思いがけない再会
光が目を覚ましたのは、日がずいぶんと高くのぼってからだった。海にせり出した木の葉から漏れる、顔を照らす眩しい太陽にそそのかされるようにして、光は目を開けた。ずいぶん長く眠ってしまった。光が体を起こすと、船が水面にぐらぐらと揺れた。船は島に流れ着いていた。ああそうか、光は昨晩のことを思い出していた。鬼に襲われた町、戦う武士たちの姿。だが、薄ぼんやりとして生々しくはない。ずいぶん前のことのような気がする。
ここは海岸から見えた小さな島だろうか。無意識のうちに漕いでいたのか、勝手に流れ着いたのかは分からない。船は木の葉や枝などの漂流物と一緒にゆらゆらと浮かび、先端を少しだけ岸にのせていた。ここは島というより、森の入り口のようだ。そして船は島の窪んだところに浮かんでいたため、海というより川の中にいるようだった。木から延びる青々とした枝葉の簾が、日の光を木漏れ日に変えていた。
光は船から島へ足を踏み入れた。足取りは軽く、疲れはもうなかった。光はずんずんと島の奥へ入って言った。おなかがすいて食べられるものを探していたのもあったかもしれない。何しろ昨日の昼すぎにまずいご飯を口にして以来、何も食べていない。だがそれよりも、突然湧いた好奇心にそそられた。しかし、島の内部に進むにつれ、それが空っぽの好奇心であることに気がつかないわけにはいかなくなった。
光はそろそろ引き返そうかと思った。だが足元の木の枝が、光の本物の好奇心に呼びかけた。木の枝は先端が削られ、尖っている。明らかに自然のものではない。こんな島に人が住んでいるだろうか。光はこの木の枝の不思議を夢中になって考えていたため、近くで鳴った木の折れる最初の音に気付かなかった。
「ポキッ。」
今度は大きな音が鳴り、光は飛び上がった。慌てて周囲に目を凝らす。辺り一面木と落ち葉以外、何もいない。だが、気配は感じる。しかも、大きな気配だ。光は立ち止まって、目だけを動かした。恐怖からではない。そうするのが一番安全なような気がした。動いた瞬間に襲われるような。光は耳に生暖かい空気を感じた。敵は後ろにいる。光は刀に手をかけた。敵が自らに襲い掛かる瞬間に振り返って切ってしまおう。
そう思った時、敵が光を突き飛ばして馬乗りになった。敵は光の体の倍ほどもある巨大なイノシシで、光の肉を尖った歯で食いちぎろうと躍起になっていた。イノシシが抑えつけるせいで、光は体の自由が利かず、刀も抜けなかった。唯一動かせる右手の肘から上で鼻づらを抑えた。イノシシの生暖かい息とよだれが光の顔に降りかかった。
「ヒュン。」
その時、光の耳元を矢がかすめた。矢はイノシシの小さな目を確実に貫いていた。イノシシは絶命し、光にのしかかったまま動きを止めた。矢は光の正面の木の暗陰から飛び出した。光は軽くなったイノシシの体を蹴り飛ばし、刀を抜いて目を凝らした。
「誰だ。」
光は影に向かって尋ねた。
「お前こそ誰だ。」
影が聞き返した。その声に恐ろしい響きはなかった。むしろ、隣人に尋ねるような何気ない聞き方だった。
「光、光じゃないか。」
後ろの影は興奮して、日の下に姿を現した。何年も着たおしたような灰色のぼろきれに、ぼさぼさの長い髪。ここまでは見覚えがない。しかし、小柄な体とぼさぼさ髪の下の猿のような顔は、
「与一。」
光は仰天した。与一とは八年程前に彼が彼の父と商売を求めて西国へ行ったきり、一度も会っていなかった。それなのに、なぜ彼はこんなぼろきれを着てここにいるのだろうか。
与一は光の疑問をよそに、光の手を取り、飛び跳ねながら周りをグルグルと回った。興奮する与一を見て光も嬉しくなり、背の高い光はお辞儀をする格好になったが、一緒になって飛び跳ねた。久しぶりに、自分以外の人間に会った気がした。
「おなかは減ってるか。このイノシシをごちそうしよう。うまいぞぉ。」
光は後ろのイノシシを指さして言うと、光を手招きして森の奥へと案内した。
「ここには…君以外の人も住んでいるのか。」
光は頭上の巨大な扇のような草をかき分けながら聞いた。
「いや、おれ一人さ。探したけどいないよ。でもそのほうが気楽でいいのさ。」
与一はどんどん奥へ突き進みながら答えた。
「だけど、それじゃここは君の島みたいなもんだな。」
与一がかわした草の葉にまともにぶつかってしまい、光は口に入った草をペッと吐き出した。
「そうじゃないよ。さっきのイノシシみたいなのも住んでいるから、どこでも自由に動きまわれるわけじゃないんだ。でもここは間違いなく安全な、俺の住み処さ。」
与一が前を塞ぐ大きな葉をのけると、開けたところに出た。光はそれを見てうれしくなった。小動物がつくった、秘密の隠れ家みたいだ。開けた場所はきれいに掃除され、落ち葉のない黒土の部分が大きな円を描いていた。広場の真ん中に腰かけ用の切り株が一つ。木の壁と葉の屋根で作られたつぎはぎの小さな小屋。かがまないと入れない大きさだが、きちんと入り口がある。
「素敵だ。」
光はつぶやいた。
「気に入ったかい。そこで座ってて。」
与一は切り株を指さして小屋に入った。与一が部屋から出てくると、右手にイノシシと、左手に槇の束を持っていた。与一は地べたに座って火をおこすと、イノシシの革を切って焼き始めた。
「狩りをして暮らしているのか。この弓も君がつくったのか。」
光は足元の弓を取り上げて弦を引っ張った。
「その通り。うまいもんだろ。これができないと、肉にはありつけないからね。」
与一は焼けたイノシシを食いちぎりながら当然のように言った。
「大変だな。ここでの暮らしは。」
光は与一を思いやった。
「ところがどっこい。住めば都ってもんで、ここは楽園なのさ。必要なものはたいてい揃っているし。何したって文句言われないぜ。向上心も、鍛錬も必要ない。いびきも、寝坊も、臭いおならも非難されない。」
与一は鼻をつまんで見せた。
「ほとんど不摂生じゃないか。」光は突っ込んだが、続きを促した。「それから?」
「ここで生きていくには、飯を食うことと、休むこと、後は日々を楽しむことだけが重要なのさ。」
与一があまりにも楽しそうに語るので、光も心が躍った。だが、次にこの生活を手に入れた理由を尋ねようとして、光はふと我に返った。そしてこの楽しい雰囲気の中で、次の質問をするべきか迷った。しかしこうして再会を果たしたからには、いつか聞かなければならない時分が来るに違いないと思い、遠慮がちに尋ねた。
「どうしてここに住んでるんだ。その…、君の家族はどうしたの。西国に行ったって聞いてたけど。」
与一は光の質問に先程までの態度を一変させると、首を振って座り込んだ。
「どうしても聞きたい?」
与一は嫌そうに確認した。
「う~ん、まぁ、気になることではあるな。」
光は食い下がった。
「どうしてもどうしても?」
「嫌ならいいよ。」
光は野暮なことを聞いてしまったと思い、断った。
「あれは八年程前…、」
ところが与一はポツリポツリと話し始めた。
「西国へ行ったのは父と兄弟たちだけさ…。あの人は僕を捨てたんだ。もともとお金にしか興味のない人でね。旅立つ前に母が病気でなくなってから、俺たち兄弟の面倒は全部あの人が見なければならなくなったんだ。でもあの人はそれまでもろくに家族の面倒は見たことがなかった。商売ばかりしていたからね。兄たちは頭が良かったから、役に立つと思われて割と大切に育てられたけど、できの悪い俺はあの人にとって、ずっとただの邪魔だった。そしてある日俺が目覚めると、あの人たちは俺一人残して西国に出発してた。」
火に照らされて、うつむいた与一の目元は暗くなった。光は彼が急にみすぼらしく見えた。そのボサボサ髪と古い服が、与一の苦労を思わせた。いつも明るい彼しか知らなかった光は何と言っていいか分からず押し黙った。
「その日の朝は呆然としたよ。それからすぐ、俺は何とか生きていく方法を考えた。でも、誰かの頼りにはなりたくなかった。かわいそうだと思われたくなかったんだ。」
与一はうつむいたまま言った。
「それでこの島に来たのか?」
「うん。食べるものを求めて、ある日海岸に来てみると、遠くに小さなこの島が見えた。それで思ったんだ。あそこでなら食べ物もいっぱい取れるだろうって。来てよかったよ。確かに最初は大変だったし、いつも危険がいっぱいだ。だけど、自由気ままだ。起きたい時に起きて、寝たい時に寝て、食べたい時に食べる。好きな時間に、好きなことをするんだ。」
最後の言葉は本心らしかった。与一は再び明るい顔に戻った。しかし光は与一の前の言葉の方を考えていた。親というものは、子を育てるのが当たり前だと思っていた。しかし、こうも簡単に、いつでも親は子を捨てられるのだ。東国でも、ここ数年では人身の売買は横行していて、これに実の親が加担していることも少なくなかった。
それに引き替え、自分は本当の子どもではないのに、飯も、着るものも、住処も与えられ、何もかも不自由なく育てられた。そのことについてもっと里親たちに感謝せねばならぬと、彼らから離れた今になって思った。彼らのことを思ったとたんに光は現実に引き戻された。
「それで、君はなぜここに来たんだ。」
与一が光の気持ちを察した、というよりは思いつきで聞いてきた。
「与一、東国は襲われたんだ。中ノ国の鬼の大群に。」
光の言葉を与一は呑み込めないようだった。難しい顔をした後「なんで」と聞いた。
「君がいないうちに国の情勢は大きく変わったよ。中ノ国は鬼の軍隊を組織した。それまでの政策を転換し、北国や東国との協定も破って、次々に各地を制圧しにかかったんだ。西国は奴らの傘下に堕ちた。どこかの国がやられるのも、時間の問題だった。そして一番初めに、東国がやられたんだ。」
与一は光の話の半分も理解できていないようだった。
「それで、みんなは?」
与一はしばらくぼうっとして、突然我に返ったかのように言った。
「皆はその場は何とか逃げたんだ。でもその後はどうなったか知らない。」あえて武士たちのことは伏せた。というより、言えなかった。光の胸に焦りがふつふつと湧き上がった。
「俺、戻らないと。こんなことしてる場合じゃない。」
光は勢いよく立ち上がった。ここで何もしなかったら、自分は本当に最低な人間だ。
「なんで?。」
与一は落ち着いていた。
「なんでって。みんなが心配だからさ。」
光はその冷静さに苛立った。
「行って、大群相手に、君に何ができる?」
与一は尋ねた。
「自分に何ができるかなんて、試してみないと分からないだろう。君も行こう。」
光は与一を誘った。仲間がいれば一人よりも何倍も心強い。だが光の誘いに与一は渋い顔をした。二人の間に生暖かい風が吹き抜けた。
「俺は…ここでの生活もわりと気に入ってるんだ。さっきも説明しただろう。ここは楽園なんだ…。君もここで暮らそう。楽しいぞ。」
与一は辺りを見渡した。光は気持ちが大きく揺らいだ。確かに、ここで友人と二人なら、いつまでも平和でのんびり暮らせるに違いない。命を危険にさらすこともない。ずっとここにいれば非難されることもないだろう。でも…。
「駄目だ…。俺には、守りたい人がいるんだ。君には、そういう人はいないのか。」
光は花と皐月おばさんを思い浮かべた。分かれ際に見た、花のあの心配そうな顔。今も無事だろうか。
「俺には、もう家族はいないんだ。」
与一は唸った。
「だけど…。」
「少し考えさせてくれ。」
与一は頭を抱えたまましばらく考え込んだ。光は言い返さずに黙って待った。
「やっぱり…いい。命を危険にさらしたくないし。君と俺は違うよ。ごめん。」
与一ははじめ迷っているようだったが、そう言った。彼は素直な男だった。そして正直な男だった。光は与一をそれ以上咎める気になれなかった。彼は今までも辛い思いをしてきているのだ。親に捨てられ、ずっと一人での生活だ。本人は不満を言わなかったが、もし自分がその立場なら耐えきれない。
「そうか、残念だ…。せっかく会えたのに、またすぐお別れなんて。」光は言った。「国が無事に戻ったら、また船に乗って会いに来るよ。」
光は今までで一番守れそうのない約束をして、この広場を後にした。与一は何にも言わずにうつむいていた。光の気持ちは昨日海へ出た時と同じくらい、沈んでいた。こんなことなら、与一とは会わなかったほうがよかった。与一にとってもそうだろう。何にも知らなかった与一に、知らなくてもいい情報を知らせ、不要な罪悪感まで抱かせてしまった。人との出会いは宝だという人もいるが、全部が全部そうではない。
船への道を邪魔な草をかき分けながら進む間、光はまたまた一人だった。船は嫌そうに主人の帰りを待っていた。光は島に乗り上げた抵抗する船の先端部分を押しやり、船に乗り込んだ。遠くに見える海岸を確認してから、島に向き直り、のろのろと櫂を進めた。
昨日の海とは反対に、櫂を漕ぐごとに現実味が増し、自分がはっきりと感じられていった。与一の言葉が胸をよぎった。行って、大群相手に、君に何ができる―。彼の言うとおりだ。危険に自ら近づいていく自分の様が、火に向かって自ら飛び込む愚かな虫と重なった。
光はぼんやりと遠ざかっていく島を眺めた。あんなに小さな島だったのか。光は誰もいない海岸を眺めた。―はずだった。
「おーい。」
島から小さな人影が呼びかける。光は不安定な船の足場で勢いよく立ち上がって、よろめきながら島の岸に目を凝らした。
「おーい。戻ってきてくれー。」
与一だ!与一は水しぶきを飛ばしながら必死に海まで駆けて来ていた。
「おれも一緒に行かせてくれー。頼む。」
与一は腰まで海に浸かって叫んだ。泳げないのか、ほとんど溺れかけている。それでも与一はこちらに進んで来るのをやめようとしなかった。あえぎあえぎ光に訴えた。
「お願いだ―。きっと役に立つから。」
与一の再三の言葉に、光は笑顔を取り戻した。とても心強い。しかし光は笑い出したいのを抑えて小声でつぶやいた。
「せめて漕ぎ出す前に言えよな。」
光は反対向きに櫂を操り、再び島へと戻った。
岸まではほとんど与一が漕いだ。何しろ一度目の船出で光は相当腕が疲れていた。岸には誰の姿も見えなかったが、二人は腰を屈めながら町までの草原を移動した。どちら側かの誰かの姿が見えやしないかとずっと注意を払い続けたが、誰一人見当たらなかった。逃げた町の人たちの一団が町に戻ってきたということはなさそうだ。
町についても相変わらず人気がなく、静寂だけが横たわっていた。あまりに静かなことは一昨日までの活気のない日常に変わりないようで、光は昨日のことが夢だったのではないかとさえ思った。
「これはひどい。」
長い間町を開けていた与一にとっては、この閑散とした町に異常を感じたらしい。
「隠れて移動しよう。一匹に気づかれるだけで、仲間を呼ばれるかもしれない。」
光は呼びかけて物音を立てないように大通りを避けて移動した。
「ガシャン。」
町の中心部で、静寂を破って何かが壊れる音がした。二人は固まった後打ち合わせたように顔を見合わせた。町に誰もいないわけではないようだ。
「行こう。」
二人はより用心して中止部へ急いだ。敵に見つからないように路地裏を抜けていると、開けた通りの先に騒いでいる一団が目に入った。怯える女性と老婆、鬼が数匹、天狗の仮面の男がいる。
「飛鳥様。また外れです。」
一匹の鬼が天狗に向かって言った。
「どうかお助けを。町の皆に合わせて下さい。逃げ遅れたのです。」
女性が懇願した。その母と見える老婆が足を引きずりながら顔を歪ませおめおめと泣いている。おそらく女性は足の悪い母親を放っておけず、一緒に隠れていたのだろう。
「安心せい。すぐに殺しはせん。命尽きるまで働いてもらわんといけんからなぁ。じゃが…、お前は使い物にならんわい。」
天狗はそういうと、足の悪い老婆をけっ飛ばした。老婆は吹っ飛んで倒れこんだ。女性が老婆に抱き付いてさめざめと泣いた。天狗と一緒に周りの鬼たちがげらげらと笑った。「野郎。」隣で与一が飛び出そうとした。
「待て。俺が合図するまで。与一は周りの鬼たちを倒せるか。俺はあの天狗仮面をやる。」
光が小声で説明すると、与一が頷いた。
「お前らも笑っている場合か。姫は町のどこかに隠れておるはずじゃ。夜行が中ノ国に連行した、逃げだした町の一団の中にはやはりおらんかったらしい。早く探せ。」
天狗は周りの鬼に呼びかけた。光は胃が落ち込むのを感じた。中ノ国に連行した?
「女、わしの女になるなら許してやってもいいが…、年寄りと一緒に死にたいなら、後で逃げ遅れたお仲間同士、仲良く処分してやるわ。怪物の餌としてな。連れてけ。」
天狗が女性に向かって言うと、泣きさけぶ女性と老婆を鬼が連行した。もう我慢ならない。光は小さく「今だ。」と合図すると、与一の返事を待った。ところが、返事がない。横を見ると、倒れている。光は慌てて後ろを振り返ろうとしたが、強い衝撃が頭に走り、気を失ってしまった。
目を覚ますと、そこは家の中だった。そして周りには、数人の町の人たちがいる。光はとっさに動こうとして、自分の手が後ろに組まされ紐で縛られていることに気がついた。
「お静かに、外の鬼に気がつかれると危険です。」
近くの女性が言った。先程町で泣き叫んでいた女性だ。
「ここはどこですか。あなたはなぜここに?」
光は声を掛けてきた女性に立て続けに聞いた。
「落ち着いて。あなたは光君ですね。わたしは権三の妻です。ここは町の中心地にある大きな民家です。年老いていたり体が不自由だったりという理由で逃げ遅れた者たちが捕まり、ここに集められました。怪物の餌にされるようなのです。」
女性は震えた。女性や他の捕まった人たちは、体を縛られていなかったが、皆目の色は失せ、じっとうずくまり、逃げる気力を失っているようだった。
「なんで逃げないんだ。」
話を聞いていたらしい与一が尋ねた。
「外に見張りがいるからです。確認できるだけで二匹います。逆らったり、逃げようとしては殺されるでしょう。ここに集められているのは非力な人間ばかり。たとえ手薄だとしても、見張りがいる限り反乱を起こすことなど到底出来ません。それより、あの…、旦那は、権三は無事なのでしょうか。」
女性は考えもできないというように首を振ると、期待顔で光に問い詰めた。光はまた自責の念にかられた。権三はもう…。
「すいませんでした。」
光は一から説明する気になれなかった。またしても自分の責任だと言うことができなかった。光はこの時卑怯な人間に違いなかった。それでただただ頭を下げた。
「いいえ。あの人はきっと立派に戦いました。あなたが謝る必要はありません。」
女性はぽろぽろ泣き出したが、光に頭を上げさせた。光の覚悟が決まった。自分がやるべきことは一つしかないと思った。
「あなたたちを助け出します。」
光の言葉に、部屋中の者達が顔を上げた。
「おい、本気か?手を縛られたままだし、武器もない。屁も足も出ない内にやられるぞ。」
与一は反対した。光は女性に紐をほどいてもらおうとしたが、固く結んであってだめだった。
「それをいうなら『手も足も出ない』だ。だがまぁ見てろ。おい、鬼。そこにいるだろ。出て来い。」
光は家の中から閉められた戸に向かって叫んだ。
「何だぁ。偉そうに。呼んだのは誰だ。」
思惑通り二匹の鬼が怒って入って来た。幸運なことに、他の鬼より小柄でどんくさそうだ。太った禿げ頭の鬼が光の刀を、痩せた出っ歯の鬼が与一の弓を勝手に装備していた。
「かかって来い。ポンコツ野郎。」
与一が挑発したが、鬼はふいのことに面食らっただけだった。
「どうした。怖いのか。手を縛られた人間にも勝つ自信がないか。」
光も挑発すると、鬼たちは簡単にそれに乗ってしまった。
「黙れ。けっ飛ばすぞ。」
禿げ頭の鬼がずんずんと光に近づいて発言を実行しようとした。しかし光は十分に間合いを計って、足が届くぎりぎりまで鬼が迫ったところでとっさに進み出て股間を蹴り上げた。
「うおっ。」
鬼は白目を向いて倒れた。与一に向かっていった出っ歯の鬼は、与一の渾身の頭突きをくらい同じく気絶した。
「さぁ、皆さん。今の内に逃げて。鬼に見つからないように町を出て、近くの村を目指すのです。」
光の言葉に家じゅうの人々がうろたえ、やがて我先にと戸から外へ這い出た。
「よし、俺たちも続くぞ。まずこの邪魔な手の紐を切って…。」
光は言いかけてハッとした。
「誰かに刀で切ってもらわないと。おーい、誰か。」
与一が慌てて呼びかけたが、時すでに遅し。二人以外の全員が家から出た後だった。
「皆逃げるのに必死で俺たちのことを忘れている。くそ、いつもこうだ。」
光は嘆いた。かきむしりたい頭さえかけない。仕方なく光は、鬼の腰に差してある刀の鞘を口でくわえ、引き抜こうとした。これがなかなか難しく、おまけに顔を近づけた鬼の体からは何日も洗ってないようなくさい臭いがした。やっとの思いで刀を口で引き抜くと、与一の手を縛る紐を、これまた苦労しながら切った。
「よしっ。次は俺の紐を頼む。」
光は与一に背を向けたが…。
「こっちだ。見てみろ。いつの間にか戸が開いてる。見張りはどうした。」
外から鬼の声が聞こえた。しかもたくさんいる。最悪だ。光は焦った。
「急いでくれ。」
「急いでるよ。でも難しいんだ。手を切っちまいそうでよ。」
与一は急いで切ろうとしたが、かえってそれが原因でうまくいかないようだった。
「コンッ。コロコロ。」
今度は天井からこぶし大の木の実のようなものが転がり落ちた。途端に木の実が白い煙を吹き出し、あっという間に部屋中に広がった。
「何だ?ケホッ、ケホッ。」
煙は辺りを白く包み、それを吸い込んだ光は頭が痛くなった。視界もぼやけてくる。なんだか強烈な眠気も感じる。
「切れた。やった。やっと切れたぞ。」
与一が興奮して、白い煙の中を、手探りで自分の弓を探した。光は何もせずそれを遠くに見ていた。だんだん意識が遠のいてくる。数匹の鬼が部屋になだれ込んでくる足音が聞こえた。
「くっ。何だ。この煙は。」
光の聞いた言葉はそれが最後だった。強烈な眠気に襲われ、光は無防備に倒れ込んだ。
再び目を覚ますと、今度は暗い小屋の中だった。狭い小屋の中は藁ばかりで、泥のようなきつい臭いがする。光は動こうとして、体が縄に縛られていることに気がついた。今度は全身だ。光は隣で同じく縄で縛られて眠っている与一を、肘をぶつけて起こした。
「うへっ。あれっ。何が起きたんだ。俺たちは縄を解いて逃げようとして…。あれは夢だったのか?」
与一はぼんやりした顔で考えた。
「夢なら、二人で同じものを見るはずがないよ。一度抜け出そうとして、また捕まったんだ。自分で自分が嫌になるよな…。今度はどこなんだろう。」
与一の疑問に答えて、今度は光が聞いた。
「ここは城内の馬小屋の隣の部屋です。しばらくは奴らに見つからないでしょう。ご安心を。手荒な扱いをお許し下さい。」
光たちの後ろから回り込んで、大柄の女性が姿を現した。筋肉質の体に、およそ似つかわしくない桜色の着物を着ている。よく見ると狸のように目の周りだけが黒く日に焼けていていた。どこかで見たような気がする。
「誰だ。この縄はどういうわけだ。」
光はそれでも不審気に聞いた。
「私は東久邇宮家に仕えている、経と申します。縄はある人の安全のためです。二、三確認したいことがございまして。」
経は光たちの正面で片膝をついた。
「あの白い煙も君の仕業?」
ようやく視線の並んだ経に対して、与一が聞いた。
「その通り。逃げ遅れた者達は、私が助け出すつもりでした。ところが彼らが捕らわれたはずの家に着いてみると、そこにいるのはあなた方二人。その上手は紐で縛られ、鬼に襲われるところでした。とっさに、私は煙を吸った者の眠りを誘う煙幕を投げつけ、鬼もろとも眠らせてから、あなたたちをここへ運んだのです。」
経は素早く説明した。
「あそこから逃げ出した人々は、無事なのですか。昨日逃げた人々は?」
光は気になって聞いた。
「あの者達は大丈夫です。私の合図で近くの村へ避難するように私から言っておきました。数日前に襲われた村で、今は鬼もいません。それから、昨日町を出た人達のことですが、彼らはまだ生きています。」
経の言葉に、光はほっと胸をなでおろした。しかしすぐにある言葉に引っ掛かった。
「まだとはどういう意味ですか。」
光はすぐに尋ねた。
「それは…。昨夜彼らは東へ逃げましたが、西で待機していた鬼たちに追いつかれ捕まりました。捕まった者達は、中ノ国に連行されるのです。中ノ国には大きな収容所があって、そこであらぬ扱いを受けて、死ぬまで働かされる。しかし、あなたが作戦の決定に関わった武士であるからと言って、ご自分を責めてはいけません。もしまともに国中の者で戦いを挑んでいたら、死者はこんなものではすまなかったでしょう。最善の策だったと思います。」
光は経にそう言われてもまだ居心地が悪かった。
「さぁ、次は私から質問させていただきましょう。あなたは護国武士の天正門龍仁の義子である、天正門光に相違ないな。」
光は相手が自分の名前と顔を知っていることに驚いた。するとこの女性は、光が戻ってくることを信じて、自分を探し出して捕まえたのだろうか。いったい何のために。しかしここまで身元がばれているなら、隠し立てしても仕方ない。
「相違ない。」
「それで、そちらは。」
経は東国の深緑の袴を投げてよこしながら、与一に向き直った。
「俺の相棒です。信頼できる人間です。」
光は与一に助け舟を出した。
「そうですか。分かりました…。それではお二人にお話ししましょう。実は、無理を承知で申し上げますが、とある二つの頼みごとをしたいのです。その前に、今からお知らせする秘密を、決して外部に漏らさないと約束して下さいますか。」
経は光を探るように見た。
「頼みごとは、内容次第です。秘密は守ると約束しましょう。」
光は相手の話に何の見当もつかなかったが、彼女は信頼できると思った。なぜなら、彼女が出会ったばかりの自分を信頼し、期待してくれたからだ。
「姫様、この者たちは大丈夫です。」
経は後ろの戸に向かって呼びかけた。
戸が開かれ、若い女性が入ってきた。白くぼろい麻布を着て、手足はか細くたおやかであるが、凛とした美しさがあふれ出ている。光は彼女を知っていた。つんとした鼻も、しまりのある唇も、すらっと伸びた背も、初めて見た十年前の姿とはまるで変わっていた。しかし、黒々と輝いている、彼女の瞳は変わらない。
「東久邇宮希世と申します。」