睡蓮は泥中に咲く
ニンファエアの両親は、この地下都市において稀有な貴族であった。
私腹を肥やすための計略と簒奪に明け暮れる他の貴族たちとは異なり、彼らは常に他者への施しを忘れず、ノブレス・オブリージュを体現する高潔な精神を持ち合わせていた。
幼いニンファエアは、そんな両親の背中を見て育った。いつか自分も、お父様やお母様のような気高い魂を宿したい――その純粋な思慕に応えるかのように彼女は名の如く美しく、聡明な少女へと成長した。
あの日迎賓館で開かれた夜会は、父の研究グループが「かつて地上に存在した植物」の再現に成功した功績を祝うものであった。
「ニンファエア、ご挨拶なさい」
「はい、お母様」
わずか6歳の少女が披露した可憐なカーテシーに、大人たちは目を細め、賛辞を送る。
普段のギラついた社交界とは異なり、会場は穏やかな称賛と温かな光に包まれていた。
「ニンファエア、ここで少し待っていなさい」
そう言い残し別室での談合へと消えた両親を、彼女は行儀よく見送った。上級国民の令嬢としてあるべき姿。彼女は決して言いつけを破らない、利口な子供だった。
カチ、カチ、と。柱時計の音が、規則的に静寂を刻む。
「……あら?」
ふと、重厚な扉が遠慮がちに開いた。現れたのは一人の召使だった。仕立ての良いリバリーを着ているが、顔色は蝋のように蒼白で額には脂汗が滲んでいる。
そしてその手には、不釣り合いなほど可愛らしい兎のぬいぐるみが抱えられていた。
「……ニンファエア、お嬢様」
「大変……!」
ニンファエアはソファを降り、よろめく召使のもとへ駆け寄った。彼女を突き動かしたのは、好奇心ではない。生まれ持った、どうしようもないほどの慈悲だ。その瞳に、相手が使用人であるという区別などない。ただ苦しむ者がそこにいる、その助けになりたいという純粋な思いだった。
「顔色が悪いわ。ここで少し休んで」
「ありがとう、ございます……」
小さな手が、震える男の手を導く。項垂れる男を、ニンファエアは心配そうに覗き込んだ。
「お水を持ってきましょうか? それとも、誰か大人の方を……」
「いいえ……心配せずとも大丈夫です。私はこれを……旦那様の代わりに届けに来たのですから」
男の声は震えていた。
それは病による悪寒ではなく、これから犯す罪の重さに耐えかねた懺悔か。あるいは、自らもまた捨て駒に過ぎないことへの諦念だったのかもしれない。
男は、震える手で兎のぐるみを差し出した。
柔らかな毛並み。愛らしいガラス玉の瞳。ニンファエアは花が咲くように微笑み、無垢な両手を伸ばす。
「まぁ……ふわふわで、とても可愛らしい」
彼女の細い指先が、ぬいぐるみに触れた――その瞬間だった。
男が、弾かれたように手を離した。耐えきれずに放り出したその兎が、重力に従って落下する。
スローモーションのように時間が引き伸ばされる。ニンファエアの視界の中で、兎が床に激突する。柔らかな綿が衝撃を吸収するはずだった。
だが響いたのは、果実が踏み潰されるような、湿った破壊音だった。
――炸裂。
熱波も、轟音もなかった。
代わりに弾け飛んだのは、ニンファエアにとって初めて触れる「悪意」と「穢れ」であった。
ぬいぐるみの腹が裂け、内蔵されていたガラス容器が砕け散る。噴出したのは、タールのように粘つく黒い液体――高純度に濃縮された死穢の塊。
「あっ……」
痛覚が仕事をするよりも早く、世界が黒く塗り潰された。純白のドレスの裾が、瞬く間に冒涜的な漆黒に飲み込まれていく。華奢な両足が、爆ぜたガラス片と穢れによって無惨に引き裂かれる。肉が焼け焦げるような異臭と、鉄錆の臭いが鼻腔を突いた。
「ぁ……ああぁっ……!? い、痛い……いたい……っ!!」
遅れてやってきた激痛に、ニンファエアは床に倒れ伏し、喉を引き攣らせた。
白く滑らかだった足の皮膚が、傷口から見る見るうちに黒変していく。死穢に囚われた細胞の一つ一つが、周囲の正常な細胞を食い荒らし、神経を焼き焦がしていく音なき絶叫。流れ出る鮮血さえも、床に落ちる前に黒く濁っていく。
ニンファエアは霞む思考で、かつて自身の足だったものが、泥のような異物へと変わり果てる様を見下ろした。動かない。感覚がない。あるのは、魂を直接焼かれるような熱さだけ。
「たす、けて……」
虚空へ手を伸ばす。召使はもういなかった。
遠くで扉が開く音、両親の絶叫、駆けつける足音。それら全てが、徐々に遠ざかっていく。薄れゆく意識の中で、ニンファエアは見た。
散らばったぬいぐるみの残骸と、自分の足に絡みつく、脈動する黒い蔦を。それらは意思を持った蛇のように蠢き、血管を内側から陵辱し続けていた。
◇
無菌室の白い天井。鼻を突く消毒液の臭いと、混ざり合う鉄の味。ニンファエアが瞼を開くと、世界は変質していた。
「ああ……! ニンファエア! ニンファエア……!!」
視界の端で、母が泣き崩れていた。
美しい顔は、涙と溶けた化粧で汚れ、見る影もなく憔悴している。その手はシーツを握りしめ、何かに祈るように震え続けていた。
「よくも私たちのニンファエアを……許さない。誰がこれを仕組んだ? どこの家だ? 全員見つけ出し一族郎党、根絶やしにしてやる……!」
父は泣いていなかった。だがその瞳は憎悪に染まっていた。愛する娘を傷つけた世界を決して許さないと、昏い復讐の炎を宿していた。
(あぁ、泣かないでお母様。お父様も……わたくしは大丈夫ですから)
そう伝えたかった。優しい両親に、これ以上傷ついてほしくなかった。しかし、言葉は音にならなかった。
そして、ニンファエアは視線を落とす。
重い布団の下。感覚のない、しかし確かにそこに存在する「異物」へと。
「――――」
声が出なかった。
純白のシーツと対比するように、そこには穢れた闇が横たわっていた。
白く滑らかだった両足は、炭化したように黒く変色している。皮膚の下を這う血管はどす黒く脈打ち、ニンファエアを嘲笑うようだった。
それはもはや、美しい少女の肢体ではない。死穢という概念が肉体を苗床にして根を張り、ニンファエアという養分を吸い尽くそうとする「呪い」の形だった。
「っ……!!」
覚醒と共に、脳髄を焼き切るような激痛が走った。
物理的な痛みではない。神経を直接ヤスリで削られるような、終わりのない痛み。
何かがおかしい。痛みが「過ぎ去らない」のだ。
人は痛みを忘れることで生きていく。時間は傷を癒やし、記憶を風化させる。
しかし、彼女の記憶は強烈なまでに焼き付いてしまっていた。
ぬいぐるみが弾けた瞬間。
ガラスが肉を裂いた感触。
死穢が細胞を食い荒らした熱。
召使の男の、恐怖と罪悪感に歪んだ表情。
それら全てが、たった今起きた出来事のように、脳裏で鮮明に再生される。一秒前の激痛が過去にならず、現在進行形の苦痛の上に積み重なっていく。
死穢に犯されたことで、彼女の脳は変質していた。
書き換えられた細胞は時に、生存のために処理能力を極限まで拡張させ特異性を獲得することがある。
後に、ニンファエアはそれを「完全記憶能力」と知ることになる。
一度見たもの、聞いたもの、感じたものを決して忘れない能力。
同時にそれは、地獄のような痛みが、絶望が、永遠に色褪せることなく彼女を苛み続けるという「呪い」でもあった。
(痛い、熱い、怖い……。わたくしの、足が……腐っていく……)
膨大な情報量が奔流となって彼女を襲う。
叫び出したい衝動。狂ってしまえば楽になれるという誘惑。だが、彼女は幼い唇を噛み締め、それを飲み込んだ。もし自分が泣けば、母は壊れてしまうだろう。もし自分が痛がれば、父の復讐はより血なまぐさいものになり、多くの人が死ぬだろう。
だから、彼女は笑った。
焼けた足の激痛と、永遠に繰り返される苦痛の記憶の中で、精一杯の演技で微笑んだ。
「……大丈夫です、お父様、お母様」
◇
「――いち、に……いち、に」
無機質な部屋に幼い声が静かに響く。平行棒を握る少女の手は白く、震えていた。
爛れた皮膚がかさぶたへと変わった頃、ニンファエアはリハビリを開始した。
それは死んだ細胞をまだ生きている細胞で補うための訓練であると同時に、両親を繋ぎ止めるための儀式でもあった。
足は殆ど動かない。脳から発せられる信号は、死穢によって汚染された神経に吸い込まれ断絶される。
それでも彼女は脂汗を流しながら、麻痺した足を無理やり前に引きずるふりをした。
「……っ…う……」
足を動かそうとするたびに、脳裏にはあの日の映像がフラッシュバックする。
爆ぜる音。肉が裂ける感触。
完全記憶能力は痛みの風化を許さない。彼女は一歩踏み出すたびに、あの爆発の瞬間を、その恐怖を再体験し続けているのだ。それでも、彼女は顔を上げ、強張った表情を精一杯緩めて微笑んだ。
「見て、お母様! 少しだけ感覚が戻ってきた気がするの」
「あぁ、よかった……よかった!」
嘘だった。感覚などない。あるのは永遠に続く痛みの記憶だけだ。けれど、その報告を聞いた母の瞳に、僅かに生気が戻るのをニンファエアは知っていた。狂気寸前で張り詰めた母の心を繋ぎ止められるのは、娘の回復という希望だけだったのだ。
「大丈夫よ、ニンファエア。絶対に治るからね。一緒に頑張りましょうね」
「はい、お母様……」
母はニンファエアを強く抱きしめる。ニンファエアも小さな手で、まるで母を慰めるように抱き返した。その背中は、あの時からずっと小さく、痩せてしまっていた。
◇
「………ん」
「ニンファエア、起きて」
名を呼ばれ、意識が深い闇から浮上する。
目の前には暗転したモニターと、心配そうな顔でこちらを覗き込む少年の姿があった。
「すみません、イチクラさん。……少し、微睡んでしまったみたいですね」
「いや、休憩中だったし。起こしてごめん。でも……すごく苦しそうな顔をしてたから」
「ご心配をおかけしました。もう大丈夫ですよ」
美しく、完璧な角度で微笑むニンファエアを、イチクラはどこか悲しげに見つめた。
彼は知っているのだ。ニンファエアが死穢病と引き換えに得た祝福……あるいは呪いである「完全記憶能力」が、彼女にどのような悪夢を見せ続けているのかを。
「……アトリから連絡が来た。次のチェックポイントに入るみたいだ」
「いよいよ大詰めですね。申し訳ありませんが、私が休んでいる間のログを共有していただけますか?」
「分かった」
端末に流れる膨大な情報を、ニンファエアは一瞥しただけで瞬時に把握し、複雑な霊子回路を構築していく。
そのあまりに洗練された手際と、淡々と作業をこなす横顔に、ほんの少しだけ陰りが残っていることを、イチクラは見逃さなかった。
「はい、これ。眠気覚まし」
「……?」
「甘いの、好きでしょ」
差し出されたのは、小さな包み紙のキャラメル。
ニンファエアは少し驚いたように目を瞬かせ、それからふわりと笑った。
「ふふ、ありがとうございます」
口に含むと、蕩けるような甘さが広がった。
それは、いま彼女の脳裏で再生されていた、鉄錆の苦味を、ほんの一時だけ優しく塗り替えてくれるようだった。




