表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
Find one‘s place  作者: 青海
5/6

働きたい場所 後編

見つけてくれてありがとうございます。

明、智香、ワトソン視点の違いをお楽しみ頂けましたら幸いです。

〇働きたい場所  後編


智香は自室で出かける支度をしていた。


鏡に映る自分を見ている。

明にはどう見えたのか…。

明は変わっていなかった。

あの優しい眼差しも…。


悪いのは私…なのに…明の香りは…。


3年前 智香の回想


日本にいたころの記憶は朧気だ。

「突然会社に行けなくなった可哀そうな人」

そんな視線を浴び続けるのが耐えられなくて飛び出した。


あの日

私の体と心は脳の指令に従わなかった。

脳が「動け」と指令を出しても、体と心が「動きたくない」と拒否する。

伝達が途絶え、解離した。


思考はクリアだった。

「動かないと全てを失う」

リスクを認識できていた。なのに…。


気が付いたら、明の家のベッドの上だった。

状況を把握し、絶望した。思考だけは相変わらずクリアだった。

もう、会社に私の居場所はない…。なんのために今まで…。


頭は回転する。止めたくても回転する。毎日、雑念に苛まれる。

体と心は相変わらず脳の指令に従わない。動けない。


優しい明は食事を寝室まで運んで来てくれた。


私が行けなくなった外資ファームに明は毎日出勤する…。

でも、明が外資ファームを辞めることは望んでいなかった…。


私に何も言わず、明は外資ファームを辞めた。

「そろそろ、独立しようと思っていたし、英語から逃れたかったし」

そんな感じのことを言って、明は笑っていた。

でも、本当の理由は…。


しばらく、明は私の世話を焼いていた。

優秀なコンサルタントの明にこんなことをさせて…私は…お荷物だ…。


頭は回転し続ける。体と心は脳の指令を拒否して…どんどん重くなる。


明は悪くない…。

「共に働く同志」のねじが外れてしまって、うまく歯車が回らなくなってしまった。


明がフリーで働き出してほっとした。

ほっとしたら、少しずつ、心と体が脳の指令に従うようになった。


昼間、ベッドから出られるようになったけど

時間をどう使えばよいか分からなかった。


スマホを見る気にはなれなかった。

世間の情報はまだ知りたくなかった…。


仕事以外で何がしたかったんだろう?

何を楽しいと思っていたんだろう?

全然思いつかなかった…。


なんとなくテレビを観ることにした。

明が契約しているサブスクリプションで、明と一緒に観ていたドラマを再生してみた。

ストーリーをすっかり忘れていたが、頑張り屋のヒロインが成長していくドラマだった。

すぐに停止した。


色々なドラマを再生しては、停止してを繰り返し…。

辿り着いたのがBLドラマだった。


特にタイのBLドラマに魅了された。異国の南国テイストが夢心地にしてくれた。

• よろめいて、支えられて、見つめ合う

• リアルでは絶対ありえないハプニングキス

• お姫様抱っこ、おんぶ、腕枕、壁ドン、ネクタイぐい

• 好きな人が心を開くまで、忍耐強く、寄り添って待つ

• 体を密着させて、バイクの二人乗り(自転車も可)

• 幼児でもないのに「あーん」で食べさせる。「ふーふー」して冷ます

• 観客の前で愛を叫ぶ 観客は冷やかす

• 好きな人のためにサプライズを企画して、大成功からのキス


子供の頃、夢中になって読んだドキドキするような少女漫画の要素が沢山含まれていて、

それをイケメン達が演じる。ヒロインは存在しない。それだけで癒された。

内容がファンタジーで救われた。


束の間、ちゃんと現実を忘れさせてくれた。

意思とは関係なく勝手に自動再生される

『コンサルタントとしてのバリューは0だな』の音声も、

もう少し頑張れたんじゃないかという後悔も

答えが出たところで、もう戻れないのに繰り返し沸き上がる「どこで選択をも違えたのか」という問いも

「これでよかったんだ」とモヤモヤを無理やり消そうとする言霊も

明のあの優しい眼差しも…。

何もかも忘れて陶酔できた。


そんな時間が私には必要だった。



明は仕事の話はほとんどしなかった。時々、短い報告をするだけ。

あの日も「ファームを立ち上げることにした」と言っただけ。

「智香も一緒に働かないか」という言葉を待ってしまった。

明は絶対に言わないと分かっていたのに…。

自分から「働きたい」と言っていたら何か変わっていたのかな…。


体と心が脳の指令に完全に従うようになると、

得体の知れない焦燥感で落ち着かなくなった。

「コンサルタントとしてだけじゃなくて、私のバリューも0になってしまう…」

とりあえず、何かしたくてタイ語の勉強を始めた。

ドラマのセリフが聞き取れると嬉しくて、夢中になった。


タイ語を覚えたら、タイに行ってみたくなった。

明に話したら、予想以上に喜んだ。少し大怪我だなと思った。

明が「特別な旅行にしよう」と言い出した。

外資ファームのタイ支社にも勤務していたワトソンさんにタイ旅行の相談にのってもらうことになった。


正直、元の職場の人には会いたくなかった。今も明と働いているワトソンさんには特に。

でも断れば明が心配すると思って、「いいわね」と言った。


ワトソンさんが家に来た。タイの情報を色々教えてくれた。

本心をワトソンさんに気付かれないようにオーバーリアクションをした。


結局、明は仕事でタイ旅行に行けなくなった。

一人で行くと言ったら、案の定、明は心配した。


「キャンセルすればいいんじゃないか」と言って反対した。


私はいつまでたっても腫物なんだなと思った。

「ワトソンさんがわざわざプラン作ってくれたのよ。悪いじゃない。私だけでも楽しまないと。

日本語話せるガイドの方もいるみたいだし、なんとかなるわよ」

そんな感じのことを言ってなんとか明を説得した。


ワクワクしていた。この冒険の主人公は私。

少し前まで消えてしまいたいと思っていたのに…。

誰も私のことを知らない。

「突然会社に行けなくなった、可哀そうな人」

そんな目で見られない。


バンコクの空気はお世辞にも綺麗とは言えなかったけど、やっと深呼吸ができた気がした。

ワトソンさんが教えてくれたタイの雑貨店に入ると、スパークが働いていた。

「ニホンゴ…スコシ…ハナ…セマス」

拙い日本語で話しかけてきた。スパークの話せる日本語は本当に「少し」だった。

私が覚えたタイ語より、少なかった。スマホの翻訳機能を使って会話した。


お店には香水も売られていて、自分が香水を好きだったことを思い出した。

名前に『香』が付く。名前に引っ張られたせいもあるかもしれないけど、

子供の頃から花の香りが好きだった。学校帰りに花の香りを嗅ぐために花屋さんに寄り道した。


スパークの印象は見た目も中身のふわふわ。でもそれが心地良かった。

お土産に香水を買って帰った。香りを分析した。大学の頃のゼミの課題も思い出した。


学生に好きな香りのアンケートをとって、マーケティングした。評価はAだった。

空になった香水の瓶をリメイクしてオブジェにした。オブジェを見ていると、オリジナルの私を客観視しているように思えて安心した。焦燥感が静まった。


夢中になれるものをもう一つ見つけた。


朝、明を見送ってすぐに、私は日本から飛び出した。


「バリューが0なら0から始めればいい」

失った私はこれから沢山も持てる。そんな風に思えた。


タイに来てからは必死だった。

言葉を覚えて、タイの経済を勉強して、働いて、スパークと一緒に起業した。


そして、ようやく気がついた。

私は誰かのためでは燃え尽きてしまう。


私は私の好きなことをプロデュースすることが向いていた。

私が自己理解も自己管理もできていなかったせいで…。


ノックの音で智香の回想は途切れた。


スパークがドアを少しだけ開けて、タイ語で準備が出来たか聞いてきた。

智香は笑って「すぐに行く」とタイ語で答えた。



数時間後、タイのレストラン


ワトソンと明は、タイのレストランに来ている。

明はワトソンが食事に誘っても、「だるい」と言って、なかなか動こうとしなかった。

ワトソンが強引に連れ出した。

先に席に着いていた智香とスパークがワトソンたちを見つけて、手を振った。


「おせっかいハーフか…」

明は恨みがましく呻く。

「明さん、何のためにタイまで来たんですか」

ワトソンが明を諭す。明は渋々、智香とスパークがいるテーブルに向かう。

智香とスパークの向かい側の席にワトソンと明は座る。

「お待ちしていました」

智香は頭を下げる。明は黙って、一礼する。智香と視線を合わせようとしない。

「お二人は何を飲まれます? もちろん、ご馳走させていただきます」

「お任せします」

ワトソンが答える。智香が店員に流暢なタイ語で注文をする。明はやっと、智香に視線を向ける。

「すっかり、現地の人だな」

「ここが私の働きたい場所なの」

「…」

「私が飛び出せたのは明が私を休ませてくれたからよ。ありがとう。感謝している。

ちゃんとお礼を言わずに出ていってごめんなさい。ずっと心残りだった。

対等になれたらって言い訳してたら、時間だけ過ぎちゃった」

「俺は…」

「明は悪くない。私に課題があった。このままじゃあ、フェードアウトしたプロジェクトと同じね」

「…」

「ちゃんとリリースしないとね」

「…」

「私の物は全部捨てていいから」

智香の胸が熱くなる。熱は、智香の心の氷を解かす。雫が涙となって流れ落ちた。


向き合えば痛みを伴うことは分かっていた。

あの頃は自信がなくて、逃げることしか出来なかった。

あの、優しい眼差しが痛くて…。

でもそれは私の都合だ。私の言動は明を傷つけた。

身動きがとれなくなるくらいに…。

今なら受け止められる。私は進化した。


智香が泣き出したので、スパークは驚いて、ワトソンに視線を送る。

日本語の会話の内容はスパークには分からない。ワトソンは頷いて、

『問題ない』のサインを送る。

サインの意味をスパークは読み取れない。スパークは不安になる。智香がスパークの手を握る。

やっとで、スパークは安心する。

「私、これからも進化する。スパークと一緒に」

智香とスパークはタイ語で会話を交わし、見つめ合う。


明の心に「リリース」という言葉が深く刻み込まれた。

世界の見え方が変わった気がした。



2時間後、レストラン出口。

「ワトソンさん、明日からよろしくお願いします。明も元気で」

レストランの出口で、智香は社交辞令の大人の挨拶をして、スパークと帰って行った。

明とワトソンは二人を見送る。明は呆然と立ちすくんでいた。

ワトソンは心配そうに明の様子を伺う。


「明さん、夜遊びしましょう。これからが本番です。今度こそ、いい所に連れて行きます」

ワトソンははしゃいで明に話しかける。

「夜遊び?いいじゃん」

異国の夜。煌びやかな繁華街。非日常。

明は気持ちをお楽しみモードにシフトさせる。


タイの人気のバー。

ワトソンと明は夜景を見ながら、お酒を楽しめるバーに来ている。

明はワトソンに不満をぶつける。

「えーと、今俺はワトソンと夜景を見ながら黒ビールを飲んでいる。なんで?」

「いい所でしょ。人気のバーですよ」

「あのさ、俺を励まそうと思って、『夜遊び』に誘ってくれたんだよな?」

「はい」

「だったらさあ…」

「だったら?」

「タイ美人が接客してくれる店に連れて行けよ。『夜遊び』だろ」

明は圧をかけるように言った。

「そんな店一件も知りません」

ワトソンはさらっと答える。

「はあ?外資ファームのタイ支社にいたんだろ?接待されまくりだっただろ?」

「日本とは文化が違います」

「そこら辺はどこの国も同じじゃねぇの?じゃあ…

綺麗なタイのお姉さん紹介しろよ。元同僚とか、呼べよ」

「…嫌です。こんな時間に迷惑ですよ」

ワトソンは呆れる。綺麗なタイの女性が明に近づいて来た。

「コンニチハ。イケメンデスネ」

片言の日本語で話しかけられ、明は興奮する。

「ワトソン、『一緒に飲みましょう』って、言えよ」

ワトソンがタイ語で女性と2、3会話を交わすと、女性は去って行った。

「ワトソン、なんで帰っちゃったんだよ」

「用事があったみたいです」

ワトソンは白々しい嘘をついた。本当は「僕の恋人です」と女性に伝えた。

タイ語が分からない明は釈然としない。そんな明を見ているだけでワトソンは満たされた。

「明さんを癒せるのは僕だけだ」とタイ語でつぶやく。

「ワトソン、早く、ナンパで使えるタイ語教えろ」

「嫌です。明さん、英語も話せないのにタイ語なんて10年早いです」

「はあ?いいよもう、ワトソンには頼まない。Google先生に聞くよ」

明はスマホを取り出し、検索し始める。ワトソンは明の手を握って止める。

「僕の話を聞いてください。僕は日本語が話せる」

ワトソンは以前、自分のことを話して明が褒めてくれたことを思い出し、

アピールをする。

「必死すぎだろ、ワトソン。Google先生に嫉妬かよ」明はワトソンの言動に驚く。

「違います」とワトソンは慌てて明の手を放す。

「ちゃんとオチがある話だろうな」と明がからかう。

「それはもう、猫がキャッと驚くような話です」

「ワトソン…おやじギャグかよ」

「ダジャレです…。本題に入りますね。えーと、タイトルは

『エマがキスしたオレンジ』」

「ん?タイトルあるのかよ。キスって恋バナか?」

「いえ、僕がコンサルタントを目指すきっかけになったエピソードです」

「え、まじ?」

「アメリカの子供ってお小遣い稼ぎでファーマーズマーケットで野菜とかフルーツ売ったりするんです。僕も11歳くらいから始めてました。どうやったら、沢山売れるか色々考えるのが楽しくて」

「へー、11歳から販売プラン作ってたんだ」

「ええ、まあ、子供が考える可愛らしいプランですけど。当時、『エマ』って言う男子に人気の女子がいて、エマと僕は家が近所で仲が良かったんです」

「幼馴染か?」

「まあそんなとこです」

「なんだよ。それ、やっぱ、恋バナじゃん。ワトソンはエマが好きだったのか?初恋か?」

明は冷やかす。

「違います。勝手に話を進めないで下さい」

「本当か?」

明はわざとらしい言い方で疑う。無視してワトソンは話を続ける。

「どうやったら、オレンジを沢山売ることが出来るか二人で考えて、『オレンジ10個買った男子にキスしてくれ』ってエマに頼んだら、断られて」

「そりゃそうだろ」

明が笑った。ワトソンは明の気分が変わっていることを確認しながら話す。

「プランを変えて、『オレンジにキスしてくれないか』って頼んだら、それも断られて」

明がクスクスと笑う。

「明さん、笑い過ぎです。子供だったんですよ」

「で、どうしたんだよ」

「エマの方から『オレンジにキスしたように見せてあげる』って」

「エマ、賢いな」

「僕は『エマがキスしたオレンジ』のチラシを作って、こっそりクラスの男子に見せて回って…」

「広告戦略か」

「はい。SNSの無かった頃の。拡散です。なんかそういうのが全部楽しくて」

「へー。ワトソンの原点か…ってオレンジは売れたのか?」

「はい。市場の倍の値段でオレンジ50個売り切りました。一人何個も買う奴もいて」

「ぼったくりかよ。子供の頃から策士ハーフだったんだな」

「戦略ですよ。子供ながらに思いました。価値があれば高くても売れる。戦略っておもしろいって」

「ふーん。でも、なんでエマはそんな面倒なこと引き受けたんだ?50個のオレンジにキスしたように見せるのは大変だろ?エマにとってのメリットは何だよ。利益相反だろ。ワトソンだけ良い思いしてさあ。あ、エマの方はワトソンのことが好きだったとか」

ワトソンは明の鋭さに冷静さを一瞬失いそうになったが留める。

「話を勝手に盛らないで下さい。売り上げの60%持っていかれました。最初からそういう契約でした」

「ふーん。本当に金だけかあ?10代前半の女子が金だけで動くか?アメリカ女子は動くのか?」

明は興味津々で聞く。

「リサーチですか?今は夜遊びの時間です。ただの笑い話です。もう、猫もキャット驚くどころか、

白けて爪とぎ始めちゃいましたよ」

ワトソンは皮肉を言って誤魔化し、これ以上話を掘り下げられないように話題を変える。

「明さんはどうなんです?」

「どうって?」

「明さんはなんでコンサルタントになろうと思ったんですか」

「俺か?俺は…」

明は間を空けて話し始め

「俺は『打倒ソーラーパネル』だよ」

と突拍子もないことを言い出す。

「ソーラーパネル?あの、太陽光エネルギーを作る?」

「そう。近所の工場の跡地に建売住宅が建ってさ、ソーラーパネル付きの。7棟くらいだったかな…。

ソーラーパネル見て、子供ながらに思ったんだ…屋根の上にいるだけで、エネルギー生み出して、人の役に立って、すげえなって。俺も負けたくねぇなと思ってさあ」

「ライバルはソーラーパネル」

「そんなわけねぇだろ。昼間の太陽思い出して、適当に作った…作り話だよ。…どこでもよかったんだ。コンサルタントじゃなくても…。たまたま、内定取れたのが外資ファームだっただけで、ワトソンが

色っぽい話するから」

明は頭の回転が鈍くなってきていた。感情が沸き上がり止められない。コントロールが効かない。

「だから、あれ、だよあれ…俺はどこで間違えたんだ?」

ワトソンは明の変化に気付き、見守る。

「結局俺は、『ありがとう』も『頑張れ』も言えなかったな…」

ワトソンは日本語を総ざらいし言葉を選び、必死に励ます。

「智香さんは『感謝してる』って言ってました。間違えてなんかいませんよ」

「…」

明の消せないファイルが展開され、涙腺を刺激する。涙が頬を伝う。

「明さんに『救われた』って思っているクライアントは沢山いると思います」

「…」

「僕だって、明さんがいてくれるだけ…それだけで…明さんは僕にとってのエネルギーを生み出してます」

「だから、ただの作り話だっつうの。違うだよ。違う…」

ワトソンは明の肩に恐る恐る手を置く。

触れられた安心感から明の涙腺はさらに緩む。

ワトソンは自分のジャケットを脱いで、明の頭に被せる。

「これで誰にも見られませんよ」

「気が利き過ぎるマネージャーかよ」

明の目から堰を切ったように涙が溢れ落ちた。


明の目から堰を切ったように涙が溢れ落ちた。


物をそばに置くことで「リリース」を先延ばしにした。

手放せば全てがなかったことになってしまいそうで

どうにも出来ないことをどうすればよかったかと考えることで

過去にずっと浸っていたかったんだ…。


「リリース」は自分が何も出来なかったという現実だ


痛い…。心を引き裂かれるようだ。息が詰まる。


明は泣き続けている。



ワトソンは明を抱きしめて、自分の胸で思いっきり泣かせてあげたいと思った。

こんなに近くにいるのにそれが出来ないもどかしさがワトソンの心を絞める。


明の涙の原因は自分が作ったかもしれない…。


3日後、明は日本へ帰った。



ワトソンは本格的に智香の会社のコンサルティングを開始した。

リメイクできるフレグランスの瓶を使用した新商品を開発した。

コストパフォーマンスを最大限に活かせる生産オペレーションを構築。

マーケティングから、最適な販売ルートを見極める。

市場をリサーチし、分析。戦略を練った。



1週間後、『fulfill consulting』明の会社のオフィス。


明は日本での仕事を再開する。

『fulfill consulting』のオフィスもワトソンがいないと空気が違う気がした。

落ち着かない…。ついついワトソンのデスクを見てしまう…。

「艶島さん、ワトソンさんがいなくて寂しいんですか?」

明の様子をチラチラ見ていた吉永がからかう。

「何言ってるんですか。そう、見えますか?」

「ええ、見えます」

吉永が笑いながら答える。

「変なこと言わないでください。吉永さん、来週のスケジュール送ったので、調整お願いします」

明は話題をビジネスに戻して誤魔化す。


数日後、明はワトソンのマンションを訪ねる。


不在の間の管理を頼まれたのだ。

合鍵でドアを開け、中に入る。

リビングの窓を開けて、空気を入れ替える。


明はワトソンの部屋を見回す。クリップボードのはがきが目に止まる。

全て同じ住所から届いていた。

ワトソンが5歳まで日本の離島で暮らしていたことを思い出す。

「ワトソンのばあちゃんか」

明はつぶやく。

はがきを手に取る。

祖母が孫を心配する心のこもった文章が書かれていた。

明はワトソンと一緒に長く仕事をしているのに、プライベートは良く分かってないなと思う。


寝室に移動する。ドアを開けてすぐに明は渋い顔をする。

「ワトソン臭い」

明は鼻を手で覆いながら、窓を開ける。

「ワトソン臭いってなんだよ」

一人ノリツッコミをする。

サイドテーブルに『カトラス君人形』が飾ってあった。

「え?なんで?」

明の頭に疑問がよぎる。とりあえず、人形を手に取り、顔を見る。

「よく見ると、そこまで似てない…」

人形をサイドテーブルに戻す。

「枕カバーとか洗ってるのか?」

明はまた独り言いながら、ベッドの上に乗り、枕を掴む。顔を近づけ匂いをかぐ。

「臭い、臭い…」

と言いながら不思議と気持ちが落ち着いた。

明はワトソンの枕を抱えベッドに横になる。

「早く帰ってこい」

自分の言葉に驚いて、

「何言ってんだ」

とまた、一人ノリツッコミをする。慌てて、起き上がり、枕カバーを枕から外す。

「洗ってやるぞ、借りだからな」

明は誰も聞いてないのに声を出す。

余計に空しくなる。

「別に寂しくなんかない」

明は『カトラス君人形』に八つ当たりをする。

苛々しながら、シーツを外して、ランドリールームへ向かった。



タイのホテルの夜


ワトソンはスーツケースを開けている。

中から『カトラス君人形』を取り出す。

ワトソンは鑑賞用と持ち運び用の2体の『カトラス君人形』を購入した。

自分らしくないことをしていると分かっていた。

明を好きになっていなければ絶対にこんなことしない。

恋はらしくない行動をさせる…。

そんなことを考えながらワトソンは『カトラス君人形』を握りしめた。


1か月後、ワトソンが日本に帰る日がきた。


ワトソンと智香はミーティングルームで最後の打ち合わせを終えた。

ミーティングルームを出ようとしたワトソンを智香が呼び止める。

「ちょっとだけ、最後にプライベートな話し、いい?」

ワトソンはとうとう来たかと心の準備をする。

「明はもう大丈夫よね?」

過去のことを責められると予想していたワトソンは拍子抜けした。

しかし、智香が明を気遣うことには複雑な思いが湧き上がった。

「はい。明さんを空港に送った時に香りが違っていました。You have lost a single customer.」

「Yes. I need to try harder.…I am grateful to you. I sincerely wish for your happiness.」

帰国子女の智香はワトソンに合わせて英語で思いを伝える。

「Thank you for understanding.」

ワトソンは部屋を出た。



日本へ向かう飛行機の中


ワトソンは日本に向かう飛行機の中、地上がジオラマのようになっていく様子を窓から眺めていた。


3年前 ワトソンの回想

あの日、僕が明さんと智香さんが暮らすマンションへ行っていなかったら、

今はどうなっていたのか…。


二人のタイ旅行のために僕は呼ばれた。


智香さんがコーヒーを淹れて持ってきた。ペアのマグカップと来客用のカップ。

ペアのマグカップは黄色と青色だった。来客用のカップを智香さんは僕の前に置いた。

二人はペアのマグカップでコーヒーを飲みながら談笑していた。

智香さんの持っていたカップの黄色が目に焼き付いた。


「ドラマのロケ地に行きたいの。ワトソンさん、この公園に行ったことある?」

智香さんが僕にスマホを見せながらハイテンションで聞いてきた。

「はい。ドラマの聖地ですよね」

正直どうでもよかった…。精一杯…大人の対応をした。

「イケメンの彼氏がいるのにタイ人に夢中って…酷いよな」

明さんが口を挟んだ。

「『推し』は特別。心を豊かにしてくれるアートなの」

「アートかよ」

「芸術は鑑賞しないと」

「はいはい。智香が楽しめるなら、俺は何でも良いよ」


ダーツボードになったような心地だった。会話が矢のように突き刺さる。


智香さんの大袈裟なリアクションは不自然だった。


二人が仲が良かったから嫌だったんじゃない。

僕が望んでも手に入らない明さんの愛情に包まれているのに、

智香さんが全然幸せそうじゃなかったのがたまらなく嫌だった。


僕はプランを立てて、実行した。勝手にスパークを巻き込んで。

恋は視野を狭くさせる…。


智香さんは明さんの元を去った。僕の目的は達成された。

でも明さんは…。僕の罪は…。

ワトソンは明の姿を思い浮かべて目を閉じる。


機内のアナウンスが日本に到着したことを告げる。ワトソンは立ち上がる。


それでも会いたい…。


お読みいただきありがとうございます。最終章を推敲中です。

引き続きよろしくお願いいたします。

評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ