3-4 必死の脱出
カーテンの隙間から朝陽が差し込み、ベッドの上で眠る潮香の横顔を照らしていた。まばゆい光を浴びて、潮香は目をこすりながら上体を起こしたが、体はだるく、仕事も外出もしていないはずなのに妙な疲労感だけが残っていた。
そして、昨日ベッドの上で身体を交えたはずの晴人の姿は既に無かった。
「あれ? 晴人さん、昨日隣で寝ていたはずなのに」
生まれたままの姿で寝ていた潮香は、タオルケットを体に巻きつけてベットから飛び降りると、真下には晴人から無理やり着せられたゴルフウェアが床に散乱していた。
「そうだ。これを着せられた後、無理やり脱がされて、そのままベッドに連れていかれたんだっけ……」
潮香は昨晩の出来事を思い出すと、急に吐き気がしてきた。何度も全身を撫で回され、いやらしい言葉を掛けられ、服を脱がされ、恐怖と気味悪さのあまり意識が飛んでしまったのだ。
リビングに出ると、テーブルには晴人が書いたと思しき置き手紙と、洒落たデザインの皿の上にベーグルサンドが置いてあった。潮香は置き手紙を手にし、眠い目をこすりながら走り書きしてある文字を一つずつ辿った。
「おはよう。急きょ昨日会った韓国のデザイナーとの打合せが入って、局に行くことになりました。気持ち良すぎてぐっすり寝ているようだから、起こさず出かけます。とりあえず、簡単だけど朝食作ったから、食べてください。まだ安全とはいえる状況じゃないから、外にでないようにね。出来るだけ早く帰ってきます 晴人」
潮香は手紙を持つ手が震えた。「気持ち良すぎてぐっすり寝ている? ふざけるのも大概にしろ! 気持ち良かったのはあんただけだろ?」と、心の中で呟きながら。
その時、潮香の腹が急に鳴り出した。思い返せば昨日は、晴人が持ち帰ってきたお菓子位しか食べていなかった。昨晩のことを想い出すと、潮香としては晴人が作った料理を食べることに正直気が進まなかったが、背に腹は代えられなかった。
晴人は料理が上手で、時々スタジオに手製のサンドイッチや惣菜を持ち込み、出演者たちからも好評を得ていた。丸いベーグルの切れ目には色とりどりの野菜とハム、チーズなどの具が沢山挟んであり、潮香は大きな口を開けてかぶりつくと、美味しさのあまり、つい涙が出そうになった。
晴人は気遣いが細やかで料理も上手なのに、どうして自分の気持ちや性欲を優先してしまうのだろうか? ベーグルサンドは美味しいけれど、潮香の気分はいまいち晴れなかった。
コロコロコロ……コロコロコロ……
突然、潮香のスマートフォンの着信音が鳴りだした。
しかし、辺りを何度見回しても、スマートフォンがみつからなかった。聞こえてくる着信音は、間違いなく潮香の機器からのものだった。潮香は「どこにあるのよ」と金切り声で叫び、頭を抱えたまま床の上にしゃがみこんだ。その時、床に放置されていたゴルフウェアの真下から、かすかに着信音が聞こえてくるのが耳に入った。
「あった! どうしてここに?」
昨晩着せられたゴルフウェアのスカートのポケットに、スマートフォンが入ったままになっていた。おそらくカンさんにいつでも連絡を取れるように、こっそり忍ばせていたのかもしれない。しかし、昨晩の潮香は晴人を前に恐怖心が先立ち、スマートフォンを握る力すら失っていたのだ。
潮香は無事に見つかったスマートフォンを早速手に取ると、耳に押し当てた。
「あ、もしもし潮香ちゃん、おはよう。昨日は無事眠れたかい?」
声の主は、カンさんだった。
「カンさん? 何で今頃になって電話掛けてくるのよ! どうして昨晩、連絡くれなかったの?」
「とりあえず君に見てもらいたいものがある。今、そこでテレビを見ることができるかい?」
「う、うん。すごく大きな画面のテレビが置いてあるけど」
「じゃあ、ちょっと付けてみて。今ちょうど『オキドキ!』で、常山市からの中継をやってるから」
「え、本当に?」
潮香はテレビの電源を入れると、リモコンを使い「オキドキ!」にチャンネルを合わせた。画面の右上には「中継・常山市」というテロップが映り、ヘルメットを被った女性レポーターがマイクを片手に被害状況を報じていた
レポーターはワンダーTVの系列局「みちのくテレビ」の女性アナウンサーで、市内全体の被害状況を切々と伝えていた。やがて画面には、先日の中継で潮香が信彦と出会った古い長屋の写真が映し出された。
「今回氾濫した井水川沿いには、かつて炭鉱で賑わった時代に建てられたたくさんの長屋があります。しかし先日の水害で全て泥水に浸かり、今はとても生活できる状態にありません。長屋で被災し、現在は同じ市内にあるこちらの福祉避難所に避難している方がおりますので、紹介します」
アナウンサーがそう言うと、画面が切り替わり、つい先日潮香が信彦親子を送り届けた「もみの樹荘」が映し出された。
潮香は「まさか……」と呟きながら、テレビの画面に釘付けになった。やがて女性アナウンサーはマイクを手にしながら施設の中に入り、数ある部屋のうちの一つのドアを開けた。
「こちらが、被災した岡部さん親子です。岡部さん、お話をお聞かせいただけますか?」
すると母親が唐突に「あんたに何を話せばいいんだい?」と大声で尋ねてきたので、アナウンサーが「大雨が降り、水がご自宅に入り込んだ時の様子を教えてください」とゆっくりとした口調で切り返した。
しかし母親は「んなこと言われでも、おら、ほとんど何も覚えてねえ」と言って、口をつぐんでしまった。
「全てでなくて良いです。思い出した範囲でいいので」とアナウンサーが尋ねると、母親は「あんたに話すことなんて何もねえ。早ぐ帰りな」と言ってぷいと背中を向けた。
施設の職員と思しき女性が母親の肩に手をかけて何かを話しかけていたが、母親は首を横に振って何も話してくれなかった。これ以上聞いても無駄だと思ったのか、アナウンサーは、真横から母親を心配そうに見つめていた信彦にマイクを向けた。
「それでは、息子さんにお話を伺います。こないだ大雨が降った時のお家の状況について、教えていただけますか?」
信彦は大きな目を何度かまばたきしながらアナウンサーを見つめていたが、やがてその場で立ち上がると、徐々に表情を強張らせていった。
「おまえ……ちがう……」
信彦は眉間にしわを寄せ、アナウンサーを指さしながら声を上げた。
「え? 違う? 一体何が違うんですか?」
アナウンサーは信彦の言葉を理解できず、何度も聞き返した。すると信彦は顔を引きつらせながら、「ちがーう!」という言葉を繰り返し、一歩ずつ後ずさり始めた。
「少しだけでも良いんです。お話いただけますか? 全国の視聴者の皆さんに、どれだけ被害が大きかったかを伝えていただけませんか?」
すると信彦は顔を赤らめ、口を大きく開いて叫びながらアナウンサーの肩を両手で押し出した。
「おまえ、ちがう! おまえ、ちがう!」
テレビに映っていたのは、こないだ会った信彦ではなかった。大声で叫び続ける信彦を見るに見かねたのか、施設の職員が数人がかりで止めに入った。
そこで突然中継が途絶え、数秒間画面が黒くなった後、「オキドキ!」のスタジオが映し出された。
「すみません。ただいま御見苦しい場面があったことをお詫び申し上げます。常山市からの中継は、日を改めて行う予定です」
潮香の代理でアナウンサーを務めている紅緒は深々と頭を下げると、次のニュースを報じ始めた。
「お兄ちゃん、相当機嫌が悪そうだったな……」
スマートフォンの向こうから、カンさんの声が聞こえてきた。
「カンさん、今どこにいるの?」
「今は自宅じゃけど」
「仕事じゃないんだ。だったら今すぐ、迎えに来れるかな?」
「迎えって、晴人さんの家?」
「そうだよ。早くここから連れ出してほしいの」
「そんなの急に言われても。俺は晴人さん家がどこにあるのか知らんし、大体、君を匿ってくれている晴人さんに相談なしで勝手に外にでていいんか?」
カンさんは心配そうに声を上げていた。
「いいのよ。そんなことしたらどうせ行くなって言われるし、ますます私を束縛しようとしてくるから」
「束縛?」
「私……これ以上彼と一緒に暮らすことに耐えられないの」
潮香は途中から涙声になりながら、気持ちを切々と訴えていた。
「しゃあないなあ。迎えには行くけど、あの晴人さんのことだから、何をするか分からんぞ。とりあえず、そちらの住所を教えてくれや」
「知らない。とりあえず、窓から見える光景の写真を撮って送るから、それで判断して!」
「そ、そんなんで分かるかよ」
潮香はカンさんの言葉をすべて聞かないうちに電話を切ると、マンションの窓から見える風景を片っ端から撮影し、すぐさまカンさんにメールで送付した。
そして、いそいそとシャワーを浴びて荷物をまとめると、カンさんから貸してもらったサングラスと帽子を身に付け、マンションから脱出した。
玄関から出ると、周囲には近代的なビル群が建ち並び、すぐ傍にはお台場海浜公園も見えた。
目の前を走り去る車を目を凝らして見続けたが、カンさんのミニバンと思しき車はどこにも無かった。
「やっぱり無理か。あの写真だけでは分かりにくかったかな……」
潮香は肩を落とし、とぼとぼと歩きながらマンションに戻ろうとしたその時、真後ろからクラクションを鳴らしながら一台の車が近づいてきた。
「潮香ちゃん!」
その声は、紛れもなくカンさんだった。
「カンさん!」
潮香は声のする方へ向きを変えると、全速力で走りだした。
ミニバンの助手席のドアが開き、潮香は飛び乗るかのようにその中に入り込んだ。
「会いたかったよ……もう、どうしてもっと早く来てくれなかったのよ?」
潮香はサングラスを外すと、涙を流してカンさんの肩に顔を押し当てた。
「な、何があったんだよ。そんな泣いたりして」
「だって……辛かったんだもん、嫌だったんだもん」
「まあ、その話は道中で聞かせてくれや。で、行き先はどうする?」
「常山市に……『もみの樹荘』に行ってくれるかしら?」
「あいよっ」
カンさんは頷きながら親指を立てると、ミニバンを急発進させ、ぐんぐんと速度を上げてお台場の町並みを一気に駆け抜けていった。
「さっきの常山での中継で、兄ちゃん、何か声を上げて騒いでいたけど、何があったんじゃろな」
「信彦君……たぶん、みちのくテレビのアナウンサーじゃなくて、私と話をしたかったんだと思う」
「そう言う意味なんだ? 確か『おまえ、ちがう』とか叫んでたよな?」
「そう。あのアナじゃなくて、私とね」
カンさんは口をぱっくりと開けて潮香の横顔を眺めたが、潮香の言葉と表情は、どことなく確信に満ちているように見えた。




