コブクロ様
ここに、ある伝記作家が残した本がある。
古ぼけた書店の奥の奥、埃をかぶったその本を見つけた私は、好奇心か、あるいは何かに引っ張られたのか、その本を手に取った。
表紙は、どうやら薄緑色の革でできているらしく、フッ、と息を吐くと積もっていた埃が全部舞って、そこにぶら下がっていた裸電球の光を遮り、まるで黒い雪が昇るように宙を舞った。
おかしなことに、その本には値札が付いていなかった。つけ忘れか、あるいは、経年の劣化によって剥がれてしまったのか、よくわからない。
が、私はとかく、本という本にめっぽう弱い人間であり、レジであくびをしているおばあさんにその本の購入を申し出て、家に帰った。
古びた、二階建ての木造アパートに私が帰ったのは、もう夜も深まった頃の事だ。ここ最近は例年以上に夏の暑さが厳しくて、日がすっかり落ち込んでしまったこの時間でも、じめっとした暑さと湿気が私の身体を襲った。
私は、いつものように半裸になると、制汗シートで汗と垢を拭い、ささくれ立った畳の上に座った。
そして、今日買った本を、ただいつものように読み漁るのだった。それが、私の唯一の趣味だった。
今回、私が買った薄緑色の革の本。よく見て見ると題名も作者も書いていない。ソレにとても分厚く千頁はあるかと思うほどだ。中身を見て見ると、文節も、空白もなく、びっしりとすべての頁に文字がしたためられた、とても読みにくい文章だ。
私は、しかしコンビニで買った水をちゃぶ台の上に置き、その本の中身を精査することにした。
どうやら、その本はとある地方の伝承に関する物の様だ。が、詳しい場所までは書いていない。この本を読んで興味本位で行く者がいるかもしれないと、思っているのだろうか。
一七二四年。ちょうど三百年前の事の様だ。その年、災難がある地域を襲った。台風や雷雨、土砂崩れに豪雪。そして、飢餓。一年を通してあらゆる災害が起こったことを、その本は示していた。
そのたびに何十、何百という村民が死に絶え、そして、村の一つが滅亡した。
次の年、また隣の村で災害が起こった。台風に雷雨、土砂崩れ、豪雪。そして、飢餓。この村もまた、滅亡した。
また次の年、やはり隣の村で災害が起こった。台風、雷雨、土砂崩れ、豪雪、そして―――。この先は言うまい。
こうして十年間に渡ってたくさんの村を災害が襲い、そのたびに何百という村民が死に絶えて来た。
そして、十一年目、とある村を台風が襲った。
もはやそれ位の年になると、近くにある村々で発生した災害の事は噂になっていて、村民皆が恐慌状態に陥っていたという。
このままでは、この村も全滅してしまうぞ! そんな、村長の声で集まった村民は集まり、一つの答えを出したという。
これは、神様の祟りなのだと。
馬鹿げている。私は吐く様に言うと飲み干した水の入っていたペットボトルをその辺に捨てて、もう一本のペットボトルをちゃぶ台の上に置き、本を読み進めた。
これは、神様の祟りなのだ。
そう答えを出した村民は、神様に生贄を差し出さなければならないと、躍起になり村中で神が好みそうな贄を探し出した。
選ばれたのは、若い女子達だった。まだ十にも満たず、赤い血も流れたことのなかった乙女たち五人が、神様への生贄に選出されたのだ。
本には、その時の子供たちの悲鳴が鮮明に記されている。
≪ヤメテケレ≫
≪イヤダシニタクナイ≫
≪ハハサマ、ハハサマ≫
≪アハハハハ! アハハハハハハ!!!≫
あまりの恐怖に狂ってしまった女子もいたが、村民たちはそんなことも気にせずにせっせと生贄を作る準備を始めた。
その中で、一人だけ何もしゃべらない女の子がいた。
その女の子は、天涯孤独な女の子。生まれる前に父が崖から落ち、母は己を出産した時に息絶え、そのかわいそうな境遇から村長に育てられた女の子。
そんな子が、生贄に選ばれたのだから、大層な言葉を吐く者だと誰もが思っていた。
けど、その子は何も言わなかった。残根の言葉も、悲壮な顔を見せることなく、いい意味でおとなしく、悪い意味では不気味なほどに、少女は、その日が来るまで牢の隅で体育座りをしていたという。
そして、迎えた生贄を差し出す日、まるで、それを待ち望んでいたかのように村には雷雨が襲った。
雨は山を削り、雷は人を焼き、野を焼き、家を焼き、このままでは村が無くなってしまう。そう考えた村長は、村の地下深くの独居房に隔離していた子供たちを生贄に差し出すために向かった。
火が付いた松明の灯を目印として、階段を滑らないように、しかし足早に降りて行った。
松明に使った油の匂いで、鼻が充満している中、ついに独居房に辿り着いた村長。
瞬間、喉に何かが詰まったような衝撃と戦慄が走った。
血だ。
牢の中は血で、埋め尽くされていた。
まさか、そんなはずはない。村長は持っていた鍵で牢を開け、中に入った。
ピチャ―――
嫌な音と感触を足に感じながら入った村長に、言葉はなかった。
そこには、確かに自分たちが生贄として選んだ子供たちの死体があった。
どうせ生贄にするからと服も着せず、また飯もくれてやらなかったその身体は、松明で灯すとその陰陽がはっきりするくらいに細く、血にまみれた下腹部とは違い身ぎれいなその顔は―――。
ヒャッ!!!
村長は、その顔を見た瞬間に腰を抜かし、血でまみれた床にその尻を付けてしまった。
そう、その少女たちは皆、笑っていたのだ。
まるで、これから父や母と出かけるのだと、そう言っているかのように、笑っていた。
痛みが快楽であるかのように、死が極楽であるかのように、彼女たちの顔に張り付いた笑顔。
一人目だけじゃない。二人目もそうだ。
三人目もそう。
四人目だって、狂った笑い顔じゃなく、安らかな笑顔だ。
そして五人目―――。
どこだ?
五人目は、どこにいった?
ワシが育てていた、あの子供は、どこにいった?
一体、どこ―――。
≪ハヤカッタ≫
ッ!?
こうして、村は滅びた。土砂崩れを待たずして、雷雨をもってその村は全滅したのだった。
そして―――。
「え?」
私は、その本の最後の頁に書かれた文章に、戦慄した。
それから数日後。都内にある古ぼけたアパートの一室で、変死体が発見された。
その人物は半裸で、死後何日も絶っていたが故に腐敗が進んでいて、捜査員たちは誰もがその匂いに顔をしかめていた。
だがおかしい。明らかに他殺と思われるこの現場において、奇妙なところ。
家は内側から鍵がかけられていて、開けるための鍵はその人物が持っている一本のみ。
外からこじ開けられた形跡もなく、また争ったような跡も見られない。
で、あるのに対して何故捜査員たちは誰もその事件を自殺や病死であると疑わなかったのか。
簡単なことだ。
その≪女性≫から、大切な物が抜き取られ、そこから大量の出血がささくれ立った畳の上に流れ落ちていたからだ。
だが、だとしてもおかしい。
どうして、この女性は。
こんなにも。
エガオで死んでいるのだろう?
捜査員は知らないことだが、女性が死んだ夜、買っていたはずの本はその部屋から消失していた。
そして、その本は今。
古ぼけた書店の奥の奥にある。
今日もまた、一人の女性がその本屋の前を通りかかった。そして、レジにいたおばあさんがその女性に言うのだ。
『ここに、ある伝記作家が残した本がある』
女性は、まるで吸い込まれるかのように本屋に入っていった。




