第31話 夢ではなかった言葉
風邪を引いてから二日後。
悠真の体温は、ようやく平熱まで下がった。
頭痛もほとんど消えている。
喉には僅かな違和感が残っているものの、学校へ行くには問題ない程度だった。
ベッドから降り、洗面所で顔を洗う。
鏡に映る顔色も、昨日までと比べればずっといい。
「これなら大丈夫だな」
悠真は制服へ着替えた。
体温も測った。
朝食も食べた。
美咲に確認されても、今日は嘘をつく必要がない。
午前七時十五分。
鞄を持って玄関の扉を開ける。
隣室の前には、美咲が立っていた。
「おはよう、悠――」
そこまで言いかけ、美咲は慌てて口を閉じた。
周囲を見回す。
幸い、廊下には誰もいない。
「おはよう、悠真くん」
今度は小さな声で呼び直した。
「おはよう、美咲」
悠真も名前で返す。
美咲の頬が一瞬で赤くなった。
「まだ慣れないのか?」
「だって、名前で呼ばれると嬉しいから」
「毎回その反応をするつもりか?」
「そのうち慣れると思う」
美咲は恥ずかしそうに目元を緩めた。
しかし、すぐに表情を引き締める。
「本当に学校へ行くの?」
「ああ」
「熱は?」
「三十六度五分」
「いつ測った?」
「着替える前」
「頭は痛くない?」
「大丈夫だ」
「喉は?」
「少し違和感がある程度」
「咳は?」
「ほとんど出ない」
「食欲は?」
「朝食を食べた」
「何を?」
「昨日の雑炊」
「どのくらい?」
「残っていた分を全部」
美咲は悠真の答えを一つずつ確認するように頷いた。
「本当に大丈夫そうだね」
「最初からそう言ってる」
「前にも同じ言葉を聞いたよ」
美咲の眉尻が下がる。
「そのときは三十八度もあったでしょう?」
「今日は体温計を見せてもいい」
「写真は?」
「撮ってない」
「もう一度測る?」
「疑いすぎだ」
悠真が呆れたように言う。
美咲は少し申し訳なさそうに視線を落とした。
「ごめんね。でも、また無理してないか心配で」
「今日は本当に無理してない」
「少しでも具合が悪くなったら言ってね」
「ああ」
「保健室にも行く?」
「必要なら」
「一人で帰らない?」
「ああ」
「約束できる?」
「約束する」
悠真が迷わず答えると、美咲の肩から力が抜けた。
「それならいいよ」
彼女は安心したように微笑んだ。
「でも、今日の球技大会の練習は休んでね」
「それは進藤が決める」
「私から進藤くんに言う」
「なぜ美咲が?」
「悠真くんは頼まれたら練習するでしょう?」
「本番まで時間がないからな」
「駄目」
美咲は悠真の制服の袖をつかんだ。
「熱が下がったばかりなんだから、運動したらまた悪くなるよ」
「少しくらいなら――」
「駄目」
先ほどより強い声だった。
美咲は唇を引き結び、真剣な目で悠真を見上げている。
「……分かった」
悠真が折れる。
美咲の表情が柔らかくなる。
「うん。今日は見学だけにしようね」
「美咲も練習をするんだろ」
「私はするよ」
「寝不足は?」
「昨日は八時間寝た」
「本当か?」
「本当です」
美咲は少し得意そうに胸を張った。
「悠真くんが眠ったあと、自分の部屋へ戻って寝たから」
「そうか」
「今日は元気だよ」
「ならよかった」
悠真が自然に答える。
美咲は少し嬉しそうに目元を細めた。
「やっぱり、私のことも心配してくれてる?」
「ああ」
「もう一度言って」
「何度も言わない」
「私ばかり悠真くんを心配してるみたいで、少し不公平」
「美咲が体調を崩したら、俺も看病する」
美咲の瞳が僅かに大きくなる。
「料理は?」
「おかゆくらいなら、もう作れるかもしれない」
「作ったことないよね?」
「昨日、美咲が作るところを見てた」
「見ただけで作れる?」
「たぶん」
美咲は不安そうに眉を寄せた。
「看病してもらいたいけど、おかゆは少し心配かも」
「なら、体調を崩すな」
「うん。そうする」
二人は並んでエレベーターへ向かった。
◇
教室へ入ると、孝太郎がすぐに悠真のもとへ来た。
「水瀬、もう大丈夫なのか?」
「ああ」
「一昨日、かなり熱があったんだろ?」
「三十八度くらいだ」
「普通に高いじゃん」
孝太郎は悠真の顔を覗き込んだ。
「まだ顔色悪くないか?」
「元からだ」
「そうだったっけ?」
孝太郎は首を傾げる。
「というか、一ノ瀬が一緒に帰ったんだよな?」
「ああ」
「そのあとも看病してくれた?」
悠真が答える前に、美咲が隣へ立った。
「したよ」
「泊まったの?」
「と、泊まってないよ!」
美咲の顔が一気に赤くなる。
「夜まではいたけど、ちゃんと自分の部屋に戻ったから!」
「夜まで二人きりだったのか?」
「水瀬くんは病人だったの」
「それでも何かあったり――」
「ない」
悠真が即答する。
美咲の表情が、ほんの僅かに曇った。
「何もなかったわけではないけど……」
小さな声で呟く。
「何かあったのか?」
孝太郎が目を輝かせる。
「何でもない!」
美咲は慌てて首を横へ振った。
「水瀬くんにご飯を食べてもらっただけ」
「食べさせてもらった」
悠真が訂正する。
美咲の肩が大きく跳ねた。
「水瀬くん!」
「事実だろ」
「事実だけど、言わなくていいの」
美咲は頬を赤くしたまま、悠真の腕を軽く叩いた。
孝太郎が口を開けて二人を見る。
「一ノ瀬に食べさせてもらったの?」
「ああ」
「口に?」
「他にどこから食べるんだ」
「それ、完全に恋人じゃん」
「違うよ!」
美咲が否定する。
その声が思ったより大きく、教室の何人かが振り返った。
美咲はさらに顔を赤くし、俯く。
「病人だったから。自分で食べられなかっただけなの」
「そうなのか、水瀬?」
「一人でも食べられたと思う」
「じゃあ、何で食べさせてもらった?」
「美咲が――」
悠真は名前を口にしかけ、途中で止めた。
学校では名字で呼ぶ約束だ。
「一ノ瀬さんが、そうしたいと言ったから」
「美咲が?」
別の声が聞こえた。
菜月が、三人の会話へ加わっていた。
「食べさせたかったの?」
「菜月ちゃんまで聞かないで」
美咲は両手で顔を隠した。
菜月は楽しそうに笑いながら、その肩を軽く叩く。
「よかったね」
「何が?」
「看病できて」
言葉の表面だけを聞けば、体調を崩した悠真の世話ができたことを指している。
けれど菜月の視線には、別の意味が込められていた。
好きな人のそばにいられてよかった。
そう言われたのだと、美咲には分かった。
「……うん」
美咲は指の隙間から悠真を見た。
「少しだけ」
◇
放課後。
球技大会の参加者が体育館へ集まる。
悠真も体操着へ着替えていたが、練習へ参加するつもりはなかった。
「水瀬」
進藤が近づいてくる。
「体調は?」
「もう問題ない」
「今日は休め」
悠真は少し意外に思い、進藤を見る。
「練習しなくていいのか?」
「一ノ瀬から聞いた。熱が下がったばかりなんだろ」
「本人より先に話したのか」
女子側を見る。
美咲が胸元で両手を合わせ、申し訳なさそうに笑っていた。
「病み上がりを無理に動かして、本番に出られなくなるほうが困る」
進藤は悠真へ練習用の紙を渡した。
「今日は見学しながら、気づいたことを書いてくれ」
「監督役か?」
「選手より向いてると言っただろ」
「俺は出なくてもいいんじゃないか?」
「それは駄目だ」
進藤はすぐに否定した。
「必要な場面で入ってもらう」
「本番で本当に必要ならな」
「ああ」
進藤は短く頷き、練習へ戻った。
悠真はコートの端へ座る。
参加者の動きを見ながら、改善できそうな部分を紙へ書いていった。
「水瀬くん」
女子側から、美咲がやってくる。
「練習は?」
「今は休憩」
「進藤に話したな」
「だって、悠真く――」
美咲は慌てて口を閉じた。
周囲を確認し、声を小さくする。
「水瀬くんが、無理して練習するかもしれないから」
「今日は最初から休むつもりだった」
「本当?」
「ああ」
「それなら、先に言ってよ」
「美咲が話すのが早かった」
学校にいるため、できるだけ小さな声で名前を呼ぶ。
美咲の頬が赤くなる。
「ここでは一ノ瀬さんだよ」
「二人きりに近いだろ」
「他の人に聞かれたら、変に思われるよ」
「嫌か?」
「嫌じゃないけど」
美咲は周囲へ視線を動かした。
誰も二人の会話を聞いていないことを確認し、悠真の隣へ座る。
「もう一回だけ呼んで」
「美咲」
「うん」
美咲は嬉しそうに目元を緩めた。
「何だ?」
「呼んでもらいたかっただけ」
「俺にも呼ばせるのか?」
「今は学校だから駄目」
「不公平だな」
「帰ったら呼ぶから」
美咲は楽しそうに笑った。
その表情を見て、悠真も僅かに口元を緩めた。
「今、笑ったね」
「ああ」
「今日は認めるんだ」
「美咲しか見てないからな」
美咲の瞳が大きくなる。
頬が、ゆっくり赤くなった。
「私しか見てないと、笑ってくれるの?」
「ああ」
「それ、すごく嬉しい」
美咲は胸元へ手を添えた。
「もう一回、笑って」
「それは嫌だ」
「どうして?」
「頼まれて笑うのは違う」
「じゃあ、自然に笑ってくれるまで待つね」
「ああ」
美咲は立ち上がる。
「今日は私が練習してるところを見ててね」
「分かった」
「ちゃんと休みながら」
「はいはい」
「返事は一回」
「分かった」
美咲は満足そうに頷き、女子側のコートへ戻っていった。
◇
その夜。
夕食を終え、美咲が食器を洗っている間に、悠真は弁当箱を洗った。
昨日まで使っていたものとは別の弁当箱だ。悠真が休んでいる間、美咲は新しい弁当を作らなかったため、返すのは今朝受け取った一つだけだった。
洗い終えた弁当箱の水気を拭き、蓋を閉める。
「綺麗になった?」
美咲が隣から覗き込む。
「ああ」
「明日も卵焼きを入れるね」
「唐揚げも」
「今日は唐揚げを作ってないから、明日の朝に揚げないと」
「なら、無理に入れなくていい」
「食べたいんでしょう?」
「美咲が早起きすることになる」
「少しくらい大丈夫」
「寝不足になるなら、卵焼きだけでいい」
美咲は一瞬目を丸くした。
それから、柔らかく微笑む。
「分かった。唐揚げは夕食に作るね」
「ああ」
「心配してくれて、ありがとう」
「病み上がりの人間に心配される美咲も問題だな」
「私は元気だよ」
美咲は両腕を上げ、元気であることを示すように身体を伸ばした。
「ならいい」
二人で食器を片づける。
美咲が帰る準備を始めたところで、悠真が声をかけた。
「美咲」
「何?」
名前を呼ばれ、美咲の表情が柔らかくなる。
「昨日の話だけど」
美咲の指が止まった。
「昨日?」
「俺が眠っているときに、好きだと言ったかもしれない話」
美咲の顔が、一気に赤くなる。
「夢だって言ったでしょう?」
「本当に?」
「うん」
美咲の視線が、すぐに床へ落ちる。
分かりやすい嘘だった。
「それなら、どうして目を逸らす?」
「明日の弁当のことを考えてたの」
「今?」
「うん」
「何を入れる?」
「卵焼きと、野菜と……」
「話を逸らしたな」
「逸らしてないよ」
美咲は赤くなった顔を隠すように、悠真へ背を向けた。
「もう帰るね」
「美咲」
悠真が手首をつかむ。
美咲の身体が止まる。
「少しだけ、聞いてほしい」
「何を?」
美咲は振り返らない。
悠真も、すぐには言葉を続けなかった。
「夢でも、嬉しかった」
美咲の指先が僅かに震える。
「前にも聞いたよ」
「まだ続きがある」
「続き?」
「もし夢ではなかったとしても、嫌じゃない」
美咲がゆっくりと振り返る。
驚きに見開かれた瞳が、悠真を映していた。
「本当に?」
「ああ」
「私が悠真くんを好きでも?」
今度は、美咲も誤魔化さなかった。
告白ではない。
仮定の形。
それでも胸の奥へ隠してきた気持ちを、少しだけ差し出した。
「嫌じゃない」
悠真は真っすぐ美咲を見る。
「むしろ、嬉しいと思う」
美咲の瞳が潤んだ。
「それなら――」
唇が、告白の言葉を作ろうとする。
けれど、美咲は直前で止めた。
「やっぱり、今日は言わない」
「どうして?」
「病み上がりだから」
美咲は泣きそうな顔で、柔らかく笑った。
「元気な悠真くんに、ちゃんと聞いてほしいから」
「もう元気だ」
「今日まで病人です」
「美咲が決めるのか?」
「看病した私が決めます」
美咲は悠真の手へ、自分の手を重ねた。
「だから、それまで待っていてくれる?」
「いつまで?」
「私が勇気を出せるまで」
「分かった」
「本当に?」
「ああ。待ってる」
悠真は美咲の手を握った。
美咲も、指と指を絡める。
「約束だよ」
「ああ」
二人とも、互いの気持ちに気づき始めていた。
それでも、まだ明確な言葉にはしない。
あと少しだけ。
今の距離を大切にしながら、その先へ進むために。
読んでくださってありがとうございます。
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