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龍国物語  作者: ひろしま じろう
姫君と天草の刀
8/21

頼み事

後ろに束ねた、彼女の長く緩やかな髪は風を待っているかのようで、柔肌にほんのりと桃の実のような赤みが射していた。

「美しくなられたものだ。」

光は自分の発言のおかしさに気がつかなかった。言葉を発したことすら上の空だった。

「姫?姫か。そういえば一回見たような。」

与一が思い出そうと頭を捻った。二人の反応に、経が首をかしげた。

「経、この方たちの綱をほどいてあげて下さい。ずいぶん前のことですが、私は彼らに見覚えがあるのです。」

姫の依頼に、経が光たちの体を縛り付ける縄を切った。

「非礼をお許しください。経がわたくしの安全を想ってのことなのです。」

姫は頭を下げた。

「とんでもない。ですが、東久邇宮家の一族は十年前に国を追われたはずでは。」

「両親は隣の北国へ逃げました。ですが私にはついていけぬ事情があったのです。」

姫が答えた。最後のほうにはうつむいていた。姫が国に残っていることとは全く思わなかった。すると彼女は、十年間ずっと一人でひっそりと暮らしていたのか、光は可哀想に思った。姫は光の表情に敏感に反応した。

「経様、やはり私はこの作戦に反対です。見ず知らずの方にこんな頼みごとをするなんて。人の善意を利用したくありません。」

姫は経に向かって言った。

「いいえ、決まったことです。姫様がなんと言われようとも、作戦を変えるつもりはございません。これが最後の希望です。この国の未来のためには、彼らに頼るしかないのです。」

経は毅然とした態度を示した。

「でも…。経や、彼らを危険に巻き込みたくないの。分かるでしょう?」

姫は語気を強めた。

「お気の毒ですが、分かりません。」

経は冷ややかに首を振った。

「いいわ。もし仮に彼らが引き受けて下さるとおっしゃっても、私が賛成して彼らについていかなければ意味はありません。」

希世は言い放つと経には冷たい態度を、こちらには礼儀正しくお辞儀して部屋を出て行ってしまった。

「気になさらないでください。彼女は普段は、あのような方ではないのです。むしろいつも相手のことを想っておられるために、ごくまれに頑として譲らないところがあるだけです。今回も、私やあなたたちのことを想ってのことでしょう。」

経はため息交じりに話した。しかし光は彼女の顔に少し誇らしげな表情が浮かんだことに気がついた。

「頼み事というのは、一体何ですか?」

光は気になってこちらから尋ねた。

「まずは、彼女を、希世姫を北国へ送り届けるということです。」

経がはきはきと説明を始めた。

「見ての通り、東国はもはや滅びました。中ノ国は西国を味方につけ、南国は今も完全な独立を主張しています。いまやまともに中ノ国に対峙しているのは、北国だけなのです。つまり、北国は最後の砦といえます。中ノ国の者達は血眼で希世姫を探しています。北国の領国主は物わかりのいい人とは言えませんが、姫を安全にお守りするには、今となっては彼女を北国に移すほかないのです。彼女の親、豊実様もそこにいます。」

「なんだ、思ったより簡単な頼みだな。送り届けるだけなんて。」

与一が楽観視すると、経は信じられないという顔をした。

「西へ向かって、森を迂回するのですか。」

光は慎重に尋ねた。

「いいえ、違います。これを見て下さい。」

経が地図を広げた。右に海と森に挟まれた小さな東国が、上に同じ森と雪山に囲まれた北国がある。二つの国の間、地図の右上にはその広い森が横たわっていた。

「この森を抜けるのです。ご存じとは思いますが、森は広く複雑で、迷わずにまっすぐ行けたとしても最低一月はかかります。おまけに森は暗く、危険も多いです。森羅万象に命が宿るこの森には、邪悪な妖怪たちもたくさん住んでいます。この森に足を踏み入れ、亡くなった方々も多いです。」

(ここで与一が生唾を呑み込んだ。)

「そのため、十年前までは北国と東国を行き来するには、あなたの言う通り、わざわざ中ノ国まで迂回していました。そのほうがはるかに安全だからです。しかし中ノ国が敵国となった今、その道は見張られていて通れません。ですから、危険を承知でこの森をくぐり抜け、姫を北国に届けてほしいのです。」

光は皐月おばさんやその他のおせっかいな大人たちに散々森の恐ろしさを説明されて育っているので(昔話でもよく登場人物が森で恐ろしい目にあったし、「いたずらすると森へ連れて行くぞ」というのが、親が子を叱るときの定番の台詞だった。)、森の怖さは経が説明するまでもなく知っていた。

「ちょっと待って。」光は地図を見ながら、話を止めた。「反対側の道はだめなんですか。つまり、船で海を通って中ノ国をさらに迂回するとか。」

地図ではほぼ真ん中に中ノ国、下に南国、左に西国が描かれている。南国は海の中に浮かぶ島のようで、西国との間には砂漠が、西国と北国の間には沼と雪山があった。これを順番にめぐって行っても、かなり遠回りになるが、結果として北国に辿り着ける。

「無謀です。一年はかかりますし、危険もはるかに増します。私たちが東国出身でこの森の近くに住んでいるから森の恐ろしさばかりが強調されますが、海や砂漠や雪山に比べれば、森はまだ安全なほうなのです。それに南国も西国も、あなたたちを温かく迎え入れてはくれないでしょう。」

「そうですか。分かりました。」光は経の説明に不安を募らせたが、引き受けるかどうかを考えるより先に、次の質問をした。「それで、もう一つの頼み事というのは?」

「こちらの話に入るには、先にこの国の歴史について説明してからのほうがよいでしょう。」経が再び話し出した。「十年前まで、この龍国が神聖政治のもとに成り立っていたのはご存知ですよね。」

経の言葉に光は頷いた。

「それで、怪士(あやかし)が支配してから王政に変わったんですよね。」

「その通りです。君主が絶対的な権力を持っている王政に比べ、神聖国家では天皇は単なる象徴にすぎませんでした。そのため、天皇が政権を行使するための正当性を保つためには、神からの預かりものである、三種(さんしゅ)神器(じんぎ)を持つことが必要不可欠だったのです。」

光は驚いた。三種の神器のことは知っていたが、実際の存在は不確かなものだったのだ。難しい話に与一があくびをしたが、経は構わず続けた。

「神が天皇を、人の世を執り仕切る存在として認めるために、天皇は神の信頼の証として三種の神器を貰い受けました。それから三種の神器は天皇となる親から子へ、昔から代々受け継がれてきたのです。つまり、三種の神器がなければ天皇は名乗れません。」

「でもよぉ、三種の神器って言ってもただの道具だろ。そんなもんで他の人たちは天皇だって納得はいくのか。」

与一が眠そうに目をこすった。しかし光は別のことが気になっていた。

「それじゃあ、神は本当に存在するんですか?」

「分かりません。私も希世姫も見たことはありませんから。しかし、神を信仰する者は特に年長者や権力者を中心として数多く、三種の神器は絶対的な力をもつのです。」

経は光たち二人の質問に答えて言った。

「なぜ怪士は天皇を名乗らないんですか。」

光はまた聞いた。

「何事も自分の思惑通り物事を進めたい奴にとっては、王政の方が都合が良いからです。奴は王政を宣言する直前に、三種の神器を城から持ち出し、龍国各地に隠してしまいました。しかし、彼を欺いてその在り処を印し残してくれた人もいるようです。これを見てください」

経は再び地図を指さした。地図には三か所のバツ印と、その隣に言葉が添えてある。森の印には「刀」、雪山の印には「鏡」、砂漠の印には「勾玉」とある。

「この地図は中ノ国で初めて鬼の反乱が起きた明け方、私たちが逃げ出す馬の鞍にくくりつけたあったものです。したがって持ち主不明ですが、我々の行動を先読みした誰かが用意したものだと思われます。もちろん敵の罠という可能性もありますが。そしてこのバツ印は、龍国にバラバラに隠された三種の神器の在り処だと考えられるのです。」

光は再び印を見た。印は地図の精密さに合わない太い文字で、もともとあった地図に、別の人の手で書き加えられたように見える。

「さらに、元天皇の大和國保様の息子、尊皇子は現在行方不明となっていますが、怪士にとって邪魔な存在である彼の死が宣言されていないということは、彼は生きているということになります。頼み事というのはつまり、三種の神器と尊皇子を探し出し、神政を復古させてほしいのです。」

光たちは話の展開に唖然として押し黙った。

「もちろんお二人だけでとまでは言いません。先に北国に着けば、軍の協力を得られるかもしれません。断ったとしても咎めはしません。いきなり頼まれたのですから、当然のことです。しかし先程も申した通り、あなた方は最後の希望なのです。どうか、お引き受けを。」

経が深々と頭を下げた。

「顔をお上げください。これほどに困られた方々を見捨てはしません。」光は慌てた。

「しかし、一つ疑問があります。なぜあなたがそれをされないのですか。」

光は質問をしてはっとした。経の不似合いな着物姿に突然ぴんときた。

「まさか、我々の囮に?」

「町の出入り口は見張られています。今や敵の狙いは希世姫一人。そのまま逃げたのでは、すぐに捕まってしまいます。」

経は当然のように言った。そういうことか。だから希世姫は反対していたのだ。経を囮にしたくなくて…。経には死ぬ覚悟がある。そしてあのいたいけな希世姫にも、それと同じだけの、いやそれ以上の覚悟があったのだ。彼女らは、国のために、そこに住む人々のために、自分たちの魂を賭けに出した。

「分かりました。引き受けましょう。」

光はこう答える他なかった。この立派な申し出を断れようか。もし断れば、恥と後悔の念が、一生涯自分に付きまとうのではないかとも思った。光は与一のほうを向いた。

「もし無事に成し遂げればどれほどの恩賞がもらえるんだ?」

与一は商人の血のせいか、金の話にかけては抜け目がなかった。

「私にその一存はありませんが、許す限りの財産を差し上げられるよう、取り計らいます。」

経はこの質問にかえって安心したようだった。

「成し遂げられれば成功者。失敗すれば落ちこぼれだ。」

与一は自分に問い聞かせるように言った。

「思うに、その二つには大した違いはない。違うのは、やる人間とやらない人間だよ。」

光は迷う与一にささやきかけた。

「分かった。やるよ。やろう。」

与一も微妙に笑って光を見た。

「かたじけない。」

経が再び深々と頭を下げた。光は彼女が自分たちを過大評価しているのではないかと不安になった。だが、光は思い直した。自分にできる精一杯のことを、誠意を尽くしてやるだけだ。せめてこの覚悟に報いなければ。

 準備には手間取らなかった。経は数日分の食事と持てるだけの金貨を巾着袋に入れ、水の入った長筒も光たちに持たせた。光たちは刀と弓を装備し、与一は経から渡された、光と同じ深緑の衣に着替えた。小屋の戸を開けて、屋根の下に出た。

 希世姫は栗毛の馬の背を優しく撫でていた。こちらに気がつくと、さっと頭を下げた。

「頼み事ですが、引き受けることにしました。あなたが良ければの話しですが。」

光も頭を下げてそう言った。

「そうですか…。引き受けて下さったのですね。本当にありがとうございます。私、わがままなのかもしれませんね。かつてそうだっことは、ずいぶん昔のような気がしておりましたけれど…。考えてみましたが、私はやはり経やあなたたちを危険にさらさせたくありません。」

希世姫は言った。

「ですが…。」

経が口を開きかけたが、それを希世姫が遮った。

「でも、自分の周りの人達だけのことを考えて、国の皆様のことを後回しするのはいけないことですね。特に私は一国の姫ですし。この国に住んでいる以上、たくさんの恩恵を受けているのですから…。私、決めました。あなた方の善意に甘えることにします。」

姫の言葉に、経が顔を輝かせた。光と与一も明るい顔を見合わせる。

「ですが約束して下さい。危険を感じたら、まず自分の命を第一に考え、逃げて下さい。それは経も同じです。自分のせいで人がなくなってしまうなんて、私には耐えられません。」

希世姫は懇願した。光たちはゆっくり頷いた。経の瞳が潤んだ。

「それでは、私から作戦を説明します。」

経は潤んだ目を手の甲でそっと拭うと、気持ちを切り替えて言った。

「私は馬に乗って、あなた方と逃げ遅れて捉えられていた町の方々に合図を送ります。それから正門から逃げます。そこを敵が追ってくるはずです。あなたたちは合図を確認したら城の裏から歩いて逃げてください。そこから町を出られるようにしておきました。」

経は光たちが頷いたことを確認すると、希世姫の肩を抱いた。

「姫様、しばしお別れです。いいですか。決して無茶をなされないように。自分で戦おうなどとなされてはいけませんよ。」

「大丈夫。もう十六才よ。自分のことは自分でできるわ。」

希世姫は経を安心させようとした。

「できれば、あなたが立派に成人するところが見たかった。」

経はまるで希世が今も立派な着物を着ているかのように、彼女をまぶしそうに眺めた。

「経様、私、あなたが乳母で本当にうれしいわ。今まで感謝の気持ちを表せなかったんですもの。きっと成人姿もお見せします。」

希世姫は瞳をくっきり開いたまま笑った。経が頷いて視線を逸らすと、今度は近寄った光だけに聞こえる声でささやいた。

「姫様はお強いです。両親のおられない間も、ずっと一人、弱音を吐かずに頑張ってこられました。文句のひとつも言わないで、いつも自分のことより私のことを優先させようとしました。できれば、彼女のわがままのおひとつでも聞いてあげたかった。」

後ろで与一と希世姫の話し声がした。

「それで、この馬には俺たちが乗るんだな。」

「違います。ごめんなさい、説明を聞いていた?」

経は気づかず続けた。

「命がけであの子を守って下さると誓ってくれますか。」

「約束しましょう。」

光はそう言うと改めて経を見直した。

「あなたも、どうかご無事で。」

経は一言だけ囁いたが、その一言にいろんなものがつまっているような気がした。そして希世に向けたものと同じ眼差しで光を見た。光はなんだか変な気持ちがして、慌てて話題を探した。

「そうだ。その着物、案外似合っていますよ。」

経は笑うと大股開きで馬にまたがった。

「それでは。お二方、姫を頼みましたよ。」

経は後ろ髪を引かれる思いから逃れるように素早く走り去った。三人は合図を聞き逃さないように押し黙った。無音の状態がしばらく続いた。このまま一生沈黙が続くのではないかと思われた時、火花が立ち上る音が響いた。

「行こう。」

光の声に、皆で城の裏を目指した。外はほとんど日が沈みかけていた。おかげで視界が程よく暗く、簡単には敵に見つからないように思えた。途中建物が崩れるような大きな音が響いて、光の鼓動が早まった。

「こちらは大丈夫です。俺たちがいます。」光は希世に声を掛けて、それから城の裏をぐるりと囲んでいる堀に渡してある巨大な柱を発見した。それを橋代わりに堀の向こうまで渡れるようになっている。

「お城の柱だわ。本当は抜くと危険なんだけど。もう必要ないと判断したのね。」

希世は暗く佇むお城をちらりと振り返った。

「足跡がある。俺たちと一緒に捕まっていた人たちが先に渡ったんだよ。良かった。」

与一が指さした。確かに柱にはたくさんの泥の足跡が残っていた。光は少し安心したと同時に、泥の足跡の下に無数の傷跡を見つけて不思議に思った。かなり小さなものだが、柱を渡ってすぐのところだけ、その同じところに何本もつけられている。なんだろう?

 だが考えている時間はなかった。三人は柱を渡り終えると、北にある森を目指して走り出した。緊張の時間が続いた。歩くたびに、だんだんと緊張が興奮に変わってきた。無事町を出られた。町の姿もだんだんと小さくなる。作戦はうまくいったんだ。しかし―。

「バサバサッ。」

どこかで衣が翻る音がした。「誰だ。」見渡しても、どこにも誰もいない。

「あそこよ。空を飛んでいるわ」

希世姫が声を上げて空を指さした。天狗の仮面の男が、空中を飛んでいるというより、走っていた。背中に生えたからすのような黒い羽は動かさず、下駄で透明な橋の上を渡っているようだ。天狗は三人の前に足をつくなり、草の扇を横に振った。

「キーン。」

風の切られる音がする。

「伏せろ。」

光は仲間に向かって叫んだ。扇から走った斬撃は、はるか後ろの町の建物を切り裂いた。希世姫と与一はかろうじて光の言葉に反応し、斬撃をかわしていた。

「ちっ。」

天狗は下駄で光の頭を横から蹴った。光は反り返ってこれをかわすと地に着けた右手を軸に後ろに回転し、両足をついて身構えた。

「囮まで就けてるんでどんな護衛かと思えば、いつかの逃げ腰のようじゃのう。」

天狗はせせら笑った。

「もう、逃げるのはやめたんだ。」

光は横目に希世姫と与一を確認し、天狗を睨んで刀を抜いた。相手は得体の知れない力を持っているが、一対一ならなんとかなるかもしれない。

「よくも経を。」

希世姫は憤怒の形相で天狗にとびかかろうとして、与一が両腕を抑えて止めた。

「あぁ!?あの忍者の女のことか。ワハハッ、そんなに大事なら首だけでもとってくりゃあ良かったか?」

天狗はいきり立つ彼女を挑発した。

「与一、希世姫を連れて森へ急げ。」

光が叫ぶと、与一は言い終わらないうちに姫を引っ張って森へ走り始めた。

「逃がすものか。」

天狗は光に再び蹴りかかって、光が脇によけてできた隙間から、希世姫に向かって扇を大きく振った。斬撃が飛ぶ。希世姫の背中に一直線に向かっていった。しまった―。

「ギィン。」

別の刀が斬撃を食い止めた。顔を見上げると、片目に傷。町で光と戦った、黒服の侍だ。光は混乱した。昨日会った時は敵だった男が、希世姫たちへの攻撃を防いだ。

「説明は後だ。とっとと行け。」

黒服の侍は冷たく返した。光は迷ったが、希世姫を最も安全に護送するために、最善の方法は一つだ。

「助かる。」

光はお礼を行って希世姫のもとへ走った。天狗は光を攻撃しようとしたが黒服の侍が立ちはだかって防いだ。その間に光は希世たちと合流する。

「我が用心棒よ、いったい何のつもりじゃ。我々を裏切る気か。」

天狗は怒った。

「裏切る?元々お前たちの仲間だと言った覚えはない。」

光は遠ざかる黒服の侍の声を聞いた。笑っている。

「一年前、捕らわれの身からの解放と引き換えに任務を引き受けたのは、実戦での戦闘経験を積む必要があったからだ。お前らの目的を挫くためにな。」

その言葉を最後に、光には何も聞こえなくなった。そして、戦う侍と天狗の姿も小さく遠ざかって、やがて消えていった。


 光、与一、希世姫の三人が丘を三つ、村を二つ越えて森の入り口へ着くころには、日は完全に暮れていた。背の高い黒々とした葉を茂らせた木々が並び、森は大きく険しい表情をしていた。三人は息を切らしながら、暗い森の中を黙々と進み続けた。進む中で、光の頭をいろいろな考えがよぎった。

 黒服の侍、黒影武蔵はなぜ中ノ国を裏切ったのか。それとも、最初からこうするつもりだったのか。中ノ国に何か恨みがあるのだろうか。そういう人はいっぱいいる。今の王、怪士が支配してからの中ノ国は、必要以上に多くの町を襲ってきた。それだけ多くの人たちの恨みをかっているはずだ。しかし彼の意思は、他の人のそれよりも重く、容易には動かせないもののように思えた。それは天狗の男個人に向けられたものにしては、あまりに重すぎる気がした。

 天狗の男といえば、あいつは何者なのであろうか。人並み外れた不思議な力を持ち、正体を仮面で隠している。そういえば、怪士は仮面を被った者であるとずいぶん前に聞いた気がする。するとあいつが怪士か。いや、首謀者がわざわざ東国へ出向くはずがない。となると仮面を被った者は複数いるのだ。希世姫は天狗の男が圧政をけしかけたと言っていた。どうやって―?

 経は死んだのだろうか。天狗の男はそんなことを言っていたが、嘘の可能性もある。経は強い。初めて会った時に、いくつも死線を越えてきたような逞しさを感じた。無事でいてくれ。いくつか希世姫に質問をしてみたい気分にかられたが、それは今ではない気がした。

 どれくらい歩き続けただろうか。森に入ってから半日は経った気がしたので、光は日が出ないのを不思議に思って葉の隙間から月を覗いたが、まだてっぺんまでも登っていない。今夜は満月だった。濃い黄色の塊が、暗闇にぽっかり浮かんでいた。既に足は棒を通り越して、石のようになっていた。油断すると、ゴロゴロと崩れてしまいそうだ。全身が重く、老人を背負っているのではないかとも思った。実際、歩き疲れた与一が勝手におぶさっているのではないかと、度々確認したほどだ。希世姫には声をかけたが、大丈夫と言ってお礼を述べるだけだった。

「ここまで来ればもう大丈夫だろう。今日はここで寝よう。」

光は少し開けたところを見つけて、二人に呼びかけた。何しろもう足が限界だった。二人ともほっとしたようにその場に座りこんだ。

「ちょっとだけ飯を採ってくる。火を用意しといてよ。」

与一は光に言うと、とぼとぼ歩いて行った。

「あんまり遠くへ行くなよ。」

光は与一の後ろ姿を見送った。

「安心してください。俺たちが守ります。」

まだ不安そうな表情の希世を見て光は声を掛けた。

「ごめんなさい。さっきは危ない目に。」

光が火をおこすと、希世姫が男物の深緑の袴に着替えを済ませて口を開いた。

「もう慣れました。死にかけたのはこれが三度目ですよ。いや、子どものころを入れると四度目か。今さらあんなの、たいしたことない。」

光は思い出しながらなんでもないように装って付け加えた。

「護国武士なんでしょう。強いのね。大将の義子なら、東国で一番強いのかしら。」

希世はようやく少し安心したようだった。

「いやぁ、妹には負けますよ。花っていう、勝気な妹がいるんですけどね。あいつは、男の集団にだって平気で立ち向かって行くんですよ。」

光がそう言うと、希世姫は笑った。光は話しながら、急に自分がどう見えるかが気になりだした。自分のことは好きだが、それはあくまで自分であるからで、世間から自分というものを切り離して客観的に眺めた時、自分は果たして魅力的な人物に映るのだろうか。

「あのね、敬語でなくて結構よ。呼び方も「希世」でいいわ。そのほうが簡単でしょう。たくさん話せるし。」

希世姫にそう言われて、光は返答に困り、無意識に左手で髪をかき上げた。

「大変、怪我してるわ。」

希世姫、いや、希世は光の左手を見て慌てた。光は自分の左手を見て、確かに薬指からひどく出血していることに気がついた。森のどこかの葉で切ったのだろうか。疲れて全身がしびれていたため気がつかなかったのだ。希世は巾着袋から小さな布を取り出すと、光の手を取って薬指に結び付け始めた。光は体が熱くなって、顔を逸らしながら彼女の顔を盗み見た。怪我を見て下を向いていたため、長い睫で目が見えない。艶やかな肌が火の明かりに照らされて、頬が赤く染まっている。

「俺たち、十年前に実は会ったことがあるんです、あるんだ。覚えてる?」

光はなんとか話題を見つけて振ってみた。

「もちろん、覚えているわ。一度だけだけど。」希世は光の胸元を見て、不思議そうな顔をした。「これもどこかで見たことがある。どこだったかしら。」

見ると、光の袴の胸元から、光の実親の家系の家紋が彫られた石が出ていた。

「そんなはずないよ。それとも、十年前に会った時かな。君って目がすごくいいの?」

希世が顔を近づけて石の紋章をじっと見るので、光は緊張して声が上ずった。

「いいえ、きっと気のせいね。」

彼女が石を手放し顔を上げたため、二人の目が合った。光は気まずい感じがしたが、視線は逸らさなかった。互いに見つめ合って、その瞬間が続く気がした。静寂を破ったのは与一の声だった。

「これしか採れなかったんだけど、食えるよね?」

光の胸に膨らんでいたものが一気に沈んだ。与一は、両手に蛙と鼠を掴んでいた。

「頑張ってみるわ。」

希世は与一の手の中で暴れる蛙を見て、苦笑いをした。


 森の中の空き地で、三人は火を囲んで食事をした。与一の採ってきた食べ物は見た目はともかく、味は悪くなかった。

「あなたを北国に送り届けるまではできるとしても、神聖の復古は至難の業かもしれない。」

これからの行動を話し合っている中で、光は現実的な意見を言った。

「そういえば、皇子がもしも亡くなっていたらどうすればいいんだ?十分ありうるだろ。」

与一が突然閃いて言った。

「その点は大丈夫だと思うわ。天皇は代々、万が一にも世継ぎが絶えてしまわないように、複数の子どもを儲けるという慣例があるの。尊皇子の身に何かあったとしても、神聖は復古できる。それから皇族の人々は顔つきがとても目立つから、身を隠すとしても場所は絞られるわ。人村から離れた、比較的安全な場所よ。」

希世は与一の質問に答えた。

「それにしたって、一年はかかるでしょう。過酷な旅になる。あなたは大丈夫なんですか。」

光は心配になって希世に尋ねた。体を鍛えているわけでもない希世が、それだけ耐えられるか不安だったばかりでない。この度には、命の危険もある。

「私は何年かかっても、成し遂げたいと思ってる。もちろん、それまであなたたちに付き合ってほしいって言ってるんじゃないわ。でも自分が生きている限りは、精一杯のことをしてみたいって思うの。」

希世は力強く言った。光は彼女の懸命な言葉に不思議を感じた。

「君は一領国の姫だろう。なぜ危険を冒してまで、この国のことにこだわるんだ?」

光は今まで他の国の領国主に会ったことはなかったが、自分を犠牲にしてまで国全体のことを考えているとは思わなかった。ましてや、光が今までに会った町の人たちの中には、自分の領国や国のことを真剣に考えている人は一人もいなかった。不平や不満は言っても、自分たちの利害に関わらないところで行動を起こすことはなかった。

「姫であっても一人の人間よ。一人の人間として、国の人たちのことを想うのは当然のことだわ。これ以上人が苦しんだり傷ついたりするところを見たくないの。私の夢はね、みんなが心の底から安心して笑っていられる平和な世界をつくること。」

希世の目は輝いていた。どこまでもまっすぐだ。普通、人がこういう清らかな発言をする時は、頭の上の方から話しているように聞こえるのが常であった。しかし彼女の場合は、それが確かに内側から発せられていた。

「果たして、そんな世の中が来るかな。」

光は自分がどうしようもなく情けない生き物に思えて、反論してしまった。

「きっと来るわ。私たち一人一人が努力し続ければ。本当は、もっと簡単なことであるはずなのよ。」

彼女は怯まない。

「それは、君の立場だから言える言葉だよ。貴族という立場だから、清らかな言葉が言えるんだ。ほとんどの人たちはそんな夢は見られない。理想と本当の自分との違いに、躓いてしまうからだ。特に俺たち武士は、善のために、人を殺すという悪を行わなければならない。一度足を踏み入れれば、汚らわしさから逃れることはできないんだ。そういう矛盾が、世の中にはいっぱいある。現実はそう簡単にはいかないんだよ。」

光は大切な自分を守るように言った。

「今後、そういうことは他の人たちには言わないほうがいい。馬鹿者だと嘲笑われるか、偽善者だと非難されるか、人によっては、拒絶され暴力を振るわれることもある。」

光はかつて自分が見てきたものを振り返って、親切心で言った。だが、希世は大人しくそれを受け入れなかった。

「どんなに無茶だって言われても、嘲笑われてもかまわない。暴力にだってくじけないわ。この世に不可能なことなんてないって、私が証明するのよ。」

彼女の目の輝きは失われていなかった。無謀なことを言っていても、決して物怖じしていない。だから美しいのか、光は思った。それに比べて自分はどうだろう。自分は国のことを考えたこともないばかりか、ただ武士になりたくないと思いながら他にやるべきことも見つからず、そのまま大人になって、まだ武士を続けている。光は自分が縮んだように感じた。

「戦が嫌いなのに、なぜ武士を?」

希世がそんな光の気持ちを察したように聞いた。

「俺一人が武士の道から逃げても、世の中から戦が消えないのでは意味がない。」

光は答えた。だがそれだけで何の意味があるというのか。自分が武士を続けることで、戦がなくなるわけでもあるまいし。いつか武士の必要のない時代が来れば…。彼女がつくってくれるだろうか。

「あなたは汚らわしい人間なんかじゃないわ。あなたは既に東国の人たちのために命を賭して戦ってくれた。今は私たちを守ってくれている。それって、とても立派なことよ。誰にでもできることじゃないわ。」

希世は心の底からそう言ってくれているようだった。光の縮んだ体が少しだけもとに戻った。そして、光はふと上を見上げた。初めて森が立派な場所であると気がついた。空には世にも立派な黄金色の満月が、一点の曇りもなくこうこうと輝いていた。


 三人はようやく眠ることに決め、光は草をのけて簡単な寝床を作ると、横になって目をつむった。しかし、相当疲れているはずなのに、心は興奮して寝られなかった。体の中で一人元気な心臓が踊りまわっていた。目を閉じていても、彼女を意識せずにいられなかった。そして彼女の声が胸の中でこだました。「私の夢はね、みんなが心の底から安心して笑っていられる平和な世界をつくること。」夢か―。その夢は叶えられるだろうか。自分もそういう世界が見られる日が来るのだろうか。

 光は声を聞いた気がして、突然飛び起きた。与一が気持ちよさそうに寝息を立てている。だが自分が聞いたのは、この寝息じゃない。見渡すと、希世がいない。慌てて立ち上がって探すと、すぐ近くで膝を抱えて座っていた。背を向けて座っていて、傍に来た光には気がついていない。光は声をかけようとして、ためらった。すすり泣いている。誰にも聞かれないように、ここへ来ていたのだ。光はかけるべき声が見つからず、そこに立ち尽くした。

「ごめんなさい。私、心配で…。」

希世は光の存在にようやく気がつくと、涙を急いでぬぐった。そして、光のほうを見ないようにして寝床へ戻った。

光は今までで一番、自分が馬鹿だと思った。勝手に彼女は大丈夫だと思っていた。先の会話で、すっかりそう思い込んでいたのだ。だが違った。彼女は大事な人を傷つけられ、ほとんど一人で戦ってきた。唯一頼れる存在であったはずの経も、もういない。

「姫様はお強いです。」その経の言葉が、光の頭に響いた。「強い」という言葉が、光の頭の中でグルグル回った。そうして、初めにあった場所とは別の所に落ち着いた。この時初めて、光は彼女の言う「強い」という言葉の本当の意味を知った気がした。

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