Side.手加減は完璧に
アッシュによって幾度となく振るわれるナイフは、月の光を反射して銀の軌跡を描いていた。
速く、鋭く、流れるようなそれは見ようによっては美しいとさえ言えるものだった。だがシルヴィアにとってはそれを美しいと思えるだけの余裕など存在していなかった。
容赦などないほどに鋭くシルヴィアに振るわれたナイフを躱したと思えば、アッシュは器用にナイフを逆手に持ち変えて返す刃でシルヴィアへと追撃を行う。
無理な体勢になってしまうが、直撃するよりはマシだとシルヴィアが無理やりナイフと自身の間に聖剣を割り込ませ受け止める。
ただのナイフと聖剣の鍔迫り合い、というのは端から見ればどちらが勝つかなど考えるまでもない。だがこの場では違った。
聊か無理な体勢となったシルヴィアがどれだけ懸命に押し返そうとしてもアッシュは引かず、それどころか徐々にシルヴィアを押し始めていた。
耐えようとしても押されてしまうのならばとシルヴィアはナイフを受け流す。
完全にアッシュの間合いで戦うことになり満足に聖剣を振るうことも出来ない状況を打開すべく、シルヴィアは距離を取ろうとした。
「逃がすと思うか?」
だがその意図を察したアッシュは距離を取られるよりも早くシルヴィアとの距離を詰める。
「くっ……!」
それはあまりにも近く、アッシュと言えどもナイフを振るうことすら難しい。
だがアッシュにとっては大した問題ではなく、一瞬で玩具箱へとナイフを戻した。
そして接近している状態であろうと僅かでも踏み込むことが出来るのであればアッシュはごく自然に震脚を行い、拳を放ち、シルヴィアの腹部へと痛烈な一撃を与えた。
「ガハッ……!」
その一撃を受けたシルヴィアは後方へと吹き飛ばされ、それにより先ほどと同じように地面を転がることになるかと思われたが、そうはならなかった。
シルヴィアへと一撃を与えたアッシュは次の瞬間にはその背後回り込み、重く鋭い掌底を放つ。
「なっ……!?」
衝撃と痛みに何が起こったのか理解出来ないシルヴィアがどうにか一瞬だけ背へと目を向けると掌底を放ったアッシュの姿が映った。
だがその姿は瞬きの間もなく消え、次は横からの衝撃と痛み、そして一瞬の間を置かず反対から同じように衝撃と痛み。
シルヴィアには何が起こっているのか理解出来なかった。だが起こっていることは酷く単純なことでしかなかった。
アッシュはシルヴィアに一撃を入れるとすぐさま回り込み、常にシルヴィアの死角から拳打や掌底、肘撃を叩き込んでいるだけだ。
ただそれが凄まじく速く、シルヴィアには姿が捉えることが出来なくなっていた。
一、二、三、四、五。
一切攻撃の手を休めずアッシュは自らの拳を振るう。
六、七、八、九、十、十一、十二。
最初はどうにか抵抗していたシルヴィアの動きは酷く鈍くなる。
十三、十四、十五、十六、十七、十八、十九、二十。
もはやシルヴィアは抵抗することはなく、アッシュの拳を受けるだけとなっていた。
アッシュは流れるようにして行われていた連撃の手を止め、シルヴィアの正面へと回った。
そして力なく膝から崩れ落ち、膝を着いてどうにか倒れないようにしているシルヴィアを見てアッシュは口を開いた。
「ナイフを使わなくなってから合計で二十三。防ぐことも避けることもなし、か」
何処か冷ややかだったその声にシルヴィアは何も返さない。否、返せない。返せるような状態ではなかった。
アッシュはそれをわかっていて更に言葉を続ける。
「自分は幼い頃から鍛錬を続けてきた。あぁ、立派なことだな。自分は聖剣に選ばれた勇者だ。縋るには充分だろうな」
その言葉を受けてシルヴィアはのろのろと顔を上げてアッシュを見る。
「ただ……そうだな、シルヴィに必要なのはそれじゃない」
言いながらアッシュはシルヴィアへと歩み寄る。
「そ、れなら……何が、必要だって言うのさ……?」
少し前までは叫ぶように言葉を返していたシルヴィアも既にその元気はなく、ただ弱々しく言葉を返すことしか出来なかった。
叩きのめす、というのはこうしてシルヴィアが激情のままに言い返すようなことがないように、ということだったようだ。
だが聊かやり過ぎているようにも思えるが、力の差を、格の違いを。ということであれば仕方のないことだったのかもしれない。
「とりあえず溜め込んでるものを全部吐き出すことから始めるか。お前みたいな弱音をあまり吐き出せないような奴はそういうことから始めないとな」
「何を、言ってるの……?」
「弱音も不満も吐き出せる相手が今までいなかっただろ。だから今回は俺がその役を買って出ようかと思ったんだ」
そう言ってアッシュはシルヴィアの前で立ち止まると手を差し伸べた。
「全く動けないってわけじゃないだろ。ほら、立てよ」
「何、それ……」
「まぁ、まずは落ち着かないとな。さっきからシャロがあっちでオロオロしてるし、あっちも落ち着かせないと……」
「……結局、そこでシャロになる……のがアッシュ、だよね……」
「当然だな。で、俺の手を取るか?」
アッシュはふざけているような口調で軽く言ってからシルヴィアを見ると、シルヴィアは弱々しく苦笑を漏らした。
そしてアッシュの手を取った。
「うん……このまま、こうしてたって、しょうがないからね……」
「よし、ならシャロのところに行こうか」
アッシュはシルヴィアの手を引いて立ち上がらせて一人では歩けないことがわかっているので肩を貸す。
「あ、はは……僕の状態って、実は、予定通りだったりする?」
「当然。格の違いってのはその辺りもきっちり計算してやれる。ってことだとも思わないか?」
「そっか……そっか。何だか、アッシュには……敵わないなぁ……」
シルヴィアはそう零しながら、それでも少しだけ楽しそうにも見えた。
それを指摘するほどアッシュは無粋ではなく、二人はそれ以上の言葉を交わさずに離れた場所でハラハラオロオロしながら手合わせと言う名の戦闘を見守っていたシャロの下へと向かうのだった。
▽
「まずはシルヴィさんの手当てをしますけど、お二人には言いたいことがあります!」
アッシュがシルヴィアを連れてシャロの下へと辿り着くと、シャロは私は怒っています。と言葉ににじませながら、それでいてすぐにシルヴィアの状態を確認し始めた。
「主様はやり過ぎです!あんなことをすれば酷いことに……え……?」
「どうか、したの……?」
「え、あの……思っていたよりも大したことはない、と言えば良いのか……」
シャロの視点で見れば容赦なく拳を撃ち込んでいたようにしか見えなかった。であるならばきっと打撲、内出血、酷い場合は骨折などがあってもおかしくはないと思っていた。
だがシャロが魔力を瞳に回して怪我の状態を見てみれば、そのどれもが大したことはない。というものだった。
「あぁ、手加減はしておいたからな。というよりも、その辺りも考えて撃ち込んだから後遺症が残るようなことにはならないさ」
何をどうやればあれだけ拳を撃ち込んでおきながらそうしたことが出来るのか。
シャロとシルヴィアには一切わからなかった為に非常に困惑したようにアッシュを見ていた。
そんな二人にアッシュは小さく笑んでから言葉を続けた。
「ほら、そんなことよりもシルヴィの怪我を治してやってくれ。俺はまだ治癒魔法を教えてもらってないからな」
「あ、はい……わかりました」
納得などは出来ないが、確かに今はシルヴィアの怪我をどうにかするのが優先だ。そう考えたシャロはシルヴィアへと手を翳して治癒魔法を発動させる。
「これくらいなら……ヒール!」
シャロが治癒魔法を行使すると淡く優しい光がシルヴィアを包み込む。
とはいえそれはほんの数舜のことで、その光はすぐに解けるようにして空へと消えていった。
するとシルヴィアの体にあったはずの打撲痕は綺麗に消えてなくなっていた。
「うわぁ……すごいね……それに何だか体が軽いや」
「体が軽い、というのはきっと疲れが溜まっていたからだと思いますよ。この魔法は疲労回復、という効果もありますから。少しだけ、ですけど」
「少しだけ?でもローレンの魔法ではそうはならなかったような……」
「魔法には使い手によってはそうした追加効果がある。って話を聞いたことがあるな」
「へぇ……そうなんだ……知らなかったなぁ……」
アッシュの言葉を聞いてそういうものなのか、と納得したシルヴィアだった。
ついでに言えばシャロはアッシュの言葉に首を傾げた。そんな話は聞いたことがない、という意味なのか。どうしてそんな話をアッシュが知っているのだろうか、という意味なのか。
どちらにしても今はそれは重要な話ではないのでシャロは口にせず、アッシュとシルヴィアへと目を向ける。そして口を開いた。
「とりあえず……説教の時間です!」
「え?」
「あー……忘れてなかったか……」
シルヴィアは何を言っているのか、とでも言いたげに。
アッシュは気まずそうに。
「当然です!とりあえずお二人が手合わせのはずなのにそのことをすっかり忘れていたことに関してですね!」
「あ……い、いや!あれは忘れてたとか、そういうことじゃなくて!!」
「俺は忘れてなかったぞ。手加減も完璧だっただろ?」
「そういう話ではなくて!主様は手加減をしていたとしてもやり過ぎです!!」
いつものように、と言ってはおかしな話だがシャロはぷんぷんと擬音が聞こえてきそうな怒り方をしていた。
それを見てアッシュは観念したようにシャロの前に座り込んだ。
「え?」
「ほら、シルヴィアも座っとけ」
「え、何で?」
「シャロが怒ってる。大人しく話を聞いておけ」
「えー……話の流れとしては僕と話をするとか、その方が自然なんじゃないかな……」
「まずはシャロが優先だろ」
「アッシュは本当にそうだよね!!」
軽い調子で言葉を吐くアッシュと困惑しながらも元気にツッコミを入れるシルヴィア。
それは見ようによっては非常にほのぼのとした日常の一幕のようにも思えるが残念ながら状況が悪い。
「主様もシルヴィさんも、まずは私の話を聞くべきだと思います!!」
説教をしようとしているシャロの目の前でそんな遣り取りをするとどうなるのか。
答えは簡単だ。シャロがもっと怒るに決まっている。
「まぁ、こうなるな」
「わかってたなら自重しなよ!!」
「悪いな、自重はしないし本当は悪いとも思ってない」
「アッシュ!!」
「はーなーしーをーきーいーてーくーだーさーいー!!」
状況はアッシュのせいで非常に混沌とし始めた。
そんな中、とあるろくでなしだけが小さく笑っていた。




