闘争と逃走
光はどうしても先に寄っていきたい場所があった。そのために町はずれの小さな山の麓まで走り、背の高い竹藪に囲まれた、苔むした急な石段を駆け足で登り切った。そこでは狛犬がこちらをじっと見守り、獅子が久しぶりの来訪者に驚いていた。
光は剥げかけた朱塗りの鳥居をくぐって、目指すお寺の前にたどり着いた。荘厳な造りのたいそう立派な建築であるが、お寺は相変わらず人気がなく、静けさの中で光の砂利を踏み歩く音だけが高く響いた。賽銭箱は逆さにひっくり返してみてもおそらく埃しか出てこないであろうと思われた。光はそこに今持っているだけのお金をぶちまけて、手を合わせて祈った。どうか自分の下した判断が、最良の結果を導きますように。
それから光はお寺を出て石段を二つ飛ばしで飛び降り大通りに戻ると、人々の流れに逆らって正門へと急いだ。逃げ惑う人々は慌てふためいていたが、しっかりと南に向かう流れができていた。町の家という家から湧いて出たような人ごみの中から、望む人を見つけ出すのは困難らしかった。
光は一旦路地を抜けて天正門家の屋敷に向かい、そこが空っぽなことを大急ぎで確認してから、再び町へ戻った。もう行ってしまったのだろう。それは良いことだ。だが望むなら、その前に無事を確認しておきたかった。光は複雑な思いに駆られながら、最後の望みを託して町を探した。
やはりいないか。ここにいなければ諦めて正門へ向かおうとしたその時、見つけた。広い通りの中でも、人の流れに逆らって走る妹の姿は目立っていた。二人は互いに辺りをかき分けて寄り添い、本物と確かめるように両手を合わせた。
「君が美人で助かったよ。おかげで探す手間が省けた。」
光はなんでもないように言った。花はむっとしたが、彼女に似あわない深刻な表情が解かれて、光は嬉しかった。
「お兄ちゃん、私、心配で。お母さんがね、お兄ちゃんが無茶をするんじゃないかって。」
花はすぐに深刻な表情に戻った。顔をひきつらせたが、涙は流さない。光はこんな時でも彼女が泣かないことを知っていた。それが光を安心させた。
「大丈夫だ。花たちより少し逃げるのが遅れるだけだよ。」光は優しく声をかけた。「母さんを頼んだぞ。」
花は頷いて、光の手を両手で握った。
「どうか、ご無事で。」
花は何度もこちらを振り返りながら人ごみの中に戻り、やがて見えなくなった。
西に進むにつれすれ違う人の数がだんだんと減っていき、正門に着くころにはいよいよいなくなった。だが側には仲間の侍たちがいた。そのおかげで、いよいよ正門にたどり着いた時も心強さを感じられた。存在感を増した赤い太陽が、光たちを正面から強く照らした。その赤い太陽に向かって、雁の群れが横に並んで飛んでいた。
「いよいよだな。隊列と間を崩すなよ。十五人が横に並ぶにはちと狭いか。二列にするか。」
最初に口を開いたのは権三であった。侍たちは中心部を通って正門から城へまっすぐ続く大通りに並んでいた。目の前に外堀に挟まれた道と、閉じられた厚い門がそびえる。
「いや、このままで行こう。鼠一匹通すまい。」
熟練の武士が返した。その言葉に、周りの武士たちも士気を上げた。
「よし、戦の前の口上を述べろ。大将はどいつだ…。光、お前だ。」
権三はなんにも言わない光を指さして呼びかけた。
「そういうのは苦手なんだ。」
光は食わず嫌いを告白するような軽い口調で言った。
「いいからやれ。皆の士気をもっと上げるのだ。」
権三は相変わらずの光に苛立った。光は進み出て、皆に向かい合った。
「あ~、皆の者。聞けぃ。いや、聞いて下さい。始まり方は、こんな感じだったっけ。」
光は話し始めてすぐ、実際にこういう口上を見た経験がないことに気がつき、やり方に戸惑った。権三は自分の推薦を後悔したことを示すべく大げさに頭を抱えた。
「自分のやり方でいい。」
熟練の武士が言った。その言葉に、光の迷いはすっと消え、こわばった顔がほどけた。
「我々はかつて龍国最強の侍集団と呼ばれました。強く気高く、自信と誇りを持ち、仲間からは信頼され、敵からは恐れられた。しかし国の衰退と共に多くの同胞を失い、今やたったの二十人、おまけに敵の大群に責められ、希望はほとんどない。」
光は一人一人の顔を見ながら続けた。真っ赤な空が向かい合う侍たちの体を赤く染めていた。
「しかしこの二十人。我々は紛れもない仲間だ。今日という戦の日を、我にとっては初めての合戦を、皆と共に迎えられることを誇りに思う。我の願うことは一つ。皆無事に生きて、新しい地で共に笑い合うことだ。約束しよう、必ず生きると。」
光は思いの丈をありのままに話した。戦の前に生き残ることを誓い合う口上をする者などそれまでいなかった。しかしここにいる武士たちは、光の言葉に同調の声を上げたり、深く頷いたりした。
「他に言い残したことがある者はいないか。」権三が呼びかけたが、周りを見ても誰も何も言わない。そこで本人が口火を切った。「俺は娘が立派に成人する姿を見たかった。」
「俺は町で一番強い武士になりたかった。」
がっちりした武士がこれに続いた。
「俺は世界を見て回るのが夢だったんだ。」光の言葉に周りの皆はぎょっとした。乱世の世にそんな夢を見る者はいない。光は付け加えた。「言いたいことは言っといたほうがいいだろう。」
「俺は油の載った鰻を腹いっぱい食いたい。」
太った武士が様子を見ながら恐る恐る言った。
「金持ちになって、豪華な暮らしをしたかった。」
強面の武士が続いた。
「僧侶になって、悩める人たちの心を救いたい。」
熟練の武士が真剣に語った。
「俺は一度、美人と結婚したかったんだ。それも貴族の。」
若い武士の言葉に、どっと笑いが起こった。
しかし、その時ほら貝の音が鳴り響いた。低い不気味な音が、丘を下って町の光たちの元まで這って来た。決戦の合図だ。一列に並んだ侍たちは打ち合わせたように一斉に刀を抜いた。
次いで大群の咆哮が轟き、空気が張りつめた。この世のものとは思えない、地中深くから響いてくるような声、鬼の声だ。さらに大きな足音が聞こえ、地が激しく揺れた。敵は門が邪魔で見えないが、地鳴りからすさまじい数がいることが分かる。足音はだんだんと大きくなり、迫ってくる。
光の心臓も負けじと高鳴った。光にとってはこれが初陣だ。重くのしかかる恐怖の中に、軽やかな興奮の気持ちを感じる。これが戦いに出る時の気持ちなんだ。興奮が自分の足を地から浮かそうとし、恐怖は体のすべての感覚を奪い去ろうとする。光は失いかけた手の感覚を取り戻すように、力強く刀を握りしめた。
鬼の足音はまだまだ大きくなる。光はたたずむ門を見つめて、もう鬼がすぐそこまでやってきているのではないかと、何度も先走った。これはどうもおかしい。もう確かにそこまで来ているはずだと感じた時、ついに鬼の足音が止んだ。
「ドスン。」門にぶつかる鈍い音がして、木でできた門は大きく揺れた。
「ドスン。」二度目の音。光は隣の武士が生唾を呑み込むのをかろうじて聞いた。さらに柄に力が入る。
「ドカァン。」
一斉に大量の鬼がなだれ込んできた。手に棍棒を持ち、興奮した表情の鬼たちが、我先にと押し寄せてくる。周りの状況を考える間もなく、光は開門と共にぐらつきかけた気持ちを立て直し、近くに来る二、三匹に意識を集中させた。
一匹目は正面に来た。突進してくるだけの鬼に光は間合いを読み、頭に刀を打ち付けた。鬼たちは一人ずつ戦うのを待ってはくれない。斬った鬼が倒れたか確認する間もなく、光は次の鬼の金棒を後ろとびにかわし、腹部に切り付けた。
光と隣の武士の間を縫って、三匹目が抜けようとした。光はとっさに足を引っかけた。通すものか。目の前の鬼の振りかぶった腕に斬りつけてから、倒れこんだ鬼に追い打ちをかけた。思っていたよりも苦戦している。どれくらいももたない気がした。しかし、考えている暇はない…。
「うわー。」
その時、戦禍の中で、南のほうから叫び声が聞こえた。そんなばかな…。裏門を知られたのか。作戦が漏れたのか。光は頭に迫る鬼の金棒をかろうじて首をひねってかわし、鬼ののどをついた。南から、別の悲鳴がなおも続く。
「光、聞いたか。様子を見に行ってくれ。」
武士の内の誰かが言った。
「だが…。」
光は鬼の攻撃を刀で防ぎながら大声で抗議しようとした。ここを一人でも離れれば大きな痛手だ。今も近くで仲間の侍と思しき声が上がり、倒れる音を感じた。
「ここはわしらに任せろ。頼む。」
別の誰かが叫んだ。
「頃合いを見つけて切り上げて下さいよ。」
議論している暇はない。光は目の前の二匹の鬼の首と腹をそれぞれ斬った後、後ろを振り向いて走り出した。少し離れた後、光は初めて戦況を確認できた。狭い門のおかげで鬼は一気になだれ込んではいないが、鬼の多勢に変わりなかった。明らかにおされている。このわずかな間に、仲間が二、三人傷つき地に転がっていた。
光はやりきれない思いで南の門へ向かった。通りはがらんとしている。両門の騒ぎの中で、ここだけが静寂を保っていた。南のほうから聞こえる悲鳴はやんでいた。しかし、さっき聞こえた悲鳴は間違いなく何かが起こったという証だ。だがなぜ悲鳴がやんだ。南に鬼の大群が現れたのならば、騒ぎは続くはずだ。光は先を急いだ。
花は皆より少し遅れて南門の前に着き、すぐに異変に気がついた。群衆が止まっている。進んでいる様子がないのだ。花は人の群れに無理やり突っ込んで、人垣を掻き分けて進んだ。やっとの思いで先頭の列を抜けると、農具を持った黒服の集団が南門の狭い通路に陣取っている光景が目に入った。三十人程いる。花は群衆の前列に母を見つけて、脇に移動して肩を叩いた。
「花!良かった。光には会えたかい?」
母は渋い表情をしていたが、花を見てひとまず安心したようだった。
「うん。あっちは大丈夫だって。それより、どうしてみんな止まっているの?あの人たち、誰?」
花は黒服の集団を指さした。母が説明するより早く、一人の町人がその集団に訴えた。
「早くしないと鬼が来ちまう。通してくれ。」
「やかましい。」黒服の集団で一番偉そうにしていた、顔の曲がった剥げた赤ら顔の男が無言で鎌を振り下ろした。訴えた町人は腹を斬られて、地面にうずくまった。「何度も言っているだろう。ここを通りたければ関税、つまり通行料を払うことだ。払った者だけが通っていい。口答えは必要ない。」
赤ら顔の男はうんざりしたように苦しむ町人を見下ろした。
「没落農民さ。」花が顔を上げると母が説明した。「ここへきて町から出たければお金を支払えと言っているんだ。普通の人じゃ到底払えないような金額をだよ。払えたとしても、ここを出て生活していくためには必要なものなのに。」
「そんな…。みんなでかかればどうにかなるんじゃないの?このままだと敵が来るわ。」
花は怒りに体を震わせた。
「そりゃみんな同時にかかれば抜けられるだろうさ。だけど最初の何人かは絶対に斬られてしまうよ。あそこに転がっている人たちを見な。私たちを率いてくれるはずだった侍だけど、みんなやられちまった。」母の指さす先には、無残に倒れている五、六人の若い男たちの姿があった。「みんなああはなりたくないから、誰も動かないんだよ。誰も殺される最初の一人にはなりたくないだろうしね。」
花は聞きながらだんだんと覚悟を決めた。誰かが最初の一人にならなければ。光たちの行為が無駄になってしまう。彼らは私たちのために、命がけで戦ってくれているのに。
「だが拍子抜けだよな。ここの武士どもは。こんな姑息な作戦を思いつくなんて。男なら男らしく、町人全員で力を合わせて戦えってんだ。とんだ腰抜け集団だぜ。ハハハ。」
赤ら顔の男が若い武士の無残な亡骸を踏んで笑うと、その仲間もどっと笑った。
「ふざけないでよ。」怒りが抑えきれなくなり、母が止めるより前に、花は進み出た。「馬鹿なことは止めて。あなたも同じこの町の人でしょ。そこをどいてよ。」
赤ら顔の男は一瞬面食らったが、相手を確認してにやりと笑った。
「お嬢ちゃん。ここの連中には珍しい威勢の良さは買うが、人の商売の邪魔してもらっちゃ困るぜ。何も通さないって言っている訳じゃないんだぜ。金さえ持ってくればいい。」
赤ら顔の男がせせら笑った。
「そうこうしている内に、鬼が来てみんなやられてしまうわ。あなたたちもよ。」
花は説得を試みた。
「それはどうかな。これだけの人垣だ。鬼が来てもあんたらがちょうどいい壁になって、俺たちだけは逃げられる。あんたらは俺たちの犠牲になってくれればいい。元々全員で助かるなんて不可能なんだよ。馬鹿な武士どもにはそれが分かっちゃいないようだったが。」
赤ら顔の男は淡々と語った。
「彼らがどうやってこの決断をしたか分かる?どれだけの勇気が必要だったか、あなたたちに分かるの?恥を忍んで、頭を下げて、この町の人達のために、自分たちの命を投げ出したの。」
花は必死に訴えた。彼らの決意や、覚悟を棒に振ってはならない。
「くだらん。」
赤ら顔の男がため息をついた。その時、止まったままの群衆の中で誰かが動いた。
「家だ。家に戻って金を持ってこよう。探せばあるかもしれない。行くぞ。そこを退け。」
商人らしき男が震える声で自分の家族に呼びかけ、人を押しのけて道を引き返そうとした。
「駄目よ。手遅れになるわ。戻って。」
花が必死に呼び戻そうとした。しかし、赤ら顔の男に体をけっ飛ばされた。
「余計なこと吹き込んでんじゃねぇよ。わざわざ金を持ってきてくれるってんだ。」
しかし花は怪我を介さずすぐに立ち上がって、今度は群衆に呼びかけた。
「みんな、このまま死んでいいの?私が犠牲になるから、最初の一人になるから、みんなでここを抜けましょう。生きるのよ。」
群衆は揺らいだ。花の言っていることは分かる。でも…。彼らのそんな思いが伝わって、花はもう一度口を開こうとした。
「こいつ…。もういい、やれ。」
赤ら顔の男の合図で、没落農民たちが花に襲い掛かった。
「花、逃げて。」
母の声がする。しかし花は囲まれていた。逃げ場がない。恐怖に目を閉じる。
「ガガンッ。」
鈍い音。花は自分が斬られていないことに気がついて目を開けた。
「女一人を袋叩きとは感心しないな。」
男の声がした。黒い服。赤と白の二本の刀。険しい顔。傷ついた片目。周りの没落農民が倒れているのを見ると、この男が仕掛けたようだった。怖い…。花は声も出ず、身動きできなかった。男は花に近寄ると、花の顎を持って見やすいようにくいと上を向かせた。
「美人ではあるが、面影はないな。人違いか。」
男はぶつぶつ呟いて手を離した。
「何だってんだ。まだ武士が残ってたってのか。」
赤ら顔の男が予期せぬ事態に慌てた。
「片目の傷に二本の刀。間違いない。こいつ、鬼殺しです。一人で百匹の鬼を斬ってきたとかいう…。」
没落農民の一人が震える指で男を指さした。男は黙ったままだ。
「ハ…。ハハッ。慌てることはねぇ。今もあんたは中ノ国のもんなんだろ?俺たちも中ノ国の奴らの仲間なんだぜ。この黒い袴を見ろよ。あんたと同じだ。中ノ国に言われていろいろな仕事をしてきた。今だってそうだぜ。あんたらが計画通り国を襲えるように、ここで町人の足止めをしていたんだ。あんたの仕事の手助けにもなるはずだ。」
赤ら顔の男は相手が誰か分かると急に媚び始めた。男は品定めするように赤ら顔の男を眺めると、ようやく口を開いた。
「そんな話は聞いちゃいないな。俺の仕事はここを通り抜けるはずの人間の中から一人の女を探すことだけだ。お前らが余計なことをするせいで、誰もここを通り抜けられてない。つまりお前らは、邪魔だ。」
男は相手の媚びをあっさり突っぱねた。それどころか彼の言葉には攻撃的な響きがあった。
「な…。なぁおい、お兄さん。態度がでかすぎやしねぇか。確かにあんたは特別な任務を任されているのを見る限り、少しは偉い人間かもしれない。だが俺らはまだ正式にお前らの仲間になった訳じゃないし、あんたより年上だ。」
「それで?」
赤ら顔の男の抗議にも男は無反応だった。
「それで?…だと?それで、あんたは礼儀を知ることになるぜ。あんたを斬れば、実力を認められて俺たちの地位も上がるはずだ。その椅子は開けてもらう。」赤ら顔の男はまたも態度を変えた。「鬼殺しって言っても、一度に百匹斬った訳でもあるまい。この人数相手に、一人で立ち向かえるものか。お前ら、かかれっ。」
その合図を皮切りに、没落農民の集団が男を囲って武器を振り下ろした。男は斬られた。と花は思った。何しろその直前まで二本の刀を鞘に納めたままだった。ところが男が素早く刀を抜くと、事態は一変した。花の目には速すぎて何が起きたのか分からなかった。男を囲っていた六人の人は一時固まり、そして倒れた。一気に斬られたのだ。
「は?なんだ?ひっ。」男が近寄ると、赤ら顔の男は腰を抜かした。「ま、待ってくれ。さっきは悪かった。そうだ。儲けた金なら三割以上をあんたにやる。俺たち三十人の内で三割だぜ。いや、今もっと減ったか。あんたが斬ったし。ハハッ。」
男は無言で赤ら顔の男の正面まで来た。
「よ、四割でどうだ。俺より多いぜ。なぁ…、おい。くたばれ。」
赤ら顔の男は隙をついて男を鎌で斬ろうとした。しかし男は刀でそれをはじくと、相手を思い切りけっ飛ばした。赤ら顔の男は気絶した。
「わ、逃げろ。怪物だ。」
その様子を見ていた没落農民は、人の列を押しのけ一斉に町中へ逃げ始めた。花は息をつくのも忘れてその光景を見ていた。男は逃げた者たちをゆっくりと追って行こうとしたが、花の存在を突然思い出したかのようにこちらに振り向いた。
「俺があんたなら、今のうちに逃げるね。」男はどうでもいいが、とうふうに続けた。
「それから、西に向かうのは止めた方がいい。」
男はそれだけ言い残して再び歩き始めた。男の行く手は避けるように人垣が割れ、やがて男は姿を消した。花はしばらくしてやっと立ち上がると、母の手を引っ張って南門を抜けようとして、群衆に振り返った。
「生きたいなら、私たちと進みましょう。生きていれば何とかなるわ。」
こうして花を先頭に、ようやく群衆は門を通過した。
何かがおかしい。光は焦げ臭いにおいを感じ取った。見ると、行く先の空が燃えている。まもなく町の中心地に着いて十字路を右に曲がった光の目に、さらに驚きの光景が飛び込んだ。
一人の黒服を着た侍の前に、数人の農民たちが力なく倒れている。家は何軒か燃やされていて、炎は建物を呑み込みながら、今も辺りに移ろうとしていた。燃える家々に囲まれて、黒服の侍がこちらを睨んでいる。黒服の侍は鋭い目の片方に傷を負っていて、血の滴る赤と白の二本の刀を持っていた。
「我が名は天正門光。百花繚乱流。そなたは何者だ。何故に我々を斬る。」
光は叫びながら黒服の侍に迫った。すると相手はいきなり光に斬りつけ、二人の刀が交わった。黒服の侍は光に似てやせ形の長身だが筋肉質で、刺々しく気迫のある顔の中でも、一番鋭い目で光を睨みつけた。
「俺の名は黒影武蔵。猛火流。侍が人を斬ることに、理由がいるか?」
彼はすごんだ。そしてその二刀流の、もう一方の刀を脇から振り上げた。光は一歩退いてかわすと、続いて襲い掛かる凶暴な二太刀を上に下にかろうじて刀で防いだ。光は防戦一方で、攻撃を受けるごとに退いた。相手の動きは燃え盛る火の手のように、休まるところがない。強い! 光はとっさにそう感じた。
「なかなかしぶとい。」
黒服の侍はうっとうしそうに言った。
「当たり前だ。東国の武士を舐めるな。」
光は乱舞を食い下がって受け流した。一通り受け終わると、今度は飛びながら一回転してこちらから斬りかかった。
「しかしなんて動きしやがる。お前本当に武士か。」
黒服の侍は言いながら光の斬りつけた刀を弾き、体で突き飛ばした。光の体がよろける。一度立て直したい。光は目の端でかろうじて火の回らない唯一の瓦屋根の建物をとらえ、敵に背を向けて走ると、木箱に足をかけて屋根に上った。四つに吹き下ろした足場の悪い斜めの屋根で、少し間違えば転落してしまいそうだ。予想通り黒服の侍は追ってきた。木箱から屋根に足をかける相手に光は上から刀を振り下ろした。黒服の侍は左手の刀を逆手でもって下から振り上げた。
「お前は刃を向ける方向を間違っている。」
光は勢いよく振りあがった敵の刀を左にはじいて言った。
「刀の向きに正しい方向があるのか。」
黒服の侍は右手の刀で、横から光の脇を狙った。
「あるさ。気づかないふりしてるだけだろ。」
光はそれを後ろ飛びにかわした。
「聞くが。仲間を切るのはだめで、敵を切るのは良いことなのか。どちらも同じ生き物だ。そういうの、偽善っていうんだぜ。」
下がった光に二刀流の猛攻が襲う。光はそれらを受けながら、敵の二本の刀の刃が同じ方向を向くのを待ち続けた。だが狂気じみた乱舞は隙を見せない。
「偽善でも、悪党よりましだ。」
光は辛抱強く待ちながら言った。
「だから、誰が悪党なんだ。」
黒服の侍の刃がそろって光に降りかかった。光はこれぞ今やとばかりに自らの刀を突き立て言い放った。
「俺とお前さ、今はな。」
二人は交わる刀越しに向かい合った。燃える炎を背に、暗い相手の表情が一時固まったが、思い直したように刀の柄に力を込めると、またも光を突き飛ばした。光は体勢を崩し、屋根から転がり落ちそうになった。光は慌てて片膝でこらえ、上半身を起こした。
「力勝負に持っていきたいようだな。だが…、うおっ。」
足元が崩れて穴が開いた。光は崩れた瓦屋根から建物の中へ落ちた。尻餅をついた光の頭に、さらに追い打ちをかけるように瓦や木の板が落ちてきた。土煙が上がる。
「今のはかっこ悪いな。見物人がいなくて良かった。」
光が汚れた頭を払いながら呟くと、
「戦闘中にぺちゃくちゃとうるさい奴め。おい、ここにいるぞ。」
黒服の侍が穴から飛び降りて追い打ちをかけようとする。光は前転して脇によけ、落ちてきた敵の隙を突こうとした。ところが、反対に一方の刀の下付きで自分の刀をはじかれ、もう一方を首元に構えられてしまった。
「もうおしゃべりはしまいでいいか?」
黒服の侍が勝ち誇って言った。光は刀を首元に構えられたまま、ゆっくり立ち上がった。負けた。そして死ぬ。光はそう思い、目を閉じた。しかし、何も起こらない。光がゆっくりと目を開けると、相手の迷う表情が見えた。その時―。
「ズバッ。」
屋敷が巨大な鎌で切られたように裂け、壁が倒れ屋根が崩れた。ことさら大きな屋根の塊が光の頭上に迫る。避けきれないと気がついた直後、光は何かに突き飛ばされた。
「ガシャン。ガラガラ。」
光は突き飛ばされた拍子に頭をひどく打って、さすりながら体を起こした。目の前の、光が今の今まで立っていた場所に、落ちてきた大きな屋根の塊がある。そしてその下敷きなっている、黒服の侍の姿があった。
「お前、なんで。」
光は駆け寄った。黒服の侍は瓦礫に体のほとんどを生き埋めにされ、かろうじて顔だけが出ていた。苦しそうに歯を食いしばっている。彼に突き飛ばされなければ光がこうなっていたところだ。
「大丈夫か。大丈夫じゃねぇよな。」
光は彼の様子を確認した。顔は確かに動いているが、体は完全に身動きがとれないようだ。
「情けなどかけるな。殺せ…。なぜ斬らん。」
黒服の侍は命令するように言った。
「人が人を助けることに、理由がいるか?」
光は彼の言葉に逆らって言い返した。そして自らの刀を鞘に納め、黒服の侍にのしかかる重い瓦礫を動かした。下敷きから解放されても黒服の侍は起き上がれないでいた。光はふらふらしながら立ち上がった。外気に、寒さを感じる。日が沈む直前の真っ赤な空から、いつの間にか雨が降っていた。
「今のは何だ。まさか人の仕業じゃない…。」
光は何かを発見して口をつぐんだ。半壊した建物を雨がコツコツと打つと、巻き上がった煙から、大きく奇妙な人影が浮かび上がった。煙が避けていくと、光はそれが仮面を被った男だと分かった。
この男には見覚えがある。真っ赤な顔に長い鼻の天狗の仮面。長い白髪に草の扇。そしてその右手には、東国の深緑の衣を着た血まみれの男の顔を掴んでいる。傷だらけの男は体ごと持ち上げられ、狩られた獣の革のごとくだらりとぶら下がっていた。
「やれやれ、死ぬまで働いてもらわんといけんというのに、こいつはもう使い物にならんのう。」
天狗の仮面の男は傷だらけの男を投げ飛ばした。なすがままに男は放り投げられ、それの顔があらわになった。権三のうつろな顔が光の目に映った。光の頭に一気に血が遡った。
「権三さん。お前、よくも。」
光は刀に手をかけた。
「久しぶりじゃな。虎仁の息子よ。西へ向かうとは考えたが、どのような作戦をとろうともすべては筒抜けじゃ。」
天狗は光を見て言った。
「権三さんがなぜお前につかまっている。他の仲間はどうした。」
光は嫌な予感がした。質問しておきながら、その答えを聞きたくないような気もしていた。
「お前の仲間なら、死んだよ。お前が最後の生き残りだ。」
天狗は豪快に笑った。光の体に、一気に冷たいものが流れてきた。天狗の声がこだまする。なんで…。間に合わなかったのか。それとも…。
「そんなはずはない。お前が言っていることはでたらめだ。命が危うくなれば逃げる手はずだった。」
光は抗議した。適当なことを言うな。みんなが死ぬはずない。今に向こうに見えている十字路を曲がって、駆け付けてくるはずだ…。そうであってほしい。光は振り向き、仲間が来るのを待った。
「何を期待している。言ったはずだ。お前が最後の生き残りだと。皆鬼にやられたか、わしが斬った。町から逃亡した他の者達も皆捕まったじゃろう。今わしの仲間が町の西で待機しとるからな。」
天狗は誇らしげに言った。光は絶望に呻いた。いくら待っても、皆の姿は見えない。本当なんだ。本当に…。光は絶望の体を怒りで奮い立たせた。
「お前は自分が何をしているのか、分かっているのか。人として恥ずかしくないのか。」
光はいきり立った。
「よせよせ。わしはお前のような易々と善を語る人間が嫌いなんじゃ。己の身すら不完全な、愚か者めが。人に道徳を説こうというのか。」
天狗は嫌悪感を露わにした。
「不完全だからこそ完全であろうと努力するのだ。私もお前のような居直り強盗は嫌いだ。お前たちは間違っている。」
光は今にも刀を抜こうとしていた。こいつを斬ってやる。
「間違っているのはこの世の中のほうさ。」
天狗は急に憐れんだ。
「間違っているから破壊するのか。」
光は訴えた。
「破壊ではない。導くのだ。あるべき方向ヘな。そして悩める人々を救い出してやる。」
天狗はのけ反った体をさらにのけ反らせた。
「国へ連れ去って痛めつけることが、救い出すことか。」
今の光にはさっぱり理解できなかった。
「怪士殿の高きお心。お前ごとに理解できぬわ。ごたごたぬかさずかかってこい。」
「望むところだ。」
光は天狗に刀を向けた。どっちにしろ、ここで会ったが百年目だ。虎仁の恨みは俺が晴らす。
「無理だ。こいつは…強すぎる。」
まだ誰かいるのか。いや、か細い声を絞り出したのは、権三さんだ。権三はまだ生きている!光の頭に上っていた血が、胸の辺りまで降りてきた。それとともに、近くから鬼の怒号と足音が迫っていたことに、光はようやく気がついた。音のする通りの先に視線を凝らすと、一呼吸の間ののち、数十、いや、数百匹の鬼の軍勢が十字路をこちらに曲がって走ってきた。
「まだ息があったようじゃのう。」
天狗仮面の男が草の扇を構えた。
「逃げろ。」
権三が最後の力を振り絞って叫んだ。草の扇が振られると、見えない斬撃が権三の体を斬った。光に選択肢は二つあった。生きるか、死ぬかだ。迫りくる一万匹の鬼と勇敢に戦って死んでいくか、背を向けて逃げるか。光は一人だった。そして迫りくる鬼に背を向けると、歯を食いしばって走り始めた。
光は倒れたままの黒服の侍の横を抜け、南の門へと走った。鬼が町に入ったということは、やはり東国の侍達は―。権三は死んだ。光の目の前で。光は悔しさに食いしばった歯を、いっそう固くした。武士だけで鬼を食い止める提案をせず、全員で逃げていれば、結果は違っただろうか。大人しく降伏をすれば。確かそんな提案をした。もっと別の方法もあったかもしれない。光は過ぎてしまったことをあれこれと悔やんだ。自分のせいだ。最悪だ。自分が死ぬよりたちが悪い。冷たい雨が光の体に打ち付ける。
いや、そんなことはない。別の感情が、悔恨の念をなだめてくれた。武士たちは戦いに死んだのだ。皆誇りの中で死ねた―。しかし、そんな誇りは気休めでしかないと説得したのは、自分だったじゃないか。でも、おかげで町の皆は逃げられた―。逃げられた?まだ分からない。むしろ案内人なしで、いつまでも逃げられるはずがない。
考えているうちに、南の門を抜けた。日が沈んで空は藍色に変わっていた。伸びたススキが光の踝に当たり、ひりひりした。ほったらかしの稲の畑には、役に立たない案山子が一人寂しく、ひっそりとたたずんでいた。草原を抜けると、海岸がある。
町の皆は作戦通りに逃げられただろうか。自分が武士の最後の生き残りということは、町人は案内人を失ったということだ。別な方向に逃げた可能性がある。光は後ろを振り返った。まだ何匹かの鬼が光を追っている。西に行くか、東に行くか。どちらにしても、光が後を追えば鬼を皆がいるところまでひきつけてしまうだろう。だとしたら―。
光は走り続け、ようやく目の前に見えた海岸に目を走らせ、船を探した。海は暗く無情で、荒れた波がおそろしい音をたてて岸に打ちつけていた。この岸のどこかに…あった。二隻ある。海の向こうに小さな島も見える。船はまるで光の行方を予想し、そこで待っていたかのようだった。
「いたぞ。あそこだ。」
数匹の鬼たちが海岸の上まで来て、光を指さして走って来た。光は背の低い葦を払いのけながら膝まで水に浸かり船の近くまで行くと、一隻の船をひっくり返して刀で船底に穴をあけた。そしてもう一方の船に飛び乗り、震える手で櫂を思いっ切り漕いだ。
頼む―。荒波に揉まれながらも、船はなんとか進んだ。すぐ目の前の先程まで船があった場所で、悔しがる鬼たちの様子が見えたが、まだ光の胸の鼓動は収まらなかった。しかし海岸が遠のき、豆粒のような鬼が引き返す様子が見えると、ようやっと体の力が抜けてきた。
わずかな間に降った雨と、船を揉む波は弱まり、日はどっぷりと暮れていた。雨雲の隙間から、ほとんど満月に近くなった月が、ずいぶんと遠くにみえる。明日は一年で最も美しく見える日だというのに、月は黒ずんで汚れていた。海だけが穏やかに船を揺らした。今まで感じていなかった疲れが船に打ちつける波ごとに押し寄せてきた。
光の意識は体を離れて海の底に沈んでいった。そしてそこから月の光に照らされきらきら輝く水面と、暗い船底を見上げていた。海の上のほうは残酷なほど美しい藍色だった。その藍色の世界と、自分とが、波とともにゆらゆら揺れている。光はずっとこのままでいいと思った。このまま海底まで沈んでいってもいい。すべて忘れてしまいたい。
しかし意識はやがてやんわりと海の上まで浮上すると、光の体に戻った。光は意識の出かけていたうちに、花に最後に握られた手のひらを見つめていた。再び薄れゆく意識の中で、妹の顔が、おばさんの顔が、侍たちの顔が、町の人々の不安な顔が泡のように次々に浮かんでは消えた。しかし、光は一人だった。そして、光は今度こそ完全に意識を失った。