第二章(1)
アトレー公爵令息レヴィン伯夫人だった女性――つまりはセオドアとメルディーナの母が息を引き取ったのは昨年の晩秋のこと。彼女はオルグレン家の分家筋にあたる男爵家の出で、快活な女性だったそうだ。しかし、セオドアの思い出の中の母親は、幼心に不安を掻き立てるような儚い印象を与える人だった。
貴族の子供は乳母や子守りに育てられるため、親子の交流が少ない家が多い。その上、セオドアは六歳の頃から王都別邸で育ったため、公爵領本邸で暮らす母と会うのは年に数回ほど。穏やかな笑みを浮かべ、家庭教師からどんなことを学んでいるのかを聞いてくる母親に会うたび、セオドアは嬉しさを感じつつも少し緊張した。穏やかな表情とは裏腹に、その瞳の奥がぎらぎらとしているように見えたのだ。
今ならわかる。第一子出産後に体調を崩し、なんとか持ち直して第二子を出産してみたら、産まれたのは女児で、しかも二度と子供を望めぬ体になってしまったことが母親をそうさせてしまったのだろう。
伝統貴族の中でもオルグレン家の歴史は古く建国にまで遡ることができる。その上、臣民としてはじめて公爵位を賜った家でもある。その跡継ぎとなる男子を産まなければならない、という重圧があったことは想像に難くない。
次期公爵である公爵令息には他に兄弟がないため、万が一を考えると次男以下が求められた。長男が健やかに育つとは限らないし、育ったとして優秀であるかもわからない。直系の血を絶やさないことが強く強く求められたのだ。
そんな周囲の期待に反して、生まれた二人目は女児だった。だから、母は唯一の男子で嫡子でもあるセオドアの出来をひどく気にしたのだろう。
母の訃報を聞かされたとき、セオドアはもう二度とこの胸に空いた何かが埋まることはないのだと、漠然と思ったのだった。
馬車から降りると、湖面を渡る風がセオドアの髪を揺らした。季節は秋の終わり、すでに紅葉の季節は過ぎ、冬の気配を感じる。
国教である聖教会の国内本山である大聖堂は、世俗と切り離された森の奥深く、主神降臨の伝説により聖地と認定された湖の畔にある。人々の祈りを届けるべく空へ空へとのばされた尖塔に、人々に祈りの時間を告げる鐘塔。神々の祝福を取り入れるための大きなステンドグラス。夏であれば多くの人々がここに祈りを捧げに訪れるのだろうが、季節外れの今、車寄せにはセオドアらが乗ってきた公爵家の馬車しかなかった。
「お待たせしました」と門楼の詰所で手続きを済ませたヒューイが戻ってきた。
大聖堂とその門前町は城壁で囲まれており、所定の手続きを済ませなければ、どのような身分であっても、俗人はその門をくぐることは叶わないのだ。
「――無事のご到着、何よりでございます」
そう言ってセオドアに頭を下げたのは、ヒューイに連れられてきた長身の男だった。その後ろにはやや年老いた男が二人、同じように頭を下げている。
「大旦那様のお申し付けでぼっちゃまとヒューイ様をお迎えにあがりました」
そう言う男の顔に見覚えがある。
「……別邸の者か?」
「はい。執事見習いのノーマンでございます」
領地から大聖堂まで陸路では時間がかかる上、野盗などの心配もあるため、川を船で降るのが一般的だった。しかし、さすがに馬車と馬を積むことはできない。馬車を馭者ごと借りるという方法もあるが、本邸から公爵家の紋章付きの馬車を迎えに寄越したのだろう。
「ご苦労だったな」
「いえ。――一日馬車に乗りっぱなしではお疲れでしょう。すぐ宿へとご案内します。お荷物はこの者たちが荷車でお運びしますので」
ノーマンらの後ろ、城壁のそばには飾り紋様が入った二輪の荷車が置かれていた。馬やロバなどの動物はいないので、どうやら年老いた男らはそのための人足らしい。
王都からこの大聖堂まで馬車でおよそ一日の距離。それをセオドアとヒューイの二人だけで、というわけにはいかなかった。
馬車をある程度の距離、問題なく走らせるためには、専門の馭者がいる。それに何かあったときの調整役兼雑用係も兼ねた従僕がひとり。それだけではない。公爵家の紋章入りの馬車が単独で街道を走るわけにはいかないため、これに騎馬の護衛が最低二名つく。
しかし、彼らは基本、自分の荷物は自分で運ぶ。
だから、荷車はセオドアのためだけに寄越されたと言っても過言ではないだろう。爵位持ちではないが公爵家家臣の郷士を父に持つヒューイの分も加えてもいいかもしれない。なぜなら、上流階級の人間は、旅先でもいつもと同じを望むものであり、たった数日の滞在とはいえ、荷車が必要なほどの荷物があっても不思議ではない、と祖父たちは判断したのだろう。
その予想を裏切って、宿の標章があしらわれた荷車に積まれたのは旅行鞄がたったの二つ。
「……他の者たちの荷物も載せるか」
「いけません。そのようなことをすれば大旦那様にみなが叱られます。――荷物はこれで全部ですので、宿に向かいましょう」
ノーマンを先頭に門をくぐる。石畳の道はやや上り坂になっていて、荷車がギリギリすれ違えるほどの狭さの道が大聖堂へと続いている。
「手で持ってもよかったのだが、」
「ぼっちゃま、我々の仕事を奪わないでください」
「そうです。学院ではないんですから。何もかもご自身でされてしまうと我々の仕事がなくなります」
ノーマンとヒューイの二人から言われ、セオドアは降参する。
生徒のほとんどが上流階級の子弟であるにも関わらず、アカデミーは自主自立が基本。世話役の使用人を連れてくることは禁じられ、自分のことは自分ですることになっている。ヒューイのような侍従や侍女をルームメイトにしていることもあるが、それは彼ら彼女らが将来の補佐役を務めることになるからであり、身の回りの世話係といった役割を期待してのものではなかった。
それでも、アカデミーから出てしまえば、何もかも世話をしてもらうようになる者も多い。セオドアも、以前は旅の身支度などはヒューイに任せっきりにしてしまっていた。それが侍従である彼の仕事だからだ。
今回も、ヒューイはいろいろと準備をしていたようで、それこそ旅行鞄ひとつにはおさまらないほどだった。それを全てひっくり返して、鞄ひとつにまとめてしまったのは少し申し訳ないとは思う。特に衣装類は必要最低限にしてしまった。
時間や場面、相手に合わせた服装をすることは礼儀でもあり、何を選ぶかは侍従や侍女の腕の見せ所でもある。旅先では何が起こるかわからないため、いろいろと準備しておきたいと言う気持ちもわからないでもない。
忠実な侍従の気持ちをわかりつつも、セオドアは今回の準備を自分の手で行ったのだった。
――メルディーナの未来を変えるためには、まず私自身が変わらなければならない。
その最大の難関が自分とメルディーナの祖父であり、アトレー公爵家当主でもあるマイルズ・デッセ・オルグレンその人であった。