理想
「地獄の門?」
茂みの中で隣にしゃがんでいた与一が、虫を追い払いながらつぶやいた。
「おれ、聞いたことあるよ。おじさんから聞いたんだ。」光はかすかな記憶を手繰り寄せた。「でもおとぎ話としてさ。千年も前に作られた門で、絶対に開けちゃいけないんだ。そこには…、恐ろしい生き物が住んでいるから。」
光は説明しながら、門で見た角の生えた生き物を思い出していた。あるものが想像していたものより恐ろしいものだったというのはめったにないが、鬼に関してはそのめったにない場合の一つだった。光は鬼の恐ろしい姿を思い出すよりも、部屋での会話が気になってそちらに意識を集中し直した。
「では、経は鬼たちの姿を見たというのか。」
経と呼ばれた、黒ずくめの女性の一通りの説明を受けて、豊実が震えた声で聞いた。
「はい、豊実様。城内にもたくさんの鬼たちが攻め入ってきており、人々は襲われ、状況は悲惨でした。私は希世様を連れて城を出ましたが、途中鵺に乗った鬼に追われ、やむなく町まで引き連れてしまいました。」
経が失敗を恥じるように答えた。
「いいえ、経。あなたはよくやって下さいました。娘のこと、感謝いたします。」
優しく声をかけたのは、女の子を抱えた美しい女性だった。
「そうだな、いやよくやった。しかし、地獄の門は人間の手でしか開けられん。鬼たちも自分で開けようとは思うまい。だれか首謀者がおるということなのか。それでは、いやまさか、國保天皇も殺されたということか。」
豊実は羊の毛みたいにふわふわした髪をかきむしり、落ち着きなく動き回った。
「おそらく。その日のうちに城内で殺されたはずです。城に攻め入る目的があるとすれば、それしかありません。」
部屋の中の者はしばらく押し黙った。豊実も「絶望的だ。」とつぶやいたきり、放心状態だった。皆悲しみ、途方に暮れていた。しかし、その沈黙を破ったのは子供の声だった。
「お父様、私、天皇様が殺されたところを見ましたわ。」
馬に乗って逃げていた女の子だった。女の子は今まで大人の女性に抱かれていたが、進み出て言った。光の頭から不謹慎にも今の深刻な状況が一変に吹っ飛んだ。とてもかわいらしい。門にいるときはなぜだか気づかなかったが、彼女は他の人たちと比べ物にならないほど美しかった。大きく黒々と輝いた目と、小さく少し高めの鼻、兎のようにちょっぴり歯の出ているところがあったが、それがかえって彼女の完璧さを際立たせていて、とにかく美しかった。もっとも、女の子を抱いていた、女の子の母親と思しき女性は同じくらい美しく、というよりそっくりだったが。
会話から紫服の女性に向かい合っている三人は親子だと分かったが、妻と娘の美しさに比べると夫豊実の容姿はおそろしく平凡で、光はこの頼りない小太りのおじさんが、どうやってこの美しい妻と子を手に入れたのかといぶかった。
しかしここで与一がくしゃみをしたため、光は正気と礼儀をようやく取り戻して与一の鼻をつまんだ。慌てて部屋を見やったが、幸い誰も茂みに人が隠れていることは気がついていないようで、話は続けられた。
「天皇は、仮面の人に殺されました。恐ろしい仮面を被った人です。天皇様とは顔見知りのようでした。だって、本人を知っているみたいだったの。」
女の子はおびえながら、しかしはっきりと言った。母親が心配そうに女の子の頭を撫でた。
「ありがとう希世、もうよい。お前はもう休みなさい。」
豊実は急に我に返って娘に優しく言った。希世と呼ばれた女の子はまだこの部屋にいたいと示すように首を振ったが、母親に諭されると渋々それに従い、経を抱きしめてお礼を言ってから部屋を出ようとした。部屋の出口まで来ると、彼女は振り返って言った。
「お父様、絶望的だなんて言葉はおっしゃらないでくださいな。私もあの悪夢のような現場に居合わせましたけれども、どこにも希望がないなんてことは思いませんでしたわ。この世はいつだって希望がどこかに隠れているものです。」
彼女の言葉に、部屋の不穏な空気が少し和らいだ。うつむいていた豊実も含め、今や部屋中の人が顔を上げて彼女を見ていた。それは部屋の外にいる二人も同じだった。光は茂みに隠れているのに、部屋の中の人たちと一緒になって気持ちを共有している感じがした。
「希世、もうお休みなさい。」
彼女の母親はかすかに口元を緩めたが、再び諭した。去り際、光は再び彼女と目があった気がした。光は慌てて首を茂みの中にかがめた。与一はぼさっとしていたので、光は彼の頭を手で押し付けてかがめさせた。女の子は不思議そうに首をかしげたが、今度は何も言わずに部屋を出た。
「私は中ノ国からここまで、隠れながら一月もかけて逃げてきました。正直、希世様を抱えていなければ、諦めていたかもしれません。」経は独り言のようにうつむいて語ると、顔を上げた。「陽明様、私はいつも心配になるのです。彼女が特別の身に置かれていることで、これからいろいろなものを抱えられたまま生きていくのでは。」
「大丈夫です。希世は強いですから。」ところが陽明と呼ばれた、女の子の母親は微笑みながら答えた。「この先私たちが年老いても、あの子を想い守ってくれる人がきっとあらわれましょう。それまでは、私どもと一緒にあの子を全力で守ってくれますね。」
「もちろんです。」
経は固く約束した。
「…希世の言っていた仮面の人物が事の首謀者かもしれんな。本人を知っていたとなると、そいつは天皇に近しい人物だ。鬼が復活されたとなれば、世の中の均衡が崩れ、神の地位も危うくなる。神聖政治も終わりか。」
豊実は頭を抱え、しばらく難しい顔で考え込んでいた。
「きゃあ。」
その時、部屋の向こうから女の子の叫び声が聞こえた。豊実夫妻は騒然とし、経は立ち上がってとっさに身構えた。この間に、廊下を走る音が聞こえ、希世が部屋に戻って来た。
「どうした。何が―。」
豊実の疑問は聞くまでもなく解決された。希世が部屋に入ってすぐ、奇形の女性が障子を倒して部屋に侵入したのだ。女は黒い顔に赤い目の、麗しくも恐ろしい顔をしており、背中からは水色の大きな薄い羽が生え、下半身は黄色い芋虫の体で、そこから細くて長い手足が六本も生えている。
「妖怪か。実篤様、お逃げ下さい。」
経は叫んだ。妖怪の女は背中の羽で宙に浮き、壁際の天井近くから部屋の人達を赤い目でなめまわし、やがて部屋の反対側にいる希世姫に狙いをつけた。光はとっさに危険を知らせようとした。
「危ない。」
光の声は同時に叫んだ経の声にかき消された。妖女が希世姫を掴まえ連れ去るところだった。経は腰元から取り出した鎌で妖女の足を切った。
「おのれ。よくも。」
妖女は足を引っ込めて天井まで飛ぶと、顔を歪めて羽を大きく振った。強風と共に、辺りに金色の粉が飛び散った。粉は部屋の外にいる光たちのところまでも漂い、目や口から体の中へ侵入し体を痺れさせた。部屋の人たちも粉にやられ咳き込んでいた。妖女は更なる攻撃を仕掛けようと、希世姫に向かって糸を吐いた。
立ちはだかったのはまたも経だった。顔のほとんどを服で覆っていた経には、粉が効かなかったようだ。経は冷静だった。糸を防いだ左腕の袂から手裏剣を取り出すと、右手で二枚同時に投げて妖女の両羽に当て、幼女は釘で留められた生き物の皮のように、手裏剣で壁に打ち止められた。さらに経は鎌をぐるぐる回すと妖女に狙いをつけ思いっ切り振り下ろした。妖女は縦に切られ、一瞬で絶命した。
「あの妖怪はどこから来たのです。」
経は陽明にしっかり守られた希世に歩み寄った。
「部屋を出て、背中に虫の卵がついていることに気がついたの。卵を取ってお庭に持っていこうとしたら、いきなり卵が開いて…。」
希世はしどろもどろ説明した。
「豊実様。この国は狙われています。事態は予想以上に早く進展しているようです。」
経は未だに妖女を見つめている豊実に向き直った。その時部屋の奥の障子が開き、だるま顔の武士が飛び込んできた。権三という名の道場の先生だ。
「豊実様。報告が。…!驚いた。これは何事か。」
権三は部屋を見て騒然とした。床には妖女の亡骸が転がったままだった。
「何だ。」
豊実は慌てて聞いた。武士はこっちの事態が気になるようだったが急いで報告した。
「ああ、それが…。大変です。先程城門で追い払った鬼たちが帰ったと思いきや、引き返して武家屋敷を襲っています。天生門家の屋敷です。」
光は心臓ががくんと落ちたのを感じた。自分の家だ。あそこには、まだ花と皐月おばさんがいる。
「誰か向かわせているのか。」
「いえ、実は…。」
それから後の会話を聞くよりも前に、光は何かにはじかれたようにとっさに家に向かって走り出した。
「おい待てって。」
与一が後ろから呼び止める声が聞こえたが、光は振り返らなかった。止まるつもりはなかった。部屋の人たちに気づかれたかもしれないけれど、それも気にならなかった。城門でも門番から驚いて呼び止められたが、構わず光は走り続けた。
大通りには、先程の騒動を囁き合っている者もいれば、見ていなかった人に説明している者、未だに呆然と立ち尽くしている者や鬼が戻って来やしないかと戸口からこっそりのぞいている者もいた。光はまたも何度か人とぶつかって背中越しに怒られたが、頭はやはり別のことを考えていた。それは今より幼い頃の記憶だった。
虎仁おじさんと皐月おばさんが光を囲んでいる。側にはとても小さな女の子もいる。
「光。我々が新しい家族だ。おいで、光。ああ、困ったな。泣くのはよしてくれ。」
おじさんはなんとか光を喜ばそうと必死になった。
「まぁ、仕方ありませんよ。ゆっくり慣れていくでしょう。」
そういうおばさんの表情もどこか心配そうだった。
場面が切り替わった。光の視線も少し高くなっている。
「花、早くしろよ。もたもたしてるとおじさんが先に着いちまうぞ。」
光は屋敷で着替えている妹の花を急かした。
「まぁまぁ。そんな焦らなくてもお父さんは家へ立ち寄りますよ。一年ぶりの帰省なんだから。」
おばさんは焦る光を叱ったが、顔は笑っていた。
「お父しゃん。かえるー。」
花はキャッキャッと喜んで光の後を追いかけた。
次の記憶では光はさらに大きくなっていた。おじさんの深刻な表情が見える。
「いいか、刀を渡したってことは、もうお前は武士なんだ。まだ子供だからって甘えるな。武士になりたくないなんて二度と言うんじゃない。」
何も言わない光に向かっておじさんは厳しく続けた。
「後悔することになるのはお前なんだぞ。私はまたしばらく国を立つ。家族を頼んだぞ。」
鬼とかいう先程の恐ろしい生き物は、おばさんや花に出くわしただろうか。いや、二人はまだ何も知らずに茶碗でも洗っている頃に違いない。そうであってくれ。だとしたら早く気づいてほしい。近くに危険が迫っているということに。あんなひどいこと、言うんじゃなかった。いや、あれを最後の言葉にしてなるものか。光の中で後悔が決意へと変わった。
しかしその気持ちとは裏腹に、体はいつもより重く感じられた。もっと早く動けるはずだ。気持ちばかりが焦って、光の体を置き去りにしようとした。いくつもの路地を抜け、いつもより何倍も長い家路を駆けて、ようやく家まであと少しのところまで来た。ところが家の門の前まで来て、光の足が止まった。
「来ないで、どうして私たちを襲うの。」
花の声は震えていた。皐月おばさんが花の肩を抱え、二匹の鬼から守っていた。その光景を見た瞬間、二人は生きているという安心感とともに、光を別のものが襲った。そして目に見えない何かが、光の足をまったく動かなくした。それは恐怖ではなかった。それよりももっと黒くて狡猾な何かが、光の足をつかまえてそこに立ち留まらせたのだ。それは城から光を走らせたものとは反対のものだった。
鬼たちは光が見えるか見えないかのところにいた。花とおばさんと光以外に、この場に人はいないようだ。
「俺たちは人間を殺すために呼ばれる。そしてここの姫を殺すよう命令された。だが邪魔が入った。城に入れん。」
一匹の鬼が言った。
「さっきそこで人間を脅した。そいつはここが姫たちを守る武士の家だと言った。お前たちを脅せば城に入れる。」
もう一匹の鬼が続けた。にやりと笑って黄色い歯がむき出しになった。
「私たちを脅しても城へは入れません。どうかお帰りください。」
おばさんは恐れていたが、はっきりとした口調で言った。光は考えた。どうやったら二人を守れるだろうか。自分が行くべきに違いない。自分は武士なのだから。戦うために毎日稽古をしてきたのだ。しかし光の足は依然として動かないままだった。光は自分の情けなさに絶望した。目の前の光景なのに、すごく離れたところの出来事に感じる。
「ならば、代わりにお前たちを殺す。」
鬼はもう笑っていなかった。おばさんは娘を背中に隠して言った。
「どうしてもというなら、私だけにしてください。娘の命はどうか。」
「いやだ、お母さん。お願い、だれか。」
花が必死に助けを呼ぶ。誰も来ない。
「ばかめ、二人ともだ。」
鬼はいよいよ金棒を振り上げた。
「やめろーーー。」
光は叫びながら走り出て、刀を抜いた。光を押さえつけていたものは、既にいなくなっていた。勝てる算段などない。もうどうにでもなれと思った。このまま見過ごせない。せめて戦って死んでやろう。
「なんだぁ。」鬼はこちらに気を取られて金棒を持った手を下したが、光を見て嘲笑った。「誰かと思えば子どもか。」
光は歯を食いしばった。自分の体が震えているのを感じた。
「光。馬鹿なことを。そのまま振り返って逃げなさい。あなたには関係ないの。」
皐月おばさんは驚いて光を叱った。
「家族でしょう。もう戦うって決めたんだ。」
光はおばさんの忠告を無視した。今更引き返さない。もう覚悟は決まっている。光は刀の切っ先を鬼ののど元に向けて構えた。
「じゃあ、お前を先に殺してやろう。」
鬼は光に対峙した。体は光の倍ほどもある。光の心臓が激しく鼓動を打った。いつもの稽古と同じようにやればいい。光は自分に言い聞かせた。
鬼が先に仕掛け、棍棒を大きく振り上げて迫った。鬼の体ががら空きになる。しかし光は焦らなかった。刀が十分に届く間合いになるまで待って、棍棒を振り下ろす手首をめがけて刀を小さく動かした。
「ぐあ。」
鬼の手首から上がすっ飛んだ。鬼は自らのなくなった方腕を見つめると、気絶してしまった。光はすぐに花とおばさんの傍らに飛んで、もう一匹の鬼との間に立った。
「花、動けるか。」光の質問に、花はうなずいた。「よし。それなら、誰か助けを呼んで来てくれ。」
次も勝てる自信はなかった。たとえ間に合わなくても、花だけでも逃がしたかった。おばさんは光を置いては動かないだろう。花は門の外へと走り出した。
「今のはまぐれだ。」
もう一匹の鬼は怒っていた。光はまた刀を構えた。しかし金棒に注意を配りすぎて、鬼の足の動きに気がつくのが遅れた。光は鬼に蹴り飛ばされ、刀が両手を離れて宙を舞った。地面にたたきつけられた光の体を、鬼が踏みつけた。身動きが取れない。刀もふっとんで遠くに落ちた。もう終わりだ。殺される―。何も起こらない。
「光。」おばさんが鬼の腰にしがみついて動きを抑えようとしていた。おばさんは腰に両腕を巻きつけて離すまいとしていたが、あっけなく突き飛ばされてしまった。
「あっ。」
今度は花の悲鳴だった。花は門の前で後ずさりしていた。その前には、顔は猿、体は狸、虎のような四本脚に尾が蛇の生き物、城門で姫を追いかけていた、鵺と呼ばれた生き物がいた。その大きな体で、歯をむき出しにしてゆっくりと花の行く手を塞いだ。
「花、逃げろ。」
光は叫んだ。しかし、逃げ場などなかった。鬼とその生き物に、三人は挟まれていた。光は何とか動こうとしたが、鬼の踏みつける足はますます重くなった。体がつぶれそうだ。鬼の残忍な顔がぼんやりとしてきた。
首だけで門を振り返ると、鵺は腰をかがめて花を狙っていた。花は追いつめられていた。光は肺が潰れそうなほどで声も上げられなかった。そして鵺がとびかかったその時だった。
「ズバン。」
鵺はその大きな体を何者かに斬られて、倒れこんだ。一瞬だった。
「お父さま。」
花が言った。光も虎仁おじさんを見た。おじさんの目は怒りに満ちていた。獲物を狩る虎のように鋭く光り、身内である光でさえ身震いがしたほど、凄まじい表情だった。
「今度は誰だ。」
鬼の声に、恐れを抱いているのが感じられた。
「全員私の家族だ。傷つけることは許さん。」
虎仁は静かに言った。鬼は光を踏みつけていた足をどかし、すぐに彼に襲い掛かった。勝負は一瞬だった。彼は刀を振りかぶると鬼の首元に斜めに振り下ろした。鬼の首はすっ飛んで、光の足もとへ転がり落ちた。鬼のうつろな目が、光を見つめた。
「グサッ。」
突然、虎仁の肩から、刀の切っ先が飛び出した。
「小僧。その爪の甘さが、大事な人の命を奪うことになるぞ。」
鬼の声。光が最初に気絶させた鬼が、起き上がって光の刀を拾い、おじさんの背中から肩にかけて刀を突き刺したのだ。光の頭は真っ白になった。そんな…。おじさんが…。
「爪が甘いのは貴様の方だ。」
虎仁は生きていた。彼は自らの背中から刀を引き抜くと、鬼の体に刺し返した。鬼が再び倒れる。光はひとまずの安堵と共に、体に疲れがどっと押し寄せるのを感じた。屋敷内に敵はもういなかった。はずだった―。
「あぁあぁ。部下どもを派手にやってくれおって。」
屋敷の上に仮面を被った人物が立っていた。真っ赤な顔に長い鼻の天狗の仮面。腰まで届く長い白髪に唐草模様の衣を羽織り、左手に長い草の葉でできた扇を持っている。背がかなり高く肩幅も広めで、とてつもなく大柄だった。
「ごきげんよう。虎仁殿。」
天狗仮面は馬鹿丁寧にお辞儀をした。
「狙いは東久邇宮家ではないのか。なぜここへ来た。」
虎仁は緊張していた。声が震えている。
「希世姫には別の部下を送ってある。そこで東国の武士団に邪魔をされては厄介だ。だから司令塔を先に奪いに来た。だがまぁ、その深手じゃ何の役にも立てんのう。先に城へ行かせてもらう。」
「待て。」
天狗は得意げに答えると、虎仁の制止も聞かずに颯爽と飛び去った。屋敷の外から悲鳴が聞こえてきた。門の外で、鬼に追い回される町の人の姿が見えた。たくさんの鬼が町になだれ込んできたようだ。
「行かなければ。」
虎仁は誰にともなく呟いた。
「でも、あなたは深手を負っています。そんな怪我で戦えば、あなたでもどうなるか分かりませんよ。」
おばさんは心配そうな涙声で訴えた。
「大丈夫さ。私は東国の侍大将だ。お前たちは、屋敷の中に隠れていなさい。万が一見つかったとしても、こっちには光がいる。母さんと妹を守った光が。」おじさんは光の肩をたたいた。「よくやってくれたな。ありがとう。」
「何もできなかったんだ。」
光は情けない気持ちがした。おじさんが来なければ死んでいた。花もおばさんも。自分は本当に何もできなかった。褒められることは何もしていない。
「気持ちが大切だ。父さんはお前を誇りに思うよ。」おじさんはそれでも慰めた。
「そんなんじゃない。」
光は鬼の目の前で足がすくんだことを思い出して、激しく首を振った。
「誰にでも醜い部分はある。」父はそんな光の心を見透かしたように言った。「己の醜さとどこまで戦えるかで、人間は決まる。光はそれと戦って勝ったんだ。そして家族を守った。」
「おじさん、俺…。」光は今まで抑えていたものが一気にゆるんで、涙が溢れ出した。「武士になりたくない。戦いたくないんだ」
涙が止まらなかった。おじさんの前で、今の状況で、こんなこと言ってはいけない。でも、あんな恐ろしい思いはもうしたくない。自分が死んでしまうかもしれない恐怖。目の前で大切な人が失われそうになる恐怖。自分が斬り付けた相手が苦しむ恐怖。どの恐怖も二度と味わいたくなった。
「あんなこと、したくない。」
光は泣きながら言った。口にしてもうまく伝えられそうもなかった。
「そうか。」ところがおじさんはそんな光の気持ちに寄り添い、優しく言った。「そうだな。気持ちはよく分かる。私だって怖い」
光は驚いた。そんなおじさんの気持ちを初めて聞いたし、なぜか今まで一度も聞いたことがなかった。ましてや、おじさんが恐れを抱いていることなど考えもしなかったのだ。
「嫌なら、戦わなくてもいいし、武士にもならなくていい。それで大切な人が守れるなら、逃げたっていいんだ。」おじさんは言った。「自分が本当に正しいと思うことをしなさい。いつだって我々は味方だ。」
「正しい?」
光は聞いた。
「そうだ。」おじさんは一瞬厳しい表情をした。「いいか、光。この世の中にも正しさはあると、私は信じている。それはいつも困難で見えにくいから、皆気づかないふりをしているのだ。だがそれらを超えたところにあるはずだ。私は武士になったが、それを見つけられなかった。だが光ならきっとやれる。武士にはならなくてもいい。どんなやり方でもいい。続ければきっと何かが見えてくる。」
光はよく分からないままに頷いた。
「よし、いい子だ。さて、私はそろそろ行かなければならない。」
おじさんは悲しそうに、だが満足そうに頷いた。
「いやだ、行かないで。死んじゃいやだ。お父さん。」
花がおじさんに抱き付いて泣いた。皐月おばさんも泣いた。光はまるでそれが夢の世界であるかのように、遠くにぼんやり見つめた。
「死んだりしないって言っただろう。ほら、約束だ。生きてまた、必ず会おう。」
おじさんは最後に笑ってみせた。そして敵のもとへ一人で向かっていった。後を追う花を、おばさんが引き留めた。光は去りゆくおじさんの肩越しに、青空に浮かぶおぼろげな月を見た。昼間のためはっきりとしていなかったし、雲に隠れていてわずかにしか見えなかったが、うっすらとした白い光が、光の心を捉えた。大丈夫だ。必ずまた会える。
その日虎仁は光たちの前に現れなかった。次の日も、その次の日も。ずっと戻って来なかった。だが光は涙を流さなかった。もう一日待てば、あと一日待てば、返ってくる。そう思い続けて、一月が経った。
城門に果物を投げた件と勝手に侵入した件については、光はまったく咎められなかった。鬼による城門破りがあって、それどころではなかったのだ。町は無事だったが、東国の領国主の東久邇宮家は国を追われたらしい。希世姫を含め、安否は誰も分からなかった。
「今日ね、おもしろい話を聞いたのよ。」
ある朝、家の手伝いに外に出た光に、ようやく悲しみから立ち直りかけた花が連れ添ってきた。二人は青々とした草の生えた河原沿いをゆっくりと歩いていた。
「君がおもしろい話を聞かない日があるの?」
光は笑った。
「今回は特別よ。お母さんとお父さんの馴れ初めの話し。聞いたことないでしょ。」
花は面白そうに光の顔を覗きこんだ。
「そういえば、ないね。」
光は初めて気がついた。思えば、おじさんについて知らずにいたことがたくさんある。
「二人はね、最初から両想いだったんですって。お母さんは武士として活躍するお父さんに憧れていたし、お父さんのほうは町でも有名な美人だったお母さんのことが気にかかっていた。でも二人は武士と町人で、身分が違うでしょ。当時は今以上に身分社会だったから、お母さんはただ憧れる気持ちを抑えていたの。」
花はようやく一呼吸ついてから続けた。花の容姿から察するに、光にはおばさんが昔美人だったことが簡単に想像できた。
「でもお父さんは違った。何度も何度もお母さんのところに行きつめて、向こうの両親に認めてもらって、自分の身内にはお母さんと結婚できないなら武士をやめると言い出したのよ。お父さんはその頃から将来の侍大将だともてはやされていたから、周りはそれだけはさせたくなくって、渋々二人の結婚を認めたんですって。」
花はくすくす笑った。
「さすがおじさんだな。俺には真似できないよ。」
光は肩をくすめた。
「そうかしら。私はなんだかお兄ちゃんに似てるって思ったんだけど。」
花が思案顔で言った。
「しつこいところが?」
光はそんな馬鹿なと笑った。
「ううん。まっすぐなところが。」花は正面を向いて光から視線を逸らした。「なんてね。」
花は笑顔で振り返ると、光を置いて走っていった。光は自分の性格を顧みて、やはりまっすぐなところは思い当たらなかったものの、気持ちがずいぶん明るくなったのを感じた。
「ねぇ、また会えるよね。」
花は突然立ち止まって言った。虎仁おじさんのことだとすぐ分かった。顔は見えなかったが、また泣いているのかもしれない。
「会えるさ。きっと会える。」
光は泣かなかった。不安もあったが、これからどのように生きてくべきかの指針を、光は決めていた。あの日おじさんの言った言葉の意味を、いまだにはっきりとは理解できていない。しかしおぼろげながら分かり始めていた。おそらくあの日彼は光にこう言ったのだ。
「美しく、生きよ」と。