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アルファの見た夢 〜知りえぬもののための観測録〜  作者: しましまましま


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第1話 最初の観測

 鏡の向こうのわたしは、微笑んでいた。

 こちら側のわたしが、笑っていないのに。

 気づいた瞬間、背筋を冷たいものが走った。わたしは一歩後ずさり、それから意識して落ち着きを取り戻した。

 この施設で働く者は、そういう訓練を受けている。得体の知れぬものを前にして、取り乱さぬこと。観察を続けること。そして、記録すること。

 わたしは管理人である。ツナミ製薬日本支社、第七管理区画。個人コードは「クスィー」。職階はR-M。中位管理職であり、この施設の管理責任者である。

 つまりこれは、わたしの仕事だった。


 第七管理区画に赴任して、二週間が経っていた。

 関東地方の北部、山間部の奥深く。最寄りの町から車で一時間以上かかる場所にあるその施設は、表向きは「製薬研究所」という看板を掲げている。しかし実際には、地下七層にわたる収蔵庫アーカイヴである。

 収蔵庫アーカイヴ――それは、現代科学では説明できぬものたちを収容する場所の総称だった。

 我々はそれらを「存在エグジスタンス」と呼ぶ。

 姿形も、能力も、実体の有無すら一定しない。ただ、確かに「ある」ものたち。わたしの仕事はそれらを観察し、記録し、管理することだ。世界の裂け目から漏れ出してきたそれらを、静かに、丁寧に、収蔵庫の中に収めること。

 そして今日わたしは第三層の休憩室に立ち、一枚の鏡を見つめていた。


「クスィーさん、お茶を淹れました」


 背後から声がして、わたしは振り返った。

 銀に近い淡い色の髪をした少女が、湯呑みを載せた盆を手にして立っていた。黒いメイド服に白いエプロン、きちんと整えられた髪。瞳は淡い青紫。童顔で、どう見ても一〇代後半にしか見えない。


 ベータ。


 個人コード「ベータ」、職階R-B、上級補佐官。わたしの仕事を補佐してくれる、この施設で最も頼りになる人物だった。

 在籍年数ではベータの方がずっと長い。本来なら、彼女の方が先輩として扱われるべきなのだろう。しかし彼女は決してそう振る舞わず、常に丁寧な敬語でわたしに接してくる。


「ありがとうございます、ベータさん。でも、今は仕事中ですから」

「お仕事中こそ、水分補給が大切でございます。クスィーさんは、お疲れになると倒れられますから」


 彼女はにこりと微笑み、盆を近くの机に置いた。


「それに、この鏡を前に長時間立ち続けるのは、よろしくないかと存じます」


 その言葉に、わたしは少しだけ驚いた。


「どういう意味ですか」

「鏡というものは、見つめすぎると、見つめ返してくるものでございますから」


 ベータは鏡に視線を向けた。その瞳が一瞬、何か遠くのものを見つめているような、そんな色合いを帯びた気がした。しかしすぐに、彼女はいつもの柔らかな微笑みに戻った。


「お茶、冷めないうちにどうぞ」


 わたしは頷いた。ベータの淹れる茶はいつも、絶妙にぬるい。わたしが熱いものを苦手としていることを、彼女はよく知っているのだった。


 報告書が上がってきたのは、三日前のことだった。

 第三層の休憩室に設置された鏡に、異常があるという。正確に言えば鏡を使用した社員たちから、奇妙な報告が相次いでいた。


「身支度を整えようと鏡を覗いたら、自分の姿が二秒ほど遅れて動いた気がした」

「鏡の中の部屋の様子が、なぜか見慣れぬものに思えた。気のせいかもしれないが」

「鏡を見ていたら、見たはずのない過去のことを急に思い出した。そして数分後には、それを忘れてしまっていた」


 どれも、単独では気のせいで済まされる程度の報告だった。しかしそのような「気のせい」がこの施設で複数件報告されたなら、それはもう「気のせい」ではない。

 わたしは部下の調査班に鏡の基礎調査を依頼し、その結果を踏まえて今日、ベータと共に現地検分に入ったのだった。


「記録を読み上げますね」


 ベータは手元の書類を開いた。


「報告者は計七名。全員が第三層勤務の一般社員。症状は、軽度の記憶錯誤。医務室での検査では身体的な異常なし。自覚症状も、一両日で自然に消失しています」

「七名とも、この休憩室の鏡を使用していた」

「はい。他の階の休憩室の鏡では、同様の報告は上がっておりません」


 わたしは鏡を改めて観察した。

 高さ一メートル半ほどの、ごく普通の姿見である。木製の枠には飾り気がなく、製薬研究所の休憩室にありそうな実用本位のものだった。鏡面にも、曇りも汚れもない。

 しかし、何かが、確かにおかしい。


「ベータさん」

「はい」

「ここに立って、鏡を見てください」


 彼女は頷いて、わたしと入れ替わりに鏡の前に立った。わたしは少し離れて、鏡とベータの両方が視界に入る位置に移動した。

 鏡の中のベータは、現実のベータと同じように静かに立っていた。表情も、姿勢も、完全に一致している。


 ――はずだった。


 わたしは気づいた。鏡の中のベータがほんの一瞬、こちら側の彼女より先に瞬きをしていた。


「……いま、鏡の中のあなたが、先に瞬きをしました」

「そうでございますか」


 ベータは動じなかった。むしろそのことを予期していたかのような、静かな声だった。


「クスィーさんから見て、何度ほど先に?」

「コンマ数秒、というところでしょうか」

「鏡の中では、時間の流れが微妙に異なっているのかもしれませんね」


 わたしはそう呟きながら、記録用のノートを取り出した。電子機器は、存在を相手にする業務では往々にして役に立たない。わたしは手書きのメモを好む。


「時間の微細なずれ。そして、記憶錯誤。この二つの現象に、相関はあるのでしょうか」

「記憶とは、時間の積み重ねでございますから」


 ベータは鏡から目を離さずに答えた。


「時間がずれれば記憶もまた、少しずつずれるのではないでしょうか」


 彼女の言葉には、不思議な説得力があった。それはまるで、自分自身の経験から語られたもののように聞こえた。

 わたしはその印象を、あえて胸の奥に留めた。


 その日の夕刻、わたしは自室に戻り改めて鏡の調査記録を読み返していた。

 第七管理区画の管理人用居室は、質素だが居心地のいい部屋だった。小さな書斎机と、読みさしの古書が積まれた棚。淹れたての珈琲のにおい。窓の外では、山の夜が静かに深まっていた。

 机の上には、現時点までに記録された異常の一覧が並んでいた。


 一件目。一月二日、午前一〇時頃。報告者A。「鏡の中の自分の動きが、一瞬遅れた気がした」。

 二件目。一月五日、午後三時頃。報告者B。「鏡の中の部屋が、何か違って見えた。何がどう違うのかは、はっきりしない」。

 三件目。一月七日、午前八時頃。報告者C。「鏡を見た後、見知らぬ人の名前を急に思い出した。しかしそれが誰なのかは、わからなかった」。

 四件目――。


 わたしはペンを取り、気になった点に印をつけていった。


 「鏡の中の部屋が、何か違って見えた」――この報告が気になる。鏡に映るのは、休憩室の内部のはずだ。家具の配置も、壁の色も、照明の位置も、現実のそれと同じはずだった。だがもし、鏡の中の部屋が現実とは「微妙に違う」のだとしたら。

 それはもう、単なる反射像ではない。

 わたしはペンを止めた。

 鏡の中の部屋は、別の部屋である。

 そう仮定すれば時間のずれも、記憶錯誤も、説明がつきやすくなる。鏡の中に「もう一つの休憩室」があり、そこには「もう一人の、見ているはずの人物」がいる。彼らはこちらを映しているのではなく、こちらを観察している。


 ――観察している?


 わたしは自分の思考に、少しだけ背筋を冷たくした。

 観察しているとすれば、それは、誰を。

 わたしは窓の外に目をやった。山の夜は、黒々と静かだった。


 翌朝、わたしは再び休憩室に向かった。

 ベータも同行していた。今回は、実験的な検分を行う予定だった。鏡の前で、意図的に特定の行動をとり、鏡の中の像がどう反応するか――あるいは反応しないか――を確認する。


「では、クスィーさん。まずは、右手を挙げてくださいませ」


 ベータは記録係として、少し離れた場所でノートを構えていた。

 わたしは鏡の前に立ち、ゆっくりと右手を挙げた。

 鏡の中のわたしも、右手を挙げた。ほぼ同時、しかし、先ほど彼女で観察した通り、わずかに先んじていた気がした。


「ずれは、確認できますか」

「クスィーさんが動き出すよりコンマ数秒ほど早く、鏡の中のクスィーさんが動き始めていらっしゃいます」


 ベータは淡々と記録した。


「続いて、笑ってみてください」

「笑う?」

「はい。何か楽しいことを思い出して、微笑んでみてくださいませ」


 わたしは少し戸惑いながらも、頷いた。楽しいことを、思い出す。珈琲を淹れる朝。ベータと交わすささやかな会話。古書店で掘り出した、革装の一冊。わたしは少し、口元を緩めた。

 鏡の中のわたしも、口元を緩めていた。

 しかし――それは、本当に「同じ」微笑みだっただろうか。


「ベータさん。いま、鏡の中のわたしは、わたしと同じ顔をしていましたか」


 ベータは、ノートから顔を上げた。


「……同じではありませんでした」

「どう違いましたか」

「鏡の中のクスィーさんは、少し、哀しそうでいらっしゃいました」


 わたしは、鏡の中の自分を見つめた。

 いま、彼はもう微笑んでいなかった。ただ、こちらをじっと見つめていた。

 わたしの鼓動が、少しだけ速くなった。しかし、わたしはその動揺を鏡の中に映さぬよう努めた。もし本当に鏡の中のわたしがこちら側を観察しているのなら、動揺を悟られることは好ましくない。

 わたしは冷静な声で、ベータに告げた。


「……この存在は、単なる時間のずれや記憶錯誤を起こすだけの対象ではないかもしれません」

「そうでございますね」

「鏡の中の世界には、もう一人のわたしたちが存在しているのかもしれません」


 その日の午後、わたしは日本支社に緊急の上申を提出し、対象に仮の存在コードを付与した。


「TP-0451-B-E『鏡ごしの客人』」


 危険度B(中)。分類E(実体を持つ)。対象は、第三層休憩室に設置された姿見型の鏡面一点。鏡面に映る世界は現実と酷似するが、微細な差異が存在する。鏡面越しの「もう一人」は、観察者に対して、観察行為を返している可能性がある。

 申請は即日受理された。ツナミ製薬の存在登録は、案件の緊急性に応じて驚くほど速く処理される。世界の裂け目を閉じる仕事に、官僚的な遅延は許されない。

 コードを付与した後、わたしはベータと共に改めて対策会議を開いた。


「接触の影響が、一両日で消失しているのは幸いでございますね」


 ベータが茶を淹れながら言った。わたしたちは第一層の会議室にいた。


「ええ。ただ、『消失している』と報告されているだけで、本当に完全に消えているのかは、わからない」

「記憶錯誤の特徴を考えれば、被害者は『忘れた』ことすら忘れている可能性がございます」


 鋭い指摘だった。わたしは頷いた。


「症例七名の追跡調査を続けましょう。それと当面、この鏡の使用を全面禁止します。封印処置を施し、第三層の休憩室そのものを閉鎖します」

「承知いたしました」


 ベータは書類に素早くメモを取った。


「それから、もう一つ」


 わたしは少し、言葉を選んだ。


「……鏡の中の『もう一人』がどのような条件下で、どのような行動を取るのか。これを、もう少し観察する必要があります」

「観察なさるのは、クスィーさんでございますか」

「ええ」

「それは、危険ではございませんか」


 ベータの声が一瞬、柔らかさの奥に鋭いものを帯びた。


「クスィーさん。この種の存在は、観察者を取り込むことがございます。鏡の中の『もう一人』が、こちら側の方と入れ替わるという事例を、わたくしは知っております」


 わたしは彼女を見つめた。


「事例を、知っている?」


 ベータはわずかに言い淀んだ。それは、ほんの一瞬のことだった。


「過去の記録で、読んだことがございます」

「……そうですか」


 わたしはそれ以上、問わなかった。ベータの過去のことを深く聞くのは、この施設では一種の暗黙のタブーであると、わたしは感じていた。彼女自身、過去の記憶を持たないことを、折に触れてさりげなく語っていたからだった。


「しかし、観察は必要です」


 わたしは続けた。


「わたしは、一人では観察しません。ベータさんに、必ず立ち会っていただきます。もし何か異常があれば、即座にわたしを鏡から引き離してください」

「承知いたしました」


 ベータは小さく頷いた。そしてもう一度、静かに付け加えた。


「決して、鏡の中の方に、応じてはなりません」


 観察は、翌日から始まった。

 わたしは休憩室に入り、鏡の前に立つ。ベータは部屋の出入り口で、わたしの行動を監視する。記録用の時計を携え、一分ごとに時刻を読み上げる。

 最初の三〇分、何も起こらなかった。

 鏡の中のわたしは、こちら側のわたしとほぼ同じ動きをしていた。微細なずれはあるものの、特筆すべき異常は見られない。

 四〇分を過ぎた頃、変化が起こった。

 鏡の中の「わたし」が、ふいにこちら側のわたしに向かって、口を動かした。

 音はなかった。しかし唇の動きから、わたしは一つの言葉を読み取った。


 ――こんにちは。


 わたしは凍りついた。

 こちら側のわたしは、一言も発していない。

 ベータがすぐにわたしのそばに駆け寄ってきた。


「クスィーさん、どうなさいました」

「鏡の中の『わたし』が、こちらに向かって話しかけてきました」

「……何と仰いましたか」

「『こんにちは』と」


 ベータの表情が、硬くなった。


「応じてはなりませんと、申し上げました」

「ええ。応じてはいません」

「よろしゅうございました」


 彼女は心の底から安堵した様子で、息を吐いた。そしてすぐに記録用のノートを開いた。


「『こんにちは』……これは、存在の能動的な意思表示でございます。単なる像ではなく、明確な人格、あるいは人格に類する何かを鏡の中の存在は有している可能性が、これで確認されました」

「ええ」


 わたしは鏡の中を見た。


 鏡の中の「わたし」は、もう口を動かしていなかった。ただこちらを、じっと見つめていた。その目は――わたしの目と全く同じ色をしているはずだった。

 同じはずだったのだが。

 その目はわたしのものより、少しだけ、哀しかった。


 観察を打ち切ろうとした時のことだった。

 ベータがふと、鏡の方を見た。

 わたしは彼女の視線を追った。

 ベータも鏡に映っていた。メイド服姿の銀色の髪の少女。こちら側の彼女と全く同じ姿だった。

 だが、わたしは気づいた。

 鏡の中のベータは、こちら側のベータと全く違う姿をしていた。

 いや、姿形は同じだった。しかし、鏡の中に映っているベータは、こちらを見ていなかった。鏡の中のベータは、その鏡のさらに奥のどこか遠くを見つめていた。

 そしてその瞳の色は、淡い青紫ではなく、金色だった。

 わたしは息を呑んだ。


「ベータさん」

「はい」

「鏡の中のあなたは、いま、あなたとは違う姿をしています」


 ベータはゆっくりと、鏡に目をやった。そしてすぐに、視線を逸らした。


「見えますでしょうか、クスィーさんには」

「ええ。見えます」

「それはおそらく、わたくしが、忘れてしまったわたくしなのでございましょう」


 その声は、静かだった。しかし、静かすぎてかえって奥に何かを押し殺しているような、そんな響きがあった。

 彼女はもう一度、鏡に目をやった。今度は、目を逸らさなかった。


「あなたは、だあれ?」


 ベータが鏡の中の自分に、尋ねた。

 鏡の中のベータは答えなかった。ただ、微かに、微笑んだ気がした。

 そしてその微笑みは――少し、哀しかった。


 わたしたちはその日、観察を終えた。

 鏡にはその日のうちに封印処置が施された。特殊な黒布で覆い、休憩室の扉には閉鎖の札が掛けられた。第三層の社員たちには、別の階の休憩室を使うよう指示を出した。


 夕方、わたしは自室で報告書を書いていた。

 ペンの動きは重かった。

 鏡の中の「もう一人のわたし」のことは、事実として記せる。「こんにちは」と口を動かしたこと。哀しそうな目をしていたこと。微細な時間のずれ。記憶錯誤との関連性。これらはすべて、冷静に観察された事実として、報告書に記録できる。

 しかし、鏡の中の「もう一人のベータ」のことは――わたしはペンを止めた。

 彼女の、金色の瞳のことを。

 彼女自身が、「忘れてしまったわたくし」と呼んだ、その姿のことを。

 わたしはそれをどう書くべきか、迷った。

 ベータの過去については、わたしは何も知らない。いや、正確に言えば、彼女がある時期から記憶を失っているということを、本人から聞いたことがあるだけだった。それ以上のことは彼女も語らないし、わたしも聞かない。

 だが、鏡は彼女の「失ったわたくし」を映した。

 それは、ベータが「かつて、誰かであった」ことを示している。

 そして、その「誰か」は、現在のベータとは少し違う姿をしていた。

 わたしはしばらく迷った後、ペンを動かし始めた。報告書には、鏡の中のベータについては最低限の記録に留めることにした。


『観察中、補佐官ベータも鏡面に映ったが、その像は現実のベータと微細な差異を呈した。詳細は別途、機密記録として保管する』


 それだけを書いて、わたしはその一文に二重線を引いた。そして結局、この一文そのものを報告書からは削除した。

 代わりに、私的なノートを開いた。これはわたし個人の記録であり、組織には提出しないものだった。そこに、わたしは小さな文字で書いた。


『鏡の中のベータさんは、金色の瞳をしていた。彼女は、それを「忘れてしまったわたくし」と呼んだ』


 ペンを置いて、わたしは目を閉じた。

 ベータは、誰だったのだろう。

 この問いは、わたしの仕事の範囲を超えている。

 しかし、問い自体はもう、わたしの中に、確かに生まれてしまっていた。

 報告書の末尾を、わたしはこう締めた。


『事案番号 TP-0451-B-E 「鏡ごしの客人」 管理状況報告』

『対象: 第七管理区画・第三層休憩室に設置された姿見型鏡面』

『特性:鏡面越しに、現実とは微細に異なる世界が存在する。鏡面越しの「もう一人」は、観察者に対して人格的な反応を示す可能性がある』

『処置:鏡面を封印、休憩室を閉鎖。今後の観察は、管理人立ち合いのもとに限り許可する。封印解除の条件は未定』

『殉職者・重傷者:なし』

『特記事項:』


  本件を通じて、我々は一つの事実を確認した。鏡の中の彼らもまた、我々を観察していた。

  観察することは、観察されることでもある。

  それは、管理人の職務を長く勤めるうちに、誰しもがいつか直面する真理なのかもしれない。

  我々はそれでも、観察を続ける。記録を続ける。それが、管理人の仕事であるからだ。


『報告者: 個人コード・クスィー(R-M)』


 報告書を提出した夜、わたしは自室で珈琲を淹れていた。

 猫舌のわたしには熱すぎる湯気を、しばらく見つめていた。

 扉がノックされた。


「クスィーさん、起きていらっしゃいますか」


 ベータの声だった。


「どうぞ」


 扉が開いてベータが入ってきた。メイド服姿のまま、お盆に湯呑みを載せて。


「お茶をお持ちしました」

「ありがとうございます。珈琲を淹れていたところだったのですが」

「クスィーさんは、珈琲は熱すぎると仰いますから。わたくしのお茶の方が、ちょうどよろしいかと」


 彼女はそう言いながら、机の上にそっと湯呑みを置いた。

 わたしは礼を言い、一口含んだ。絶妙にぬるく、しかし香りは立っていた。

 ベータは窓辺に立ち、山の夜を見つめた。


「今日は、お疲れ様でございました」

「あなたもです、ベータさん」


 彼女は静かに微笑んだ。


「クスィーさん。一つ、お願いがございます」

「なんでしょう」

「鏡の中のわたくしのことは、お忘れくださいませ」


 わたしは、ベータを見た。

 彼女は、山の方を見たまま続けた。


「あれはもう、わたくしではございません。忘れてしまった、と申し上げたのはそういう意味でございます。わたくしは、今のわたくしで充分に幸せでございます」

「幸せ、ですか」

「はい。クスィーさんという優しい上司がいて、お茶を淹れる毎日がある。それで充分でございます」


 彼女の声は穏やかだった。しかしその穏やかさは、何かを抑え込んだ上で保たれている、そのような穏やかさだった。

 わたしは頷いた。


「……わかりました。忘れる、とは約束できません。わたしは観察者ですから、見たものを忘れることは職業的にできません」

「はい」

「しかし、口にはしません。記録にも、残しません。あれは、あなただけのものです」


 ベータは振り向いた。そして、深く、静かに、頭を下げた。


「ありがとうございます」


 それは、わたしが初めて聞いた、彼女の「敬語の外側」の声だった気がした。


 その夜、わたしは長く眠れなかった。

 鏡の中のわたしが哀しそうな顔をしていた、そのことを考えていた。

 なぜ、彼は哀しかったのだろう。

 鏡の中の世界で、彼はわたしと同じような日々を過ごしているのだろうか。彼にも、ベータのような補佐官がいるのだろうか。彼女はやはり、メイド服なのだろうか。

 そして、彼の見ている世界で、わたしは――こちら側のわたしは――彼にとって、どんな存在なのだろう。

 彼は、わたしを見て、何を思ったのだろう。

 思考は、いつまでもめぐった。

 結局、わたしは眠ることを諦め、机に向かった。私的なノートを開き、ペンを取った。


『本日、第七管理区画第三層の鏡において、TP-0451-B-E「鏡ごしの客人」を観察した。鏡の中には、わたしたちの姿とほぼ同一の「もう一人」が存在し、人格的な反応を示した。


しかし、最も印象深かったのは、鏡の中のベータさんであった。彼女は、こちら側の彼女とは異なる姿をしていた。金色の瞳をしていた。彼女自身は「忘れてしまったわたくし」と呼んだ。


ベータさんは、誰だったのだろう』


 わたしはペンを止めた。

 窓の外では、山の夜が静かに深まっていた。


『もしかしたら、この問いはいつか、わたしにとっての本当の仕事になるかもしれない』


 そう書き終えて、わたしはノートを閉じた。

 珈琲はもう、冷めていた。

 わたしはそれをゆっくりと、一口で飲み干した。


『事案番号 TP-0451-B-E の初期観察報告、以上をもって終了する』

『次の報告は明日、また別の存在について行われる予定である』

『第七管理区画の業務は、今日もまた、明日へと続いていく』

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