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銀の松風、朱の早瀬  作者: 帆波
幕間 毒と口直し
18/21

朱の瑕(きず)

二畳半という極小の空間において、静寂はもはや「音がない状態」ではなかった。それは、そこに座す二人の男の精神を剥き出しにするための、重く鋭い物理的な圧力であった。

 サ、サ、サ、サ……。

 氏郷が振る茶筅の音だけが、規則正しく、かつ非情なまでに安定したリズムで室内に響く。氏郷はその手元に意識を集中させながらも、背後に座す直政の気配を、皮膚の感覚で克明に捉えていた。

 直政は動いていない。微動だにせず、主君・家康から託された「客としての作法」を全うしようと、その身を固く強張らせている。だが、その静止は死水のそれではなく、煮え立つ熱湯を無理やり厚い氷の下に閉じ込めたかのような、危うい均衡の上に成り立っていた。

(……不自由な男だ)

 氏郷は心の中で独白する。直政が押し殺しているのは、単なる怒りではない。それは、石川数正の出奔という、彼自身の清廉な「正義」では決して計ることのできない、不条理な現実への激しい拒絶反応であった。

 ふと、氏郷は点前を止めることなく、自身の過去の記憶を紐解いた。

 かつての自分もまた、織田信長公という「極星」を絶対の指針とし、そのあまりに鋭い光に目を焼かれていた。天の頂で不動の輝きを放つ極星だけが真理であり、その光が照らし出さぬ暗がりに潜むものは、すべて無価値な澱みとして切り捨てて当然だと信じて疑わなかった。

『忠三郎、お前の目はあまりに清すぎる。清すぎて、他人の泥が見えておらぬ』

 かつて父・賢秀にそう諭された時の、苦い記憶が蘇る。若き日の氏郷は、父の言葉を「古い時代の者の迷い」として鼻で笑った。極星が示す合理の前に、情緒や迷いなど無価値だと切り捨てたのだ。だが、合理の化身として他者を裁き続けた先に待っていたのは、誰とも共有できぬ冷徹な孤独だけであった。

 他者の弱さを許せぬ「正義」がいかに人を孤立させ、組織を内側から焼き尽くすか。氏郷はその重みを、誰よりも深く知っていた。

 氏郷は、静かに口を開いた。

「直政殿、貴殿は彼を『裏切り者』として斬り捨てられました。ですが、果たして石川殿は、単なる『裏切り者』なのでしょうか?」

 あえて直政の急所を突く問い。直政の拳が膝の上で微かに震えるのを、氏郷は気配で察知する。直政は「これ以上の考察が何になりましょう」と、揺るぎない確信を言葉にした。だが、氏郷はその確信を、まるで茶の泡を整えるかのように、淡々と崩しにかかる。

「それは貴殿の美学であり、石川殿の美学ではないのではありませんか?」

 直政の「正義」を、一介の「美学」――すなわち、独善的な嗜好に過ぎないと断ずる。絶句する直政を追い詰めるように、氏郷は「風」の理を説いた。人にはそれぞれ生きるための風があり、吹き方が異なるだけで悪と断ずるのは早計である、と。

 茶筅を振る手が、ふと止まる。その人為的な静止が、直政の心臓を一瞬凍りつかせたことを、氏郷は愉悦を込めて観測した。

「ただ敵を斬るだけならば、獣と変わりませぬ。武将が真に強くなるには、敵が『なぜその道を選んだのか』という、自分とは異なる論理を掌握せねばならぬのです」

 氏郷は問いを重ねる。もし石川数正に、汚泥を被ってでも徳川を存続させるという彼なりの「守り方」があったのだとしたら。それを理解しようと試みたか、と。

 直政の沈黙が深まる。さらに、氏郷は非情な手際で、話題を数正という「他者」から直政自身の足元へと摺り替えていく。

「……石川殿という外の風に対し、貴殿はそれほどまでに怒りを抱かれる。ならば、日夜、貴殿の傍らにあり、貴殿の風を一身に受けて疲弊しているであろう……部下の者たちの『風』は、いかがでしょうか?」

 その瞬間、直政の背中から立ち昇る気配が、凍りついたように静まった。

 数正という「他者」を断罪していたはずの直政が、今、自分自身の放つ苛烈な風に焼き尽くされている配下たちの苦悶を、氏郷の言葉によって突きつけられたのだ。直政の背筋が、一筋の冷たい戦慄に貫かれるのを、氏郷は背後で見守る。

「貴殿はご自身の風を、配下たちに無理やり吹きつけてはおりませぬか? 誰もが貴殿と同じ重さの覚悟を背容れるとは限りませぬ。……己と他人は、生きている土壌も、呼吸する風も違うのです」

 直政は絶句していた。先ほどまでの「不自由な静止」は消え、そこにあるのは、拠り所にしていた完璧な正義という鎧が剥がれ落ち、自らの傲慢という傷口を晒された無防備な魂の震えである。

 氏郷は、直政が自分の「絶対的基準」という名の毒で部下を疲弊させていた予感に、心臓を抉られている様を静かに賞玩した。

(……それでよい。その抉られた痛みが、貴殿の器を広げる種となる)

 氏郷は茶筅を置き、静かに柄杓を取った。

 直政の瞳に宿る暗朱の光が、激しい迷いによって明滅している。それは、磨き甲斐のある「原石」が、初めて自身の傷に気づいた瞬間であった。

 氏郷の投げかけた言葉は、戦場の刃よりも鋭く直政の魂を穿っていた。彼を「清濁併せ呑む将」へと至らせるための、一撃は完了した。

 氏郷は、満足げに手元を見つめる。揺らぎ始めたこの「朱」を、次にどう導くか。鑑定の真髄は、まだ続く。


中々時間が取れず、暫く空いての投稿となります。

ipod classicの修理に熱中しておりました…

皆さんもやりたいこと・やらないといけないことがあるのに他のことに熱中してしまうことありませんか?

それも受け入れるのが本内容にもある美学でしょうか?

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