第一話 その一
後頭部に固いものを感じて、俺の意識は目覚めた。
木漏れ日の中だった。仰向けになって寝そべっていたから、瞼を上げると木々の隙間から差し込む光が眩しかった。
状況がよく分からない。頭がぐらぐらする。記憶が混濁しているせいか、何が起きて、どうしてこうなっているのかをすぐには認識できなかった。一度深呼吸をすると落ち着いてきて、本来の思考が脳に戻ってきた。
俺は、それでようやく自分の身に起きた出来事を振り返る。
さっきまで俺は間違いなく街中にいた。下校中だったはずだ。
「そう、確か――」
進路希望調査のプリントを持っていたのだ。それで、横断歩道を渡ろうとしていた。
「――っ!」
勢いよく上体を起こし、自分の胴体に視線をやる。別におかしなところはない。試しに上に着ていたブレザーとシャツをたくし上げてみても、いつも通りの健康的な肌色をした腹がそこにはあった。
おかしい。
あの時確かに俺は、トラックに轢かれたはずだった。地面に衝突する寸前までの記憶しかないが、時速六十キロ超の鉄の塊にぶつかった胴体が無事であるはずがない。鈍い痛みと、肋骨の辺りに鋭く走る痛みを感じたのは間違いのないことだった。あれからどれくらい時間が経っているのか知らないが、最低でも打った箇所が内出血で変色していてもいいはずだ。
しかし今、俺は全くの無傷でここにいる。あの事故が現実であったならば俺は死んでいるか、そうでなくとも重傷で病院に担ぎ込まれているに違いないのだが……。
いや、そもそも。
……ここは、どこだ?
辺りを見回すと、緑の映える木ばかりが視界に入ってくる。都会に暮らしていては滅多にお目にかかれない大自然がそこには広がっていた。こんなのを見るのは田舎で暮らしていた頃が最後だったから、およそ二年ぶりだった。
色々な可能性を考える。
車に轢かれたことは現実だったのだろう。夢だとしたら異様に鮮明でリアリティのある痛みだった。
だとすると、ここは天国か?
俺は天国地獄なんて信じてはいないが、あるならあるで別に構わないと思う。
しかし、仮にそうだとしたら、天国っていうのはこうもしょぼくれたものなのか。正直がっかりだ。死後の楽園がまさかただの森の中で、死んだ人間はそこにその身一つで放り出されるなんて、そんな不親切設計があってたまるものか。
もっと現実的な可能性を考える。
あの事故の後、頭を打って気絶した俺を轢いた車の運転手が拉致、そしてこんな山奥に放り投げて帰っていった。打ち所が良かったお陰で無傷で済んだ。流血も一切なし。それならどうにか説明がつく――
「わけがないよなぁ……」
そんな証拠隠滅を図るくらいなら轢き逃げでもした方がよっぽどマシだ。
結論としては、やっぱりよく分からない。
ここまでよく分からない状況に置かれているとなると、じっとしているのが一番いいのかもしれない。
しかし、ここは恐らく森の中だ。今はまだ太陽が高いようだが、日が落ちれば一気に危険が増す。大自然とはそういうものだ。日中でも木々に光が遮られて暗い森の中は、日が沈むとその闇をよりいっそう深くする。同時に、昼間は大人しかった夜行性の動物が活発になる。幼い頃に近所の雑木林に迷い込み、夜になって泣いているところをご近所総出で探されたことがあった。
「とりあえず、安全なところを探さないと」
そう自分に言い聞かせて、俺は立ち上がって歩き始めた。
幸いにも身体は元気だ。さっきまで感じていた目眩のような感覚も今はもうない。
亜どこかの集落に出られるのが一番よいが、無理でも大きい木の上に上るなどして一晩過ごすこともできる。とにかく元気なうちに動いて、この森の中を出る目処をつけなくてはならない。
十分ほど歩いていると、直接日には当たらなくても汗はかく。ブレザーを脱いで肩に掛けたが、それでも気休め程度だ。むしろ片手が塞がるのは不便とも言える。そもそも制服など、森の中を歩くのに最悪に近い服装である。伸縮性がないため膝を上げればスラックスに引っかかるし、汗をかいてもなかなか乾かない。長い丈が虫除けになるくらいだ。靴も通学用の革靴のままなので、どうしても行動は制限されてしまう。
暑さに参って、俺はふと地面に視線を落とした。
「ん?」
それが偶然にも、地面の変化に気付くきっかけになったのであった。
地面が妙に固かったのだ。そのうえ、他のところに比べて雑草や木が生えていない。これが一直線に続いていて、どうやら俺はそれに突き当たったらしかった。
「道か!」
地面が固いのは多くの人がここを踏みしめていたからで、だからこそ木や雑草も生える余地がなかったのである。左右から突き出した枝々を見るに今は殆ど使われていないようであるが、少なくともこれは過去に人間が使っていた道である。
つまり、これを辿れば人に出会える。
何もない森の中で数日の野宿をも覚悟していた俺にとってこれは大発見である。この不親切な天国には、他にも人がいることが確認できた。というか、ここが人類の文明圏であるということが確認できただけでも十分すぎるくらいだ。
問題は左右どちらに進むかだが……。
「こっちだな」
迷わず右を選んで歩き始める。理由は単に俺が右利きというだけだ。
そもそも道というものは何かと何か――たとえば家から家、あるいは街から街――を繋ぐ為に作られるものである。少なくともその先にあるものが前人未到の地であるということはない。まず他の人間に出会うというのが一番の目的なのだから、どちらに進もうと結果は変わらないというわけである。
道に沿ってしばらく進むが、森が途切れる様子は全くない。
左に進めばよかったかと今更後悔してももう遅い。それはうんざりしながら森の中を歩く。
道の先に何かが見えた。それはどうやらレンガか何かを積んで作ってあるらしいが、距離が離れているために詳細は分からない。
しかし、建物だ。
俺は無意識のうちに走り出していた。二年履いたからよれているとはいえ革靴は革靴だ。ひっくり返りそうになりながらも必死で走った。
道の両側をずっと縁取っていた木々が不意になくなった。広場のようなところに出た。石レンガで造った噴水のようなものがあり、どうやら視界に映ったのはそれだったらしい。地面にも石畳を敷き詰めているところがあって、間違いなくここには人の手が加わっている。
そして、それ以上に驚くべきものがそこにはあった。
城だ。
石レンガで作られたそれは一般的にイメージされるような規模のものではないが、その構造は城といっていいものだ。二つの塔が天に向かって伸びているが、それほど高くない。外壁にはツタが這い日陰になるようなところは苔むしていて、どうにも現在も使われているような様子は見受けられない。人が来なくなったために今俺が通ってきた道もあれだけ荒れ果てていたのだろう。
「というか、西洋風じゃね、これ」
そう、俺の目の前にある城はどこからどう見ても天守閣の立派な日本の城ではなかった。西洋の童話――眠りの森の美女とか――に出てくるようなそういう類の古城であった。
現代日本でこんなものがある場所なんて俺には皆目見当もつかないし、そもそもこれがヨーロッパだったとしてもここまで荒れ果てたまま放置しておくとは思えない。文化財とかそういう名目で保存されるべきものだろう。
つまり、今俺のいるこの場所は――
「まさか、日本じゃないどころか、全くの別世界ってことか……?」
少なくとも、二十一世紀の地球上ではないことは間違いない。
可能性としてはタイムスリップして過去にきてしまったか、事故がきっかけになって異世界に飛ばされてしまったか、あるいはやっぱりここが死後の世界であるか、だ。
「嘘だろ、オイ……」
冗談にも程がある。生まれ変わりたいとは言ったが、まさかそれを本気にするなんて、この世界に神様がいるのだとしたらとんでもない馬鹿野郎だ。こんな展開は誰も望んじゃいない。
進路の悩みが生まれ変わりにつながるなんて、どんな御伽噺だというのだ。
しかし、こうなってしまった以上文句を言っていても仕方ない。生まれ変わっているのだとしてもそうでないのだとしても、死ぬのは御免だ。当然生き延びたいに決まっている。
となると、ここでこの古城を見つけられたのは運が良かったといえる。誰かが住んでいる様子はないし、多少強度に不安はあれ、しばらく間借りして暮らすのには全く差し支えないだろう。中を探せば何かしら役に立つ道具が見つかるかもしれない。
「……よし」
覚悟を決めて古城の扉の前に歩いていく。正面に立って、肩にブレザーをかけて二枚の扉をそれぞれ左右の手で押さえ力を入れた。これまた運のいいことに鍵がかかっていなかったようで、材質はわからないが朽ちかけた木作りの扉は、簡単に観音開きに開いた。
昼間とはいえ、城の中はどうしても光が入ってこない。俺は扉から入ってくる光を背にして、恐る恐る中に足を踏み入れた。一瞬だけ息を止めてみたが、別に中に入ったからといって息苦しくなるようなことはなかった。
「お邪魔しまーす……」
小声でそう言って、扉から入ってくる光を頼りに玄関広間を見渡す。天井は吹き抜けになっていることを考えてもかなり高い。正面、左右の壁沿いには階段があって、そこから二階に上がれるらしい。その下には扉があって、まだ奥に続いているらしい。左右にもそれぞれ廊下が伸びているが、まずは奥に行ってみようと思った。どうせ後でくまなくこの城を探索するのだから順番などどうでもいい。
いかにも雰囲気のある古城だ。そもそも本物の城なのだから当然のことだが。
西洋文化に倣って靴は脱がずに奥へと進んでいく。床は絨毯か大理石だと思っていたが、どうやら違うらしい。コンクリートのようなもので固められているようだ。確かコンクリートは古代ローマから使用されている建材で、別に現代のものではなかったはずだ。こんな古城に使われていてもおかしくはないだろう。
正面奥にあった扉の前に立つ。
無意識のうちに息を殺していたせいで口の中に唾液が溜まっていた。それを飲み込んで、俺は扉を開いた。
広い部屋だった。さっきの広間には劣るが、天井も高い。中央には十人以上がつけそうな大きなテーブルがあって、椅子も幾らか置かれている。広間に比べて明るいのは奥に窓があるのと明かりが灯されているからだ。
そしてそのテーブルの向こう側。そこにそれはいた。