第一章(4)
セオドアとシルヴィアがはじめて顔を合わせ言葉を交わしたのは、シルヴィアが十歳を迎えた春のことだった。
その日、ジルバ侯爵家王都別邸の庭園では、侯爵令嬢の特別な誕生日を祝うガーデンパーティーが開かれていた。ゼロがつく誕生日は盛大に祝われるのが習わしで、特に上流階級にとって十歳の誕生日会は公式なお披露目の場となる。子供が健やかに育つのがむずかしかったころの名残りだ。
ジルバ侯爵家当主の第三子、シルヴィア・アンカーソンの誕生日会には、多くの人が招待に応じた。国内の王侯貴族だけでなく、各国の大使や外交官の姿があるのは、現当主である侯爵が外務大臣も努めているからだろう。一方で、上流階級の集まりではあまり見かけないような商家や芸術家、職人などの若手の姿も見られたのは大商会を経営するアンカーソン家ならではというところだろうか。
懇意にしているなどの特別な理由がない限り、上級貴族主催のパーティーに庶民が参加することはあまりない。古い歴史を持つ伝統貴族の中には内心眉を顰める者もいたが、表に出す愚か者はいなかった。ジルバ侯爵家の不興を買って無傷でいられるような家門などこの国には存在しないと言っても過言ではないのだから。
来月に十歳を迎えるセオドアはこの日、アトレー公爵家継承者としてレヴィン伯を名乗る父親の同伴者として参加していた。私的な集まりでない限り、お披露目前の子供はそのように扱われるのが常なのだ。
本日の主役である侯爵令嬢とその父親である侯爵に祝意を表す父親の隣りで、セオドアは黙ってお辞儀をしていた。
「本日はわたくしの誕生日の祝いの席にお越しくださいまして、ありがとうございます。楽しいひとときを過ごしていただければと思います」
鈴のような声がセオドアの耳朶を打つ。子供特有のやや甲高い声は、ふだん関わることが多いメイドたちとは違う響きを持っていた。
この日、二人が顔を合わせたのはこの挨拶のときだけであった。
元々、ジルバ侯爵家とアトレー公爵家はあまり交流がない。上流階級の付き合いとして招待状を送り、それに応じただけであり、子供同士もそれをよく理解していた。
だから、次に二人が言葉を交わしたのはセオドアの誕生日会の席だった。ジルバ侯爵が祝いの言葉を述べ、シルヴィアがその隣でお辞儀をし、そしてセオドアがお礼の言葉を述べるという形式的なやりとりで終わった。
その後、他家の家庭招待会などで顔を見ることはあっても、お互いに積極的に言葉を交わすことはなかった。家門同士の仲が良いわけでも、政治的な派閥が同じというわけでもなく、その上異性同士ともなれば、それは自然な距離感とも言えた。
そんな二人の関係は王家が仲介する形で整った婚約によって大きく変わることとなる。
それは、力をつけて勢いのある新興貴族と、古い歴史を持つ伝統貴族との対立を避けるためにとられた手立てのひとつ。いずれ自分も政略結婚をするのだろうと思っていたセオドアは、公爵家当主である祖父からその話を聞いたとき、自らの家門が選ばれたことに幾許かの誇らしさを覚えつつも、その相手に対し特別な感情を抱くことはなかった。
そして行われた両家の顔合わせの席で、セオドアらおよそ二年ぶりにシルヴィアと言葉を交わすこととなった。
「――セオドア様は好きなお花などはございますか?」
王宮の応接間で挨拶をしたのち、セオドアはシルヴィアと二人だけで庭園へと送りだされた。少し離れたところに互いの側仕えが付き添っているものの二人きりと言っても過言ではない。
だから、セオドアはいささか緊張していた。
どのような態度を取ればいいのか、両親の姿から学ぶ機会がなかったセオドアは、参考にすべき情報がなかった。しかし、そのような内面をおくびにも出さずシルヴィアをエスコートする。
そして、好きな花を聞かれた。
初夏を迎えて新緑がまぶしい庭園には色とりどりの花々がほころぶように咲いている。
「……わたくしはガーベラやカーネーションなどが好きですわ。花びらが多くて、まるで妖精のドレスに見えるんですの」
大輪のように笑うその柔らかな頬は薔薇色をしている。
「――私は、」と口を開いたものの、浮かんでくるものがなかった。紳士の嗜みとして花とその花言葉は知っていたものの、好きな花は何も浮かんでこなかったのだ。
「では、お好きな季節はありますか? わたくしはやはり生まれた季節である春が好きですの。冬の間固くなっていた蕾が一斉に芽吹くさまは、春の女神の息吹を感じます」
きらきらと期待に輝く瞳がじっとこちらを見ている。
「……秋、だろうか」
「理由をお伺いしても?」
「体を動かすのに気持ちがいい気候だから」
「確かにそうですわね。体を動かすのがお好きなんですの?」
「父上から、領主は体が資本だと聞いている。何かあればすぐに動けるようになるには、日頃から鍛えておく必要があると、」
なるほど、とシルヴィアは頷く。
「わたくしも体を動かすのは好きですわ。幼いころは兄たちとかけっこをして、よく子守りにはしたないと叱られてましたの」
貴族令嬢が体を動かすとしたら、それはダンスか乗馬くらい。男きょうだいとかけっこをする令嬢の存在にセオドアの目は見開かれる。
「セオドア様もはしたないと思われますか?」
「いや――」セオドアの脳裏に、床上げできないままの母親の姿が浮かんだ。「女性であっても、体力があることは良いことだと思う」
ぱっ、とシルヴィアが表情を明るくする。試されたのだとセオドアは思うが、嫌な気分にはならなかった。
それから、二人は定期的に会うようになった。この婚約は王家が取り持った政治的なもので、本人たちが嫌だと言っても覆されることはない。だからといって、政略結婚によくある「世継ぎを産めばあとはお互いに好きにする」という家庭にはしたくないという点で、二人の意見は一致していた。
シルヴィアは自身の両親のような家庭を築きたいと言い、
セオドアは自身の両親のような家庭にはしたくないと思った。
「わたくしはセオドア様のことを知りとうございます」
お互いの意見を確認したのち、シルヴィアが提案してきた。
「あなたのことを知りたい、と思い、それを伝えることは、愛の言葉よりも雄弁に気持ちを伝えてくれるそうですの」
その日二人はジルバ侯爵の王都別邸庭園の東屋でお茶の時間を楽しんでいた。王宮の庭園で婚約者として会ってから、一週間後のことである。
「政略結婚をはじめて聞かされた時、どうしたらお父様とお母様のように、婚約者となる方と仲良くなれるだろうか、と思いましたの。そうしたらジュリアンお兄様が教えてくれました。あなたと仲良くなりたい、あなたに関心を寄せている、と雄弁に伝えてくれるのは、あなたについて教えて、と伝えることだと」
セオドアは王宮庭園での出来事を思い出す。
「ただ、一方的にわたくしが聞いてばかりですと、その、はしたないのでは、と思い至りまして」
徐々に頭が下がり、うつむいてしまったシルヴィアの、髪からのぞく耳が赤い。
「ですが、セオドア様は呆れることなくわたくしの質問に答えてくださって。それがわたくし、とても、とてもうれしかったのです」
「――では、」
とセオドアは、自身の頬がほてるのを感じながら言う。
「今日はあなたのことをいろいろ聞かせていただけるだろうか」
バッ、と顔が上がる。薔薇色に染まる頬に、エメラルドが蕩けるように笑う。
「もちろんですわ」