稽古
次の日は晴れたり曇ったりの、どっちつかずの天気だった。朝、三人は体を起こして準備すると、太陽を目印に北へ向かって進み始めた。
森は大きな木にたくさんの葉が生い茂っていて、そこにいろんな生き物が隠れ住んでいた。途中、涙の粒が真ん中から広がったような青のリンドウや、薄い和紙からほんのり火の透ける、赤ちょうちんのようなほおづき、風に揺れる姿が黄色い蝶に見えるをみなへしが咲いていたり、遠くからモズやカササギが鳴き声を響かせていたりして、一行の疲れを癒してくれた。
希世はあれから泣くどころか、悲しげな表情を見せることも一切なかった。むしろ自ら中心となって話しかけ、旅の雰囲気を盛り上げた。希世は幼いころの貴族暮らしで経験した、歌合せや蹴鞠、碁や双六とかいった遊びなどを説明してくれた。どれも一般の家庭で育った光と与一にはなじみのないものばかりで、想像を楽しんであてずっぽうな予想を繰り返した。希世は貴族であるが偉ぶったところも全くなく、すぐに光たちと打ち解けてしまった。
「違うわ、神楽には勝ち負けはないのよ。」
神楽とかいう舞の説明をしているときに、希世が笑いながら言った。
「じゃあ、何のためにやるんだ。」
与一は全く分からないというように聞いた。
「もっと芸術的とか宗教的とか、そういう意味合いがあるのよ。」
希世はなるべく分かりやすそうな言葉を使おうとしているようだったが、与一に伝わったかは不明だった。
「でもさ、俺は蹴鞠とかのほうが、楽しそうでいいな。」
光は笑った。
「そうね、実際のところ、私もそうよ。小さい頃なんて、舞の良さなんて全然わからなかったわ。でもそんなこと言うと怒られるから、真剣に見ているふりをしていたのよ。ほとんど眠ってたけどね。」
希世も笑い返した。
光は希世が悲しみを見せずにいるのを、単純な意味で承知したわけではなかった。光は彼女が弱音を吐かないことにいろいろな意味を付け加えた。わざと気丈に振る舞っているのだとか、実は他人には知られたくない悩みがあって、それが彼女を悩ませているのだとか、挙句の果てには一瞬ではあるが、自分に慰めてほしくてわざとやっていることだろうかと自惚れてしまう所まで来て、ふと我に返るのだった。
旅は当初予想していたよりもひどいものにはならなった。歩き続けると体のいろいろな部分が痛むし、食事も粗末なものしか手に入らなかったが、三人で話していると楽しささえも感じた。もちろん、東国の惨劇や家族への心配を完全に忘れたわけではなかった。こうしている間にも、国はどうなっているのだろうかという不安もあった。しかし、努めてそういうことは話題に上らせず、考えないようにした。ここでいろいろ考えたところで、何も変えられないのだ。自分たちがやるべきことは決まっている。どのような気持ちで過ごしても同じ時間なら、明るく過ごすほうがいい。
「この川はどこまで続くんだろう。」
森に入って七日目のよく晴れた日、川を沿って北上しているところで、細長い木の陰の岩場に腰かけ、光たちは休憩をとっていた。透明の川は岩や砂利の間を緩やかに流れ、サラサラと音をたてた。
「地図では北へ延びて、しばらくして途切れてるわ。でも私たちは東国から北国へ進むんだから、北西に行かなきゃならないのよ。この先で川が大きく蛇行する前に、渡らなきゃならないわ。」
希世が地図の上でゆらゆら揺れる木の葉の陰に苦戦しながら説明した。
「川の流れが逆なら、そこまで一気に泳いで行けるのにな。」
光はぼさっとどうにもならないことを考えて川を見やった。川は相変わらず穏やかに、しかし絶え間なく流れ、その上で木陰がゆらゆら揺れている。
「おい、押すなよ。日陰ぎりぎりなんだ。」
与一が影のあるところに踏ん張って、希世に言った。
「押してないわよ。」
希世が地図を収めながら抗議した。
「じゃあ光か。」
「そりゃ押せって意味か。誰も押してないさ。何をいったい。」光が言いかけたところで背中を思い切り蹴飛ばされ、顔から砂利にうつぶせに倒れこんだ。「何するんだ。」
光は怒って顔を上げた。光の目に入ったのは、細長い二匹の生き物だった。光が木だと思っていたのは、木そっくりの細長い足を持つ生き物が、細長い手を持つ生き物を負ぶっている姿だったのだ。二匹は互いの足の長さと手の長さを利用して、手足の長い一匹の生き物のようになっていた。光はさらに首を傾けて空を見上げ、二匹の顔を見た。木の凹凸によってできた顔が、餌を求めて割けた口をぱっくり開けている。
「手長足長だ。」
与一が叫んだ。手長足長は上におぶさっている方の長い腕で光たちを掴もうとしてきた。腕は見た目よりも長く伸び、光たちの頭上に細い影を落とした。
「川を渡って逃げよう。」
光たちは捕まるまいと川に入ろうとした。しかしそれに気がついた手長足長は、下で支えているほうの長い足の片方で川を跨ぎ、向こう岸まで片足を渡してしまった。
「森の中を逃げましょう。」
希世の意見に皆は向きを変え、川から逃げようとしたが―、
「きゃあ。」
希世が上に負ぶさっているほうの長い手に捕まってしまった。希世は腰元をつり上げられ、あっという間に光たちの手の届かない上空まで持ち上げられた。光はとっさに長い足に斬りつけようとしたが、反対にけっ飛ばされてしまった。希世は上空でもがいているが逃れられない。
「与一、弓だ。」
光は体を起こしながら、おろおろしていた与一に呼びかけた。
「お、おう。」
与一は細長い手に的を絞ると、慌てて弓を放った。外れる。相手の腕が細すぎたのだ。手長足長は獲物を捕まえて満足すると振り返って帰ろうとした。
「待ちやがれ。」
与一はもう一発、今度は落ち着いて矢を放った。弓は見事希世を掴んでいた長い手に当たり、落ちる希世を光が両腕で捕まえた。手長足長は怒り狂って腕を振り回した。光が希世を下ろすと、三人は森の中を必死に逃げた。しばらく走って手長足長の姿も見えなくなった。光は息が上がり、何かにすがろうと木に手をついてどきりとした。
「なんだ、ただの木か。さっきの生き物はなんだったんだ。」
光は念のため木をよく触って調べた。
「手長足長だよ。手の長いのが足の長いのに負ぶさってるんだ。」
与一は見たままを説明した。
「つまりここは…。」
希世が話そうとして口をつぐんだ。
「ドサッ。」
何か重たいものが木の上から落ちてきた。ちょうど西瓜ぐらいの大きさで、太いそら豆のような形をしている。光ははじめ木の実だと思った。だがもぞもぞ動いている。それが振り返ると、人間そっくりの顔と頭のような塊があった。
「つるべ落としだ。」
また与一が恐ろしげに解説した。しかし、光はこの生き物が手長足長に比べれば怖くないように感じた。目があさって方向に向いていて、なんだか間抜けに見える。もう一匹が正面に落ちてきたので、光は木の上を見上げた。無数の何かがうごめいている。
「ドサッ、ドササッ。」
つるべ落としは木の上からどんどん落ちてきた。たくさん落ちてくると、見た目も間抜けには思えなくなってきた。気味も悪い。つるべ落としははねながら移動して光たちを取り囲み、一匹がことさらはねて光に飛びかかった。光が足で蹴ると、それは勢いよくすっとんだ。
「けっ飛ばすんだ。」
光が叫んで走り始めると、二人もそれに従った。つるべ落としは飛びかかっては蹴り返され、あちらこちらに吹っ飛んだ。走り初めて間もなく、光の足に何かが絡まったように、突然動けなくなった。足元を見ても何もいない。
「どうしたの。」
希世が襲われている最中にも関わらず動かない光を見て、すぐに戻ってきた。
「分からない。左足が動かないんだ。」
光はかかとの辺りを締め付けられる感じがしていた。光の言葉に希世は顔をしかめると、光の足もとを踏みつけた。何度か空振りする。
「もっと下だ。ああっ。」
光が自分でかかとを触ろうとした時、一匹のつるべ落としが光の肩に噛みついた。歯が肉に食い込み、光は痛さに呻いた。光は噛みついたそいつを手でむんずと引き離すと投げ飛ばした。他のつるべ落としが飛び跳ねて噛みつきかかり、二人は両腕を振り回して追い払った。希世が光の左足のかかとの辺りを蹴った時、締め付けられる感じはなくなり、光の足は自由になった。その時、生き物の悲鳴が小さく聞こえた気がした。
「やっぱり、何かいたんだわ。くっ。」
希世が一匹のつるべ落としに肘鉄を食らわせた。三人はつるべ落としの輪を抜けてしばらく走り続けた。
「なんで変な生き物に詳しいんだ。」
また少し進んでから、光は与一に聞いた。
「島に住んでた時に、いろんなものが流れてきてたんだ。その中に妖怪の絵巻物もあった。他に読むものなんてなかったから、ずっとそれを読んでたんだ。さっきのだって…。」
「待って。」希世が二人の腕を引っ張って、静かに言った。「何か来るわ。」
言われた通り、のろくて大きな足音が近づいてくるのが分かった。人間の歩みにしては重みのある足音に聞こえる。光がそっと木立から覗くと、少し離れた所に光の三倍もある大きな緑色の体が見えた。
「そこに隠れよう。」
光は地面のやや窪んだ、背の高い草の茂みを指さした。三人は体を押し込めて茂みに入り込んだ。上にある巨大な花のつぼみから臭いにおいが漂ったが、すぐ近くを生き物が通過するまで三人は我慢してじっとしていた。足音がだんだん小さくなる。
「つまり、私たちは森の深くまで来たんだわ。だから妖怪がたくさんいるのよ。北国へ行くにはここを通り抜けるしかない。」希世の言葉に、与一はうなだれた。「でも森の深くに住んでいる妖怪たちが現れたということは、私たちが正しく進めている証拠よ。だって…、」
「危ない。」
巨大な花が牙をむき出しにして三人に噛みつこうとしていることに反応して、光は刀を振った。逃げ遅れた与一に今度は茂みの蔦が絡みつく。
「かっ、助けて。」
蔦は生き物のように与一の体を覆った。光と希世は与一に絡みつく蔦を夢中で引きちぎった。だが二人が引きちぎる速さより、蔦が巻き付く速さのほうが上だった。蔦はすさまじい勢いで与一に絡みつき、体を締め付け始めた。
「だめだ。逃げろ。」
光は一瞬、与一がなぜこの切羽詰まった状況でそんなことを言うのか分からなかった。しかし、一緒に蔦を払っていたはずの二本の腕がなくなり、隣を見た光はその訳が分かった。緑色の皮膚をした大入道が、希世を掴んでいた。希世は暴れるが、大入道は全く動じない。手長足長の時とは違い、光から手は届きそうだが、
「今助ける、くっ。」
大入道に気をとられた光に、後ろから蔦が襲い掛かった。しまった。そう思った時には手遅れだった。振り払っても振り払っても、また別の蔦が巻き付く。蔦に覆われわずかに見える視界から、嫌がる希世を連れ去る大入道の後ろ姿が見えた。蔦は光の体を奥へ奥へと引き込む。ここで終わりか。早くも森へ入って七日で経との約束を破ってしまうことになるとは。やはり自分には荷が重すぎたのか。
その時、光の手に刀の柄が触れた。そうだ、まだいける。光はわずかに残る力で刀を引っ張り出そうとした。蔦が阻止する。いや、まだまだ。光は全身の力をこめ、完全に刀を引き抜いた。切れた蔦がぼとぼとと地に落ちる。光はやみくもに刀を振り回した。光を押さえつける蔦が次々と切れ、体が軽くなる。ついに茂みから脱出した。
光は振り返り、刀を茂みに突き刺した。刀に巻き付く蔦を振り上げて引き裂く。何度か切りつけると、茂みの中から与一の腕が現れた。掴んで思いっ切り引っ張り出す。蔦が抵抗するが、光も本気で引っ張り、やがて与一の体はすっぽり抜けた。光は蔦から離れた場所まで与一を引きずって、そこに下ろした。与一はしばらく放心状態だった。体中に締め付けられた跡がある。
「無事か。でも希世が連れ去られた。」
光は与一の体を起こした。
「足跡が残ってる。」与一が黒土の上に残る大きな足跡を指さした。まっすぐ奥へ続いている。「あんなに大きい奴相手に、どうする?」
与一の顔は引きつっている。蔦に根気まで絡めとられたらしい。
「行ってから決めよう。正面から戦う必要はないかもしれない。得意のとんずら作戦だ。」
光が励ますと、二人は足跡をたどって進み始めた。少し進んだところで、女性の声がした。
「離しなさい。私をどうする気?」
希世は怯えていたが、挑戦的に大入道に呼びかけていた。希世はわざわざ敷かれたと思われる切り株の上の大きな葉の上に座っていた。辺りに下草はなく、作り上げたような広い空間に希世と大入道がいた。光はこんな場所を以前に見たことがあった。島にあった、与一の住まいだ。大入道は背を向けて何かを探していたが、やがて明らかに人間の所有物だったと思われる、鎌を取り出した。
「俺に作戦がある。」
光は作戦を与一に伝えると、自分は大入道の後ろまで周りこんで木に登り始めた。希世は大入道から目を離さず、隙を伺っていた。光はいよいよ大入道の頭より高いところまで登った。木にはみかんの実がなっていて、光はそれをもぎ取った。大入道は希世の反応に首をかしげ、もう一度花を希世の手に押し付けた。今だ。光は目で希世の近くの茂みに隠れている与一に合図して、大入道の後頭部に飛びついた。
大入道は慌てて首を左右に振り、何が飛びついたのかを確認しようとした。光は振り落とされまいと大入道の首に足を巻き付け、その大きな目にめがけて果実を握り絞った。果汁は狙い通り目に入り、大入道は暴れた。ところがその衝撃で光の体は吹っ飛び木にたたきつけられた。天地が傾いた光の目に、隙を見た与一が駆けだして希世の腕を引っ張って走り去る姿が見えた。
光が叩き付けられた背中の痛さに呻いていると、大入道が人間の大人並みの大きさの棍棒を持ち出し光に叩き付けた。光がかろうじてかわすと、後ろで木がなぎ倒された。光は二人と合流し、一気に逃げる。大入道は目をつぶったまま、その場で適当に棍棒を振り回し続けていた。三人は再び川へ戻ってきた。一日中逃げ回り、体がぐったりしていた。
「まだ明るいけど、今日はもう休もう。」
光は座り込んで提案した。
「ああ、でも見ろよ、小豆洗いだ。」
与一の目線の先には、やせ細ったしわしわの小柄の体に左右に延びる長い髪、大きな横長の目をした妖怪が、川で何かを洗っていた。何やらブツブツつぶやいている。
「それで、小豆洗いは何をするんだ。」
光は警戒して聞いた。
「小豆を…、洗ってるんだ。」
与一はいかにもおぞましいという口調で説明した。
「それだけか。」
「それだけさ。」
不毛なやり取りが続く。
「害はないにせよ、もう少し離れた場所で休んでもいいんじゃない。」
希世の提案に、二人は納得した。
三人はそこからさらに少し川上の砂利道に寝床を決めた。その頃には日が傾き始め、川の水面が夕暮れの橙色に染まった。川の流れるサラサラという音以外に、木立に風が吹き抜ける音や草葉のこすれる音も聞こえた。光はその度に近くに妖怪がいやしないかと森の奥に目を凝らした。一度動く影を見つけてぎょっとしたが、ただのバッタだった。
「この辺りには妖怪はいないのかな。」
ただのバッタにすら警戒心を増した与一は、そうであってほしいというように言った。
「見当たらなくても、油断はできないな。」
光はもう何度も見渡した周りの森をもう一度見渡した。
「そうね、それなら全員が敵と戦える必要があるわ。ちょうどよかった。私、あなたに刀を習いたいと思っているんだけど。」
希世は張り切って言った。
「今晩からは寝るときも交代交代で見張りをつけよう。」
光は聞こえないふりをして提案した。
「それなら、武器も交代交代で持たないと。もちろん護身用のためだわ。」
希世はめげずに言って、勝手に光の刀を掴んだ。
「三人だから、平等に分担して…。」
与一も聞き間違えだと思ったのか、話を続けた。
「聞こえてるでしょ。剣術を教えてほしいのよ。」
希世は立ち上がった。いよいよ無視できない。
「冗談だろ。女性が刀を持つなんて、聞いたことない。」
光は全く面白いことを言うよな、と思っているようにわざとらしく笑った。
「性別なんか、関係ないわ。そうやって女性を子供みたいに扱って。」
希世は怒った。
「違うさ。でも若い男性の力が強いのは、女性や子供を守るためだって思うだけだ。」
光は彼女を落ち着かせようとした。
「お願い、これ以上足を引っ張りたくないの。今日だけでも二度は迷惑をかけたわ。」
希世は懇願した。
「君の機転に助けられた場面もあったよ。」
光は感謝を込めて言った。
「いいえ、足手まといになってる。せめて、自分の身ぐらい自分で守れるようになりたい。」
希世は光の刀を勝手に構えた。
「君を足手まといになんて思う訳ないだろ。君の護衛が経から頼まれた俺たちの仕事なんだから。さぁ話は終わりだ。」
光が刀を取り上げようとした。
「私が自分の身も守れないから、経は危険な目にあっているのよ。」
ところが希世は刀を自分の手元にひっこめた。
「危ないからってだけで止めている訳じゃない。刀を持つってことは、もう後戻りできなくなるってことだ。望んで武士になったのではない人もいる…。」
光は静かに言った。希世の表情が曇る。彼女自身のためには、刀を教えるのは止めたほうがいい。後戻りできないというのは本当だ。彼女を自分と同じ道に引き込みたくない。しかし、光自身は…。彼女を失いたくない。それは自分の約束したことで、自分の使命であるはずだ。光の胸の中で、二つの大きな塊がぶつかり合った。森がざわざわと揺れる。
「そんな構えじゃだめだ。体に力が入りすぎだよ。足も地面にべったりつけちゃ動きにくい。かかとは浮かせるんだ。」
光は希世に近寄って、めちゃくちゃな構えを指摘した。
「それじゃ教えてくれるの。」
希世の顔がぱっと明るくなった。
「言っても聞かないだろ。ずっと不機嫌なままの君を連れて行きたくはないからな。それと約束してくれ。何があっても、決して人間を殺したりしないって。」
光は観念した。希世も与一も安心したようだった。
「約束するわ。私も最初からそのつもりよ。」
希世は深く頷いた。
「さぁ、塚がへその前に来るようにして、刀は左手でしっかり持つんだ。しっかりとね。刀は武士にとって命の次に大切なものだ。決して手から離さないように。脇は卵を挟むぐらい開けて…、締めすぎると卵が潰れるだろ。」
光は次々と希世の多すぎる問題点を指摘した。
「ねぇ、一流の剣士になる秘訣を教えてよ。」
希世は嬉しそうな子供のような顔で尋ねた。
「そんなものはないよ。」光は考えて言った。「手がかりを与えるとすれば…。二流の人間は、自分を一流だと思っている。一流の人間は、自分を二流だと思っている。」
「謙虚さと…、鍛錬が必要だってこと?」
希世が首をかしげながら聞き、光は深く頷いた。
稽古がしばらく続き、やっと希世が光を開放してくれた時にはすっかり日が暮れていた。一日妖怪から逃げ回ったこともあって、疲れが体にへばりついていたが、希世の上達のおかげで気分は高揚していた。
「三種の神器の話を聞かせてくれよ。その地図に書き込みをした人に、心当たりはないの。」
光は旅の過酷さを認識することを後回しにするべく今までこの話題を避けてきたが、明日からも妖怪に追われながらの旅を予想し、士気を上げようと希世に尋ねることにした。
「神々の宴のことは知っている?」
希世は光たちに聞いた。光と与一は首を振る。
「神々の宴はね、天皇が次の世代に交代する時に行う儀式で、三種の神器の所有権もここで次の世代へと移るの。いわば、戴冠式ね。神聖政治になった千年前頃から、ずっと続いているわ。前の天皇、つまり王政に変わる十年前にお亡くなりになられた大和國保天皇が、この儀式で神器を引き継いだのは今から十五年前よ。彼は天皇の座を引き継いでからたったの一年で、東国と北国と和平交渉を結んだ。一部から弱腰政治と非難されることもあったけど、彼の平和的な手法と国民一人一人を想う政治は絶大な支持を得たわ。」
光は頷いた。光も幼い時に、龍仁おじさんが天皇の護衛を務めていることを誇りに語ったことを覚えていた。
「しかし彼の天下はすぐに終わってしまった。今から十年前に、怪士によって滅ぼされ、天皇も殺されてしまった。その時私は城にいて、経に連れられて逃げる途中でこの地図を拾ったの。」
希世は国の全容と三種の神器の在り処を示す地図を広げた。
「問題は、怪士も、地図を仕掛けた者も、三種の神器の在り処を知っていたということよ。それらは神々の宴以降は参加者の合意に基づいて、他の人には決して見つからない場所に保管される。つまり十五年前の儀式の参加者の中に、怪士も、地図を仕掛けた者もいる。」
「じゃあその、参加者は誰なんだ。」
光は待ちきれずに聞いた。
「まずは國保天皇本人とその親族。つまり先代の天皇である法王と、天皇の子である皇子、それから本妻。政治を司る側近が一人。北国、南国、東国、西国の領国主。それから儀式を秘密裏に安全に行うために、それぞれの領国の護国武士の大将が四人。その内二人は、中ノ国の護国武士でもあったわ。」
希世は指折り数えた。
「虎仁おじさんだ。」
光は希世の最後の言葉に反応し、ぼそりと言った。
「その通り。しめて十三人が神々の儀式の参加者よ。だけど、この中の誰なのかを特定することは困難だわ。北国で両親に会えば新しいことが分かるかも…。」
光は最後になるとほとんど聞いていなかった。おじさんが、こんな重要な儀式の参加者だったんだ。そのことが、光にとっては何より重要な情報に思えた。
突如光の頭に、幼い頃の記憶がぼんやりと蘇った。光はまだ小さく、泣きさけんでいた。周りの大人たちが光をなだめている。しかし大人たちはとても大きな暗い影で顔がよく分からなかった。とても怖い。その一つから、おじさんの声が聞こえた。「光、我々が新しい家族だ。おいで、光。」光は怖がったままだった。行きたくない。自分の本当の両親はどこ?「光。」おじさんがまた呼んだ。「光。」
「光。聞いているの。光。」
急に現実に戻った。周りは背の高い暗い木々と真っ黒の川に囲まれ、その川がとぷとぷ音をたてている。話しかけていたのは希世だった。心配そうな顔だ。
「どうしたの。」
光はかすれた声を絞り出した。気がつくと体が熱くなり、額に汗をびっしょりかいている。
「それはこっちの台詞だよ。いきなりじっとして。石になったかと思ったぜ。」
与一は光が生きているか疑っているように、まじまじと光を見た。
「疲れているのね。今日はいろいろあった上に私が稽古までさせてしまったから。ゆっくり休んだら?あたしが最初の見張りをするから。」
しかしその日の晩の、最初の見張りは光だった。光がどうしてもそうしたいと頼んだからだ。とにかくゆっくり考えたかった。とても眠れそうにない。
黒い空をさらに黒く染めたような闇の中で、みんなが寝静まった後、光は周りが見渡しやすい河原の砂利に座り込んだ。しかし光は、見張りらしくあれこれ見渡さず、止まることなく流れ続ける川面を眺めていた。夕方には光を脅かしていた、ガサガサ草が揺れる音も、小枝の折れる音も、光の注意を引かなかった。光はただ一つのことに考えをめぐらしていた。
虎仁おじさんは、十五年前の儀式に参加していた。何か重要な秘密を知っているのかもしれない。なぜ、そのことを一度でも光に話してくれなかったのだろう。もし生きているならば、今はどこで何をしているのだろう。光はおじさんが行方不明になって以来、最も強く彼を意識していた。
光はおもむろにそばにあった適当な大きさの小石を掴んで、流れ続ける川に向かって投げた。ところが小石は川面に沈まず、かわりに川面から突き出た岩に当たり、カツッと高い音を立てた。その瞬間、光にある考えがひらめいた。
そうだ、あの地図の書き込みは虎仁おじさんが行ったのだ。経がおじさんと謀って、光たちに探させようと考えたのだ。おじさんは、それが自分でできない都合があったに違いない。そう考えれば、すべて合点がいくじゃないか。こんなに簡単で、明白なことに、なんで今まで気がつかなかったのだろう。光はあまりの鼓動の高鳴りに、一層静まり返る森の中で、自分だけが動いているような気持ちに浸っていた。