アイネクライネナハトムジーク ~それは小さな夜の音楽~
「ん?」
仕事が終え、医局に戻ろうと階段を降りていた僕は、何か音色のようなものがかすかに聞こえたような気がして、足を止めた。
時間は夜の九時を過ぎている。
ここは入院病棟ではないのでテレビの音が漏れ聞こえてくるような場所ではないし、今降りてきた中で、階段近辺に人がいた気配も感じなかった。そもそもこの階段自体、この時間帯は人通りは多くない。なぜならこの先には外来病棟へ続く廊下しかないからだ。
「気のせいかな」
そう思った僕は再び足を動かし、一階に到着した。すると気のせいと思ったその音色ははっきり聞こえ、音の出所は廊下の先だと分かった。
「ロビーか? なぜこんな時間に。もしかして慰問演奏のリハーサルでもやっているのかな」
普段の僕ならこんなことは気にならない。
なのになぜか今日は気になってしまい、僕はロビーへ足を向けた。
近づくにつれはっきりとしてきたその弦楽器の低音の音色は美しく、その音色はどこかで聴いた事がある曲を奏でていた。どんな人が演奏しているのか気になった僕は、足音に注意しながらその音色に向かって足を進めた。
しばらくして到着したロビーはオレンジ色の薄暗い照明しかついておらず、事務員も警備員も不在でガランとしていた。
そんな中、何十台も並ぶベンチソファーの最前列に腰を掛け、黒のパンツスーツ姿でチェロを弾く一人の女性の姿がある。
やっぱりリハーサルだったのか。にしても誰もスタッフが居ないとは、セキュリティ的に大問題じゃないか。これは明日問題定義だな。
そう思いながらも、僕は邪魔をしないために今来た廊下を戻るため踵を返す。するとチェロの音色が止まり、辺りには静寂が広がる。反射的に振り向いた僕は、チェロを股に挟んだままこちらを見る女性と視線が合った。
綺麗な人だな。第一印象は顔だった。
二十代だろうか。長い黒髪が美しいその女性は「え?」と目を真ん丸にして僕を見上げている。
次に彼女の体の正面にかぶさるようにある美しい曲線をしたブラウン色のチェロに視線は行きかけたがが、また視線は顔に戻った。その顔色が、数メートル離れていても分かるほどに青白かったからだ。それは色白という類ではない。明らかに血の気が引いたような白さだ。
「邪魔をしてしまったらすいません。僕はここの小児科医の笹森と言います」
僕は躊躇なく女性の傍へ向かった。
ここの勤務医として、目の前に体調が悪そうな人が居れば見過ごすわけにはいかない。そう思ったからだ。
「失礼ですが顔色が悪いように見えて、もしかして体調が悪いのですか」
「見つけた」
「え?」
女性は俯くと「良かった」と呟き、少ししてからもう一度僕を見た。
「先生には、私の姿が……見えるんですか?」
「見える? 見えるとは?」
あまりにも予想外の返しすぎて、僕は思わず質問に質問で返してしまった。
だがそんな僕の言葉を聞いた女性は口元を手で覆い、嬉しいのか戸惑っているのか分からない表情で「嘘でしょ。ほんとに?」と目を潤ませて僕を見る。
この瞬間、僕は胸騒ぎがした。
そう言えば、慰問演奏は患者さんの呼び出しが多い外来ロビーではなく、入院病棟で行われていることを思い出したからだ。
嫌な予感が全身を覆う。そもそもこんな時間にリハーサルなど、おかしくはないか?
白衣の左ポケットに手を入れた僕は、中にあるスマホに手を伸ばし、万が一に備えてもう一度彼女に言葉を掛けた。
「失礼ですが、なぜこんな時間にここで演奏をしてるのですか? スタッフも警備も不在のようですし、許可は誰にもらったんでしょうか」
回答次第で、僕はスマホですぐに警備室に電話を掛けようと思っての質問だ。
「……許可。許可ですか。そうですよね。実は貰い方が分からなかったので黙ってここに来てしまいました。すいません。でもまさか、ここでお医者さんをされていたなんて」
女性はそう言うともう一度チェロを股に挟み直すようにして、まっすぐに僕を見た。
「お願いします。時間がないんです。だから1曲だけ、このままここで弾かせてください。そして笹森先生もここで聴いていってください。お願いします!」
「ここでって、無許可でここで弾いていたら、警備が飛んで来て注意されてしまいます」
「大丈夫です。そんなことは絶対にありません。だって私は昨日からずっとここで弾いてましたけど、誰にも注意されませんでしたから」
「はい?」
「私、ここに入院している高橋桃子って言います。1曲だけ演奏したら私は病室に戻ります。だからお願い、先生にどうしても聴いて欲しいんです。今の私に出来ることは、これくらいしかないんです」
目の前の女性は、すがるような目で僕を見ていた。
さっきから言っていることも支離滅裂にしか思えないし、ここは場を落ち着かせるために高橋桃子さんのの言うとおりにさせてあげた方がいいのかもしれない。
「分かりました。じゃぁ一曲だけ」
僕はそう返事をすると、隣のソファーに腰を掛け、背もたれに重心を預けて高橋桃子さんを見た。
すると高橋桃子さんは顔をクシャッとさせながら「ありがとうございます」と言うと、ほどなくして演奏が始まった。
その曲は、クラシック音楽に疎い僕でも聴いた事がある曲だった。
ガランとしたロビーに響き渡るチェロの低音の音色は、思いの他心地よい。
最初こそ大丈夫だろうかとヒヤヒヤしていたが、そんな気持ちをあっという間に忘れてさせてくれるような、重厚感漂う素晴らしい演奏だ。
演奏する彼女の目からは涙がポロポロと流れ、それがチェロのボディに垂れるほどの号泣ぶりで、美しい女性の涙は美しい曲に合うんだな、なんて不謹慎ながらにも思わずそんなことを思ってしまった。
そのせいだろうか。
演奏が終わるととても名残惜しい気持ちで僕は、思い切り拍手をしていた。
高橋桃子さんは、その拍手に笑顔で応えながら弓を持たない左手で目元の涙を拭っている。
「素晴らしい。本当に素敵な演奏でした。曲名は分からなかったけど、聴いた事がある曲だったから楽しく聴けました。ありがとうございます」
「この曲はバッハの曲で、無伴奏チェロ組曲第一番、ト長調のプレリュードと言います。仰る通りとても有名な曲なので、だから聴いた事があったんだと思います」
「バッハですか。なるほど。これはもっと聴いていたい曲ですね。動画サイトでも漁ってみようかな」
すると高橋桃子さんはチェロに顔を埋め、再び声を押し殺しながら泣き始めてしまった。
「どうしましたか? 苦しいなら早く病室に戻りましょう。今人を呼びますから」
すると高橋桃子さんは顔を上げ、首を左右に振りながら僕を見て告げる。
「私の心配なんかせず、先生こそ早く帰って下さい。今頃きっと先生の家族が集まっているはずです」
「家族が集まる?」
やっぱり会話が噛み合わない。
もちろん僕はもう帰る。勤務時間は終わったのだから。
今日もこんな時間になってしまって子供はもう眠っているだろうが、それでも癒しには十分だ。
「君はさっきから何を言ってるんだ? 申し訳ないが、言っていることが分かり辛いんだけど」
「そうですよね、ごめんなさい。でもわざとです。だって分かってしまうと先生は気が付いてしまうから」
「気が付く?」
「だから私はあえて短い曲にしたんです。最後にお礼が出来て本当に良かった」
最後にお礼?
その瞬間、僕は頭に鋭い痛みが走り、思わず顔をしかめてしまった。
「先生!?」
高橋桃子さんは急いでチェロを横向きにして床に置くと、「大丈夫ですか」と言いながら心配そうに僕の背中をさすってくれる。
「あ、あぁ。演奏したばかりなのに申し訳ない。僕は大丈夫だ。特に持病も無い」
「いえ、これくらいさせてください」
僕は背中をさするために近くに寄った彼女の顔を見て、驚いた。
長い髪で隠れて気が付かなかったが、右のこめかみ辺りに、五百円硬貨より一回り大きくボコッと凹んだ傷があったからだ。
「君、その傷は?」
そう尋ねた僕の声を聞いた高橋桃子さんは急いで体を離し、傷を隠すように右手をこめかみの置くと、眉間に皺を寄せた顔で僕を見た。
「そんなに大きな傷、それに見た所まだ新しい。なのにどうして君は平然としてるんだ?」
「……痛くないからです」
「そんな訳ない。そんな深い傷があれば脳に損傷があってもおかしくない。それなのに、なぜ君は平然としていられるんだ?」
やはり彼女はおかしい。何もかもめちゃくちゃだ。
僕は彼女の両肩を掴むと、指先に力を入れて強く握った。
「教えてくれ。君の入院の理由は? 病棟は? 主治医は? なぜそんな傷でここまで一人で来て演奏出来るんだ!?」
「……言えません」
「またそれか。言えないならなぜ僕の前に現れた! お礼って何のお礼だ!!」
高橋桃子さんは僕の手を払いのけると、立ち上がって僕を見た。
その目には涙があふれている。
「今ならまだ間に合います。とにかく帰って下さい。そうしたら全てが分かるはずです」
「帰ったら分かる?」
「私はここで待ったんです。ここで弾いていたら、あの人は来てくれるかもしれない。だから昨日からずっとここで演奏していました」
「また分からないことを。だから僕にも変わるように話をしてくれって」
そう言って立ち上がった僕を見上げるように「だから!」と叫んだ彼女は、涙をポロポロ流しながら冷静に話を続けた。
「私は、かろうじてまだ生きています。でも私がベッドに戻ればきっと死にます。だから私はその前に、助けようとしてくれた人に会ってどうしてもお礼が言いたかっただけなんです」
「ベッドに戻ったら死ぬって。ここは内科も整形も、脳神経だってある総合病院だぞ。ベッドから離れている方が危険なんだよ」
「違います。私は本当はもう死んでいるんです。ただ、執念で魂だけが抜け出してしまったから、体はそれが戻って来るのを待ってくれているだけです」
「……君は、何を言ってるんだ」
彼女の話を聞いていると体中に悪寒が走り、今にも膝が崩れ落ちそうになる。
高橋桃子さんはそっと僕の手を取るとソファーに座らせ、両手で僕の頬を挟むと優しく微笑んだ。
「私は昨日、オーケストラのオーディションに向かう途中で交通事故に遭いました。場所はこの病院のすぐ近くの交差点です」
「事故? その傷はその時の?」
すぐ目の前にある彼女の顔が、静かに頷いた。
「その時、一人の男性が私に掛け寄ってくれたんです。でもその時、車の間を縫うように走って前に出て来たバイクが私達に気付くのが遅れ、その人ははねられてしまったんです」
「男が跳ねられた?」
「その時私はぼんやりしていたのですが、でもその光景は見ていました。そして救急車が来たんですが、私達は同じ病院に運ばれました」
その話を聞き、僕は心臓は痛いほどにドクンと跳ねた。
待ってくれ。今私達って言ったのか?
その言い方だと、もう一人は僕じゃないのか?
そう聞きたいと思ったのに、あまりの衝撃からか僕は言葉が声にならなかった。
「ここから先は、もう何もお話出来ません。だから先生は早くご自宅へ帰ってください。そうじゃないと先生は、心と体がバラバラになってしまうかもしれません」
「……帰るって、どうやって」
「大丈夫です。きっとすぐに帰れます。ここにだって多分どうやって来たのか分からないんじゃないですか? だから帰りたいと強く思えばいいんです」
「わ、分かった。とにかく帰りたいと思ってみるよ。もうこんな時間だから子供達は眠っているけど顔を見れば僕も癒されるし、妻は食事を作って待ってくれている」
僕は急いで立ち上がると、外来受付のガラス扉に向かって走り出した。
時間外で施錠されていた自動ドアは開かなかったが、何とか外に出ることが出来たので、僕は病院の敷地を出ることだけを考えて走った。
こんなに必死に走ったのが、いつぶりだろうか。
思い出せない程、必死に走った。




