意見の対立から、調理長に首を宣告した裕二が、自らキッチンに入り何とか店の売り上げを目指そうとする中、優子がやって来る。
第五章 (越権行為)
イギリスへ帰ると、又楽しくもない、職場が待っていた。
しかし、レストランは忙しくないと言うだけで、何事も無く、無事営業されている。
ただ、日本人旅行客から、メニューにない食事を頼まれた場合、ひと悶着ある
だけで、普段は特別な問題を抱えている訳ではない。
裕二は職場とは裏腹にこのごろ、ルンルンの気持である。
優子がやって来る。
手紙にはすぐ、会社を辞めて、渡英の準備をするが、一ヵ月程かかり、
遅くても年内いっぱいには行けるとあった。
裕二は高級住宅のだだっ広い部屋に、家具も入れずベッドとTVだけの生活を
送っていた。
家具は、服と一緒で、好みがあり、洋服のセンスのある優子に任せた方が
いいと裕二は考え、何も調達していなかった。
と言うより、一人で家具の調達なんか、やりたくなかったのが、本音である。
(この部屋を優子が好きな家具で満たして・・・)
裕二はやっと優子と二人だけの新婚生活がスタートするのである。
この希望あふれる優子とのロンドンでの新居生活。
裕二は考えただけで、何だか幸せな気分になっていた。
事件はそんな日のある夜、突然起きた。
このホテルに宿泊する日本人の団体から、持ち帰りの注文が来た。
チーフのヤマさん(裕二を補佐するホールの責任者)に直接話があったそうで、
ある日本人旅行客から、毎日、毎日、洋食で元気も出ないから、オニギリを
作ってくれないかとお願いされたらしい。
チーフも裕二と調理長のいさかいは、良く知っているので、独断で処理できなく、
裕二の所に相談に来た。
その話を聞いた裕二は、一瞬、調理長の吉田の顔が浮かんで、気が重かったが、
調理長とモメたくないから・・・等と断ったら、それこそ裕二の心証までもが
疑われる。
注文は二十人前と言う事で、
二十人前では、エキストラの売り上げにもつながって来る。
裕二は、早速調理長に話に行った。
キッチンで裕二が目にしたのは、相変わらず無口で、まるで怒ってるかの様に
仕事をしている調理長の姿だった。
裕二は低姿勢で、
「又、特注があるんですが・・・」
と、おそるおそる調理長に声をかけた。
調理長は、裕二を振り向く訳でもなく、忙しそうに包丁を動かしながら、
「何時に?」
「何人前?」
「中身(オニギリに入れる)は?」
と、まるでOKの時の話のように要点を聞いて来た。
「時間は明日の朝、ちょっと早いですが、出発が九時なので、それまでに、
二十人前(各三個のオニギリ)で、中身はお任せです。
又たくわんでも付けていただけたら有り難いと言っています」
と、裕二は簡潔に、要点だけを述べた。
調理長はちょっと考える様子を見せ、
答えた。
「無理だな」と。
こんな場合、店長はどんな態度を取るべきなんだろう。
調理長が無理と言うから・・・と、この話を断ってしまえば、裕二はその責任を
調理長に押し付け、この、面倒な話から逃げる事も出来る。
一番楽な、そして全くその責任が裕二に及ばない、無難な解決方である。
しかし、この日、裕二はちょっと違った。
裕二は、内心ムカムカしていた。
確かに裕二は新米か、年下か知らんが、バカにしていると思った。
(痩せても、枯れても俺はここの責任者だぞ)
と、言う意識がそうさせたのだろうか。
「どうしてですか?」
と冷静を装い、調理長に聞いた。
「どうしてかって・・我々の出勤時間は朝の十時だ。オーバータイム
(時間外手当)でも付けてくれるの?」
一番、 核心を突いた質問でもあり、逃げ方でもある。
レストランみたいな商売は、小さな売り上げを積み重ねる商売であり、メニューにない、
時間外、大変等と言って、避けて通るような、このような大名商売を続けていれば、
楽した分だけ、自分の首を絞めかねない。
調理長は、今まで裕二と何度かぶっつかっては来たが、やらなかった事はない。
が、今回は明白に出来ないと言った。
裕二は思った。
これから先、調理長のご機嫌を取りつつ、この仕事を続けていても、絶対
この状態が良くなるわけではない。
と言うより、こんな調理長は、もうここに必要ない。
「イヤだったら、私がやりますから」
と、裕二は言ったのである。
「・・・・・・・」
調理長は裕二がこんなに強気な事を言うのを初めて聞いて、
驚きながら裕二を凝視している。
自分で無理だと答えた為か、
裕二が自分でヤルと言うのを、止められない。
調理長は短く、
「あ、そう」と言うと、裕二を無視して、まな板に向った。
勝手にしろと言うわけであろう。
「それから・・・」と裕二は言って一呼吸ついた。
そして、決定的な言葉を調理長に放った。
「調理長、もう調理長はここに必要ないので・・・・」
最後までは言わなかったが、
みるみる、調理長の怒りが頂点に沸騰したみたいで、真っ赤な顔に変わった。
まな板から目を離すと、裕二をにらみつけ、
「何だとこのガキが・・」
と、裕二に向って怒鳴り出した。
裕二が無言でいると、
「どういう意味だ」
とさらに調理長が裕二に詰め寄った。
手にはさっきまで野菜を刻んでいた包丁が握りしめられている。
「ですから・・・」
もう、裕二は後へは引けないと覚悟し、
「もう、ここには必要ないと言いました」
そう言い放ったまま、裕二はキッチンを後にした。
調理長が事務所まで裕二を追っかけてくるかと裕二は心配したが、
それ以上のトラブルにはならなかったので、裕二は一安心した。
調理長は真っ赤な顔をして怒りながら、どうするか考えている様子だったが、
やがて自分の包丁を布に包み、
その後、無言のまま帰ったと裕二は後から報告を受けた。
(帰ったか・・・)
(自分の包丁を持ち帰るのは、出勤の意思がない証拠である)
裕二は、ひとまずの安心感と、何か複雑な感情が尾を引いた。
次の日、裕二は朝七時に出勤した。
成り行きを心配して早出してくれたチーフと、調理人二人の協力で、
時間通りに、二十人前のおにぎりを用意し、手渡す事が出来た。
裕二は、調理人二人とチーフのヤマさんに、お礼を述べると共に、
表の事は、しばらくチーフにやってもらう事とし、
白衣を着て、キッチンに入り、調理長の席に陣取った。
キッチンには、煮方、焼き方、と作業が一応分かれており、調理長は刺身
と寿司しか担当していない。
寿司は慣れるまで多少の時間がかかるかも知れないが、刺身は裕二も
日本のスーパーでやった事があり、そんなに心配はしていなかった。
こんな事(調理長の仕事)なんて、三日もあれば全部覚えてやると
裕二は思っている。
それは、イギリスには信じられない程、魚の種類が少なく、その少ない魚の中から
刺身に出来る魚は限られており、盛り合わせとは言え、サーモンを始め、ほんの数種類の
魚が盛り付けられているだけで、いい給料をもらって日本のスーパーのバイトよりも
数倍恵まれた環境での仕事及び内容であると裕二は考えていたからである。
キッチンに入るなり、
「今まで担当してもらっていた、調理長の仕事は、今から私が引き継ぎします」
とキッチンのスタッフに一方的に挨拶した。
不思議と静かである。
誰もその問題に触れようともしない。
店内も何もなかったかの様に、いつも通りに過ぎていった。
他の板前たちも、調理長について辞めて行く様子もなく、ただ単に店長と
調理長の問題で、我々には関係ないとでも思っているかのようである。
電話が来た。
達磨である。
「ケッー、又か?」
達磨は何処でそんなニュースを知るのか、裕二と調理長とのいさかいを、
もう知っていた。
相変わらずの愉快な笑い声で、
「ワハハハ・・・。」
「ヤルね」
と言った。
「首にしたんだって?」
何だか一人で楽しんでいる感じだが、
今回は多少のなぐさめも言ってくれた。
「俺だって・・・何度も首にしてやろうか・・・と考えた事も何人か居た
しかし我慢した・・・と言うより出来なかった」
それを・・・。」
「良くヤルよ・・・」
裕二は、
「そんなんじゃねーよ」
「そのとばっちりで、今日からキッチンだ」
「ワハハハハ、キッチンか・・・頑張れよ」
この会社の正社員に 雇われ店長が他の従業員に首を言い渡す・・・。
それもよりによって、調理長をである。
こんな事件は、この会社始まって以来の出来事であるらしく、他の店にも
多くの波紋を投げかけた。
会社としても、パートタイムの入れ替えならともかく、店長が勝手に正社員の
首を切ってもらったら、困るのである。
日本人にしか出来ない仕事として、ビザを申請し、半年、一年かけて、
これを取得し、飛行機代、住むところ、仕事を提供し、これからと言う頃、
店長と何かで意見の相違があったとしても、これに解雇を言い渡す等、
社長でもそんな事はした事が無かった。
裕二は会社の騒動を知ってか知らずか、キッチンに居る。
店の機能が損なわれなければ、(別の言い方をすれば、やって行けるのであれば)
店長にその(解雇)権限はあってしかるべきと裕二は考えた。
裕二は、そう考えたが、会社としては、ささいな事で、店長に、こんな権限を施行されたら、困るであろう事も、うなずける。
他の店長達もその権限がある・・・等と勘違いしてもらっては大変である。
後日当然のごとく、裕二は社長に呼び出された。
こじんまりとした応接用のソファーに座り、裕二は今から社長の裁きを受ける為、
社長の到着を待った。
(社長から、首と言われれば、それはそれで仕方のない事。)
裕二は自分がやった事が間違ってるとは思っていないが、店長がそこのスタッフに
首をいい渡す事ができるかどうかまでは、分からない。
越権行為の為、裕二が首を言い渡した調理長は、元のサヤに戻す等と言われたら、
裕二は辞める積りでいた。
そんな事をされたら今度は裕二の立場が無いからである。
社長が入って来た。
その当時、日本人には珍しくイギリス人の奥さんがいて、男の子が三人いるらしい。
五十代だろうか・・小太りの、油がギラギラ光っているような、精力的な人物である。
日本で結婚していたが、イギリスの駐在員を命じられ、単身イギリスに赴任
その後、日本人の妻とは別れ、今の奥さんと結婚したらしい。
結婚を機に、会社を退職し、レストランビジネスを始めたと裕二は聞いている。
「寒いな」
社長は入ってくるなり、そう裕二に声をかけた。
「社長はあまり寒さは感じないのではないですか?」
太っている・・・という事を暗に裕二が、切り返すと、
「バカ言え!私だって寒いさ」
と言って社長はコートをハンガーに掛け、裕二の正面に座った。
座ると直ぐ、社長は切り出した。
「キッチンに入っているんだって?」
誰かが社長に報告したんだろう・・もう社長は一連のトラブルどころか
裕二が、キッチンに入って仕事をしている事さえ知っていた。
「実は、君ん所の調理長が来たんだ」
と社長は話した。
裕二は驚きもしなかった。
この手の人間は身の保全の術も長けていて、このまますんなりと
辞めて行くとは思えなかったからだ。
「何か言っていましたか?」
と裕二が聞くと、社長は、
「色々とな」
と言って笑った。
「そこでだが、今回は君に了解して欲しくて来てもらったんだ」
了解して欲しいなんて、社長の言葉が裕二は解せなかったが、
社長の説明はこうだった。
ここまでこじれた関係の修復は無理だろうが、調理長も辞めたいとは
考えていないと言う。
そこで別のレストランへ調理長を移そうと思うが、首を言い渡した君に
話を通さんと・・・と社長は言った。
「私に話を通すなどとは・・・」
裕二は恐縮してしまったが、社長はさらに続けた。
「私が何も君に相談無くこの件を処理したら、今度は君が臍を曲げかねないし・・・。」
と言って愉快そうに笑った。
その社長の笑顔が、何とも素敵で、裕二は大きい人だなーと感じた。
「でも、その店の店長はOKなんですか?」
裕二は、新しく赴任した所で、あの調理長だったら又何かを起こしかねないと
心配し、聞いてみた。
「大丈夫だ」
「でも又こんな問題を起こしたら・・・」
と、そこの店長を思いやって心配する裕二に、社長は笑いながら言った。
「大丈夫、(そこの店長は)首にする程、肝が据わっていないから・・」
「ワハハハ・・・」
二人とも大笑いをしてしまった。
裕二は、度胸の問題ではないと思うが、度胸の問題にこの話をすり替え、
二人ともうまく元のさやに収めるとは、この社長、伊達に十店舗の店を
束ねる社長じゃない。
裕二は、益々この社長が好きになってしまった。
そこに事務員がコーヒーを運んで来て話は中断した。
事務員の彼女は裕二と、目を合わせるとウインクした。
きっと事務所でも裕二の話に持ち切りで、面白い男・・・とでも
話しているんだろうと裕二は思った。
社長は、最後に
「今回の件は、ベストのチョイス(最高の選択)ではなかったかも
知れないが、君の熱意は買っている」
と言った。
なんと男らしい言葉だろう。
裕二はイギリスに来てこの社長に出会えた事に感謝して、いい気分で
事務所を後にした。
(優子が来た)
レストランでは、(3時~6時)の、休憩時間なのにやけにホールが騒動しい。
「オイオイ!みんな、元気だな」
と言って、裕二が近寄ると、
「店長、聞いて下さい。ミドリちゃんが、イギリス人にデイトに誘われたんですって」
「なんだって?」
「本当かミドリ?」
他の女の娘が、
「でもスッポかしたんですって」
「何だとバカが・・・」
「ミドリ、何一人前に気取っているんだ。」
裕二は面白がってミドリをからかった。
ミドリ。
達磨マネージャーが、空港まで迎えに行って、あまりの驚き(ブスな為)で、
裕二にその身柄を預けた女の子である。
ミドリは、裕二がこの富士レストランに移る際も、
会社にお願いして、裕二と行動を共にし、元気に裕二の元で働いている。
裕二の問いにミドリは、
「すっぽかしたんではありません。行くには行ったんです」
裕二は、ミドリをデイトに誘う男もいるのか・・・と、興味津々で、
「で?」
「二時間も遅れて行ったんですって」
又、他の女の子が答えた。
「バカ」
「反対に二時間前に行って待ってろ」
と裕二が笑いながらミドリに言った。
裕二は、何だか嬉しくなって来た。
どう考えても、不思議な現実が進行しようとしている。
二時間遅れて行っても、相手は待っていたそうである。
「待っていた?」
「二時間もか?」
「相手はアフリカかどっかの真っ黒い土人か?」
裕二は面白くなって矢継ぎ早にミドリに質問した。
嫁入り前の女性に向って、裕二の質問は失礼極まりないだろう
しかし、このミドリは裕二が何を言っても、許すのである。
許すどころか、裕二の失礼な質問にもちゃんと答える。
「いえ、アフリカの土人ではありません」
「ちゃんとしたイギリス人でした」
一瞬、それは物好きな・・・とさらにミドリをからかおうとしたが、
止めて、裕二はミドリを諭すように言った。
裕二も裕二なりに自分で連れて来たスタッフという事で、
親近感をミドリに感じていた。
「ミドリ、以後こんなチャンスがあったら、万難を排しアタックしろ」
「休みはいつでもやるから」
と、裕二が言うと、
「それはどんな意味ですか?」
とミドリは逆に裕二に突っ込んだ。
この娘も中々のユーモアのセンスがある。
だから裕二がいつもからかっているのではあるが・・・。
「どう言う意味?」
「もう二度とないチャンスかも・・・って事」と
裕二は笑いながらそう言い捨てそこを後にした。
その相手はイギリス人で、植物学者と言う事らしい。
裕二には植物学を勉強するなど、別の種類の人間みたいに思えたが、
植物学をやっているからこそ、ミドリの何かに魅了されたのだろう。
いずれにしても良い話だ。
(こういう事が起きるのなら、結婚を望む日本中のブスの女をイギリスに
連れてきたらいいのではないか・・・)と
裕二は真剣に考えた。
暮が迫っていた。
間もなく、優子が来る。
裕二は、室内の装飾は優子が好きにやればいいと考え何もしていなかったが、
鍋、釜、茶碗、と食事の為の準備くらいは・・・と考え一通り揃えておいた。
揃える事を考え始めて、簡単な、例えばラーメンくらいは、
とインスタントラーメンを買ってくると、
それを使うドンブリの入れ物が要る。
コショウ等の調味料、箸もいる。その前に煮炊きする鍋がいる。
きりがない。
裕二は途中であきらめた。
裕二の仕事は自分が働くレストランで食べる事が出来、この点だけはいちいち三食に
煩わされずにいられる事が、恵まれていると思った。
十二月、ロンドンの街並みもXマス、新年を迎えるために、
クリスマスの飾りつけで、それこそ町中が、生まれ変わった様に変身する。
人々もこの時期だけは、皆がハピーそうで、贈答用のお土産をいっぱい
抱えた人達が往来していた。
裕二も忙しい。
裕二は、例の一件以来、キッチンで働いている。
キッチンで働くから、ホールの仕事は誰か他の人に・・・と言う訳には行かない。
ホールの仕事の合間合間に、キッチンに入る。
裕二は調理長が居なくなった時点で、キッチンのシステムを大きく変えた。
まず第一に、持ち帰りを始めたのである。
この為、食材がなく作れない場合以外、何でも(注文を)受けてOKとしたため、
弁当の注文が多く来始めた。
また、弁当の注文は、朝、旅行客が出発前に持って出ると言う場合が多く、
早朝出勤した人は、その分、早退を可能にした。
どうしてもそれが無理な場合は、別に時給を与えた。
この手当の件だが、裕二は会社には話していない。
話しても、赤字経営の店で、OKが出る可能性は殆ど無いと裕二は考えた。
では、やらなくていいか・・・
普通はそう考えるが、コネもなく、努力と実力だけで店長の地位にある
裕二の場合は、それでも出来る方法を考えないと、認めてもらう事は
出来ないという自覚は持っている。
熟慮の末、裕二は、ある決定事項を皆に告げた。
時間外の労働は、給料日に給料とは別に、オーバータイムとして、直接現金で支払う
と言う決定である。
では、会社にも相談せず、独断でその決定を下したことを、良しとしても、
何処からその金が捻出できるかの問題は残る。
どうって事はない。その売り上げ金(持ち帰りなどからの売り上げ)
から捻出したのである。
売上金からの捻出?これは犯罪か・・・。
勿論犯罪かもしれない。
会社は、当然の事ながら、売り上げは欲しい。しかし余計な出費はしたくない。
前の調理長はこの為、余計な仕事を避けたのである。
しかし、裕二は全部引き受けて売り上げに繋げようとした。
当然、それに伴う経費がかかる。
その経費を裕二は、売り上げから賄おうとした。
普通はこんなリスクは誰も侵さないだろう。
この裕二の独断行動もいつかこれが明るみに出た場合、良くやったと
評価される事はないだろう。
少なくても“必要悪”位には評価してもらいたい。
これ位の臨機応変の対応が出来ないような人物は、とても店長などの役職は
務まらないのではないかとも裕二は考える。
裕二のこの発想は何処から湧いてくるのか・・・・。
発想はしても、自分の首を賭けた行動につなげるとは、
なかなかの”いさぎな・もん”である。
(裕二の立場からすると)、時間外労働をお願いしするのだから当然その分の賃金は
エキストラとして支払われるべきで、会社が儲かっていない事とは別の
次元の話である。
しかし、多くの中小企業のオーナ達は、この話を理由にして、
賃金の支払いを渋る事が多い。
かくして、常識的な労働者は寄り付かない、長続きしない。
結果、人間の一番底辺のカスばかりが集まる会社となり、人の入れ替わりも
激しくなる。
裕二はこの当然たる理屈を会社に話し、認めさせようか とも考えた。
しかし、他の本店を含む全てのレストランに
時間外を認めるとなると、問題が大きすぎるかもしれない。
裕二は、当面の間この件(時間外手当)はこのレストラン内だけの話とし、
この話が他に漏れないように心がけると共に、
時間外注文は、極力前日に仕込みを終わらせ、
当日は、盛り付けるだけの作業に専念出来るよう、
その段取り、作業割、仕込み・・など、キッチンスタッフと協議を重ねた。
そんな中、裕二は優子を迎える。
裕子がイギリスのロンドンに到着したのは暮もせまった十二月の二十日、
寒い夜だった。
二年が過ぎていた。
裕二の場合は、毎日が慌ただしく、過ぎてしまえば二年なんてあっと言う間に感じたが、
優子の場合は裕二のそれよりずっと長く感じたかも知れない。
到着ロビーで今か今かと待ち受ける裕二にやっと優子が姿を現した。
「優子」
裕二は大きく手を上げ優子の名を呼んだ。
不安そうな表情の中、優子は裕二を見つけると、
「裕二さん」と言って手を上げ、小走りに駆け寄って来た。
裕二は駆け寄った、優子を抱き上げ、そのままの姿勢で一回転すると優子を下した。
裕二はキスしようか・・と思ったが、照れくさくて我慢した。
外国式の“ハグ”を続けながら、
「良くきたね」
と声をかけた。
優子は嬉しそうに、キラキラと輝く黒い瞳で裕二を見つめていた
優子をしみじみ見つめる裕二に、
「どうしたの?」
と、優子は聞いた。
「いや、随分美人になったなと思って・・」
二年ぶりに見た優子は一層、女らしくなって、裕二が二年前別れた時の
優子ではなかった。
一言で言うと・・・
“可愛い”
と表現したほうがピッタリかも知れない。
日本人離れした堀の深い小顔にメイキングがマッチしており、実際、日本人との
ハーフを思わせる顔つきである。
髪はショートカットで、この小さな顔と、大きな瞳がタレントの剛力彩芽を思わせた。
男を知り、精神的にも落ち着き、恋する女はこうも変わるのか・・・
あの真っ黒に日焼けして、陸上部で走っていた当時の裕子の面影は、全くなくなっていた。
このセンスのいい、可愛い女性が裕二の妻なのである。
裕二は嬉しかった。
「寒くなかったか?」
気使う裕二に、
「痩せたね」
と優子は言った。
食事など、腹が減った時に食べ、毎日レストランで働き、職場では営業方針で調理長と
対立し、結果その調理長を追い出し、責任を感じてキッチンで働く裕二は、
それこそ気の休まる時間も場所も無く、痩せるのも当然かもしれなかった。
「そうか?」
「まあ、不規則な生活をしているからな」と
言って裕二は笑った。
(新経営者)
優子との新しい生活がロンドンで始まった。
今までは、家に帰るのは寝る為だけだったが、今はそこに生活がある。
食事が用意されている。
風呂に入るかと聞いてくれる。
コーヒーを入れてくれる。
殺風景な冬の景色に太陽が輝き始め、眠っていた全ての細胞が、
急に活動を始めたような感覚の毎日である。
そんな幸せな裕二の私生活を一変させるような出来事が又持ち上がった。
会社から緊急の会議の知らせが来たのである。
会議は今までも、各店の店長を中心にした会議が月に一度程度はあった。
しかし今度は各店の調理長と店長を補佐するチーフも一緒だと言う。
総勢三、四十人にもなる。
裕二は前日達磨マネージャーと話した際、明日の招集に関して、聞いてみた。
彼は分からないと言う。
(経営方針の変更か・・・)
いずれにしても重要な話らしい。
裕二は、調理長はいないのでチーフのヤマさんと一緒に出かけた。
会場はいつもとは違い、緊張した空気がみなぎっていた。
それと同時に知らない顔が、四、五人見て取れた。
何処かの店に新任した店長か、調理長かも知れない。
「何があったんだ?」
裕二は旧知の同僚を見つけ、今回の緊急会議の真相を探ろうとして、
問いかけるが、誰もが首を横に振る。
(そうか、誰も解らないのか・・・)
そんな空気を察してか、いつもより話し声も少ない。
まもなく、社長が商社マンみたいな人を伴って入って来た。
着席するなり、社長が発した言葉に皆のどよめきが上がった。
「今の会社の全経営権を、0月0日を持って、日本のテトロン社に
譲渡することにした」
今まで私を支えて色々ご協力いただいた皆に感謝する」
と手短に話したのだ。
シーンとしたまま、誰も何も発しない。
それもそうだろう、従業員ごと、売られたわけだ。
裕二も青天の霹靂で、他の店長達と顔を見合わせるばかりである。
社長は、ここで、一息入れて全員を見渡し、続けた。
「ここに見える方は現地法人の(英国)責任者のXXさんで、
後程、話をしていただくが、今後も新社長のXXさんの元、私以上に
皆の協力をお願いしたい」
と締めくくった。
要はこの人達に会社を売ったから、後はこの人達の元、頑張ってやってくれ
と言うのである。
不思議にも裕二は、さ程のショックを受けなかった。
裕二は就労許可証がある為、何処にでも就職出来、たとえ首になったとしても、
優子の一人くらい食わしてやることは、何でもないと思っている。
この就労許可は、一生、職にあぶれる事はないという保証書みたいな物で、
この許可の有無は、大きく人生までも左右する。
裕二は話を聞いて、ショックより、
(面白い)
と感じた。
日本の商社が経営に加わる・・・・。
テトロン社と言えば繊維関係の大手の会社である。
その糸の会社が、レストランビジネスに進出しようと言うのか
このどうしようもない現状を糸の会社がどう変えようと言うのか・・。
変える事が出来るのだろうか・・・。
裕二は自問自答した。
もし、自分がその立場だったら、
どう変え、改革するかと・・・。
そして直ぐ結論に至った。
(無理だな)
裕二の結論である。
急速に拡張したレストランの内情は、第一に人手不足、適任者が少ない、
食材の入手困難、労働環境の不備、賃金の不平等、等々どれを取り上げても
解決出来そうな構図が裕二には見えてこなかった。
しかし、裕二等には考えも及ばない何か秘策があるのかも知れない。
もし、そうであったら是非見てみたいものだと思った。
期せずして
「裏切りじゃないか」
「OOの約束は、どうなるんだ?」
との声が上がった。
従業員数は九店舗合わせると二百人は下らない。
そこの責任者及び従業員一人一人が、
給料を上げてくれ
就労許可書を取ってくれ
他の店に移してくれ
スタッフを補充してくれ
色々な、要求を事務所を通したり、直接社長におねがいしたりして
いるはずである。
又、裕二みたいに調理長を勝手に首にしたりするような店長もいたりして、
九店舗の店の運営は裕二には考えられない苦労も多い筈である。
その都度、社長は
もうしばらく我慢してくれ。
この件に片が付いたらその次に・・・などと時間を引き延ばし、又は避け、
今に至っている案件も多いと裕二は考える。
短時間に急成長した会社は、その成長過程に大小のヒズミを必然的に
社内に抱え込んでいく場合が多く、外国での起業の場合、日本国内でのそれと
決定的に違うのは、従業員の確保であろう。
数(バイト希望者)の日本人は、いくらでも来る
しかし外国で日本人を雇用する場合、正式な手続きが必要で、
これを持ってる日本人は殆どいない。
では申請すればいいじゃないかと誰もが考えると思うが、この申請には、
日本から取り寄せる書類、の他に、当地(英国)で募集を試みたその証明
(新聞、雑誌、業界紙等への募集広告)
そうまでして(募集努力)も、(英国では)雇用に該当する人物がいない。
よって、ここにこの人物の就労許可を申請する・・・という流れが必要で、
書類だけでも三十ページ位になり、やっと申請してもこの許可に半年、
一年と時間がかかる。
さらに皮肉な事に申請が下りると約束されている訳ではない。
ここで、会社側からの見解だが、
余程の理由か、人物と見なされないと、申請にまで踏み切る事はない。
そこまでして努力して、会社が当人の為、申請したものの、申請中、或いは
許可後も、一身上の都合?で・・・と、平気で従業員は辞めて行くからである。
会社は裏切られたと考えるし、
当人は十分に会社へ貢献したと考えるようだ。
要は裕二みたいに、この職に賭けるという信念みたいな物で就労許可の
申請を願い出る訳ではなく、もう何年ここに奉仕しているが、
未だに就労許可の申請すらしてもらっていない。
ここで辞めたら、この数年は無に帰す事になり、せめて、就労許可でも会社に
取ってもらってから辞めようとするような、
会社を利用しようとする強者もいるから厄介である。
当然会社も、慎重にならざるを得ないわけだが、この種のトラブルは、
会社が続く限り避けられない問題であろう。
裕二が働くこの会社も、そういう問題の他、店舗の修繕、買い替え、
勤務体制、それにまつわる報酬の問題など、問題がマキシマム(彷彿状態)
になってしまっており、これを一挙に解決するには、
会社の売却しか方法が無かったのかも知れない。
その証拠が、この、沸き上がった怒号である。
しかし社長は、
それらの声に返答する事もなく、
「諸々の問題は、今後新しい会社が引き継ぐ事になっている。」と、
逃げた。
(うまい)
裕二が尊敬する社長は、この行詰った状態を会社の売却と言う合法的手段で、
乗り切った。
これを引き継ぐ会社は、この状態を把握しているのだろうか・・
裕二は、おそらく、把握なんかしていないのではないか・・・と考える。
しかし又、世界に進出している日本の大手の会社が、そんな事も知らず、
そっくり従業員も含めた九店舗のレストランを買収するだろうか・・・との、
思いも裕二は同時に持っている。
この裕二が抱く心配も、時間がそれを裕二に示してくれると思われるが、
それにしても、そんなうまく行のだろうか・・・
自分も含めての事だが、ここにいる日本人は一匹オオカミ的な要素を持った
者たちばかりである。
簡単に言うと人種?が違うのである。
そこまで言うのが間違っていたら、育った環境が違ったと言うべきなのだろうか。
商社(高校、大学と一生懸命勉強して、一流企業への就職を勝ち取った)人と、
一匹オオカミ的な、(外国でも行って一山当ててやろう)とする野犬の群れ的な
集団の攻防である。
そんな事を裕二は考えていた。
社長は新社長を紹介した。
新たに、裕二の直接の上司になるかも知れないこの新社長、年齢は
前社長と同じくらいの五十代か・・・・。
名を佐藤大輔 当、テトロン株式会社現地法人の社長で、
女房と子供二人もイギリスに来て生活していると話した。
(この一見温和そうな人物が、首を言い渡すと包丁を持ち出し、
「何だと小僧」と血相を変える人達がたむろするこの野犬の群れを
本当にうまく経営、コントロールできるのだろうか
裕二はこの展開にワクワクした。
いい勉強になるのではないかとも期待した。
第五章(越権行為)終わり。