嘘を拾う天使 ~彼女にたった一つできること~
これは、嘘を拾う天使と嘘つき少年の昔話が、誕生する時代の物語――
・・・・・・2・・・・・・
ジブリールという少女は美しいがホラ吹きだ。その噂は三つ先の町まで伝わっている。
ジブリール自身は、自分からすすんで嘘をついたことは無いと思っている。しかし、確かに今まで多くの人を騙してしまった、という記憶だけはあった。だから、責められることがあればひたすら謝るしかなかった。
その少年、アデオは、ジブリールに恋をしていた。彼女がホラ吹きだなんて、それこそ嘘だと、アデオは愛しの少女を信じて疑わなかった。彼は毎日のようにジブリールが働く花屋へと通いつめた。
ジブリールのほうも、みんなから疎まれている自分に、唯一優しくしてくれるアデオのことが好きだった。彼女が閉ざしかけていた小さな心は、彼によって開かれ始めていたのだ。
「ああ、そうさ。今週も事業がうまくいってね、もう一つ家が買えそうだよ」
「凄いわ、アデオ。あなたはいっぱい努力しているのね」
アデオはジブリールの心を射止めるために、嘘をついている。本当は貧しいのに自分はお金持ちだと、つい言ってしまったのだ。
自慢話をする時の彼の目は泳いでいて、次第に彼女もそれが嘘だと気づき始める。
「最近は王様の城にも出入りしてるんだぜ。そうだ、今度君も一緒に連れて行こう」
「アデオ、嬉しいわ。でも、気持ちだけでいいのよ」
約束をしてしまったアデオは、自分の軽々しい口を恨んだ。日を重ねるごとに、どんどん具体的な嘘がポンポンと紡がれていってしまう。
彼は、ただの染み抜き屋でしかない。ジブリールにしてしまった沢山の約束事を、言ったとおりに履行してみせるのは、当然不可能だった。
アデオが素直に自分の嘘を告白したなら、心の優しいジブリールは許しただろう。しかし、彼は嘘を嘘で上塗りし続けていくばかりで、いっこうに本当のことが言えそうになかった。
心苦しそうなアデオに、「もういいのよ」といってあげたいジブリールだったが、彼のプライドを傷つけるのも躊躇われた。
アデオは、もう引っ込みがつかない状態だったのだ。快活だった彼から日に日に笑顔が失われていく様を、はらはらしながらジブリールは見守っていた。そんな或る日――
天使が、彼の嘘を拾った。
彼の嘘が、天使のものになった。
ジブリールは、お金持ちのアデオに求婚されている。彼女は見栄を張って、自分もお金持ちのご令嬢だと嘘をついている。社会勉強としてこんなみすぼらしい花屋で働いているだけなのだ、と。
正直なジブリールは、大好きなアデオにどうして自分がそんな嘘をついてしまったのか、よく分からない。
とにかく嘘なんていけないことだからと、すぐに告白して謝罪すべく、彼女はアデオが暮らす大きな屋敷を訪ねた。
「そうだったのか……。やっぱり君は、みんなが言うようにホラ吹きだったんだね」
「本当にごめんなさい。あなたに釣り合う人間でありたかったのだと思う」
アデオはジブリールに幻滅し、彼女の前から去った。
・・・・・・3・・・・・・
つい先刻まで、樹々が秋風に揺れる小さな音しか無なかった。しかし、今はその深い森の中が静けさとは真逆のもの、激しく金属を打ち合わせる剣戟音で満たされている。
縦列で並ぶ数十台の大きな荷馬車を、異国の鎧を来た沢山の戦士たちが守っている。
それを少々上回る人数で攻めているのは、ジブリールが所属する傭兵団である。夕方を迎えてテントを張る準備を始めた敵軍の補給隊を、王国からの命によりその傭兵団が横合いから奇襲したのだ。
今また一人の敵を斃したジブリールが、一瞬気を抜いて棒立ちになったところへ、別の敵が背後から迫りつつあった。それを彼女の仲間、リカルドが難なく斬り斃す。
「背中がお留守だぞ。悪い癖だな、ジブリール」
「ありがと、リカルド。でも、あなたもよ」
そう短く言って、ジブリールは自分の長い手足を閃かせる。リカルドの背後から振り下ろされた敵の戦斧を、彼女の剣線が払った。ビクッと振り向いたリカルドが、その敵をすんでのところで斬り伏せる。
「おっと。こりゃ今夜は俺がご奉仕せねばならんかな」
「何もかも生き残ってからよ。それに、これでおあいこでしょ」
二人は目配せしてから、またそれぞれの敵に向かっていった。
この敵軍の補給隊を壊滅させること。王国から依頼されたこの仕事は、彼らが正規軍への仲間入りを果たすという夢……その足がかりを掴む第一歩でもある。それは、今まで艱難辛苦をともに乗り越えてきた仲間たちとの悲願だ。
親が居ないジブリールを拾った男、ウォルターは、あまりまともな人間ではなかった。
自分の親から引き継いだ花屋を、以前は真っ当に営んでいたウォルター。その真人間だった頃の彼が、石橋の下で腹を空かせて蹲っていた幼い童、ジブリールを拾い、暖かい食べ物を与えた。その日から、本当の親のような気持ちで、ウォルターはジブリールを育てていた。
しかし、互恵関係にあった葬儀屋に裏切られて以降、花屋の経営は厳しくなっていく。ウォルターは次第に変わっていった。店はジブリールに任せっぱなし。彼は酒ばかり呷っては管を巻き、ことあるごとに彼女を虐待する。仮の父娘関係はとっくに壊れていた。
僅かな売り上げでギリギリの苦しい生活を切り盛りするジブリール。彼女は、まるで、自分のほうがウォルターを養っているような気分だった。店先に立つための服も、だんだん擦り切れたものしかなくなっていく。
惨めな自分を慕ってくれるのが、アデオだった。ジブリールは彼と一緒に、一刻も早く何処かへ逃げたいと願っていた。しかし、彼女は自らがついた嘘のせいで、アデオを失ってしまう。ジブリールは正直者のはずなのだが、何故かたまに嘘をついてしまうのだ。
望まぬ相手であるウォルターから受ける酷い折檻に苦しみがらも、潰れる寸前の花屋を守っていく、意味の無い日々。ジブリールの心は荒んでいった。
そのウォルターが盗賊たちに斬り殺されたのを見た時には、いけないと思いながらも心がスカッと晴れ渡る想いで満たされてしまったジブリールを、誰が責められるだろう。
その盗賊たちが、今ジブリールが所属している傭兵団の昔の姿だ。もう十年近く彼らとともに放浪し続けている。
「生き残ったか、ジブリール。ははは」
「リカルド。良かった、あなたも無事だったみたいね」
夜の帳が下りた頃、傭兵団は見事に敵の補給隊を討ち果たした。
想定より自分たちの被害は少なかったことと、犠牲となった者たちへの哀悼を、皆に慕われる団長が宣言する。森は勝ち鬨と喝采に包まれ、ひとしきり肩を叩きあった勝者たちは、獲得した兵站も利用して夜を明かす準備を手馴れた様子で進めていく。
「ふぅ、食った食った。ジブリール、あっちに旨い肉があったぞ。お前も食べたか?」
数百人の戦士たちが沢山の焚き火を囲んでいる。夜遅くまで行われる腹ごしらえの宴。その騒がしさで、飛べない獣たちはみんな逃げていく。
「それを早く言ってよね、リカルド。けど、私ももうお腹いっぱいよ。こっちには美味しい葡萄酒があったからね」
満腹になった者たちがテントに引っ込んでいったり、その場で酔いつぶれて寝てしまったり、頑強な彼らの過ごし方は様々で自由だ。
「何だって? おいおい、ジブリール。それはどれのことだ?」
やがて森の喧騒はその賑やかさを幾らか残して静まり、梟の鳴き声のほうがよく聴こえる頃合となっていく。
「もう無くなったわよ。そろそろ寝ましょう、リカルド」
リカルドはジブリールに剣の振り方を教えてくれた師匠だ。彼は彼女がいっぱしの戦士になれるまで、あれこれと面倒を見てくれた親のような存在でもある。
だが、リカルドはジブリールに無償の親切を提供したわけではない。彼は彼女に、体の関係を求めたのだから。
それはつまり、ウォルターと同じだ。されたことは変わらない。しかし、ジブリールはリカルドを愛した。大ッ嫌いなウォルターを斬り殺し、あの酷い生活を終わらせてくれた相手、それが、リカルドだったからだ。彼はジブリールにとって救世主であり、彼女がその生涯で最愛だと思う存在である。
彼らの傭兵団は大きく三つに別れていて、その一つ、二百人ほどの部隊を率いる隊長がリカルドだ。今やジブリールはその隊の副隊長。同隊の中に剣の腕に於いて、リカルド以外彼女と肩を並べられる者は居ない。
だが、ジブリールはこの傭兵団が王国の正規軍に加わる夢を果たしたならば、剣を置いて戦士業を引退する。何故ならば、その日が来たらリカルドとジブリールは結婚する予定だからだ。団員の誰もがその約束を知っていて、心から祝福している。
王国から下される任務を首尾よく達成し続けていた或る日、団長が病に伏した。百日咳なのか、もっと重いものなのか、医者に診せてもはっきりしない。ただ、もうあまり若くない団長の容態は、日々どんどん悪化していくばかりだった。
あと幾つかの戦で、夢を掴める。それを目前にして立ち込めたこの暗雲は、団員たち全員の士気を落とした。団長がもし命を落とすようなことがあれば、この傭兵団は瓦解するだろう。ただの盗賊団でしかなかった彼らを、まともな傭兵団に生まれ変わらせたのは、今の二代目の団長だ。その代わりが務まる者は居なかった。
「団長に効く薬……心当たりがある」
リカルドが歯切れ悪くそう言ったのは、傭兵団の幹部たちが集まって会議をしている時のことだった。団長の死が確実視されて、三代目を誰にするか、という話し合いをしていたのだ。そこにリカルドの名も挙がった。だが、総勢六百人もの人数を纏め上げ、その上で王国との駆け引きをしていく、なんて素養は、学の無いその頃の彼に備わっていなかった。他の幹部たちも似たり寄ったりで、そんな大役が務まりそうな者は、やはり一人として居なかったのだ。
会議用の大きなテントの中に居た全員が、リカルドの言ったことを唯一の希望として捉えた。二つ山を越えた先の谷に、煎じればその薬になる青い花が生えているのだと、リカルドは説く。翌日、彼は十数人の部下を伴って、その花を探すべく出立した。傭兵団の仲間たちは、彼らの姿が山の中に見えなくなるまで、縋るような眼差しを送り続けた。
リカルドのその探索隊に同行したジブリールは、彼の嘘に気づいている。団長が患っている病の名すら分からないのだ。その薬があろうはずもない。しかし、彼女は何も言わず、愛する者の大きな背中を見つめているだけだった。
丸一日馬を走らせ続け、リカルドの言う谷に着いた彼らは、その青い花を探し始めた。しかし、そこから何日谷底を水浸しになりながら彷徨い続けても、それらしき花は見つかる気配が無い。当然だ、嘘なのだから。
リカルドは湿った岩の上に立ち、同行してくれた志願者たちへ頭を下げた。
「すまない。俺は嘘をついた。青い花なんて無いんだ」
全員がざわめいた。それは大した間を置かず、リカルドへの罵声に変わっていく。
彼がどうしてそんな嘘を言ったのか? 寝起きをともにしているジブリールだけが、最も正解に近いかたちで察していた。
団長が倒れてから、傭兵団の収支はマイナス続きだ。暗いムードに拍車がかかっている。このまま時に任せているだけでは、団の分裂は避けられない。そして、多くの者はまた盗賊に身をやつしていた頃へと逆戻りだろう。
「俺は、今の状況を変えたくて、みんなを騙した。本当にすまない」
立ち尽くして謝り続けるリカルドに、悔し涙を流しながら石を投げる者も出始めた。
殺伐とした空気になってきた谷底で、ジブリールは愛するリカルドを見つめ続ける。
彼のやったことは短絡的だ。最初から、うまくいくはずもないことだったろうに。しかし、リカルドには昔からいつもそういう向こう見ずなところがあり、そして、不可能を可能にしてしまう馬鹿な勢いがあった。
彼が居れば、どんなことでも何とかなる。
そう思わせてくれる頼もしいリカルドが、ジブリールは大好きだった。
もしかしたら、今回も……?
いいや。人間でしかないリカルドに、奇跡を起こすことなど、やはりできはしない。
ジブリールは自分にたった一つできることで、リカルドを、そして、傭兵団のみんなを救うと決めた。
だから、今後もう自分を見てくれないであろうリカルドを、彼女は涙を堪えながら、見つめ続けたのだ。泣けば涙が邪魔して、彼の姿を、最後まで見ていられなくなる。
天使が、彼の嘘を拾った。
ジブリールはみんなを謀った咎で、傭兵団を追放された。
・・・・・・1・・・・・・
その孤児院は貧しかった。施設の外観はボロボロだ。
階段や扉の建て付けも悪く、保護下にある児童たちが怪我をすることもしばしばだった。しかし、それを修繕するための資金は少なく、日々困窮していくばかり。世は戦時中で重税が敷かれていた。
欠けていない器のほうが少なく、左右で同じ靴下を履いてる子も居ない。少量の野菜しか入っていないスープを、三食きちんと用意できる日のほうが珍しかった。全ては戦争の余波。助成金を打ち切られ、時勢で寄付も集まりづらくなってしまったのだ。
親の居ない子供は、増えていくのに。
それでも諦めず、管理しているシスターは、最大限以上に努力している。子供たち自身も、食事の用意や食器洗い、部屋の掃除や衣服の洗濯などを、一緒に協力して行っていた。
孤児院で暮らす幼いビカは、他の子たちのお姉さん役だ。最年長である彼女は、いつも自分が一番しっかりしていなければならないと、自分の本当の想いは我慢する傾向がある子だった。
或る日、ビカは、里親を自分で見つけてきたと嘘をつく。
彼女はその行動が、自己犠牲に基づくものだと、最初は思っていた。口減らしとなるために、自らここを出ていくのだ、と。
しかし、心の奥から染み出る敗北感は、いかんとも拭い去れなかった。彼女は疲れてしまったのだ、ここの何もかもを切り詰めなければいけない貧しい生活に。
ただ逃亡し、そして、それを心配されたくなかっただけ。
どんなにお姉さんとして振る舞っていても、ビカだって幼い子供でしかないのだから。この泣きごとも言いづらい環境の中で、それは言えない大人と同じ役どころに最も近いポジションを求められ、リクエストどおり演じ続けてきた。そうしてきたことで、ビカの小さな精神が、実はもうかなり前から崩壊し始めている。何のご褒美もなく、貧しさだけが続いた結果、彼女はその負荷に堪えきれなかったのだ。
皆は半信半疑ながらもビカを祝福した。その雰囲気が崩れない内にと、彼女は早々に出ていく準備を始めた。どうなってしまうのかは分からないが、何処であろうとこの院の中よりはいいだろう。そう彼女は思った。思うことにした。
身寄りなく孤児院の外に出たら、どうなるのか? 他の子たちよりも僅かばかり年を重ねただけにすぎないビカには、想像の埒外だった。
だが、彼女はもう、現実から全力で逃げることしか考えていない。先に待ち受けるものは取り敢えず楽観視して、ただただ全ての懸念を追い払っていくよう努めた。
いよいよビカが旅立つ前日の晩のことだった。彼女は今までのルームメイト、ジブリールに向き直る。
感情の起伏が薄い、三つ年下のジブリール。彼女のことを、ビカは普段からとても心配していた。
「わたしが居なくなったら、あなたは大丈夫かなぁ?」
ジブリールは話しかけても応えないことが多い。しかし、院の仲間たちの中では、同室のビカに一番心を開いている。他の誰かには無表情だとしか思われない大人しい子供。ビカだけが、彼女の僅かな顔色を読めるのだ。例えば、今泣きそうなこととかも。
ビカのほうも、口数の少ないジブリールに、ついつい自分の本心を吐露してしまうことが一度ならずあった。無言を返事にされたとしても、ジブリールは無視しているわけではないと、ビカは知っている。あんまり喋らない彼女は、本当はこっちのことをいっぱい考えてくれているんだ、と。
ビカはジブリールにとって一番の理解者だった。
「……本当はね、わたし、里親なんて見つかってないんだ」
「そうなのっ?」
弾かれたように顔を上げて、珍しくジブリールが喋った。ビカはそれが嬉しくて、さらに本当のことを告白してしまう。
「こんなこと言ったら、みんなのお姉さん失格だけど……わたし、ここに居るのが辛くなっちゃったんだ。負けちゃったの。だから、わたし、逃げるの」
真実の想いを初めて口にしたビカ。その目が潤む。涙の膜が崩壊して一筋滴った頃、普段どおりに戻って無言で応えるのかと思っていたジブリールが、再び喋った。でも、それは、大人しい彼女からは今まで聞いたこともないほど、はっきりとした声だった。
「ビカお姉ちゃん。それは、大切なものよ」
「えっ、どれが?」
「何かを嫌だと思う感覚」
「そう、かなぁ? そうなの、かもねぇ。ふふ」
よく分からないジブリールの反応に、ビカは曖昧な笑顔で応えた。
「ええ。あなたが、人間だということだから」
「……ジブリール?」
天使が、彼女の嘘を拾った。
その孤児院から今日、二人の少女が旅立つ。ビカは曇りのない笑顔で、ジブリールは心なしか青ざめた顔で、それぞれの里親のもとへと歩いていった。
由緒正しきお金持ちの家に引き取られたビカのお陰で、孤児院は管理費の援助をしてもらえることになった。
ジブリールには、里親など見つかっていない。
・・・・・・4・・・・・・
王国は長年、他民族からの脅威に曝され続けている。攻め入ろうとしてくる外敵の強力な軍勢を、今までは辛くも退けてきた。それでも、守りきれなかった領地が少しずつ削られ、国力は低下の一途をたどるばかり。戦争を続けるための増税によって、国民の生活も悪くなる一方だった。
若い王、ハーメルアヌスは、混乱を避けるため国民たちに「もうすぐ勝つ」と嘘をついている。常に自らの言葉で「心配ない」と言いくるめてきた結果、最前線から伝わってくる悲壮な噂に騒ぎ立てる者は、日々少なくなっていった。
しかし、いくら「大丈夫だ」と唱えに唱えても、それはあまり意味の無い努力かもしれない。実際のところ、じきに重要な防衛線が破られるであろうことが、了然たる戦況だったのだ。
「どうしたらよいのか」
ハーメルアヌスの下には、一日に何度も、伝令の兵が悪い報告のみを持ってくる。どんどんと事態が逼迫していくにつれ、彼は己や国民を騙すための嘘どころか笑顔すらも、つくれなくなっていった。
「最早一刻の猶予も成らない」
風前の灯となった自分の国。その王都を、城のバルコニーから見下ろすハーメルアヌス。
あと数日もなく、国境を守る要塞、ウフマン・ギュールが落とされる。
そうなれば、恐ろしい他民族は、この王国の民を塗りつぶすように蹂躙してくるだろう。国家の消滅が免れないほどの、決定的な戦災を被るのだ。
王としては若すぎるハーメルアヌス。彼には、これを打ち破る策が何一つ思い浮かばない。家臣たちは敵に寝返り始めたらしく、国益を損なうようなことしか言わなくなってきた。
次第にハーメルアヌス自身も、どうにもならない現実から目を背け始める。何をしたところで、この王国の全てが奪い尽くされる以外の道は、開けないだろう。
「そして、元首たる余も、殺される、のだな……真っ先に」
だから、彼は夜となく昼となく、寵愛を与えている淑女が居る自分の寝室に通うのだった。
そのレディーの名は、ジブリールという。
王国領の辺境の町々に於いて、悪質な嘘をついて回っていた女。仕事熱心な審問官に異端と見なされた彼女は、魔女として焚刑に処されるところだった。しかし、その美しさに心を奪われたハーメルアヌスが、裁判を中止させジブリールを救った。それが五年ほど前の話。
「何かよい手は思いつかないか? ジブリール」
ハーメルアヌスはここのところ、すっかり他力本願の戯れしか口にしなくなった。その若い背には、負いきれないほどの重圧がのしかかっているのだから、無理もないのだが……やはり、一国の王として無責任で頼りないことも否めない。
そんなハーメルアヌスの弛んだ背中に寄り添いながら、ジブリールは艶やかな美声で静かにゆっくりと言葉を紡いでいった。
「敵も長期の遠征で、疲弊していると思います」
「はっはっは。それは余が今、こうして疲労困憊していることと、かけておるのかね?」
「ふふ。いいえ、そうではなく。ウフマン・ギュールで勝利できたなら、休戦へ持ち込めるきっかけが掴めるのではないでしょうか」
ジブリールは容姿が美しいだけではなく、実際の軍隊経験から得た知見があるようだ。それは時折垣間見せてくるもので、幾度かは国で兵学を修めた軍師にも引けを取らない名案が、その可憐な口からまろび出たこともあるほどだ。扱う剣術なども実戦的で、単純に自らの護衛役の一人としても大変心強い。
それほどであるが故に、一時期は敵方の間諜なのではないかと疑念を抱いたこともある。とはいっても、出逢い方は火あぶりの刑寸前といった状況だったのだから、それは無いだろう。何処かと連絡を取り合っている気配も無い。この国で長く暮らしたことがなければ知り得ないであろう生活の知恵を、彼女は町娘のような手馴れた様子で披露してくれることも多々あるのだし。
しかし、ジブリールは過去を語りたがらない。ハーメルアヌスも、彼女が今までにどんな道を歩んできたか、ことさら訊ねない。
「だからな、そのウフマン・ギュールを、どう守ったらよいものかと、余は悩んでおるのだよ」
かといってやはり女であるジブリールに、王は本気で打開策を求めたわけではない。ただの睦言のつもりだったのだ。
「リカルド将軍です。陛下。彼と彼の青薔薇騎士団なら、必ずや王国を守って下さるはず」
しかし、そのように彼女は、さらに具体的なことを曰ったではないか。
「ジブリール。お前は、リカルド将軍と何かあるのか?」
ハーメルアヌスは一国の王としてではなく、一人の男として、小さな嫉妬心に囚われている。リカルド将軍とジブリールは、過去に何事かあった間柄らしいのだ。それを詳しく知る者は少なく、王の耳には届いていない。
「陛下。昔のことを答えても、私はそれを本当だと証明できません」
ジブリールの言うとおりだった。彼女には虚言癖があるのだ。
高価な食器を割る。
二つとない絵画を破損させる。
王の馬を死なせてしまう。
大小様々な事件を起こしたことがあるジブリール。彼女はそれを何日も隠してから、しかし、自ら告白し謝ってくるのだ。
王は不思議に思っている。
彼の寝室で気ままに暮らしているはずのジブリールが、一見その優雅な身位に関わりなきことに見える悪事、使用人が犯すような失敗を、度重ねて引き寄せるのはどうしてなのか。
そして、最終的に謝るならば何故、何日も隠すのだろうか。隠し通すつもりが無いのならば、初めからすぐ謝ればよいものを。
ジブリールは辺境で嘘つき呼ばわりされながら彷徨っていた頃と、その振る舞い方をまったく変えようとしない。王の寝室を住まいとする大そうな身分と地位を入手したのに、ずっと揺るがずそのままなのだ。
何故なのか? それをいくら考えたところで、ハーメルアヌスには分からない。この戦時下、隠蔽して事をやり過ごせるのなら、そのまま嘘で有耶無耶にしておきたいと常々願っている王には、ジブリールの何もかもが理解できない。ただ、彼はいつも、彼女の嘘を責めない。「はっはっは。仕方の無い奴め」といった具合だ。
ジブリールの外形の美にしか興味の無いこの若い王が、彼女をそのように何度も許したからこそ、その秘密に一番近いところまで迫った人間であったが、ついにその真理へと至ることはなかった。
リカルド将軍を推すジブリール。
不思議な彼女の不思議な進言。
それは、備わっているはずの麗しい知性の欠片すら見えないどころか、何一つ根拠も感じられず、いつものハーメルアヌスならば却下しただろう。しかし、彼は彼女の意見を採用した。追い詰められていた王は、もう嘘でも何でも縋りたかったのだ。
「御意。我が青薔薇騎士団にお任せ下さい、陛下。必ずやウフマン・ギュールを守り抜いてご覧に入れましょう」
民兵出身のリカルド将軍は、力強く宣言して謁見の間から下がっていった。勢いだけの向こう見ずな用兵で危うさはあるのだが、優秀な幹部たちの助言を蔑ろにはせず、常勝と無敗を積み重ねてきた男。今や王国の軍神と呼ばれる彼とその騎士団は、王都の守護役という最も栄誉ある役職に就いている。
リカルド将軍をウフマン・ギュール要塞へ送るという王の采配に、王国の家臣たちの半数以上が反対した。青薔薇騎士団が敗北したならば、それは王都の守備力を喪失してしまうのと同義だ。しかし、他に有用な代案を出せる者も居なかった。
かくして、リカルド将軍は数日で出兵の準備を整え、民たちの歓声に見送られながら王都より発っていった。それは、青薔薇騎士団二万を率い、十万の敵軍に囲まれるウフマン・ギュール要塞へと向かう、死の行軍だった。
「俺はお前を恨んではいない、ジブリール」
「リカルド……」
決死の覚悟を固めて旅立つ前日の晩、リカルド将軍はジブリールに面会を求めた。場所は王城の地下水道。
「何もかもお前のせいにすることで、俺たちは団長亡きあとの困難を乗り切れたのだから」
「知っているわ……」
公妾との密会。それは、平時ならば重く罰せられるであろう暴挙だったが、今この時にリカルド将軍を失って特をする者など居なかった。
「聞けば今回の我らの出兵、お前が直接陛下に進言したものだそうだが……。ジブリール、今もお前は、俺たちを恨んでいたのだな」
「そうではないの。リカルド……私は今でもあなたを」
リカルド将軍は戦場に立っているかのような怖い顔を崩さず、ジブリールが弱々しく伸ばしてきた細い手を、拒絶した。
「聞きたくない。万が一、生き残った時のために、陛下のご機嫌を損ねる真似は御免被りたい。ははは……。だが、今まで幾度となく俺を救ってくれた強運も、流石にここで潰えるだろう」
「リカルド……。大丈夫よ。あなたは勝って戻ってくるわ」
ジブリールの言葉へ首を横に振ってから、立ち上がった彼は、去り際に捨て台詞を残していく。
「まあ、いい。捨てた女に殺されるのも一興だ。遅かれ早かれ、といった問題でしかないしな。王国が滅び去るなら、何処にも逃げ場は無い。さらば、ジブリール」
「嗚呼、リカルド……。リカルドォ……。久しぶりに話せて、嬉しかった」
ジブリールの震える唇から小さな呟きが儚く零れ落ちたが、それは誰の心にも届かないまま、冷たいせせらぎの飛沫とともに運ばれていった。あの青い花を探した谷での事象の全てを、なぞるかのように。
ハーメルアヌスの下に、リカルド将軍討ち死に、そして、ウフマン・ギュール陥落、という報が連続で届いたのは、それから一週間後のことだった。
あの絶望的な戦況から一週間も堪えてみせたリカルド将軍の手腕は、賞賛されるべきものだ。
しかし、敗戦は敗戦でしかない。敵の軍勢は間も無く、この王都からでも見えるところまで迫ってくるだろう。
ハーメルアヌス王はいよいよ正気を失った。
「リカルド将軍は死んでおらぬっ。彼の青薔薇騎士団は打ち破られておらぬっ」
彼はそう歌いながら、王座の周りを踊り狂っていた。家臣たちの半分は、ヒソヒソと言い合いながら、謁見の間を立ち去っていく。
「心配ないっ。リカルドは生きておるっ。ウフマン・ギュールの戦いは勝ったのだっ。大丈夫だっ」
長く続いた王国が、自分のような若い王が治めている時代に滅び去る。ハーメルアヌスはその事実に堪えられなかったのだ。
その時――
ご乱心中の王も、残った半分の家臣たちも、見たはずだった。
王座の斜め後ろに佇んでいたジブリールの背中から、光り輝く何枚もの翼が湧出してくるのを。
ところが、数瞬後に、目撃者たちは全員それを忘れた。
全ての色が混ざり合わずに、しかし、一つの色となって、沈んでいく。
誰も知覚できないほどの高次元にある美しさ。
ハーメルアヌス王だけは、優しく微笑みかけてきた何かを、確かに見た。
だが、その光景もまた、覚えていられないものだった。
今までにも一度だけではなく、眺めた憶えのあるはずのもの。
しかし、その都度、何故か失われてしまうもの。
そして、どうやらそれに例外は、無いようだ。
天使が、彼の嘘を拾った。
神の奇跡が行使されていく。それは、世界の全てを巻き込んで、あらゆる事象の結果を書き換える力。天使自身ですら、記憶に留めておけるものは、あまり多くない。
ウフマン・ギュールの戦いは、奇跡的に王国の勝利で終わった。リカルド将軍がこれまでにない見事な智謀によって、自軍の数を大きく上回る敵の軍勢を退けたのだ。英雄として凱旋した彼と青薔薇騎士団を、轟く歓声で王都の民たちが迎え入れた。
長らく続いた戦争に、ようやくピリオドが打たれた日だった。
ジブリールだけがただ一人、そんな戦勝ムードの中、王都から姿をくらました。彼女はリカルド将軍の死亡説という虚偽情報の流布で、混乱を煽ろうとした罪により、国家から追われる犯罪者となった。
・・・・・・5・・・・・・
ジブリールは嵐の中で船出する。自らの行先は決めていない、彼女には身寄りも目的も無いのだから。
王国領の南にある半島。その半島の南端となる港町は、言うまでもなく王国領の最南端だ。そこで女だてらに漁師を始めたジブリールが、ようやっと自分の船を持てた日のことだった。王国の追っ手がやってきて、彼女は知人も増えてきたその町に留まれなくなったのだ。
それだけが船出の理由。
「陛下も、そろそろ諦めてくれたらいいのに」
漁で来ることはない遠い海。とっくに地図の外側だ。未知の海域を漂いながら、独り言が増えてきたジブリールは、何気に生命の危機を迎えていた。
陸地が視えない。
強い潮の流れに乗ったらしく、操船が利かない。何処へ運ばれるのだろうか。このまま朽ち果てるまで波に揺られるのだろうか。
その前に、普通でない自分は死ねるのだろうか。それを自ら進んで試したことはない。
「もし普通に死ねたら、困るものね」
自分の存在。その中の半分に、人間の血が脈打っていない場所がある。それは何の意思も無い、ただの不思議な力。
意思のあるはずの自分のほうが、その力に導かれて生きてきたのは、何故なのか。
自分がこうであることに、何かの意味があるのだろうか。
今までに幾度となく自問自答してきた。答えが出た試しは無い。
それをゆっくりと考えるのが、ここ数日の暇つぶし方法だ。何処か分からない洋上。考え事を邪魔する人も物事も、ここには存在しない。流れに棹さすまま妄想を開放していくだけ。
「天のご機嫌も海のご機嫌も、良好。視えるのは、今日もブルーだけ」
何日か前遭遇した十数回目の嵐で、大切にしていた櫛が海に落ちてしまった。それは、傭兵時代のジブリールが髪をバッサリと切った時に、貰った物。驚いた顔のリカルドが、くれた物だ。
「髪は大切にしろ」
と言って、恥ずかしそうに目を逸した彼を、そのぶっきらぼうな優しさを、あの時の全ての光景を、彼女は今でも覚えている。
ジブリールの髪はとても艶やかで、港町でも男連中の目を惹きつけたものだ。今は潮で傷み放題だから、見る影もない。
「もう誰にも見られることは、無いっぽいし、気にはならないけど」
髪どころか命が、どうなるか分からないといった有り様だ。
しかし、ジブリールは今まで感じたこともないほどの、自由な気持ちを謳歌していた。
もともと、幼い頃の彼女は、内気で人嫌いだった。なのに、半分の何かが人の輪の中へと、どんどんいざなっていくのだ。止めようとしても進んでいく足を動かしているのは、己でしか有り得ない。ジブリール自身が、苦手な場所へと、自分の体を運んでいく。そして、決まっていつも、彼女だけが一番の損をするのだ。それに見合う対価は得られず、心は乾いていくばかり。
ジブリールの半分は紛うことなく生々しい人間であり、彼女は無償の愛を振り撒いて廻る超越者ではない。
自分がこっぴどい損をしてもいいと思えるくらい、好きになった人しか、助けない。
ジブリールがそう決めたのは、まだとても幼い頃だった。
「最初は、ビカ、だったかな。ヴィカ、だったっけ。忘れちゃった……お姉ちゃん」
自分に助けられる力があることと、誰かを助けたことだけは、覚えていられる。しかし、ジブリールに助けられた相手は、何も覚えていないし、彼女自身も、どうやって助けたのか、あまりはっきりとは知覚しきれていない。少し時間が経てば、自分は昼の夢に微睡んでいただけなのでは? とさえ思えてくる。
達成感すらも抱きづらく、自己満足で悦に浸る材料にも足りない、とても些細なことになってしまう。
だから、彼女の心は、手放してしまいたほど、ザラザラに、乾いていく。意思の無い半分が、もう半分をも塗り潰していくように。
「だけど、もう、誰も助ける必要は無いわよね」
何故、この半分の何かは、そんな中途半端なことを、一つだけしかできないのか。
「ここには誰も居ないし……」
半分のこれが、半分だから、なのか。
「きっと、もう、誰にも逢えないだろうから」
だったら、自分の全部がこれに染まってしまえば、何かもっと多くのことが、できるのだろうか。
「もう、どうでもいい。一人になって、いっぱい休みたいの」
しかし、いよいよ諦めてしまおうかと目を閉じかけた瞬間、水平線の向こう側に、見たこともない大陸が姿を現す。
ジブリールは助かったのだ。
助かって、しまったのだ。
「はぁ、やれやれね」
彼女はそう溜め息をつき、大陸と帆を交互に見やり、とても嫌そうな顔で腰を上げた。
その大陸は殆どが砂漠と呼ばれる砂の海だった。まるで、ジブリールへの皮肉のように、ザラザラと乾いた大地が延々とどこまでも広がっている。見たこともない光景に燥ぐのも飽きた頃、彼女は大きなオアシスとそれを囲む巨大な都市を発見する。そこは砂の国の都で、治めるのはなんと女の王様という、ジブリールには馴染みの無い文化がある場所だった。彼女はそこの見目麗しい女王と大変よく似ているということで、その影武者を務める羽目になる。女王はジブリールが来たことでしめしめと放浪の旅に出てしまい、その代わりをマヂでしなければならなくなった彼女は、十年以上シワシワになるまで最大限以上努力したものの、流石に嫌気がさして堪えきれなくなり、初めて自分自身のために逃げる、という経験をしたり、他にも、ヤケに多くの恋をしてしまったために、砂嵐の如く散らばっていく沢山の嘘を、ひぃひぃ言いながらいっぱい拾いまくった代わりに、やはり物凄ぉく面倒な目に山ほど遭いまくりまくった結果――
ジブリールは、元居た王国の隣あたりの国に、しかめっ面で戻った。
・・・・・・6・・・・・・
仲間たちに自慢するため、騎士の兜を貰ったと嘘をついた少年が居た。いつも待ち合わせの場所にしている目抜き通りの片隅へ、彼はとぼとぼと歩いて向かっている。もうすぐそこへやってくる仲間たちに、その騎士の兜を見せなければいけないが、貰ってない物は披露できない。
幼い天使が、自らの嘘を拾った。
少年の手に、立派な騎士の兜が現れた。それは唐突に出現したわけではない。彼が三日前に、溺れている娘を助けた際、その父親の騎士からお礼として譲り受けた物だ。
今の瞬間に、そうなったのだ。
周りに居た誰の目にも、不自然な光景は見えていないはずだ。覚えていないはずだ。
兜を両手で掲げて、ほくそ笑んだ少年。仲間たちにそれを自慢すべく、彼が意気揚々と駆け出した、その時――
「いつも、そんなことをしているのかい?」
それは小さな嗄れ声だった。街の賑やかしい喧騒が一番集う通りを、元気よく駆け出した少年には、聴こえるはずもない、小さな小さな声だった。
「その力を、自分のために使っては、いけないよ」
しかし、頭の中に直接聴こえてくるようなその言葉は、彼の足を止めた。声の主は、道端に異国の薄汚れた敷物を広げて蹲る老婆だった。
「それって、どういうことだい?」
少年は老婆の傍に駆け寄って、そう問いかけた。
「その力は、自分に不幸を呼び込むんだよ。なのに、誰も幸せにできないそんな使い方をしたら、勿体ないだろう?」
老婆が普通の声で、少年に言った。
「もしかして、今のが見えたのっ? 覚えてるのっ?」
彼は驚いてそう続けて問うた。その老婆が、自分と同じ存在であると、彼の中に半分のかたちで備わるものが、気づかせたからだ。
「真理を知覚し代行でき得る者が、自分以外に居ることなど、まったく知らなかったのかい?」
「うん、ぜんぜん知らなかったよ。僕だけだと思ってた」
「そうかい。まあ、私も今の今までそう思ってたよ、お前とこうして出逢うまではね。ははは」
老婆はボロボロの衣の中から出したシワシワの指で、少年を差しながら微笑み、続けて言った。
「その力をどう使うべきか、親に教えてもらわなかったのかい?」
「親なんて居ないよ」
「なんとまあ。それも私と同じだね。ははは」
老婆がまた明るく笑う。楽しい話をしているわけじゃない少年は、老婆が呆けてしまっているのだろうかと心配し始める。
「ふぅ~ん? あのさ、僕がまだギリギリ生まれてない時に、戦争があったんだろ? お父さんはウフマン・ギュールってとこで死んだらしいよ。隣国のリカルド将軍ってのに殺されたみたい。お母さんは天国に帰った」
老婆は笑うのをやめた。そして、少年の顔をじっと見つめる。
「そうなのかい……。それはすまなかったね」
「何で謝るの? 誰のせいでもないよ」
それっきり、老婆は何事か考える素振りで、しばらく空を見上げていた。少年もつられて空を見る。特別な存在だからといって、空に何かが視えるわけではない。建物の隙間から観えるのは、いつもと変わらないただの小さな青空だ。
「私が、お前の親代わりになってあげるよ」
唐突に老婆がお喋りを再開して、とんでもないことを宣言した。
「はあ? 別にいいよ。自分だけで生きていけるもん」
「その力を乱暴に使って、だろう? それは駄目だよ。正しい使い方を、私が教えてあげるから」
さっきまでの優しい笑顔に戻った老婆の提案を、少年はそのまま受け止めようとはしなかった。いかにも、婆さんが面倒臭いことを言い始めた! といった嫌そうな顔だ。
「ええっ? うぅ~ん、この力の正しい使い方があるっていうの? でも、お婆さんのようにしたら、僕もお婆さんのように物乞いになっちゃうんじゃないの?」
大人の世話になった経験など皆無の少年。気ままな野良猫のような生き方をしてきた彼には、年配の先人への阿りなどいっさい無かった。
「お婆さんって……失礼だねぇ。私はまだ五十代ギリギリ手前だよ。まあ、物乞いなのは当たってるけどね。ははは」
「五十歳の前なのっ? えぇ~、本当に? お婆さんにしか見えないけど」
老婆はやせ細っていて、どう見ても高齢にしか見えない。ボロボロの服を着ているから、なおさら老いて見えるのもあるだろうが、流石に四十代は言い過ぎだ。嘘をついているんだろうかと、少年は不躾に老婆の顔を覗き込む。本当に言うとおりの年齢だとしたら、いったいどんな苦労を背負ってきたのだろう。
「どうするのが一番いいのか、それは私にも分からないんだよ。確かにお前の言うとおりさ。私はいっぱい失敗してきたから、今こんな格好で道に座ってるのかもしれないね」
それを聞いた少年が、ますます胡散臭そうな顔で老婆を覗う。
「それなら、えっらそうに何かを教えるなんて無理じゃないか」
「うーわあ。ははは。生意気な子だねぇ。でも、それもお前の言うとおりだよ……。ねぇ? じゃあさ? 一緒に考えていこうじゃないか。どういう風にしていくのが、いいのかをさ」
それを聞いた少年は、老婆と同じ笑顔になってコクリと首を縦に振った。
「うん。それならいいよ。対等だもん」
「ははは。やっと交渉成立だね」
「こ、こうしょう、せいり、って、何?」
「読み書きも教えなきゃね。さて、お前の名は何ていうんだい?」
老婆が少年を見上げて眩しそうにそう聞くと、彼は兜を被り格好つけたポーズをとってから、元気よく名乗りを上げた。
「アルだ! でも、誰かに名を訪ねる時は、自分から名乗るもんなんだよっ」
「ははは。お前の言うことはいちいちもっともだね。ごめんごめん。私はジブリールだよ」
「お前じゃなくて、アルだよ! よろしくね、ジブリール」
「ははは。よろしく、アル。まずはその兜をどうするか決めようかね」
「えぇ~……」
・・・・・・7・・・・・・
アブリールという村がある。いつからその村の名がそうなったのかは、誰も知らない。
アブリールには年に一度だけ、嘘をついても無かったことになる、という素敵な日がある。
陽が昇って沈むまでの間に、村人の誰もが一生懸命嘘をつく。そして、それを許し、みんなで笑い合う。そんな素敵で、可笑しな日だ。
やがて、それは噂になり、その素敵な日には多くの観光客がアブリールを訪れるようになった。そして、伝わる昔話を聞くのだ。それは――
嘘を拾う天使と嘘つきの少年の物語。
その天使は、その少年がついた嘘を拾った。
だから、その嘘は天使のものになる。
嘘で無理につくっていた少年の笑顔が、本当の笑顔へと変化していった。
少年は、目の前に居た天使を嘘つきと罵る人々の群れに、そっと加わていく。
もう誰からも、嘘をついたのは、その天使であるようにしか、見えないのだから。
少年にも、天使自身にも、そうとしか思えないのだから。
どんなにみんなを助けても、恨まれて、疎まれる。
天使はやがて、疲れ果ててしまい、嬉しいも、悲しいも、感じられなくなっていく。
哀しい天使は、それでも、いつまでも、人々の嘘を拾い続けた。
天使が唯一できることは、それだけしかなくて、輝く翼も、永遠に滅びないから。
その救いのない話に、どんな意味があるのかは、誰にも分からない。ただ、このアブリールに於いては、その名も分からない天使が、遥かな過去に実在していたと考えられている。
アブリールで暮らす村人たちや、また、この村を訪れその昔話を聞き及んだことがある人々から、もちろんその天使は恨まれてなどいない。愛の化身であるかの如く、思われている。
今年もその日が来たら――
天使が、誰かの嘘を拾う。
そして、代わりに笑顔を落としていくのだから。