一番大切なもの
光はめし屋の前で人を待っていた。大通りはいつものようにがらんとしていて、たまに物乞いがいるぐらいで、人の往来はほとんどなく、どんよりとした空と、静かな秋の風が一層虚しさを駆り立てた。城門は開け離れたままで、その後ろにひっそりとそびえる城は何年も戻ってこない主を待ち続けていた。
中ノ国に鬼が攻め入った十年前から、町は徐々に荒れていった。東久邇宮家が去った後は国が荒れ、あらゆる身分の者達が苦しんだ。金のあるものは町を離れるばかりで、農作物も不良が続き、活気はたちまちなくなった。それでも、皆は廃れていく町をただ嘆くだけで、変わる気配など一向になかった。
通りの店もほとんど閉まっていて、この辺りで商売を続けているのはこのめしやくらいだった。めしやの斜め向かいには「鬼殺し出没注意。用心せよ。」と書かれた古びた掲示板があった。片目を怪我した男の人相書きが添えてある。
「旦那、待たせたぁ。」
鼠みたいな貧相な顔つきに似合わない、東国の正装である深緑の袴を着て手に酒を持った人が近づいてきた。
「小太郎。旦那と呼ぶのはよしてくれ。男に旦那と呼ばれるのは気味が悪いだろう。」光は顔なじみに注意した。「その酒はなんだ?まさか盗んだんじゃないだろうな。」
小太郎は光の友達であるが身分が低く、こんな立派な袴など着ることはない。ましてや、酒など最近では裕福であっても中々手に入らなかった。
「失敬な。実は最近いい儲け話がありましてね。それは秘密ですが。ああ、ずいぶん古い看板が残っていますね。「鬼殺し」って書いてあるが、あいつも今や中ノ国の手に落ちたんですってね。どんな強い侍でも、表立って中ノ国に張り合おうって馬鹿はもういませんよ。」
小太郎は光が斜め向かいの看板に見とれていることに気がついて言った。
「ずいぶんと悪そうな顔をしているな。人の下に就くようにな人間には見えないが。」
光は人相書きを改めてじっと見た。
「人は見かけによらないと言うでしょう。ささっ、あんな男の話しはやめて、とにかく店に入りましょう。」
小太郎は光を促した。店内は外と同じく、薄暗く閑散としていた。客はぽつぽつと座敷に座っている程度だったが、この不況でめしやにこれだけ人がいれば多いほうだと光は思った。不況を種に商売をする輩にとっては、絶好の場所なのかもしれない。いやに甘いにおいが鼻をついた。
光たちが入っても店主は黙ったままなので、勝手に適当な座敷に腰かけた。光が座ると、隣の席の二人が怪しげな袋とお金をこそこそしまい込んだ。
「粥を二人分。それと酒は持ち込んだから器を二つ。」小太郎はやる気のない店主に向かって大声で注文した。「実は、僕はすぐにでもこの町を出ようと思うんです。旦那もそうしたほうがいい。この町はもう終わりですよ。ここだけの話だが、中ノ国がついに軍隊を組んで、本格的に東国を支配しようって動きがあるらしい。僕はこの町はどうなったって構いませんが、旦那の家族にだけは助かってほしいって思っているんです。そうだ、花さんは元気ですかい。」
小太郎は揉み手をしてこそこそ光に聞いた。
「あいつはいつも元気さ。俺はこの町が好きだよ。町に住む人たちも。それに俺は護国武士だ。そんな噂があるなら尚更守らないと。」
光が言い終わると、無口な店主の手に乗って粥が運ばれてきた。店主がよぼよぼの震える手で粥を運ぶのでひどく机の上にこぼれた。さっそく器に取って食べたが、べたべたして味もひどく、これなら家で食べている飯のほうが百倍ましだと思った。
「護国武士?誰を守るんです。領国主の東久邇宮家は追放されました。生死も不明だ。それに武士も減る一方で、農民に変わったりよその国へ逃げたりして、もとは大勢いた武士も今やほとんどいない。そんな状況で誰も守れやしませんよ。」
確かに武士の数はかなり減った。この国の武士はもともと戦う見返りに恩賞をもらっていたが、領国主のいない今恩賞などあるはずもなく、生活苦から武士としての生活を断念する者は増えていった。
「それでも俺たちはがんばってきただろう。東久邇宮家亡き後も国民の力だけで独立を維持してきた。彼らの無事な帰還を信じてさ。」
光はぼんやり考えた。
「そういえば、東久邇宮家のことというとおもしろい話があるんです、というより僕が実際目にしたことなんですがね…、ああ、いや。この話はまた今度にしましょう。とにかく、僕はこの町を出ますよ。忠告はしましたからね。まったく、あなたも変わった人だ。その余計な…。」
小太郎が周りを警戒しながら何やら話していたが、それは光の耳に入らず、代わりに隣の席でのひそひそ話しが、皮肉にもひそひそ話しであったために、かえって印象的に耳へと入って来た。
「なぁおい、この町で度々人が死ぬの、誰の仕業だか知っているか。」
低い声がおもしろそうに聞いた。
「確かに人がよく死ぬな。でも今に始まったことじゃないだろう。」
酒焼けと思われるかすれ声が返した。
「実はな…、忍者の仕業だって噂があるんだ。」
低い声が一層声を小さくして言った
「そんな馬鹿な。忍者はとうの昔に全滅したって聞いているぞ。」
かすれ声が疑わしげに大声を出した。
「しっ、静かにしろ。…それがまだ生きているんだよ。俺は門番だったから知っているんだ。奴らはここらの民家か、どこぞの山奥に集団で隠れてこっそり暮らしているらしい。それで、昔の恨みを晴らすために夜な夜な町の人間を暗殺してまわっているそうだ。」
低い声が脅かした。
「ああ、恐ろしや。そんな噂、聞きたくなかった。奴らは龍国最強の民族だったろう。狙われたら諦めるしかないじゃないか。」
かすれ声が震えた。ここまで聞いて、光は我に戻った。小太郎が光に強く呼びかけたのだ。
「旦那、聞こえてますか。ぼんやりして。飲みすぎたんじゃないですか。」
「いやぁ、何でもない…。―これはうまいな。」
光は噂話に夢中で、小太郎が勧める酒をがぶがぶ飲んでしまっていた。飲みやすかったのと、久しぶりの酒というのもあって、酔いはすぐに回った。それどころじゃない。光は体に異変を感じて酒を置いた。
「小太郎…、この酒はどこでもらった。」
光は不審に思って聞いた。
「どこって、旅の商人から格安で譲ってもらったんだ。言い忘れていたが、全部飲まないでくれよ。それは武士皆で飲んでほしいって条件で譲り受けたんだから、後で寄合場に持っていかないと。」
小太郎が慌てて説明した。
「これは…、普通の…酒じゃ…ない。」
光はさらに気分が悪くなって、頭を手で支えながら声を絞り出した。
「普通の酒じゃない?じゃあどういう…。」
「邪魔するぜ。」
小太郎が聞き返す前に、柄の悪い男の集団が騒々しく店内に入り込んできた。高級そうな黒い衣を身にまとい、鍬などを手に持っている。
「陰気な店だな。胡散臭い奴らが集まってやがる。しかし金はあるだろう。聞け。たった今からこの店にいるお前たちの金品をもらう。飲食税だ。今すぐ払え。できない奴は中ノ国に連行する。」
先頭のタコ顔の男が店内を見渡して言った。
「没落農民だ。今は裏でこの国を取り仕切っている奴らですよ。旦那、こっそり店を出ましょう。」
小太郎は光に耳打ちした。しかし光は気分の悪さに机に突っ伏していた。タコ顔の男はこちらに気づいて近づいてきた。
「おい、そこの男。何無視してやがる。ん?良さそうな酒だな。よこせ。」
タコ顔の男は光たちの前の机に立った。
「勘弁してくださいよ。これは武士たちに飲んでもらう約束でもらったんです。」
小太郎が反論すると、
「何だと。俺に逆らうのか。」
タコ顔は小太郎の首根っこを掴んだ。
「うわぁ。だ、旦那もぼけっとしてないで何とか言ってくれぇ。」
光は酔いで訳が分からずにぼんやりと二人を遠目で見ていた。いや、光の目にはぼやけた三、四人のやり取りに見えていた。
「旦那?お前武士か。」タコ顔は光の腰元に置いてある刀を見て嘲笑した。「いったい何をして生活しているんだ、んっ?めしやで働くことにしたのか?さっさと酒をよこせ。」
集団は下品に笑った。光はなんとなく馬鹿にされたことは気づいたが、頭はぼんやりしたままだった。光は無心でおもむろに立ち上がった。集団はとっさに身構えた。しかし光は酒瓶をむんずと掴むと、唖然とするタコ顔の目の前で残りをぐびぐびと飲み干してしまった。そしてタコ顔の袴で口を拭くと、肩に手をかけて言った。
「でも酒瓶も俺の懐も空っぽだ。あんたの頭と同じだな。へへっ。」
それから光は気分が悪くなって、タコ顔の足もとに吐いてしまった。タコ顔はしばらく呆然と光を見つめていたが、我に返って激怒した。
「ふざけるな。」タコ顔は光を突き飛ばした。無防備だった光はそのまま座敷に倒れこんだ。「道化のふりして何を考えてやがるのか。てめぇみたいのが一番不気味だぜ。」
タコ顔は憤慨して店を出た。集団がその後に続いた。実際、光は冗談をよく口にする男だった。それがために武士の仲間などから嫌な顔を向けられることもあった。その冗談は相手を喜ばすためのものというよりは、むしろ自分をごまかすためのものといったほうが適切であった。光は頭で難しいことを考えていても、相応の場面でなければ、それを口に出したり議論したりすることの苦手な性分であったのだ。
「ああ、情けない。その刀で脅してやればよかったんだ。」
小太郎は光の顔を覗いた。
「刀はこういう時のためにあるんじゃない。」
光は無意識のままぼそりと言った。光は酔いつぶれて今にも寝ようとしていたが、外での騒動にかろうじて意識が戻った。
「大変だぁ、鬼の大群がせめて来るぞぉ。町中に伝えろぉ。」
同じ言葉が何度も繰り返され、何人もの声に変わった。町中が久しぶりに声や足音で溢れ、ただ事ではない空気感が陰気な店内にも伝わった。
「何だって?大変だ。旦那、起きてくれ。」
小太郎は焦って光の体を揺すった。
「俺を…武士の寄合場に…連れてけ。」
光はか細い声を絞り出した。
「あそこには俺はいけないんだ。それに、行って何するっていうんだ。逃げたほうがいい。」
小太郎は抗議した。
「いいから連れてけ。みんな来ているはずだ。」
光は小太郎に負ぶわれて店を出た。多くの人々が外へ飛び出して来ていて、通りは大騒ぎになっていた。それでも皆どうしていいか分からないようで、不安そうな人々の声が行き交った。道の途中、なぜか人ごみの中を空っぽのはずの城に向かって走る、顔を隠している大柄と細身の女性らしき二人組とすれ違った。
武士の寄合場は道場であった。やっとの思いで(やっとの思いをしたのは小太郎であって光ではない)道場に着くと、武士たちの話し合いが始まっていた。小太郎は中でも物腰の弱そうな武士に呼びかけようとしたが、運悪く他の強面の武士につかまってしまった。
「使えねぇもん持って来てんじゃねぇよ。」
強面の武士が怒鳴った。
「すいません。旦那が連れてけっていうもんで、へへ。」
小太郎は愛想笑いをした。
「ちっ。」
強面の武士は舌打ちして腑の抜けた何とも言わない光を引き取り、地続きの隣の部屋の隅っこまで引きずり、そこに馬の餌のように荒っぽく投げ捨てた。
「じゃあ、これで私は失礼。」
小太郎は厄介ごとからさっさと退散した。武士の皆は戸口から入った光には目もくれず、道場の真ん中に輪になって議論を交わしていた。光は藁の上に寝かされていた。耳元がもそもそするので首を起こすと、馬が藁と間違えて光の耳を食べようとしていた。
光は寝た格好のままぼんやり考えた。あの酒は武士にあげる約束、小太郎は確かにそう言った。光がまだ生きているところをみると毒ではないが、あの酒には睡眠薬が入っている。誰かが武士に飲ませるために小太郎に渡したに違いない。唯一戦える武士たちの平静心を欠こうとしたのだ。しかし作戦は失敗した。だが今はそんなことを考えている時ではない。光は話し合いに耳を傾けた。
「敵は一万匹もの鬼だと聞いています。それに対してこっちは戦える武士が二十人しか残っていない。鎧も兜の生活のために金に換えてしまったし…。もう諦めるしか。」
不安そうな武士が言った。
「くそ、全盛期ならまだ戦えていたかもしれないのに。十年で町も人も変わってしまった。」
その隣の武士が嘆いた。
「戦ったところで勝ち目はない。今や怪士率いる中ノ国の鬼の軍隊は百万にも及ぶと聞く。西国が支配下になったことで、周辺の人間の捕虜や奴隷も加えれば、龍国全体の人口の過半数よりも多い。どうにもならん。」
強面の武士が輪に加わった。
「せめてよその国を襲ってくれれば。なんでよりによってうちが…。大人しく降伏したら命だけは逃してくれないだろうか。」
若い武士が、わずかな希望を託すように懇願した。
「もしそれですむならこんなところまで兵を率いて来ないさ。我々を殺すためにはるばるやって来たんだ。遅かれ早かれ、怪士の支配では、逆らう領国が滅びるのは時間の問題だったんだ。」
熟練の武士がこれに反論した。その後は沈黙が続いた。皆お互いを見やり、誰かが素晴らしい名案を思いつくのをただただ期待して待っているようだった。
「何を情けないことを。」
沈黙を破ったのは、端っこに座っていた、剥げた頭に髭の生えたダルマ顔の武士だった。
「権三さん。」
周りの武士がどよめいた。権三は一番年長で、権限も強い武士だ。
「武士の誇りを忘れたか。相手がどんな大勢だろうと、強かろうと、武器を持って命を顧みず戦うのだ。今の中ノ国が何をしているかは皆分かっているはずだ。たくさんの町を襲い、多くの命を奪い、あるいは捕まえて投獄し、奴隷として死ぬまで働かせる。これ以上あいつらの思い通りにさせてたまるか。一矢報いるのだ。我々人間はいいように使われるだけの、ただの傀儡ではない。」
皆が顔を上げていた。忘れていた怒りを再び燃え上がらせる者もいれば、無念の日々を思い出して悔しがるものもいる。権三は続けた。
「負けることは恥ずかしいことではない。恥ずかしいことは逃げることだ。町にはまだ一万人の人たちがいる。木の棒でもなんでも持って、戦うことができよう。最後の一人になるまで戦い、できる限り多くの敵を討ち取り、東国の意地を見せてやるのだ。」
権三が唸って、周りを睨んだ。皆一瞬固まった。しかし数人の熟練の武士が賛同すると、全員がこぞって声を上げ始めた。
「そうだ、東国の意地だ。」
「思い知らせてやれ、最後の一人まで戦うんだ。」
「生き恥をさらすな。国のために死ぬんだ。」
部屋中が熱気に包まれた。不安な心が一つに集まり、一致団結した。誰も反対する者などいないはずだった。ただ一人を除いて―。
「ちょっと、失礼。通るよ。そんな顔するなよ。」
光は体についた藁を落としながら、輪の隙間から割って入って、周りの武士を押しのけた。
「いやぁ、素晴らしい決断です。考え出したのはやはり、我らが副大将の、権三さんだ。だけど一つ参考までに、俺に言わせてみれば…。」
光は進み出て、輪の中心で言った。「副」の部分はわざと強調した。
「お前の意見は聞いてない。酔いつぶれてたんじゃないのか。」
周りの武士が言った。
「あれは事故だったんだ。みんなよく考えてみろ。」
光は続けようとしたが、権三が光の顔を見るなり憤怒の形相で遮った。
「お前の意見は聞かないって言っただろう。向上心のないものは武士ではない。お前は昔からそうだ。いいか、お前を話し合いに入れてやってるのは…。」
「俺に話し合ってもらわないためかい。それに、話し合いに入れてもらってるようにはみえなかったな。」
光が口をはさんだ。
「お前が、護国武士の大将であった天正門虎仁の息子で、形上は大将で、そしてたまたま、どういうわけか、この町でも一番強いからだ。」
権三は意に介さず続けた。
「さて、気分がよくなったところで俺の話はおしまいにしましょう。戦うことについてですが…」
彼らは光が養子だということを知らない。光は話をもとに戻そうとした。
「だが、お前の親父は十年前に町を出た切り行方知れずだ。結局はお前も父親の血を引いていたということだ。逃げ腰のな。お前に意見を出す権利はない。」
権三は再三の光の言葉を無視して言い切った。
「逃げ腰?そっちのほうが逃げ腰なんじゃないですか。」
話を聞こうともしない権三の態度と、知りもせずにおじさんを馬鹿にされたことの両方に、光は切れた。
「何?おれは戦うと言っているんだぞ。どこが逃げ腰だ。」
権三は憤慨した。
「現実から目を背けようとしているだけです。圧倒的な相手を前に絶望して、自暴自棄になっている。助けられるはずの命まで見過ごして、戦いに紛れ込ませようとしている。それが誇りだなんて、よく言えたもんだ。」
光は大声で、部屋にいる全員に向かって罵った。
「黙れ。他にやりようがないんだ。どうすればいいってんだ。」
権三は顔が真っ赤になっていた。他の者も一斉に抗議の声を上げた。
「逃がすんです。我々の手で。」
光の言葉に周囲は唖然として、静かになった。感心させられた、というよりは、誰も言葉の意味が呑み込めていないようだった。光はこれを機に話を続けた。
「今は数の少なさを嘆いている時ではありません。むしろ今いるこの二十人の仲間をどう使うかを考えなければ。我々二十人で協力して、敵の足止めをし、その隙に町の人たちを避難させましょう。」
「何を…?」
権三は口をもごもごさせた。
「この国の領国主のいない今、我々が最も重視すべきはこの国の人たちの命です。この刀は人を傷つけるためだけにあるんじゃない。守るためにあるんです。守ってこその誇りです。皆で守りましょう。一番大切なものを。」
光は言い終えた。頼む…。協力してくれ。
「でも、そんなことができるのか。」
静まった部屋の中で、若い武士が聞いた。
「この町には。」光は武士たちの輪の中にあった東国の地図を指さした。「堀に囲まれて逃げ場のないように見えるが、二つの出入り口がありましょう。一つは正面の門、南に小さな裏門がある。正面の門は外から見てもすぐ分かるが、南の門はここに住んでいるものじゃないと分かりません。つまり相手はここの存在を知らない。」
「そうか。正面の門で鬼たちの侵入を防いでいるうちに南の門から町の者たちを逃がすというわけじゃな。」
年配の武士が納得した。
「でも、我々は鬼と戦ったことがない。どうやって戦えばいい。食い止められるだろうか。」
不安そうな顔の武士が聞いた。
「鬼とならずいぶん前ですがやりあったことがあります。奴らは確かに人間より力が強く頑丈ですが、動きが遅く頭も悪い。おまけに粗暴で使える武器も棍棒くらいだと聞きます。したがって人間とはほぼ互角です。相手の攻撃を読めればこちらに分があります。」
光は子供の頃に一度だけ鬼と戦った時のことを思い出しながら説明した。
「数の違いをどう克服するんだ。あっちには一万、こっちには二十人しかいないんだぞ。あっという間にやられておしまいさ。」
強面の武士がそんな作戦は信用できないと首を振った。
「正門の前の道は堀に挟まれています。龍の首とも言われるこの細い道なら、相手も少しずつしか侵入できません。なるべく一対一に持ち込んで、侵入を食い止めましょう。」
光は食い下がった。
「町の者を逃がせたとして、どこへ連れて行けばいいのだろうか。この町は北を森、南を海に囲まれている。森へ入るのはとても危険で、海を渡るには船の数がとてもじゃないが足りない。さらに東へ進んでも国の端へ行きついて追いつめられるだけだし、西へ向かって鬼がやって来た敵国の中ノ国に近づくなどありえん。」
熟練の武士が悩んだ。
「それですが、私は西に向かおうと考えているのです。」
「何と。」
周りがざわつくのを遮って、光は続けた。
「確かに、敵国へ近づくのはとても危険です。でもそれは、相手も考えていることです。獲物が自ら近づいてきて脇を通り抜けようとは、思いもよらないでしょう。従って、西への警戒は最も手薄なはずです。門から出て西に向かい中ノ国の領土の端を通り抜け、唯一の同盟国である北国へ行くのです。どの道、他の方向では何人かは助かるでしょうが、大多数は確実に死んでしまいます。これこそ全員が助かる唯一の方法なのです。」
光は武士全員の顔を見ながら言った。またしばらく沈黙が続いた。しかし今度は、全員が真剣に考え込んでいた。
「確かに、それならば被害は最小限に抑えられるかもしれない。」
熟練の武士がポツリと言った。
「考えてみれば、それもそうだ。」
若い武士がすがるようにこれに続いた。
「それどころか、今考えられる中で最善の作戦であると、認めざるを得ない。」
強面の武士が渋々頷いた。それから、口々に他の武士たちも賛同した。
「権三さん。」
太った武士が遠慮がちに呼びかけた。自分以外の侍全員にみつめられ、権三は俯いた。
「好きにしろ。」
権三は投げやりに言った。皆はすぐに光の支持を仰いだ。
「いいですか。門で速やかに動いてもらうために、南門にはあなたたち五人が向かって下さい。北国まで皆さんを先導するんです。」
光は若い集団に指をさした。といっても、全員光より年上だ。
「残りは私も含めて、全員正面の門へ向かいます。しかし、その前に町の人たちに我々の作戦を説明し、逃げてもらいましょう。」
武士たちは次々に寄合場を出た。光は数人の武士を引き連れて町の中心にある十字路の広場を目指した。そこには、予想通り途方に暮れた町中の大勢の人々が、誰かの支持を待つように立ち尽くしていた。光はその輪の中の、土が高く盛り上がった目立つ位置に上った。何人かがそれに気がついてこちらに指をさした。
「皆の衆、聞けい。」
付き添っていた熟練の武士が叫ぶと、辺りは少しずつしゃべるのをやめて静かになった。光は皆の顔を見渡して、全員が自分に注意を向けるまで辛抱強く待ってから、はっきりと言った。
「皆さんにお願いがあります。時間がないので手短に話します。中ノ国の鬼がせめて来るというのは本当です。それも話によれば一万の大群です。」
ここで再び群衆がざわめいた。不安そうな顔でどよめくものもいれば、泣いている者もいる。光の胸が痛んだ。
「静かにせい。」
再び付き添いの武士が叫ぶと、群衆はぼそぼそと静まった。
「そこで、ある案を考えました。我々武士は正面の門で、鬼たちの侵入を防ぎます。その隙に皆さんは、南の門から逃げて下さい。そこにも武士がいますから、その先は彼らの指示に従ってください。国を出て、よその地へ移り住みましょう。」
光は大きな声で言い切った。これでいい。事態は一刻を争うのだから、詳しい説明は後で行おう。皆、分かってくれるはずだ。光は焦る気持ちを落ち着かせた。ところが、それを聞いた群衆の反応は、意外なものだった。
「ふざけるな。国を捨てろというのか。ここ以外に我々の居場所はないんだぞ。」
年老いた男が怒った。
「私たちはね、貧しい生活になってからも、ずっとここで暮らしてきたんだよ。よそでどうやって暮らしていけっていうんだい。野蛮な他の国には頼れないしね。」
子どもを抱えた女性が言った。
「お願いです。他に方法がないんだ。命さえあれば何とかやっていけるはずです。皆で協力しましょう。」
光は言いながらも当惑した。全く予想外だった。むしろ慌てて逃げ惑って混乱してしまうのではないかと心配して、危機感をあおらないように気をつけていたのだ。群衆からは怒号も飛び出した。
「逃げるなんて無茶さ。走れない老人や子供もいるんだよ。」
若い女性が反対した。
「だいたい、お前らは何のために刀を持っているんだ。昔逃げ出した東久邇宮家から高い恩賞をもらっていたのは、こういう時のためじゃなかったのか。」
中年の男が声を荒げた。
光は次に言うべき言葉がみつからず、迷っていた。勢い任せに言い返せば、逆上させることになる。群衆の怒りはもっともだ。自分の考えが甘かったのだろうか。しかし光が押し黙ったことで、群衆は怒りをました。今やほとんど全員が口を開いていて、付き添いの侍の「冷静に。」の声も届かなかった。
「国を守るのはお前らの責任だろ。俺たちを巻き込むな。」
「税泥棒の、役立たずどもめ。」
光は冷や汗をかいた。こうしている間にも敵はこの町に近づいている。
「黙れ、貴様らぁ。」
群衆の怒号の中でも、ひときわ目立つ怒号がすぐ傍で響いた。権三さんが刀を抜いて地面に突き刺して叫んだ。群衆は権三のあまりの剣幕に再び黙った。権三はしばらく周りを睨んで黙らせたが、すぐに剣幕を押し込んで額が地面に着くほど土下座して懇願した。
「頼む。逃げてくれ。助かる命なんじゃ。情けないことに、我々ができる精一杯のことがこれだ。腹も立つだろう。我々を恨んでもいい。だが、無駄に死ぬことだけはよしてくれ。…頼む。」
権三の言葉に皆が動揺した。怒号は完全にはおさまらなかったが、明らかに群衆は怯んでいた。光は権三がつくってくれた、この機を逃さぬように続きをひきとった。
「今我々が着ている萌黄(深緑)色の衣は、東国の豊かな森と農業で繁栄をなしえた実り、人の和を象徴するものです。東国人ならではの温厚さと忍耐強さがあれば、この土地を離れてもまたどこかできっと生活の基盤をつくることができましょう。どうかお願いします。」
光は頭を上げたまま言った。群衆は固まったが、一人また一人と、南門へ移動し始めた。三人目が動いたところで、群衆はまたどよめきを取り戻した。しかし、今度は光たちへの反抗でない。逃げるためのどよめきだった。大声をあげながら群衆は我先にと南の門に向かって逃げ始めた。
「どうして気が変わったんですか?」
光は権三にそっと聞いた。
「俺にも嫁と娘がいるんだ。もうだめだと思っていた。絶対に助からんものだと。奇抜な作戦を、ありがとうよ。」
権三は泣いていた。
「感謝してるなら、今度飯でも奢って下さいよ。」
光は泣いている権三を見ないようにしながら言った。
「ハハッ。二人とも生きていたらな。戦いはこれからだぞ。」
権三は笑った。光も笑ったが、すぐに元の表情に戻った。町の人が無事に逃げてくれると分かった今、光の胸には混じりのない恐怖が押し寄せていた。
光たちのいる町から少し離れた丘の上で、大きな影が町を見下ろしていた。鬼の大群が列を組んで並んでいる。それらが赤い西日を背に、長細く巨大な影をつくっていたのだ。先頭には三つの塊が立っていた。
「ワハハ、群衆が動き出したようじゃ。無駄なあがきを。どう転んでも、大量の血が流れるわ。楽しみじゃのう。お前もそうじゃろう。用心棒。」
長い白髪の大男が言った。真っ赤な顔に長い鼻の天狗の仮面をかぶっている。
「斬れと言われた人を斬るだけだ、俺は。先に行ってるぞ。」
片目に傷のある侍が冷ややかに言って、言葉通り立ち去った。
「全く、冷たい男じゃ。懐かしの再開だというのに。」
天狗の仮面の男は侍の背中越しに呟いた。
「飛鳥様。気になさらずに。私がいます。いざという時は、私を頼ってくれればいい。」
体の黒く、顔には大きく赤い一つ目、頭に一本の角をはやした妖怪が言った。頭のない、不気味な黒い馬に乗っている。
「夜行よ。この勢力と、あの哀れな町を見よ。万に一つも、いざという時はくるまい。」
飛鳥と呼ばれた天狗の仮面の男は大声で笑った。
「そうですな。ではこれ以上待つ必要もないでしょう。参りましょう。」
夜行は笑い返した。天狗の仮面の男は頷くと後ろに振り返り、一万匹もの鬼の大群に向かって、大声で呼びかけた。
「もうすぐ夕暮れじゃ。日が沈むまでに蹴りをつけるぞ。さぁ、襲ってこい。」
鬼の群衆が一気に雄たけびを上げた。