんなことは出来ないので、何とか耐える。
「主様、主様!」
「どうした……?」
情けなさと恥ずかしさでシャロのような元気はなく、疲れ気味の声でどうしたのかと問えば、何かを期待するように俺を見つめ続けるだけでそれ以上は何も言って来なかった。
ただ、何を望んでいるのかはわかってしまう辺り、多少なりとシャロのことを理解出来ているのだな。と微妙な感想を抱いていた。
「あー……シャロ、で良いのか……?」
それでも確信があったわけではないので疑問符を付けてしまったが、シャロとしてはそれでも良かったようで、御満悦だ。
あぁ、これで良かったのか。そう思う半面、まだ罪悪感が全て消えたわけでも、シャロに許されたのだから名前を呼ばなかったことはもう気にしなくて良いというわけではないとも思っていた。
それでも、こうもシャロに色々言われて、それをぐだぐだと引きずるわけにもいかないとも思えてきた。
結局、色々並べてみてもそれは俺がシャロから逃げるための口実でしかなくて、当の本人はそんなことよりも名前を呼んで、ちゃんと話をして、傍にいたいと言う。
それならば俺の事情よりもシャロの願いを優先すべきなのだろう。罪悪感や俺が罪だと思っていることを全て抱えたまま、シャロと向き合っていこう。
この先どうなるかはわからないが、シャロが笑顔でいられるように、シャロが幸せであるように、出来る限りのことをするのがその贖罪なのかもしれない。
まぁ、単純に俺もシャロの傍にいたいと思い始めているというのが主な理由なのだが、とりあえずはそういう贖罪のためということにしておこう。




