プロローグ
「――生まれ変わりてぇな」
疎らに薄雲の浮かぶ空を見上げながら、俺――呉葉史郎はため息まじりに呟いた。
下校中のことである。
俺の手には一枚のプリントが握られていて、それがこの憂鬱の原因なのであった。
プリントの題は『進路希望調査』――高校三年生の春、誰もが避けては通ることの出来ない、己の将来について考えさせられるプリントだ。二年の時は適当な内容で済んだが、今回はそうもいかない。
俺はこんなもの正直捨ててしまいたかったが、そんなことをすれば後でこっ酷く担任に叱られるに決まっている。だからどうしようもなくなったソレを、こうして目の前でひらひらとはためかせながら帰路についているのである。
別に、将来の夢がないからこんなプリントに憂いているのではない。進学か就職かを悩んでいるわけでももちろんない。俺はできることなら大学には行きたいと思っている。
大学に進学する――問題はそこにある。
昨今の就職事情を鑑みれば、大学を出た方がいいのは当然のことだし、子供が進学したいと言って反対する親なんてそうはいないだろう。
けれども俺の家庭の場合、その常識が通用しない。俺の実家、呉葉家は田舎の農家だからだ。
生まれた時から土に触れていたような気さえする。しかし人間というものは、ずっと同じ環境にいるとどうしても他の世界を知りたくなる生き物で、俺は特にその気が強かったらしい。成長するにつれて、都会への憧れを強く持つようになった。
中三のときに、父親から農業高校に通うよう強要された。それはつまり、永久にあのド田舎に閉じ込められることを意味していた。親の言うこと為すことに苛立ちを覚える反抗期だったことも、俺の背中を押した。
だから、幸いにもそれなりの成績を残していた俺は勝手に都会の私立高校を受験、見事に特待生の権利を得て堂々と家を飛び出したというわけであった。あいにく寮のない学校だったからアルバイトで家賃を稼ぎながら一人暮らしをしているが、学費を払わなくてよいとはいえ大変な生活だ。ただし、お陰で家事スキルは同年代のそれを遥かに上回るものになったが。
そうしてこの二年を過ごしてきたが、大学進学となると今よりもっと大変なことは間違いない。私立に通えるほど俺の生活に余裕はないし、そもそも国公立であっても受験して入学するだけで相当な金がかかる。それを自分ひとりの力で賄うことなんて到底不可能だ。奨学金を借りるにしても一度は親に頭を下げなくてはならない。俺はそれがどうしても嫌だった。
家を飛び出して以来、一度も実家とは連絡を取っていないのだ。今更どの面下げて「大学進学を援助してください」なんて言えようか。
「くそっ、なんで農家の息子なんかに生まれちまったんだか」
文句を垂れても、現状がどうこうなるわけではない。それが分かっていても、口に出さずにはいられなかった。
空を鳥が飛んでいた。
カラスか、ハトか、あるいはスズメかもしれない。遠くて種類はよく判らなかったが、自由に空を飛ぶその姿が俺にはとても羨ましく思えた。
現在寝床にしている安アパートには帰らずに、直接バイト先であるコンビニに向かう。店長の厚意で廃棄の弁当を貰えるので、貧乏学生の俺にはとても助かっている。
信号が赤だったので立ち止まった。大通りの交差点を渡って少し行くとそのコンビニだ。
もう一度、俺はプリントに目を落とした。
――いっそのこと、就職でもしてやろうか。
父親に反発して家出までした自分が滑稽に思えるけれど、その方が色々考えなくて楽かもしれない。
信号が青になった。プリントに目を落としたまま、歩みを進める。
それが不注意だった。
誰かの悲鳴が聞こえて、ぱっと視線を上げた。何事か一瞬分からずに立ち止まり、そしてその悲鳴の原因にすぐに気付いた。
一台のトラックが半ば暴走気味に、こちらに向かって突っ込んできている。時速六〇キロはゆうに出ているのではなかろうか。
現実を現実と認識できなかった。
――あれにぶつかったら死ぬな。
俺の周りには、偶然誰もいなかった。いや、それはもしかすると必然だったのかもしれない。
普段の俺ならどうにか躱せたであろうが、不運なことに今日の俺は呆けていた。まるで魂が抜けたかのように、その場から一歩も動くことが出来なくなっていた。
数瞬の後、腹の辺りに鈍く重い衝撃が広がった。同時に肋骨の辺りに鋭い痛みが幾つも走った。
「――ッ!」
肺から全ての空気が押し出される。テレビか何かで車に轢かれても無傷で済んだ人というのを見たことがあったなあ、と俺はくだらないことを思い出していた。今なら分かる。そりゃ精々、接触事故って程度じゃなかったのか。車に轢かれて無事で済むわけがない。
全身が宙に浮いた。受身を取る余裕もない。頭から真っ逆さまに地面に落ちてゆく。
――どうしてこうなった。
不意に頭の中にそのフレーズが浮かんだ。
右手に握り締めたプリントのことを思い出す。こんなものを貰ったせいじゃないか。いや、もっと前、都会になんて出てこなければ良かった。父親が強要なんてしなければよかった。
これから先、大学に進学してキャンパスライフをエンジョイするはずだった。就職したとしてもそれなりに自由な暮らしは出来たはずだ。
後にも先にも、もっと他にいろんな生き方があった。
いいや、そもそも。
――「生まれ変わりたい」なんて呟いたせいなのかもしれない。
世界がスローモーションになる。
空を鳥が飛んでいるのが見えた。
父親に反発して、短絡的な思考で都会に出てきて一人暮らしをして、馬鹿みたいにこうして死んでいく。愚か者にはお似合いの最期じゃないか。
――けれど、それでも。
頭をアスファルトにぶつける直前、俺は無意識のうちに呟いていた。
「死にたくねぇなぁ」