第二章(5)
追悼礼拝とは、故人が亡くなってから一年後に行われる礼拝のことを指す。
息を引き取った瞬間、魂は肉体を離れ冥界を目指して旅立つのだが、その道はひどく迷いやすい。それゆえに冥界に辿り着けないまま地上を彷徨う亡者になってしまう者も少なくなかった。だからこそ、残された生者は、死者が迷わず冥界へと辿り着けるよう、彼らのために祈りを捧げる。死者が歩む道が冥界へとまっすぐ延びて行くようにとの願いを込めて。
セオドアの、メルディーナの母親である伯爵夫人の追悼礼拝は、大聖堂の一角にある礼拝堂で執り行われた。
冥界の主人とその娘である死と葬送の女神、二柱を模した彫像の前にある祭壇には捧げ物として神饌と幣帛が供えられ、司祭が朗々と祝詞を奏上する。
参列者はオルグレン家の三人だけ。マイルズ、セオドア、そしてメルディーナの順に信徒席の最前列に並び、手元の聖句集に目を落としながら司祭の進行に合わせて祈りを捧げる。
葬儀は故人に縁のある者も参列するが、追悼礼拝は貴族であっても近親者のみで執り行われることがほとんどだった。平民と違うのは、籍のある領地の聖堂ではなく、この大聖堂で執り行うことが暗黙の了解となっていることぐらいだろうか。貴人も下人も神の前ではみな直人、俗人で、規模は違えどその儀式の中身は同じ。神官による祝詞、奏楽、そして、祭壇に捧げられる神饌と幣帛。式の流れもまた同じであった。
――シャンシャン、と侍祭による鈴の音が、晴れた秋の空へと舞い上がっていく。
鈴の音と、もうひとりの侍祭が捧げ持つ香炉の香りに導かれるようにして、参列者は花環を持つ司祭を先頭に大聖堂の外、湖に面したバルコニーへと出る。
先ほどいた礼拝堂よりも広いその場所は、屋根のない大広間のようだ。遅い時間であれば、きっと遠く西方にある山々に沈む夕陽が見えることだろう。今はまだ昼前で、中天にかかろうとする太陽の光を受けて、湖面がきらきらと煌めいて見えた。
追悼礼拝は、花環を流れる水に捧げることで締めくくられる。川などの自然の水流が望ましいが、立地的にむずかしい場合は聖堂敷地内にそのために造成した人口の川などを用いた。
そして、ここ、大聖堂では、主神降臨の伝説が残るこの湖に投げ入れることとなっていた。
司祭の手にあるエディブルフラワーで作られた花環は、昨日、セオドアとメルディーナが手ずから作ったものだ。聖堂が用意したものもあるが、遺族が作ることが望ましいとされており、どれだけ階級の高い貴族であっても、ほとんどの家が親族の手で花環を作るものだった。
流れる水に捧げるのもまた親族の役割であり、故人に特に近しい者が担うことが多い。夫人のための花環を湖に投げ入れる役目はセオドアに託された。湖に面しているとはいえバルコニーは張り出しているわけではない。そのため、ひと抱えほどもある花環を投げ入れようとすれば腕力や肩の強さが必要で、誰でも務められるものではない。そのため、ここ大聖堂では例外的に代行者を用意していた。
司祭の合図を受け、セオドアは湖に対して身体を横向きにし、花環を持つ手首と腕とを抱き込むように曲げて、そこからまっすぐに戻す際の反発力を使って投げ出す。手から離れた花環はくるくると回転し、花びらを散らしながらまっすぐに湖を目指す。そして、音もなく着水した花環は湖流に乗って、事前に説明されたとおり、湖心へと緩やかに進みながら沈んでいく。
花環はエディブルフラワーとそれをまとめる藁紐だけでできているというのに、まるで重しをつけているように、まるで水中から引っ張られるようにして、――消えた。
その全てが、前回とまったく同じ出来事だった。
花環が沈むのを見届けて、最後の祈りを捧げる。追悼礼拝自体はそれで一応終わりだが、この後、礼拝を取り仕切った神官とともに神に捧げた神饌をいただく神人共食の儀、つまりは食事会が設けられることが慣例となっている。
祭壇から神饌を下げ、調理するまでの間、バルコニー、あるいは大聖堂の中で待つようにとの指示があった。準備が出来次第、修道士が呼びにきてくれるそうだ。バルコニーに吹く湖風は冷たく、マイルズは早々に大聖堂へと戻っていった。それと入れ違いになるようにして、控えの間にいたヒューイとデニスがコートとショールを手にして現れる。
「――メルディーナ」と名を呼ぶと、その瞳がゆっくりと湖からセオドアへと移った。
「体が冷えてしまう」
「――!」
セオドアはヒューイから受け取ったコートをメルディーナの肩にかけ、デニスの差し出したショールをその首元に巻いた。
驚きに目を丸くしたメルディーナは、自分を包む防寒具と兄を交互に見て、自分の身に起こったことに気づくと、
「後継者であるお兄様の方こそ、暖かくしてください。御身の方がわたくしよりも大事です」と、焦りが滲んだ声で訴えてきた。
「私なら大丈夫だ。そもそも男性ものの礼服は生地が厚いし、これもあるしな」
セオドアは学院の制服であるブロックコートの上に羽織ったケープを示す。
「それに、私にとってはお前の方が大事だ」
――その言葉が耳朶を打った瞬間、菫色の瞳は大きく見開かれ、じわり、と涙の膜が張った。それをこぼすまいと、何度も瞬くメルディーナの姿にセオドアは胸が痛くなる。
きっと、ずっとこうやって、堪えてきたのだろう。
ただ、大事だと伝えただけなのに。
ただそれだけなのに。
この少女は頬を赤く染め、震える心が外にまろびでそうになるのを必死に堪えている。その姿を見られたら叱られてしまう、と思っているように見えた。
「私にとってお前はたったひとりの妹だ。大切でないわけがないだろう。――それに、」
見上げてくる少女は誰かに守られるべき存在だというのに、自分はいろいろなことをこの子に押しつけてしまっていた。
二人の母親の死は急なものではなく、緩やかな坂を下るように儚くなっていったのだ。そのそばにたったひとりでいさせてしまった。これからもあの大きな邸にひとりだけ残してしまった。
少し考えればすぐにわかることなのに、セオドアは自分のことしか考えていなかった。
これからセオドアは、学院でシルヴィアとの仲を深め、友人を作り、充実した学生生活を送る。そして、優秀な成績で卒業し、官職を得て宮廷に出仕し、仕事に慣れてきた頃にシルヴィアとの盛大な結婚式を挙げるのだ。
これまで通ってきた自分だけが幸せになっていく未来が一気に押し寄せてきて、息ができなくなった。
そんな兄を見て、寒々しい邸宅に残された妹は何を思ってきたのだろうか。今はもう知る術がない。――これからもずっと、知ることはできない。できないようにするのだと、セオドアは白い花で満たされた棺で眠る妹の姿に今あらためて誓った。
もう二度と、繰り返したりはしない。
メルディーナ、と穏やかな声となるよう意識して呼びかけて、セオドアは小さな妹と同じ目線になるよう腰を落とした。
「メルディーナ、覚えておいてほしい。私にとってお前は特別なんだ。この世界にたった二人だけの兄妹なんだから。……これまで兄らしいことをしてこなかった者が言っても説得力がないが――」
「いえ、そんな。お兄様は家門の後継者ですもの。わたくしなんかを構う義務などございません。――っ、申し訳ございません。お話を遮るなんて」
「謝らなくていい」とセオドアが言っても、メルディーナはこれまでのセオドアの言動と自身の失態でわかりやすく混乱していた。
こういうときにどういう対応をすることが正解なのか。頭の中の教科書のページを必死にめくっているのだろう。
「――では、謝罪の代わりに私の願いを聞いてくれるだろうか」
「――はい! なんでもお伺いします!」
「好きな花を教えてほしい」
「……は、花でございますか?」
ドレスの袖をたくし上げようとしたメルディーナの動きが止まる。――それに気づいたが、セオドアは言葉を続けた。
「……ああ、好きな花を教えてほしい。あと、好きな季節も教えてほしいな。ちなみに、私は秋が好きだ」
何を聞かれているのだろうか。なんと答えるのが正解なのか。メルディーナの菫色の瞳が戸惑いに揺れる。
「メルディーナの思うまま、感じるままを教えてほしいんだ。今すぐに、というわけではない。ゆっくりと時間をかけたっていい。その好きが変わったとしても構わない」
「あの、」
「なんだ? 疑問があるなら遠慮なく聞けばいい。お前だって公爵家の一員で、私の妹だ。気後れする必要はないんだ」
「その、どうしてわたくしの思うことをお知りになりたいのでしょうか。……それほど重要なこととは思えないのですが」
揺れる瞳はそのまま下を向き、前髪に隠れてしまった。
「そんなことはない。私にとっては重要だ。……メルディーナ」
怯えさせないようにと、ゆっくりとセオドアはその細い肩に手を置いた。
「お前は私にとって特別なんだ。それをどうか覚えていてほしい」
固い固い蕾が緩まり綻ぶために何が必要なのだろうか。きっと、何もかもが不足しているのだ。
メルディーナの細い肩は、小さく震えていた。
だいぶお待たせしました。