参
反物が巻き付いていくのに従って、神器は放つ光の行き場を失っていく。その光景は主守の歴史が閉じられていく暗喩にも思えて、白雪は強い悪寒を感じずにはいられなかった。
反物を操っているはずの女は神器の方を見ようとはせず、じっと静かに白雪の表情を観察している。
多重に巻き付いた黒い布によって、正八面体の神器のシルエットが球体に変わった。そして、
「あ」
消えた。
「ふーむ。やっぱり偽物だったかぁ」
女が指を回すと徐々に反物が剥がれていき、最後の一枚までも女のジャケットへと戻った。だが、そこにあったはずの神器が見当たらない。
「これは、どういう……」
「見たまんまだよ。アレは偽物。最初か途中かはわからないけど、君たち主守は、ずっと偽物を守ってたってこと」
「【駿進の賢狼】が……にせ、もの?」
神獣の第八十七位【駿進の賢狼】。半刻で千里を駆けたと言われる正真正銘の神獣。それが。
「そ。これが衣の仕事。全国を回って神器の実態を調査して上に報告する。それにしても、初仕事から偽物とは縁起が悪いなぁ」
「うそ……うそよ」
あれは偽物。主守は、紛い物を紛い物だと知らずに守ってきたのか。俗世を捨て、何代にも渡って人生を捧げてきたものが、偽物。努力も時も、繋がりも、全てが偽物で、今ここに流れた血でさえも、無意味なものだと言うのか。
白雪の頭は真っ白になった。 火が燃え尽きたように膝をついて尻を落とした。
「仕事は終わったから、衣は帰るね。あ、そうそう。あそこに倒れてる三人は、天照寮側だから。主人が説明もなしに仕事を始めようとしたから、攻撃してきちゃって。無力化しただけだから、まだ生きてるよ」
白雪が神域に飛び込んできた時に確認した五人の内の三人は、白雪の味方だと言う。そしておそらく、昨晩襲われた四人と専属医もそうだ。だが、白雪にはその事実を喜べる心の余裕はなかった。それどころか、彼らが傷を負った意味が虚しくなるだけな気がする。
「後のことは主人がやるから、衣はさよならだね。大丈夫。二有は女々しいから、君なら分かり合えるよ」
「めめ……?」
「何たって、自分の姉を生き返らそうと躍起になってるんだから」
女は白雪の耳元で囁くと、小さく笑った。艶やかなジャケットやスカートが形を変えていき、元の暗そうな服に戻った。女は表層から消え、現れたのは二有秋良だ。
「ちっ……。余計なことを」
忌々しげな声は、今になってみれば年齢的に白雪とさほど変わらないように思えた。二有は猛禽のように鋭い目つきで白雪を見下ろしているが、もう怖くはなかった。こんな風に目に見えるものよりも、ずっと怖ろしいものがあったのだ。
「後始末は別の御使がする。お前は身の振り方を考えておけ」
「そう……」
「……」
守るべき神器を失った。秘伝も明るみに出て、今後は天照寮で扱われることになるだろう。主守は今日を最後に終わった。積み上げてきたものも、信じてきたものも、あらゆるものが虚像のように淡く消え去り、残りカスとして白雪だけが残った。
「おい」
かつて神域だった空間から出て行こうとする二有が、何故か振り返った。俯き動かない白雪の背中を見下ろす。
「守ってきたことが、誇りじゃなかったのか」
「……」
「衣はあれで殺人狂じゃない。辛うじてだが、まだ全員生きてる」
腹を貫かれた男も、首筋を裂かれた男も、傷口は布によって塞がれていた。仰向けに倒れた葦川もまだ意識があった。
「神域は、本当の意味で穢されてはいない」
夥しいほどの血は流れた。血の匂いが充満し、死縁が漂っていても、ここはまだ確かに神域だ。神を祀った空間で人死は出ていない。
「折れるなら折れろ。好きにすれば良い。お前の代で、主守の誇りとやらが途絶えるだけだ」
そう言い残した二有秋良は、もう振り返らなかった。不止不退。前へ進むと決めた彼は、立ち止まる者に拘うつもりなどなく、手を差し伸べることもあり得ない。道は一人で歩む。
階段をのぼりきって境内へと出た。黒服に染み込んだ血が風に吹かれて異臭を放つ。陽を遠ざけ陰を招く、どんなに洗おうが干そうが取れることのない腐臭だった。
「……笑うな」
衣がくすくす笑っている。詩賀無の掌の上だと言いたいのだろう。
「次だ」
今回は何の手がかりもなかった。次の場所で見つかるとも思っていない。だがいつか必ず見つけ出して手に入れると誓った。それまでは玩具にされて踊ることも覚悟の上だ。
姉に逢いたい。守り切れなかった過去の自分と決別し、再び。
だから、守ってきたことが誇りだと言った世間知らずに興味を持ったのだ。
「ちっ……」
ここで笑い止んだ衣に腹が立った。
天照寮三翁とは、天照寮を束ねる最高位の三人を指す。その地位に就けるのは家柄と実力を合わせ持つ当代の傑物だけで、文武ともに最も優れた神衛の称号だった。
だが、それは形の上だけのことであり、現実は家柄のみが重視され、一部の一族による世襲状態が続いていた。このままでは天照寮は陰呪に呑み込まれてしまう。誰もがそう思った時、ついに三世紀ぶりに旧家や名家以外から翁が出た。しかも神縁とは何の関係もない一般家庭の出身で、寮に所属してから僅か四年で最高位まで上り詰めたという紛れもない天才。それが不世出の神童と呼ばれる翁、詩賀無重一郎だ。
「酷い話さ。いくら天照寮立ち上げの三人の名跡とは言え、こんな古臭い名前を背負わされるなんて」
「報告だ。閑雅の神社に祀られていた神器も偽物だった。そこの神衛の何人かは天照寮を抜けるそうだ」
「おいおい。こーんな寂しい場所に閉じ込められている可哀想な俺の話相手になってくれないのか?」
「明朝に別の査察に立てと指示したのはお前だろう」
「人手が足りないのさ」
翁は天照寮を出られない。寮内での影響力の大きさや、それに伴う暗殺の危険などを鑑みた結果だ。中でも詩賀無はその性格ゆえ、特別深い谷に半幽閉状態にされていた。
そんな天照寮の重鎮でさえ訪れることのない谷底に、全身黒ずくめの男、二有秋良が帰還していた。
「そうそう。例の探し物は難航してるんだってね? 八宇も回ったのに、情報のきれっぱしも掴めてないって言うんだから、君は本当に運が悪い」
「……毎回二日しか時間をくれないのはそっちだろう。それに」
「ん?」
「それに、毎回何かしらの面倒ごとに巻き込まれる。これも運か?」
「運だなぁ」
へらへらする詩賀無を問い詰めたところでどうにもならない。二有が行く先々で陰呪に襲われたり、神衛同士の争いに巻き込まれたりしているのも、本当に偶然だ。それとは一切関係ない話として、詩賀無ならば偶然すら操れることと、その足跡を誰かに辿られるような真似はしないという事実があるだけだ。現場の二有は、それらを偶然として片付けることしかできない。
「衣は元気かい? 久しぶりに彼女の美貌を拝みたいのだが」
「生憎、衣はお前が嫌いなんだ。今は寝てる」
「それは悲しい」
詩賀無は嘘つきではないが、他人を好き勝手利用することにおいては神の域に達している。衣は詩賀無のそう言う部分を嫌っていた。詩賀無を前にしては、何人であっても遊び手であることは許されないのだ。
「報告は終わりだ。俺は明日に備えて眠る」
「こらこら待ちたまえ。せっかちは損だぞ。わざわざ君を呼びつけたのには理由があってね。かねてから準備していた計画に目覚ましい進展があったのさ」
「あのふざけたヤツか」
「ふざけたなんていないさ。とうとう見つかったんだよ。君の補佐役が」
一月ほど前、詩賀無は寮内に「二有秋良の補佐役急募」という触れをだした。それには細かい条件があり、中でも厳しかったのが「八星以下」であること。八星は訓練期間を終えた直後の新人であり、彼らがやれることなど雑用と荷物持ちくらいだ。研修期間もなく前線の部隊に入ることなどほぼあり得ない。更に、それが二有秋良との仕事となれば、手を挙げる者などいるはずがないのだ。だと言うのに、そんな無茶な隊編成を詩賀無は行おうとしていた。だが、それがなんと決まったと言う。
これはマズい。この計画にあった「自薦のみ」と「八星以下」という条件を見た二有は、絶対に人が集まらないとたかをくくっていた。自らの探し物のためには余計な者を連れて行くなど邪魔でしかないが、これなら誰も来るはずがない。今まで通り一人でやれると思っていた。それなのに、こんなタイミングで一体どこの誰が「自薦」などしたのか。
「ほら、入って来たまえ」
「ひゃ、ひゃい!」
緊張で派手に裏返った声は、どこか聞き覚えがある気がした。まさかと思う暇もなく、小柄な少女が二有の隣に並び立つ。
「こ、この度、二有秋良二星の補佐役を仰せつかさりました、主守白雪と申します! 詩賀無重一郎翁に拝謁させていただき、誠に光栄でありましゅ!」
「うんうん。元気な挨拶で素晴らしい」
「……あ、ありがとうございます!」
「おい、ちょっと待て」
「待、た、な、い。この承諾書に君がサインすれば、彼女は正式に君の補佐となる。早くしたまえ」
「どう言うつもりだ!」
二有の補佐を買って出たのは、一月ほど前の陰呪襲撃事件により実質消滅したお家の当主、主守白雪だった。一事を除いて過去に拘らない二有が記憶に残している数少ない事件の重要人物だ。他に類を見ない特殊な神縁を持つ一族の最後の末裔が、危険を伴う現場に投入されるだと?
「成るようになっただけさ。俺の触れに誰も参加してくれないせいで、翁の面目が丸潰れになってしまってね。恥を晒したままではいられないから、もう触れを取り下げようとしたんだ。だがその最後の日に神衛資格を取り直した彼女が滑り込みで手を挙げてくれたんだよ。ならばその勇気に応えるのは当然だろう? 補佐の募集は締め切ってしまったし」
「……」
二有の額に青筋が浮き出る。間違いなく、詩賀無は最初からこれを狙っていた。神器の力を増幅させる主守の神縁は、不止不退の神器、神器の第九十六位【二重の黒衣】と抜群に相性がいい。実際に相対した二有も、これを上手く扱えれば上位神器と正面切って闘える可能性すら感じたほどだ。
詩賀無は二有を査察に行かせることで葦川を刺激し、合法的に主守の力を抱き込んだ。そこには二有が白雪に特別な感情を抱くことや、主守の神器が偽物であることも計算に入っていたのだろう。その結果、二有は任務に関係なく白雪を助け、お家とお役目が消滅した白雪もわざわざ神衛の資格を取り直している。
そして最後に、翁の面目を盾にして特別な人材である二有と白雪が二人だけで仕事をすることを他の翁に了承させた。補佐の条件や募集期間を絶妙に調整し、白雪が自薦した瞬間に募集そのものも打ち切っている。これで誰の邪魔をされることなく二人は仕事ができ、その結果や報告は全て発案者の詩賀無が最初にすくい上げる。この流れは全て詩賀無が作り上げたものなのだ。
「君の方が二つ歳上なんだから、仲良く仕事するように。じゃなければ俺からの援助を打ち切るよ。また陰呪に戻るかい?」
「……」
三翁である詩賀無の命令を聞かないのであれば、それは天照寮全体への反逆とみなされる。
「に、二有さん!」
白雪が悲鳴に近い声で二有の名を呼んだ。二有が顔を向けると怯えて目を泳がせるが、それで黙ることはなかった。
「守ってきたことが私たちの誇りです。だから、私はこれからも守り続けたいんです。神器を、神縁を。そして何よりも、罪の無い人々を。だからどうか、あなたと一緒に働かせてください!」
全てを失ってなお、守ってきたことが誇りだと、もう一度言える強さがあるのか。
「……勝手にしろ」
「え、は、はい!」
二有は身分証明である二星の腕輪を白雪に投げ、足早にこの場を立ち去った。腕輪があれば本人でなくとも書類にサインができる。
「笑うな」
いつから目を覚ましていたのか、衣が腹を抱えて笑っていた。
ここから始まるのは二人半の遠い旅路。全ては守るために。かつての誇りと、大切な人の命をその手から零さないように。
これは神器に翻弄される弱者たちの物語。