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 不思議だった。ついさっきまであんなにも禍々しかった黒い反物が、今はとても優しいものに思える。白雪を軸に公転する四つの反物は、微睡むような心地よさを白雪に与えてくれていた。


「邪魔をしないでください」


 だが、葦川の声が容赦なく夢を消し去った。白雪は今、最も信頼していた人間に裏切られている。生まれた時から一緒だった葦川は、まだこちらに銃口を突きつけたままだ。葦川だけではない。仲間だと思っていた神衛たちも人が変わったような形相で白雪を見下ろしている。

 敵だと思っていた女に護られ、仲間だと思っていた人たちに攻撃されている。白雪は言葉にできないほど強く混乱し、残りの簪を手に取ることすら考えられなくなっていた。


「そちらの仕事を邪魔するつもりはありません。この意味わかりますね?」


「まぁ、わたしは別にどうでもいいんだけどさぁ」


 女が頭の後ろで腕を組む。タイトなロングスカートのスリッドを開きながら、大股で白雪の周囲を巡る。


 ーー見捨てられる。


 恐怖に襲われたが、納得する気持ちの方が強かった。女と葦川たちは目的が違うだけで、陰呪の手先なのは変わらないのだ。


「では、早くその結界を解いてください」


 葦川が銃を下ろした。きっとあれは祭銃ではなく、死縁で強化された呪銃なのだろう。彼女たちの攻撃を防ぐ手立てなどない。白雪はボーッとしながら、倒れている神衛たちを思っていた。彼らも白雪の敵だったのにだろうか。初めから自分の味方は、一人もいなかったのか。主守の誇りなど、どこにも存在していなかったのか。


「ふふ」


「……」


「はは」


「……っ」


「あはははは!!」


 女はまだグルグル歩き回っていた。心から楽しそうな無垢な笑い声が神域に反響する。


「……何が可笑しいのです」


 焦れた葦川が再び銃を構えた。


「だめ」


 だが、女は笑うばかり。前屈みで腰に片手を当て、指を小さく左右に振った。


「ホントにわたしは興味ないの。でもね、どうも主人がそうじゃないみたい」


 その時、反物の動きが縦に変化した。それらは檻となって女を取り囲み、相手を誘い込むかのように蛇行し始める。


「その子をどうこうするかは、わたしを倒してからにしてもらうよ」


「ではころす」


 葦川たちの銃が火を噴いた。何百発もの弾丸が唸りを上げて凄まじい弾幕を形成する。一般人なら気死してもおかしくないほどの強い死縁が神域を侵食していった。硝煙で女の姿が見えなくなっても葦川たちは銃を撃ち続ける。


「散開しろ」


 後方でサブマシンガンを乱射していた男が手を挙げた。それを確認した葦川が指示を出しながら弾を詰め直す。

 風のない神域はなかなか硝煙が分散せず、十秒を過ぎても女の姿は確認できない。だが、この場の誰一人として、女が死んでいるとは思っていなかった。何故なら、今も黒々とした反物が白雪を守護しているからだ。


「ふふ。ははは」


 くぐもった笑声が聞こえてくる。薄くなってきた煙に巨大な繭形の影が映り始めた。その表面に弾痕は一つもなく、あれだけ撃たれた弾丸が床のどこにも落ちていない。


「あはははは!」


 突然繭が破れ、女が飛び出してきた。ジャケットの腕の部分が捻れながら鋭く尖り、マシンガンの男の腹を串刺しにして吹き飛ばす。遅れて反応した別の神衛が女の肩口に刀を振り下ろしたが、鋭い刃は女に触れた瞬間に跡形もなく消失した。

 斬撃を歯牙にも掛けない女は軽やかに身を翻して床に両手をつき、腕力と遠心力で回転。別の男を巻き込んで二人の顎を蹴り割る。そこへ弾丸が降り注いだが、女は姿を消した。


 ーーどこ。


 白雪は目を動かすのが精一杯だ。


「ぐああっ!?」


 倒された三人から最も遠い場所で悲鳴が上がった。神衛の屈強な肩に乗った女のスカートが、男の首筋を切り裂いている。男もろとも撃ち落とそうとする弾丸も、女のジャケットに触れることで全て塵に変わる。足場を蹴りつけて飛翔した女は、再び白雪の横に着地した。


「まだやる?」


 ひらりひらりと衣服が舞う姿は、まるで蝶のようだった。目も銃弾も、女の疾さに追いつけない。


「何度も言うけどね、わたしはどうでもいいの。貴女たちが引くならこっちも手を出さないからさ」


「四人も潰しておいて言う台詞か」


「あはっ!」


 深紅の唇が唾液で濡れる姿は、身が震えるほど煽情的だった。


「……あなたは、なに?」


 極限の状況に放り出された白雪は、童のような声で尋ねるしかなかった。本当に、見える全てが悪い夢に思える。その中でも一番わけがわからないのは、この黒い女だった。


「ナニ……か。そうだね。まだ自己紹介もしてなかったか」


 不意に女が白雪の髪を梳かした。こんな風に優しく頭を撫でられたのはいつぶりか。でも、女の指先はとても冷たくてーー。


わたしころも。人に着られ、着させる存在。命の無い、意思在る器」


 ーーわたしの名前は。


神器うつわの第九十六位【二重の黒衣】」


 その横顔に目を奪われながら、白雪は記憶の泉が湧き上がってくるような感覚を覚えていた。

 聞いたことがある。使い手の人間に憑依し、成り代わることで力を発揮する神器の存在を。一から百までの神器の中で、たった二つしか確認されていない特殊な神器のことを。


「二有秋良……」


 白雪が二有秋良の対策に何日も費やしていたのには理由がある。彼には明確な戦闘記録がなかったのだ。何宇もの神社を襲った経歴を持つのに、彼がどんな闘い方をするのか、どんな武器を使うのか、天照寮のデータベースを洗いざらいひっくり返しても、目ぼしい情報はほとんどなかった。

 ただ一つ、二有が現れた戦場で共通していることは、愉しさに身をまかせる女の笑声が響き渡っていたことのみ。


わたしは仏じゃないから、これが本当に最後。引くならそれで良し。闘うなら……」


 女の右袖が大鎌に、左袖が剣に変化した。鮮烈なまでに紅い瞳が輝き、口の端が歪むように吊り上がる。

 その威容に、白雪は座ったままで腰を抜かした。これこそが本当の殺意。颶風となって戦場を駆け抜けた者の威圧感。白雪が怯え倒していた二有秋良のオーラなど、子犬の甘噛み程度だったのだ。これがもし一直線に自分に向けられたら、きっと正気ではいられない。


「ふぅ」


 葦川が息を吐き、銃を捨てた。


 ーー諦めた?


 思いかけたが、決してそうではなかった。葦川は腰にさげた祭剣を引き抜いたのだ。


「〜〜っ!?」


 その刀を見て、白雪は声にならない叫び声を上げた。葦川の祭剣は、墨が腐ったみたいな毒毒しい闇色に侵されていたのだ。肥大化した刀身は人間の醜悪さの塊にも見える。

 かつて清く美しかったはずの祭剣は、目を逸らしたくなるほど気味が悪い物に堕ちていた。これ以上見ていたら嘔吐するとわかっているのに、それでも白雪は目を離すことができない。墨色の刀身に彼女の大切な物がいくつも取り込まれていたからだ。


「私の、御札……!」


 白雪が少しでも祭具を強化しようと作っていた大切な御札。主守家に伝わる手法で作り上げた神聖な御札が、陰呪の力に呑み込まれていた。


 ーー白雪、心を込めて御札を作りなさい。それがきっと、お前を助けてくれるから。


 父の優しい手が、何度も何度も白雪の手を包み込みながら教えてくれた。父の言葉を信じて、自分にできることをやり続けてきた。それなのに。白雪が作った御札は、その想いの全て呪剣に吸い上げられ、贄にされていた。


「ねぇ、どうして!? キヨラ、どうしてこんなことをするの!?」


 どうしてどうしてどうしてどうして。


 一緒に守ってきたではないか。一緒に鍛錬してきたではないか。笑ったり泣いたりを繰り返して、二人で育ってきたのに。いつからキヨラは、陰呪に堕ちてしまったの。


「人を殺したいからです」


「え……?」


「人を殺したいんです」


 当たり前のことを語る者特有の、抑揚のない口調だった。白雪にはもう、目の前に立っている女はキヨラとは全くの別人ではないかと思う方が現実味があった。


「おかしいと思いませんか。毎日毎日、十年以上も鍛錬を続けているのに、それを使う機会がないのですよ。一体何のために修行をしているのか。これじゃあ私たち馬鹿みたいです」


「そ、それは違う! 私たちの力をは守るためのもので……!」


「お嬢様はそうでしょうね。ですがわたしは、旦那様が亡くなった時に怖くなってしまったのです。このまま一度も人を殺さずに死んでしまうのかと。だから陰呪に身を置くことにしたんです」


 葦川の語る理屈の中で、まともに理解して納得できた箇所は一つとしてなかった。葦川の声や目や刀たちの一切在り方を、白雪は生命体として受け入れられなかった。


「最初の相手はお嬢様と決めてましたから、私の船出を祝うってことで大人しく殺されてくれませんか?」


「き、よら……」


「もっとじっくり殺す予定だったのですが、そいつのせいで段取りが狂ってしまって……。だから早く殺させてください」


 そう。キヨラは昔からスケジュール管理にうるさかった。やはりこの人はキヨラなのだ。


「ひどいなぁ。さっきから二人だけで楽しそうにお話して。わたしは除け者?」


 声は葦川の上から聞こえてきた。


「っ!」


わたし、影薄い方じゃないんだけど」


 女は天井を歩いていた。二人が反応した時にはもう右腕の大鎌を振りかぶっている。全てを塵に変える黒い三日月が葦川の頸動脈に迫る。


「お?」


 女の姿になっていることは【二重の黒衣】の能力ではなく、使用者に憑依するという性質に過ぎない。この神器が持つ能力はおそらくもっと別のものだ。これまでの戦闘を見て推測するなら、縁や呪の無効化、もしくは圧倒的な強度。形を様々なものに変化させたり、本体から切り離しても操れたりするところを合わせてると、途轍もなく戦闘に特化した神器だと言える。人も銃も剣も、あの服の前では何の意味もない。白雪はそう思っていた。だが。


「へ〜! 面白い!」


 葦川の呪剣が、大鎌の攻撃を防いでいた。武器同士がぶつかる衝撃で大理石にヒビが入る。葦川が力任せに剣を振り切ったが、あらかじめ作っていたのであろう小さな布を踵で蹴って、女は空中へと退避した。


「それは、その御札の効果なのかな?」


「神流し、と言うそうですよ」


 そう。呪剣に貼られたその札こそ、主守家の奥義。神器の持つ力を減衰、増幅させる世に二つとない神縁だ。だが、秘奥義ゆえにその存在を知る者はほとんどいないはずだ。


「陰呪はもちろん、天照寮ですら忘れられていた特別な秘技。これを手に入れ、陰呪は一歩先を行きます」


「なーるほど。技だけ盗んで、人は殺してしまおうってことか。ま、一人しかいないし、そっちのが確実かな。それにしても……」


 女が疲れたように一息ついた。かしかしと頭をかく。


「このタイミング。詩賀無しがないの奴、見越してたな」


「何をごちゃごちゃと。物であるあなたなら殺しにはなりませんから、遠慮はしないですよ」


「それはいいけど、一人でもやる?」


「なっ!? こ、これはっ!?」


 言われて辺りを見回せば、葦川の連れていた神衛全員が倒れ伏していた。首に絞め痕が残る者、両脚から血を流す者、彼らは痛みに呻く間もなく無力化されている。こんなことができるのは、この神器おんなしかいない。


「化け物め!」


「素敵でしょ?」


「ほざくな!」


 葦川が女に突っ込む。呪剣で大理石を削って目潰しを仕掛け、同時に上段から斬りかかる。いや、膨張した呪剣の太さから考えると、斬るではなく叩き潰すと言う方がより正確か。主守の札で強化された呪剣の攻撃は、女の黒衣では耐え切れない。

 しかも呪剣が狙ったのは女の細い首筋だった。布に守られていない人体の急所へ絶殺の攻撃を撃ち込む。


「うーん」


 首筋の手前で呪剣の動きが止まった。止めているのは、黒い手袋を着けた女の右手。


「は!?」


「ざんねん。わたしの力って本来は護りの力なの。不止不退。在る限り止まらず、在る以上退がらず」


「んっ! がっ! この、この!」


 どんなに葦川が力を込めても、呪剣は一ミリも動かない。握っているのは細い五指。それだけで引き抜くことすらできなくなっていた。


わたしの主人の場合だと特に、ね」


 札が燃えるように溶けていき、呪剣が砂のように崩れ去った。女の進路に立ちはだかる障壁は、全て意味を成さない。


「主守の、奥義だぞ……!?」


「言ってるでしょ。効かないって」


 呪剣は柄のみを残して完全に消失した。白雪が簪しかないように、葦川も剣しか武器がない。


「くっ……くそ!」


 葦川の切り札は女に通用しなかった。それはつまり主守の敗北だった。


「はははは!!」


 手袋はすでに短剣へと変化している。女は葦川の懐深くに踏み込み、逆袈裟に斬り上げた。防弾チョッキよりも硬い神衛服が紙のように千切れ、血が噴き出す。頬についた血を舐めながら止めの短剣を逆手に持ち替える。女はそこで止まった。


「どうしたの?」


「もう、止めてください」


 女と葦川の間に、俯く白雪が両手を広げて割り込んでいた。止めを免れた葦川は背中から床に倒れる。


「あなたは殺すつもりです。主守の神域でこれ以上そんな真似は許しません」


「彼女は敵。陰呪の指だ」


「そうだとしても」


 顔を上げた白雪は泣いていた。涙を堪えることができなかった。溢れる大粒の涙が頬を伝って床に落ち、葦川の血と混ざり合う。


「ここは、守るための場所なんです。戦場じゃない」


 わかっている。もう何人も死んでいる。死んでいなくとも、助からない者もいる。ここは神域ではなくなった。だが、それでも白雪は、主守のお役目を見失いたくなかった。


「おっけ。ならそれでいいよ」


 女が手袋を外した。


「なら、君たちが守ってきた物が何なのか、暴いてみようよ」


 白雪を護っていた四本の反物が宙を舞い、祭壇に祀られている神器に巻き付いていく。聖なる結晶が呼吸を奪われていく。

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