第一章 黒猫とクラス委員長
「起きろっ!この馬鹿!」
――なんだ……声が聞こえてくる。
僕は確か『 死の捕食者』とかいうわけのわからない少女と出遭って――いやいや、その前に『あの女』と会ったんだったっけな。それで『黒十時』を使って『 死の捕食者』に『デスペル』とかいう呪文を唱えたんだったな。やれやれ、意気消沈したくなるよ、何で僕はこんなとんでも世界で生きなくてはならないんだ。
「だから起きろって言ってんのよ!」
「……痛っ!」
殴られた。目を開けた僕は隣の席に座る女に殴られていた。真っ黒ではなく、薄い茶色が混じっている髪。髪型はボブカット。化粧はしなくても美人であり、今時珍しく、服装は折り目正しく制服を一切改造していない。我らのクラス委員長――柊可憐その人だ。そうだっけな僕は久しぶりに学校へ来ていたんだ。
「あんた……当てられてんのわかってんの?」
「ああ……そうだったのか……で何の授業?」
僕は寝起きで、働かない脳に問い詰めてみたが皆目検討もつかなかった。そもそも学校に来ている前提条件さえもあまり憶えていない。
人間は日々、細胞分裂を繰り返し成長するものなのだが、僕の場合は特別で、記憶を司る脳細胞が弱いため――すぐ物忘れをしてしまう。と、これは冗談。
「…………鏡見…………」
咄嗟に殺気を感じ取った僕は、下げていた頭を反射的に黒板のほうへ向けた。別に問題視するほどの問題ではないけれど、教師という生き物は生徒へ威厳を示したいらしいので、僕は怒られる振りくらいはしてもいいと思う。
僕の予想通り数学の教師、田辺大作は寝ている僕に対してチョークでも投げるかのような剣幕で、顔を真っ赤にしていた。
「……すいません先生。別に僕は先生の授業が面白くないから、寝ていたわけではないですよ。ただの休憩です。高校二年生という中途半端な時期ですけど、結構疲れがたまってるんでよ。やれやれ理解するのは難しいと思いますけれど、どうか理解してください」
「黙れ」
「痛っ!」
「………………」
「………………」
「………………」
「………………」
クラス一同が静まりかえった。それもその筈、本当に僕の頭にチョークが突き刺さったからだ――のうのうと自己談義を満喫していた僕は、数学教師にチョークを投げられた。
クラスメイトは唖然としているが、隣の席に座る柊可憐だけは、眉を顰めオーバーリアクション気味に肩をすくめやれやれという表情を作っていた。やれやれと言いたいのは僕のほうだよ……全くついてないな。
「私の授業が聞きたくなかったらな、出て行ってもいいんだぞ鏡見龍司」
「ご冗談を……聞きたくないとは一言も言ってませんよ。やだなぁ勘違いが激しいんだから、それだから先生は――ぐっ痛っ! 柊、なっ何しやがる!」
「先生ごめんなさい! こいつには後できつく言い聞かせますから、どうかこの場は見逃してください! お願いします!」
――柊可憐は頭を下げた。
僕の代わりに頭を下げた。
何故だ、こんな出来損ないの僕なんかの為に頭を下げたのか――わかっているよそんな事は、柊可憐という女、いや人間はこういうことを平気でする奴なんだ。クラス委員長だかなんだか知らないが、はっきり言って迷惑だ。田辺大作くらいの人間強度なら口論だけで論破できるんだからな。
『キーンコーンカーンカーンコーン』
「ちっ! チャイムが鳴ってしまったか……フン! まあ柊がそこまで言うのなら見逃してやる。鏡見、柊に感謝しておけよ。だが次は無いからな、私の授業では何人たりとも寝かさんからな!」
わざと音が出るように扉を閉めて、退場しやがった。全く、大人だというのになんて子供じみているんだ――そもそも先に手を出した田辺の方が悪いんじゃないのか。体罰教師め。だからと言って訴えるなんて低俗なことはしないけれど、腹が立つ――田辺にだけでなく柊にも。
「おい柊、何で君はいつも僕の邪魔をするんだ。教えてくれ何が目的何だ――」
「にゃん」
「……何が目的なんだ……にゃん? 鏡見こそ何言ってんの?」
「にゃん?」
「にゃん!」
「うわぁぁぁぁ! なっ何だってんだ!」
「キャー!」
「キャー!」
「何だよだだの猫か!」
「驚かせんなよ」
「何それ鏡見のペット?」
「鏡見君大丈夫!」
「あっ危ねぇ……死ぬかと思った」
年甲斐も無く驚いてしまったのには、当然理由があって――鞄の中から勢いよく、黒猫が跳び出してきたのだ。
跳び出した、と一概に言っても、ビックリ箱が開いて、訳のわからん陳腐なお化けが出てきたような驚きではなく――この黒猫は跳び出すついでに、あろうことか僕を攻撃してきたのだ。
僕は咄嗟の判断で、目の前で自分の足を舐める黒猫に蹂躙されずにすんだ……何を僕は冷静に分析しているんだ! 猫に殺されかけただと。普通の市立高校の授業終わりの、休み時間にだぜ。馬鹿げている。馬鹿げすぎているが故に頭は妙に冴えてきた。なるほどこれがゲーム脳という奴か――違うだろ。
「皆落ち着いて! 鏡見は大丈夫だし……もう馬鹿、私今から先生を呼んでくるから、鏡見以外は休み時間にしていいわ。鏡見はこの部屋にいること、皆わかった?」
一瞬にして教室の中に響き渡っていた喧騒は静まり返った。
柊可憐は僕を一瞥し、教室を後にする。何で僕を見たのかはわからないけれど、柊が居なくなったのは好都合だ――僕はあいつが苦手だからね。さあてどうしたものか、教室はざわめきたっていてどうしようもない状態だが、被害を被った僕が一番冷静でいられているなんて皮肉なもんだ――全く、こういうことを浮世離れというのかね。
「中々の冷静っぷりだね。なるほど、なるほど流石は、私を倒した男だということだね」
「?」
「君君、無視はよくないよ。何にもわかんないじゃないか、君がそんな態度をとるんだったら私だってね――それなりの対応をさせて貰うよ」
既視感。
言うところのデジャヴュだ。
僕は以前このような台詞を聞いたことがある。いや――あるも何も、昨日の夜に例の少女から聞いたんだった。
「みゃー!」
「うわぁっ! と、待てって! 痛ぇ……!」
――またしても猫に襲われた。
それに今度は一撃目を踏襲してなのか、フェイントを入れてきやがった。
僕は脊髄反射的に、攻撃された右頬をいぶかしむように見やり、左手で触ったが、案の定真っ赤な血が流れていた。
この猫、一体僕に何の恨みがあるというんだ。やれやれ、折角柊がクラスを大人しくさせたって言うのに、これじゃあまたクラスの連中が騒ぎ出すじゃないか。
「あれ……?」
――どういうことだ。誰一人、叫び声を上げていない? そんなことがあり得るのか?
否。
そんなことが起こりうる訳がない。人間というものは、社会心理学の用語で言うところの『集団心理』が働くはずなのだ。何が起きていなくても、三十人も人間がいれば冷静でいられず、ある種のパニックを起こし騒ぎ出すに決まっている。
「!」
周囲を見渡し僕は気付いてしまった。これは集団心理なんて、学問的なレベルで計れる問題ではないのだ。確認のため後ろも見てみる――全く、冗談じゃないぞ。
クラスの連中は声を出さないことはおろか、瞬きひとつしていない。いや、そんな小さい規模の話ではない。もっと安直に言うのならば――この教室の時間軸は僕を除き止まっている。
「………くそっ!」
これはわかりきっている事で、確認事項みたいなことなのだが――やはり扉は開かない。
そもそも扉を開ける手段がわからない。高校の扉は例にならってスライド式なのでノブを軽くスライドさせるだけで開くのだけれど、ノブが消えているのでスライドさせること事態できない。言うまでもなく窓も同じ。これじゃあ外に出る方法は皆目検討もつかないな。
密室。
やれやれ圧倒的なまでに密室じゃないか。
力押しにもほどがある――これがもし推理小説ならこの時点で壁に投げられてるな。もう驚きやしないが、もうこの部屋には僕を含め人間は一人しかいない。
どのタイミングで消え去ってしまったのかわからないけれど、とにかく居ないのだ。こんな状態に陥った時は、理由なんて頭で考えるだけ無駄だ。将来の為に脳細胞は残しておこうくらいの気位でいいだろう――違うな、脳細胞は細胞分裂することによって成長するんだったな。だったら考えたほうがいいのか。そもそも、残すって考え方の時点で僕は馬鹿まるだしだな。
くだらない案件を脳内で考察していると、その隙かは、わからないのだけれど部屋は真っ白な虚無的空間へと様変わりしていた。
一面真っ白。
壁という一種の境界線が白いため、見ることができず、ここが部屋かどうかさえ怪しいところだ。まるで病院を連想させるような白さだな。やれやれ――。
「もういいんじゃないか? こんな事をして何が楽しいんだ――全く、君はいつもやることが雑だよな、僕じゃなかったらキレてもいいシチュエーションだぞ」
――我慢できずに言ってやった。
正直な話、僕はキレはしていなかったが、うんざりはしていた。
こんな奇妙奇天烈、奇奇怪怪、起承転結、吃驚仰天なことが起こる時は、たいてい『あの女』が関わっている――起承転結は関係ないだろ!
「にゃあ」
――猫?
壁(色が真っ白なので、境目はわからない)が液状に、溶けて朽ちてゆく。
どろどろと、泥のように。
その黒猫は先程とは打って変わって、どこか怯えていて、伏目がちである。
「何だってここで、猫が出てくるんだよ……全く」
なぜか安堵してしまい脳内で考えていたことを、声に出してしまった。猫に伝わるわけがないので全く問題は無いのだけれど。それより『あの女』は関係が無いのか――無かったら無かったでそれは困る。甲斐性無しではあるけれど、僕をここから出す術は心得ているので必要なのである――いやゆる必要悪だ。
「何やってるのって聞きたいのはこっちの方よ――あんたさあ聞いてる? そんな露骨に驚いた顔なんてしなくていいから……私以外こんな超常現象起こせないのわかってんでしょ?」
黒猫の後ろ、少し離れていた――『あの女』が堂々と胸を張り、壁を通り抜けてきた。相手を挑発するような小悪魔的な笑みを浮かべている。
僕は正直驚いてしまい、開いた口が暫くふさがらない。わかってはいても僕は目の前の女が苦手なのだ。
――真っ黒ではなく、薄い茶色が混じっている髪。髪型はボブカット。化粧はしなくても美人であり、服装は厚手の生地で作られたような、真っ黒なローブ。胸元には真紅に光るブローチが掛けられており、年齢は僕と同い年――そう、『あの女』とは、我らのクラス委員長『柊可憐』その人のことである。
「教えてもらおうかしら、この黒猫ちゃんがどうしてここにいるのかをね、鏡見龍司くん」
怒っているようでいて、笑っているそんな調子で柊可憐は言った。
「言っている意味がわからないな我らがクラス委員長。この猫に関しては僕は知らないよ……というより早くここから出してくれないか?」
「嘘が相も変わらず得意のようね。フン! まあいいわ出してあげないんだから」
「出せよ」
「嫌よ」
「そうか……出してください」
「嫌ですわ、オホホホホ」
僕をおちょくるように、口に手を当て貴族の振りをする柊。
猫だったらお前だろ、猫をかぶって学園生活を行っているんだからな。
やれやれ、クラスの連中が知ったらどうなることやら……。こんな性悪女がクラス委員長だと思うと憂鬱でしかたがないよ。
「本当に知らないんだ柊。信じてくれよ。僕の鞄に居たことを僕自身、得心いっていないというのが現状なんだ。と言うより、そもそも猫のことが聞きたくてこの『空間』を作ったのかい?」
「そうよ。何か文句でもあるの? それほど重要なことなの……さっさと吐きなさい。そうね、親切な可憐ちゃんの特別サービスよ、もっとわかり易く言ってあげる――どうして『 死の捕食者』がここにいるの?」
「……うっ!」
――否応が無しに唸ってしまう。やはりこの女を騙し通すことは出来ないのか。やれやれ、僕は視線を黒猫に移す――真っ赤な瞳を爛々と輝かせた猫なんているはずないか。
新種の猫だと言い張ってもいいが、多分意味が無い。やるだけ時間の無駄だろう。あえて陳腐な表現を使わせてもらうと、ばれてはしょうがない――。
「やれ――梓」
「にゃん!」
黒猫こと――梓は駆け出す。
後ろ足に力を溜め、一足跳びで柊との間合いをつめる。
より一層輝きを増した赤き瞳は、素早さゆえ赤い閃光のように見える。
「よっと!」
しかし、柊可憐は一気に距離を詰めてきた、梓の双爪など意にも介さず、軽い調子でそれをかわす。着地後、柊は思案顔を浮かべ、結論にたどり着いたのか口を開く。
「そういう事……あんた馬鹿じゃないの? 昨日あげた『黒十時』を使わずに……いや、違う呪文を唱えて『 死の捕食者』を仲間に引き入れたって運びかしら。陳腐すぎるは、私を裏切るなんてね――低能すぎる。もういっそ自殺したほうがいいんじゃない?」
「……生憎僕は端から裏切りが生じる程、あんたと関係を持った憶えは無いんだけどね。まあいいさ、その考えで大方あってるよ。強いて言うなら僕は噛んでしまったんだ、だからこれは事故みたいなものだな」
僕はシニカルっぽく言ってやった。ここまで言い切ってしまえばもう、後に引き下がるわけにもいかず、僕は梓のほうを見遣る――アイコンタクトだとでも言うのか、目線を合わせた。
梓は小さく頷き、軽く微笑み返す。
さあ戦いを始めよう。