2-13 赤い糸
翌朝、窓から差し込む朝陽の光に照らされ、潮香は目をこすって起き上がった。
生まれたままの姿で布団にくるまっていた潮香は、信彦と長時間抱きしめあって体中にたくさん汗をかいていたにも関わらず、きちんと汗を拭わぬまま疲れて寝てしまったせいか、体が冷えてしまい、部屋中に響き渡るほどの大きなくしゃみをした。
信彦を起こしてしまうとまずいと思い、潮香は即座に信彦の枕に目を遣った。
「あれ? 信彦君……いないの?」
気が付けば、ずっと隣で寝ていたはずの信彦の姿がなかった。潮香はシーツをめくって中を探ってみたが、やはり姿を見つけられなかった。潮香は慌てて起き上がり、一糸まとわぬ姿のまま部屋中を探し回った。しかし、信彦はどこにもおらず、潮香の表情には焦燥感が漂い始めた。
もう会えないかもしれないと思い、潮香の気持ちが先走って無理やり信彦と身体を交えてしまったかもしれない。ひょっとしたら、信彦はそんなことを全然望んでいなかったかもしれないのに……。
その時、潮香はテレビの前に置いてある一枚の書き置きを発見した。筆跡を見ると、信彦が書いたもので間違い無さそうだった。宿泊者から宿への伝言用に置いてあるメモ帳を一枚破き、いつもノートに書いていたように紙一面にびっしりと文書を書き綴っていた。一体、何が書いてあるのか……潮香は書き置きを読むのが怖かったが、つばを飲み込むと、目を凝らして読み始めた。
「おはようございます。ひとりぼっちにして申し訳ありませんが、これから朝刊の配達があるので、先に失礼します。昨日の同級会はとても楽しかったです。そして、住吉さんがこんな僕のことを心から好きだということを知って、とても嬉しかったです。この気持ちを大事にしながら、僕はこれからもこの町でがんばります。いつかきっと、住吉さんの元にたどり着けるように。 岡部信彦 ※追伸 ホテル代は既に僕の方で精算済みです。お気になさらず」
潮香は書き置きを読み終えると、その場にしゃがみ込んだ。
別れ際、信彦に色々と言いたいことがあったのに、何も言えなかった。行為中に何度も耳元で「大好き」とささやいたけれど、それだけでは足りないほどに伝えたいことが沢山あった。出かける前に「行ってらっしゃい」のキスをしてあげたかった。そして何より、家計が苦しいはずの信彦にホテル代を支払わせてしまったことを、強く後悔していた。机の上に貼ってある宿泊料金は「九千円」となっており、家計が苦しい信彦には相当大きな負担だったに違いない。
思い返せば後悔することばかりで、潮香はしばらく立ち上がれなかった。
潮香は布団の上に手を当てると、しっとりと濡れているような感触が残った。そのすぐ近くには、信彦の使った枕が置いてあった。潮香は枕に顔を近づけると、かすかに汗の臭いがした。
信彦も、潮香と体を重ねるうちに沢山の汗をかいたに違いない。あの後、ちゃんと汗を処理して、風邪を引かずに無事に仕事に行けたのだろうか?
色々なことを思い巡らせるうちに、潮香は再び後悔の念に襲われた。
シャワーを浴び、服を纏うと、窓の外には駅に向かう人達の波が出来始めていた。仕事や学校へ行く人達だけでなく、お盆休みが終わり首都圏などへ帰る人達が多いのだろう。
潮香も、明日にはもう東京に帰らなくてはいけない。東京に帰ると、早速吹奏楽団の練習とアルバイトの日々が待っている。そんな生活が続くうちに、信彦と連絡が取れなくなるかもしれない、そして、信彦のことも記憶の中から消えていくかもしれない。
しかし、潮香にはおぼろげながら予感があった。信彦との間には、ほつれそうでほつれない、頑丈な赤い糸があるような気がした。きっとまた、信彦に会えるだろう。それは今年中かもしれないし、来年、いや、もっと先になるかもしれない。
いつかまた会える日が来るまで、潮香は自分が出来ることをしようと思った。たとえ忙しくても手紙を書き続けよう、今日感じた信彦の体のぬくもりをいつまでも忘れないでいよう、そして、信彦に再び会えるその日まで、恋人を作らず待ち続けよう、と。
~~~~~~~~~
トントン、トントン……
目を閉じて訥々と語り続ける潮香の背中を、誰かが何度も叩いていた。
それでも語り続けた潮香の唇の上を、今度はまるでなぞるかのように指を左右に動かしていた。。
急に口を塞がれた潮香は、語りを止めて目を少しずつ開けると、そこには大きな目を何度も瞬かせながら自分を見つめ続ける信彦の姿があった。
「ごめん、私、さっきからずーっと昔話しちゃってたね。信彦君もさすがにもう飽きて来たよね」
潮香は苦笑いしながら信彦の指を片手で掴むと、自分の口から外そうとした。
「でもさ、私と信彦君を結んでいた赤い糸は、どれだけ時間を過ぎてもちゃんと繋がっていたんだなって。それがすごく嬉しくてね、つい長話になっちゃったの。ごめんね」
信彦は潮香の口から指を離すと、大きな目でまっすぐ潮香を見つめていた。相変わらず言葉を発せず無表情であり、意思を感じ取ることは難しかったが、話を始める前と違い、その視線には何らかの意思が感じ取れた。
「ど、どうしたの? そんなにまっすぐ見つめてきて……今のお話で、何か気になることがあったの?」
潮香は信彦に伝わるように、自分の顔を指さしながら何度か首を傾げてみた。
すると信彦は、潮香が着ていたレインコートのポケットの辺りを何度も指さした。
「ここ?」
潮香はポケットを触ると、信彦は大きく頷いた。そしてポケットからは、数秒おきに何かがブルブルと振動している音が聞こえてきた。どうやら、潮香のスマートフォンからの音のようだ。
「あ、着信があったんだ……」
潮香は信彦に「ありがとう」と伝えると、ポケットからスマートフォンを取り出し、耳に押し当てた。
「はい、住吉です。あ、部長! すみません、電話に出られなくて」
電話の主はアナウンス部の熊谷部長だった。スマートフォン越しに聞こえるいきり立ったような口調から、抑えきれないほどの怒りの感情がありありと伝わってきた。
「あ、はい、そうです。中継していたんですけど、途中でちょっと……。え? そうなんですか? それは申し訳ありませんでした」
潮香は電話の向こうから怒声を上げる熊谷の言葉を聞きながら、謝罪の言葉を発しつつも何度も頭を下げていた。
電話が途切れると、潮香は大きなため息をつき、手にしていたヘルメットを被り直した。
「ごめんね信彦君。私ね、仕事で呼び出されて、すぐに東京に帰らなくちゃいけないの。会ったばかりなのに、そしてもっと話したかったのに」
潮香は信彦に向かって何度も頭を下げながら、「帰らなくちゃ」という言葉を上手く伝えようと部屋の外を指さすと、信彦は首を左右に傾けながら潮香の表情を不思議そうに見つめていた。
潮香は立ち上がると、すぐ目の前に立つ信彦の両肩に手を載せ、力ない笑みを浮かべた。
「バイバイ、また会いに来るね」
潮香は手を振りながらそう言い残すと、信彦は目を細め、心なしか寂しそうな顔でその場に立ち尽くしていた。この場を立ち去るのは心苦しかった。しかし、信彦が当面この場所にいるのが分かったことだし、時間を作ってまた会いにいこうと心に決めた。
今日の話では思い出してもらえなかったけれど、今度こそは思い出してもらえるように……。




