第六章 焦燥
「よお、また会ったな桜井」
僕は猛ダッシュで眼前を駆け抜ける桜井雅に声をかけた。
場所は皮肉にも我らがクラス、二年三組の教室の前。別にどのクラスとも大差ない薄汚れた白色を基調とした普通の廊下。
「…………っ!?」
「そんなに驚いた顔をするなよ。別に大した驚きなんかしてないんだろ……案外気付いているんじゃないか? 自分の事を」
桜井の顔からどんどん血の気が引いていく。僕は肩をつかみ、桜井の動きを静止させる。そこまで力を入れていないので、痛いと口に出して言ってしまうレベルではない。流石の僕も年頃の女子に手を上げたりはしないさ。
「……何を……言っているんですか……?」
桜井の肩は小刻みに震えている。それは狼に喰われるという恐怖に慄いている子羊のようである。客観的に僕と桜井の構図を見ると、どう思われるんだろうな。あいにくここには誰もいないけれど――さすがに人の目は気になる。
「ここじゃあまともに話すことができないな。場所を変えようか」
桜井は僕の目を見ようとしない。
いきなり出てきた僕が怖いのか? 違うね、僕にはわかるよ。桜井雅は今自分の中の何かと戦っている筈だ。
『死の捕食者になるよ』
さっき梓がそう言った。梓が言うのだから間違いない。僕は『死の捕食者』のメカニズムをよく理解していないけれど、わかる情報として『死の捕食者』は元人間であるということがある。梓は匂いでわかるらしい。人間の僕にとってはわかりたくもない話だよ。
少しの沈黙を経て――。
「…………わかりました……ついてきて下さい」
おいおい逆じゃないのか、なんてツッコまないけれど何かおかしくないか。僕から言い出したんだぞ。普通僕が案内するものじゃないのか。しかし、ドラゴンボールでは「場所を変えよう」という台詞を受けて「ついてこい」ってなる時もあったからな……いやいやあの世界を引き合いに出すほど僕は非日常慣れしていないだろ!
「わかったよ。で、何処にするんだい?」
「体育倉庫に来てください。そこなら誰もいないので話し易いです」
◆
体育倉庫。
跳び箱やら、マットやら、バスケットボールをはじめとするあらゆる用具でぎゅうぎゅう詰めになっている、そんなある意味ごった煮感のある場所で僕は一人跳び箱に腰かけ座っている。
何故一人なのか――。
僕が教えて欲しいぐらいだよ。「ちょっと待ってて下さい」って言ったきり桜井は出て行きやがった。こんな所に一人でいるとなんだかそわそわしてしまう、まるで告白を待っている男子の気持ちだ。まあ告白なんて生まれてこのかたされた事ないんだけどな。何を自慢げに独白しているんだ僕は。
それにしても桜井が『死の捕食者』になるってどういう事なんだろう。そもそも『死の捕食者』って何なんだ。武器になるから梓とは血契りを交わしたけれど、その辺の事情は僕は一切知らない。『あの人』もそこまでは教えてくれなかった。
「何をやっているんだろうな僕は……全く、滑稽にもほどがあるよ」
独り言を言うしかすることがない。もうすぐ五時間目を告げるチャイムが鳴り響く時間だというのに僕はただの暇人じゃないか。どういう事なんだ誰か教えてくれよ。と考えたところでここには僕一人しかいないんだから、たいした意味は無い。
そもそも僕は桜井に何を言いにきたんだったけ――。
◆
回想。
時間は遡って昼休み。桜井がパンツを気にして猛ダッシュで屋上から出て行った時間。
残された僕は黒猫に思いもよらない話を聞いた。
『死の捕食者になるよ』
桜井雅は『死の捕食者』になると言った。
唐突に。
何の前触れもなしに。
さぞ当たり前のように。
「………………」
言葉が出なかった。何も言えない。気持ちの悪い何かが僕の肺に侵入して暴れているようなそんな気分。桜井が『死の捕食者』? 嘘だろ……なんて言えないくらい唐突で思考が追いついていない。僕はあまりこのような状態には陥らず、常に冷静でいられる自身があるのだが、この時だけは違う。
「何を黙っているんだい? 気持ち悪いな……聞こえなかったのかい? さっきの眼鏡女は『死の捕食者』になるよ、それもすぐにさ」
「すぐって……どれくらいだよ……」
「さあ、そんな事私にもわからないよ。まあしいて言えばあと一時間くらいじゃないかな」
一時間だと。ふざけるなよ。何て突発的な展開なんだ。こんなご都合主義みたいな展開が現実でさも当たり前のように起こるか? もう一回言わせてもらうふざけるなよ。僕はこんな事信じないからな。などと脳内で思考を廻らせていても、埒があかないので――。
「どうやったら……助けられるんだ」
――こう言うしかないだろう。桜井は僕にとっては別にどうでもいい女なのだけれど、見捨てることはできない。
梓は暇そうに欠伸をしながら、僕の問いかけに答える。
「助からないよ。殺すことはできるけど」
「…………そうかよ…………」
望みは根絶された。梓の一言によって。
「でも……何でいきなり『死の捕食者』になるってわかったんだよ。この前学校に来たときも会ったけど、変わったところなんて一つも無かったぞ」
常に変な奴なのだけれど――こんな事をいちいち言うほど僕は空気が読めないわけではない。
「匂うんだよね。同属の匂いって奴かな。『共食いの沢渡』が動いていたからまさかとは思っていたんだけど、こんなに近くにいるとは思わなかったよ」
『共食いの沢渡』。
なぜその名前が出てくるんだ。あいつは梓が殺してもう終わった登場人物じゃなかったのか。と僕が聞く前に梓は続きを喋る。
「沢渡君が動いているって事は『死の捕食者化計画』が進んでいるってことなんだよ。これは『式神』を倒す為の最終手段なんだけど、もう切羽詰まってるみたいだね私たちのボスも」
「何を言っているんだ君は?」
「まあ聞いてくれよ。末端の私には良くわかんないんだけどね、これって言っていいんだったっけ……でも私もう組織から抜けなきゃいけないし……別に君が気にする必要はないんだよ! まあ結果的に君と血契ったからなんだけど。でも君の血が無かったら死んでたんだしね、うーん難しい問題だね……」
と、梓が喋り終わる前に――。
「そうだ! それだ! その手があるじゃないか!!」
僕はつい感情的になってしまった。梓は真っ赤な瞳をまん丸にして驚いている。無理も無いだろう僕はあまり他人にこのような感情的な姿を見せない。
「何を急に声を張り上げているんだい……この私が驚いてしまったじゃないか」
「まあ聞いてくれよ。僕の血を使えば『死の捕食者』になったとしても何とかなるんじゃないか?」
僕は普段の姿とは想像がつかないくらい興奮している。僕の血は『死の捕食者』にとっては色んな意味で有効的なはずだ。もしかしたら人間に戻すことができるかもしれない。そんな淡い期待を抱いてしまう程、今の僕は興奮している。
「無理だね。もう一度言おうか無理なんだよ。もうそれは根本的にね。君の血は『死の捕食者』を救えたとしても、人間は救えないんだよ。それはもう悲しいくらいにね。君にしては薄弱な考えだね、もっと聡明だと思っていたよ。いや、気を悪くすることはないよ。これは一匹の子猫ちゃんの戯言だからね」
考えればわかる事だろう――ましてや僕みたいな人間は考えることしか出来ないのだからもう少し冷静になって、考えてみたらわかっただろうに。
僕の血で救えたのはあくまで『死の捕食者』としての梓であって人間ではない。したがって『死の捕食者』になるであろう桜井を救えるということではない。むしろどのようにして救うのだというのだ馬鹿龍司。
「……ごめん」
謝ることに何の意味があるのか僕にはわからない。そんな事は梓には余計にわからないと思う。このような時僕はどうすればいいのかわからなくなる。でも誰も教えてくれやしない。
「ただ……手が無いこともない……ような気がする事もないかにゃ!」
「…………………」
「どうしたんだい。君の大事な友達は助かるかもしれないんだよ。もっと盛大に喜ぶべきだ。そんな顔私を助けてくれた君には似合わない。君は常に凛々しくあるべきだ。それに私のボケにはツッコむべきだにゃーーーー!!!」
僕は梓が喋り終える前に無意識的に――尻餅をついていた。
失笑するくらい陳腐なリアクション。
でもそれが本心の行動だと僕は思う。
そのまぬけな僕の姿を見ても梓は何も言わない。何だか余計に照れくさいじゃないか、お前こそツッコめよと言いたいくらいだ。恥ずかしいから言わないけれど。
「本当に手があるんだな! 桜井を人間に戻す手が!」
性懲りも無く声を張り上げる僕。精一杯力を込め立ち上がろうとしたその時――梓が声を発した。
――それはもう聞きたくない台詞だった。
◆
「ごめん。お待たせしました……鏡見くん……」
「待っていないと言えば嘘になるけれど、まあいいや。今日のところは許してやる。それに桜井はお得意のギャグを言う気力も無さそうだな……大丈夫か? という定型句ぐらいは言っておいてやるよ」
「うん……ありがとう……余裕は無さそうです」
桜井は、今にも消え入りそうな脆弱な声で応えた。精一杯皮肉一杯に迎えてやったのになんて薄いリアクションなんだ。この感じだといつものように軽快かつコミカルなトークは繰り広げられなさそうなので僕はさっさと本題へと話を切り替える。
「僕の従属となれ桜井雅。それが君にとっての幸せに繋がるのなら」