夜明け前の事件
貴族というのは窮屈だ。実際に狭い箱の中に入って運ばれるのだから、窮屈であることは間違いない。毎日同じようなことの繰り返し。決められた人と会って、中身のない会話をし、たとえ面白くなくとも、おほほと、口をすぼめて上品に笑わなければならない。これができないようなものなら、周りから気品がないと咎められ、礼儀作法を叩き直されてしまうはめになる。
希世は輿の中でたいへんに退屈していた。輿というのは二本の棒の上に人が乗る台を乗せたもので、台は屋根と簾で四方を囲まれているが、中は子供であっても一人が座れる広さしかなく、それを人力で運ぶものだから、ゆらゆらと揺れて居心地が悪い。希世はこの狭い箱の中で少々の吐き気をもよおしながら、いたずらをした罰として押し入れに閉じ込められたような気分を味わっていた。
もちろん彼女が御簾の中に入っているのはそんなことのせいではなく、中ノ国の皇子と顔合わせをするためだった。東国の貴族であった彼女は、そこから数日かけ、野を越え山を越えはるばる運ばれ、町の前で人力の輿に入れられ、今に至るというわけである。
外が騒がしくなり輿の動きが止まったので、希世が気になって簾の隙間から顔を出そうとしたところ、近くで男の声がした。
「東国より東久邇宮希世様をお連れした。予定していた皇子との顔合わせを執り行うにつき、お通し願いたい。」
声の主は御簾を運んでいた者の一人だった。
「これは遠いところを遥々。お待ちしておりました。」
こちらは見知らぬ者の声で、緊張して変に上ずっていた。
「あいにくですが國保様は現在重要な話し合いの最中でして。あなた方の到着は先の通達で承知しておりますが、儀式は明日執り行う予定でございます。今日はお疲れでしょうからゆっくりとお休みになって下さい。」
また輿が動きだすと少しして門扉が閉まる音がした。希世はたまらなくなって輿から完全に顔を出した。目の前に広がる広大な庭を見て、希世は目を輝かせた。自由に曲がりくねった松や簾みたいな柳、空や木々を映して青やら緑やらに輝く池、真っ赤な梅や黄色の山吹も咲き乱れ、うぐいすはのどかな声を響かせていた。なんて美しいところだろう!
「ねえ経様、やっと着いたのね。ねえそうでしょ?」
経は希世の乳母であり、世話係であった。今回の旅路でも体の弱い希世の母に変わり同行し、希世の身の回りの世話をした。自分の母と年が近い経を希世は二番目の母親のように慕っていたが、柔らかい物腰の母とは違い、経は厳しく男のように大きな体つきをしていた。顔は凛々しく髪はくるりとまるまったくせっ毛だ。
「まあ希世様。輿を下ろすまで顔を出したりしないって言ったでしょう。」
経は輿の簾から首を亀のように出している希世の丸い頭を見つけて、驚いて叱った
「ごめんなさい。でもあたしもう我慢できないわ。これ以上座ってるとダルマになっちゃう。お外に出て遊びたいわ。見てごらんなさいな。なんてすばらしいところなんでしょう。」
希世は庭を見渡しながら、その魅力に打ち勝てるはずがないわというように切実に訴えた。
「お外といっても大和様の城内のお庭ですよ。こういう時は、いつ誰に見られているかも分からないのですから、おしとやかに振る舞うものです。もう六才でしょう。」
希世は既に輿から完全に体を出し、外へと飛びおりていた。
「やれまぁ…。分かりました。特別ですよ。こちらの方々には私から説明しておきます。子どもの遊びですから、許して下さるでしょう。」
経は観念した。そして、この幼子のふっくらとした頬につややかな髪がかかっているのを指でそっとはらいのけた。
「ですがいいですか。お庭のものを勝手に触ったり、走り回ったりしないこと。はしたないところを決して皇子様などに見られないこと。お着物も汚さないように。分かりましたか。」
「お庭のものを勝手に触ったり、走り回ったりしないこと。はしたないところを決して皇子様などに見られないこと。」
希世はつま先立ちで上下にぴょこぴょこゆれながら経の言葉をそのまま復唱した。
「私はあなたのご両親からあなたのお世話を頼まれているのですからね。まったく、あなたのお母様は大変おしとやかでいらっしゃるのに、どこが似てしまわれたのか。きっと彼女があなたぐらいの年頃の時も、もっとしっかりとしていらっしゃったでしょうに。あなたのこの先が心配ですよ。」
希世は経の小言を聞いてなどいなかった。改めて城内を眺め、目も覚めるような美しい彩の庭に心を奪われると、春の甘酸っぱいような空気をその小さな胸いっぱいに吸い込んで深呼吸し、庭に向かって走り始めた。
「まだ話は終わっていませんよ。走らないと言ったのに!」
経はやれやれと首を振って、まっすぐな長い髪と桜色の着物を風にはためかせて遠ざかる、少女の後ろ姿を見つめた。
希世は走りづらいことに気づいて、駆けたままで裸足になって下に引きずっている着物の裾を引き上げた。足から土や草の感触が伝わり、頬が風を切って気持ち良かった。希世は小鳥や虫たちと競うようにして草むらを横切り、橋を渡って中の島から池を覗き込むと、群がる色鮮やかな鯉たちの水しぶきを避けて池から離れ、最後に中庭へとたどり着いた。そこで希世は呼びかけられ、はっとして足を止めた。
「僕の庭に何の用だ。」
男は大きな松の木の上で、太い枝と枝の境目に足をかけ、器用に寝そべっている。男は両手を頭の後ろに組み、顔だけ起こして横着に言った。まっすぐに長い髪を目の近くまで下していて、顔は整っていたが、鷹のような鋭い目と尖った顎が、高慢ちきでとっつきにくい印象を与えていた。
「君が東久邇宮希世とかいう子どもか。僕との縁談のための顔合わせで来たのかとかいう。」
男は「子ども」の部分を強調した、癪に障る言い方をした。この男だって十一、二才くらいに見えるから、まだ子どもだ。
「私、あなたと結婚するつもりはないわ。だって、あなたのことまだ何も知らないもの。」
これは希世にとっては失礼のない言い方のつもりであった。しかし不運なことに、この世のすべてのことが自分の判断だけで決まっていくと考えているこの男にとっては、先に自分の意見を出すという希世の配慮はこの上なく腹立たしいものだった。
「僕も君なんかと結婚するつもりはない。君みたいな、野蛮でチビの子どもなんかと。お願いだから、二度と城に入って庭を荒らさないでくれ。」
男は急に真顔になると、希世の顔をじろじろ見てせせら笑った。
「あら、これから大きくなるわ。それに、庭を荒らしたりしていません。」
希世は落ち着いて返した。彼女はからかわれただけですぐ怒るほど単純な子供ではなかった。自分の体は小さくても、心はこの男より大人なのだ。
「一緒にいた、あのでかいおばさんは誰だ。あれも城には入れないでくれ。巨大すぎて、城のいろんなものを壊してしまいそうだからね。」
「経のことを悪く言わないで。」温厚な希世も、好きな人のことを悪く言われるのは許せなかった。希世は挑戦的な表情を男に向けた。「いますぐ降りてきて経を侮辱したことを謝りなさい。」
「嫌だね、おチビさん。謝ってほしくばここまで登って来てみなよ。無事登れたら、その時は謝って進ぜよう。木登りは苦手かい。それとも泳げないとか。」
男が寝そべっている場所は地面から大人二人分の高さほどあり、危険に思えた。
「とんでもない。私は猿より木登りが早いし河童より泳ぐのは上手よ。」
希世はそのどちらも経験がなかったが、なにせ腹を立てていた。腕まくりをすると松の木に両手でしがみつき、足をばたつかせて無理やり登りはじめた。
「おっと、母上か。これはまずい。」
ところが数歩と登らない内に、男は木から飛び降り、池の近くで一本の立派な桜を見つめている大人の女性を警戒した。
希世はその女性のあまりの美しさに驚いた。顔は雪のように白く、吸い込まれそうなほどきれいな瞳で、長く艶やかな髪が着物の上ではらはらと揺れていた。希世が今まで見てきた人々とは明らかに違うものがあり、一度見たら忘れそうもないほど、印象深い。女性は鮮やかな寒色の着物を召していた。それは真冬の早朝の空が徐々に白んできて、色濃い藍色から薄い青色に変わっていく瞬間を繊細に表しているかのような姿であった。
「おい、お前。さっきは悪かった。あそこに使用人がいるから部屋へ通してもらえ。」
男が何やら言っていたが、希世は聞いていなかった。桜を見る女性の横顔を、いつまでも見ていたかった。頬笑んでいるような、悲しんでいるような彼女の不思議な表情は、なんとも言いない美しさがあった。
希世は着替えのために使用人に屋敷内の部屋へ案内された。着替えていると、遠くで話し声がすることに気がついた。格子の隙間から声の辺りを覗き込むと、広い庭を挟んで斜め向かいの大広間で、男たちが話し合いをしている様子が窺えた。
その部屋では最も気位の高そうな男が奥の一段高い畳の上にあぐらをかいて座っていて、その両隣に年配の男が二人、その三人に対して二列に向かい合って、男たちが柱を背に正座を組んでずらりと横に並んでいた。皆白い袴を着ていて、似たり寄ったりの一様な顔つきをしている。最も位の高そうな男に対して左に座っていた、垂れ目の、後頭部の長細い禿げ頭の老人が話しかけた。
「天皇様、どうしてためらうことがありましょうか。龍国統一に向けて、既に東国と北国とは協定を結んでおり、あくまで独立を主張する南国を除けば、敵対するは西国のみです。武力では圧倒的にこちらが優っています。すぐに準備して攻め入りましょう。」
多くの者がこの老人に賛成の声を上げた。だが話しかけられた最も位の高そうな男は、口を真一文に結び厳めしい顔をしたままで何とも言わなかった。彫が深く、落ちくぼんだ大きな目と、高く筋の通ったワシ鼻の、端正な顔立ちだ。希世は先程の会話から、彼が天皇であることがすぐに理解できた。
「わしが天皇をしていればこんなに悩むこともなく決断したじゃろうに。西国の領国主に対してこれ以上の説得は無意味なことぐらいそろそろ分かろうに。まだ交渉にこだわるか。いったい戦の何が問題なんじゃ。」
今度は右の老人が言った。こちらは右の禿げ頭の老人とは異なり、長い白髪をしていた。これまた堀の深い端正な顔立ちで、高い鼻の横にほくろがある。あぐらをかき、口調も上からものを言っており、希世はこの老人は天皇の父親ではないかと予想した。
「父上。いえ、國雅様。私が天皇になってからというもの、無駄な争いは極力避け、なるべく血を流さずに統一を進めてきました。今回も同じです。美しい世の中をつくるために、人の血を流してどうします。争いは平和を生まない。」
天皇は固く閉じていた口を開いた。
「そのような願いを抱えているのは國保、お前だけじゃ。政治に心などいらん。ましてや、天皇というのはただの象徴。それが政治を進めるためには、周りの人間の願いや意見を反映せねばならん。天皇になってから今まで何を見てきた。誰が平和など望んでいた。皆自己の利益の前には盲目じゃ。それを受け入れろ。醜さこそ、人間の本来あるべき姿なのじゃ。元来、この世に善と悪などない。」
國雅と言われた、右の者が弁舌をふるった。
「善と悪なら、あります。戦乱が悪で、平和こそ善です。これは理屈ではありません。長い歴史から学ぶことのできた答えなのです。」
天皇は尚も言った。
「圧政の国を救うためには戦が善となることもありましょう。政治に多少の犠牲はつきものです。今回のことも、仕方のない犠牲と言えます。」
左の者の言葉に、口々に他の者が賛同した。皆それぞれの発言をしていたが、中身はどれも同じようなもので、賛同の意を述べたことには変わりなかった。天皇はしばらく目を閉じて、まるで全員の言葉が同時に理解できるかのようにじっと聞いていたが、やがて目を開いて言った。
「それがあなた方の考えでお変わりないようですね。それならば考慮に入れましょう。」
ようやく天皇が折れた。聞くことのできた話し合いは短かったが、天皇の周りの者たちの反応から、天皇は唯一武力での争いに反対し続けていたようだった。
「ですがあくまでも考慮に入れるだけです。今日はここまでにしましょう。私にはやらなければならないことがたくさんある。」
天皇が席を立ち、しばらくすると周りの者達も私語をし始め、話し合いは終わったようだった。希世は格子の隙間に、目の周りに跡がつくほど顔を押し付けていたので、近くで声がして慌てて飛びのいた。
「盗み聞きかい」
希世が顔に残った格子の跡をさすって消そうとしている内に、先程の『憎たらし男』が新しい袴に着替えて近くまで歩いてきた。
「あの話し合いにはぼくも参加すべきだった。その権利がある。顔合わせなんか無意味な集会には参加させるくせに。あぁ、申し遅れたな。大和尊だ。ここの皇子だ。」
男は苦虫を噛み潰したように言った後、自己紹介した。なんと!この『憎たらし男』が皇子であったか。道理で結婚などと年に合わないことを口にする訳だ。それを知っていれば、自分も少しは立場をわきまえただろうに。彼は見た目の若さのわりに、大人と同じくらいの背丈があった
「私はまだ六才よ。結婚を考えるなんて早すぎると思うわ。」
希世は今度こそもっと慎重な言い方をした。
「親たちが勝手に言ってるだけさ。君は好きな人と結婚すればいい。まぁうちの両親みたいには…」
天皇と皇女がどういう経緯で結婚したのかを聞くことはなかった。その時聞き覚えのある親しげな声が自分に話しかけてきたからだ。
「皇子に向かって大胆な物言いをしている少女がいると思ったら、希世様ではないか。」
声の主は腰に刀をさして、短髪の下の角ばった面長の顔に快活な笑みを浮かべていた。
「虎仁様」
希世は彼に飛びついた。彼は天正門虎仁といい、今は中ノ国に仕える護国武士であった。護国武士というのは、領国の支配者に仕え、戦時に命がけで闘う代わりに土地や生活を保証してもらう関係にある武士のことだ。袴を着て、腰に刀を差し、一般的には長い髪を後ろで束ねるのが彼らの正装である。彼はその中でも特に位が高い、護国武士団の大将であった。中ノ国と東国の同盟を結ぶ前は東国の支配者である希世の父親に仕えていて、今でも東国と交流があるので、希世は彼をよく知っていたし、よく遊んでもらっていて大好きだった。
「ワハハ、少し見ない間に大きくなられたものだ。相変わらずおしゃべりは達者なようだ。」
「何をしていたの。」
「話し合いが無事に進むように部屋のすぐ外で警護をしておりました。それよりも聞きましたぞ。到着して早々一悶着起こしたとか。経様はお怒りでしたぞ。」
虎仁は希世の頭をぽんと触ると、笑いながら言った。
「たいしたことじゃないのよ。」
希世は言い訳をしておいた。
「気にすることはない。私にも希世様と同じぐらいのと、二つばかり年上の子がおりますが、まあ似たような者です。子供は元気に走り回るのがよい。」
虎仁が言い終わった後、三人の後ろの廊下を天皇が通り過ぎた。隣には話し合いの場で天皇の左側に座っていた禿げ頭の老人がいて、天皇の耳元でこそこそとしゃべっていた。老人はこちらに気づくとバツが悪そうに視線を逸らした。一方、天皇のほうはこちらに全く気づかず、考え込んでいた。覗き見た時は気づかなかったが、天皇の顔は青白く、とても疲れているように見えた。ぼろぼろで何日も整えていないような髪が、目元を暗くしていた。虎仁が挨拶すると、やっとこちらに気づいて小さく頭を下げたが、すぐに屋敷の中へ入っていった。
「父上のやり方はぬるいんだ。だからみんなに反対される。あのこそこそした側近の阿曽なぞと話してないで、僕に政権を代わればいい。もっとうまくやれるはずだ。」
皇子はおそらく今まで何も成し遂げていないのに自信満々だった。
「天皇様は疲れておられるのだ。最近ではほとんど病気のようになってしまって。一人で抱え込まわれずにわたくしにでも相談して下されば、何かお役に立てるかもしれないのに。天皇様のご命令なら何でもお伺い致しますものを。」
虎仁は深く同情の念を示した。
「父上の体調が悪いのは、周りの奴らがうるさいからさ。周りからの批判や慣例を気にするのは、まったくもって時間の無駄でしかない。批判するのは簡単だ。責任は本人に取らせればいいんだからな。」
皇子は顔をしかめた。
「周りの人間の不誠実のつけを払うのは、いつも誠実な人間だ。」
虎仁は心配そうに天皇の後ろ姿を見つめた。希世は遠ざかる天皇の後ろ姿に、今に消えゆく松明の明かりのような、心細さを感じていた。
翌日の顔合わせも含めてのそれから四日間、希世は城内に滞在した。その滞在の内に、中ノ国の城内がおそろしく立派なものであることに気がつくこととなった。希世が初日に訪れ、話し合いが開かれた平屋の木造一階建ての屋敷は御殿であり、本殿はその後ろの石垣の基礎の上に築かれた、白塗りの壁に覆われた五階建ての天守閣であった。その天守閣の大きいこと。周りを一周するだけでへとへとに疲れてしまうほどだった。
四日目、希世は明日の朝にまた東国へ向かって帰ることになるので、またあの狭い輿に閉じ込められてしまう前に動き回っておこうと、また美しい景色を目におさめておこうと、御殿の前の庭を思う存分楽しんだ。日が暮れ暗くなり始めると、人々は各々の部屋へと戻り、城内は静まり返った。希世らは滞在中本殿の四階に案内され、そこの客間で夜を過ごすことになっていた。希世は昼間に広い庭を走り回ったせいか、その日もすぐに眠りについた。
しかしどれくらい寝てからであろうか、希世は何かに導かれたかのように突然目を覚ました。外はまだ暗かったが、かすかに空は群青色に近くなっている。その微かな明るさを頼りに辺りを見ると、経が寝ていたはずの隣の蒲団が空っぽになっていることに気がついて、希世は不安を感じた。それからかわずに行きたくなって、そっと部屋の外に出た。廊下に出て突き当りのかわずで用を足すと、廊下の途中にある階段の上から、ドタドタという足音が聞こえてきた。
「こんなまだ暗い時分に、何かしら。」
希世は不審に思ったのと、好奇心にそそられて、階段の下まで歩いた。そして音を立てないよう、抜き足差し足で階段を上った。階段を上ったところには長い一本の廊下があり、突き当りまで両側に二部屋ずつ、隣には襖が半開きの部屋があった。部屋は広く、壁や天井にまで絵が描かれていていたが、もうあまり使われていないような埃っぽい状態だった。奥に物々しい装飾の高足のついた二層の整理棚があり、上には何かが置かれていたような形跡があったが、今は何も置かれていなかった。部屋の向かいには外が見える廊下があり、横にはこれまた半開きになった押し入れがあった。
誰もいないので、先程聞いた足音は聞き違いかと思って大人しく寝室へ戻ろうとすると、階段があるほうの廊下から足音が聞こえてきた。希世はとっさに半開きであった押し入れに隠れた。足音は次第に大きくなり、ついに同じ部屋の襖を開ける音がした。部屋に入ってきた者は落ち着きなくそわそわと動き回り、息を切らしていた。希世は息遣いからこの人が怯えているのではないかと思った。声をかけるべきか迷った。ところが今度は別の足音が廊下から聞こえ、荒々しく戸が開けられた。
「ひっ」
おそらく先に部屋に入った者が、声にならない声を上げた。希世は我慢できなくなって押し入れの戸を少し開けた。
部屋の向かい側には二人の人が向かい合っていた。怯えている者は後ろ姿しか見えなかったが、もう一方の者はこちらに正面を向けていたので、暗がりの中でも顔が確認できた。恐ろしい仮面をかぶっている。白塗りの仮面に眼球の赤い目と横に広げた口から並んだ金色の歯をむき出しにしている、笑っているのか、怒っているのか、泣いているのかも分からない表情の仮面だったが、見る者に強く訴えかけるものがあった。
「もうすべて終わりだ。」
おそらく仮面の者から、喉を焼かれたような、おぞましいかすれ声が聞こえた。片手には短刀を握りしめている。
「もしや…、その目は。しかしなぜ。」
怯えている者は甲高い声を絞り出した。しかしその後にはうめき声しか上げられなかった。仮面の者が短刀を突き刺すと、刺された者は膝からうつぶせに倒れこんだ。希世の位置から、刺された者の顔がわずかに見える。天皇様の御顔だ!床に頬をつけたまま硬直している姿に先日拝見した生前の面影はないが、暗い目元には驚きが刻まれたままだった。希世は恐怖に体が硬直し、手足の感覚がなくなった。仮面の者は死体をじっと見下ろしていたが、まもなく別の人たちが部屋に入って来た。
皆同じように、別々の仮面を被り、黒い衣を頭まで羽織っているため、暗い部屋の中でぽっかり仮面だけが浮かんでいるように見えた。順番に、白いひげの生えた老翁の面、眉の高い若い女の面、鼻が長く赤い顔の天狗の面、咆哮を上げるように口を開けた金色の獅子口の面、赤い顔に黒いまだら模様、鋭い角の鬼の面、尖った顎と牙と角にぎょろ目の般若の面、人の顔の骸骨の面が闇に現れた。般若の面の人は、三才くらいの子どもを抱えているように見えた。
希世の目からほとんど見えなかったが、仮面の人は七人いて、最初に部屋に入った白塗りの仮面の者を囲んで立った。そのため、希世からはこちらを向いている三人の仮面、老翁のお面、若い女の面、天狗の面が確認できた。天狗の面の人と、こちらに背を向けた二人、おそらく獅子口の面と鬼の面の二人は高い位置に仮面があったため、ひどく大柄なことが分かった。
「時代は変わった。」
白塗りの仮面の者は誰にともなく言った。
「怪士殿。準備は整いました。今鬼たちが城を襲っています。」
輪の中の誰かが言った。最初に部屋に入って来た白塗りの仮面の者は怪士というらしい。
「よろしい…。七神将達よ。よく集まった。よく決断してくれた。その決断を誇るとともに、この国の重要な変革に関われることを感謝するがいい。」
「勿論ですわ。」
怪士の言葉に女性の声が同調した。
「我々はようやくここに行きついた。ずいぶんと無駄な時間を過ごしてしまったが、理想の国の実現にはまだ少し時間が必要だ。そこでお前たちがそれぞれの役割を果たす必要がある。」
「力を手に入れた我々にとっては、容易いことだ。もはやこれだけの軍隊に逆らえる者などいない。」
自信に満ちた声が怪士に返した。
「各自打ち合わせた通り各地の制圧に乗り出せ。今更だが、異議のあるものはいまいな。」
「無論。」
怪士が言い終わるより早く、誰かが声を発した。
「失われたものはあれど、我々の目的は一つ。すべては世界の未来のために。」
怪士周囲に呼びかけた。
「世界の未来のために。」
周囲の者達は深々と頭を下げた。怪士がそれらの頭を撫でまわすように確認したかと思うと、やがて一人の頭越しにこちらに向き直った。わずかに開けていた押し入れの隙間から覗いていた希世の目と、仮面の切れ込みの中の目とが合った。
「誰だ。」
怪士がこちらに近づこうと一歩踏み出した時、城内から悲鳴が聞こえ、希世は手足の感覚を取り戻した。急いで押し入れから飛び出し、半開きになった戸から階段側の廊下へと走った。後ろは振り返らず、ほとんど転げ落ちるように階段を降りた。
「私に任せて下さい。」
後ろから微かに女性の声が聞こえた。
とにかく誰かに助けを呼びたい―。そう思って城内が見渡せる廊下に戻った。城は一階から四階まで中央部に大きな吹き抜けがあり、その吹き抜けの周りをくにがまえのように四角い内廊下が囲い、内廊下の外側に各部屋、その外側に外廊下がある構造になっていた。二階と四階には吹き抜けを横切って内廊下を結ぶ空中の廊下が作られていたが、城内が吹き抜けであることに変わりなかった。そのため内廊下に出れば城内全体に助けを呼べることを、希世は知っていた。
ところが悲鳴は城内の各所から上がっていた。希世の目からも、内廊下を逃げ惑う人々の様子が見えた。どうやら助けを求めているのは自分だけではないらしい。ともかくも仮面の者たちには捕まるまいと必死で走っていると、正面から二つの人影が近づいてきた。良かった、助かる…。そう思えたのもわずかの間であった。
影が大きくなると、それが人ではないことが分かった。恐ろしい生き物だ。二足歩行のいでたちと背丈だけは人間と同じようだったが、体は垢汚れのようなどす黒い色でごつごつしており、顔はしわくちゃの豚鼻に口には黄色い牙が生え、頭の薄い髪の毛に二本の短い角が生えていた。ぼろい布きれを体に巻き、片手に金棒を持っている。話には聞いたことがある。本物の鬼だ。
「おっと、ガキを見つけたぞ。」
がっちりして腹の出た禿げ頭の鬼が、低い声を出した。
「こっちへおいで。お嬢ちゃん。」
ほっそりして腰の折れ曲がった出っ歯の鬼が、猫なで声を出して笑った。黄色く尖った歯がむき出しになった。希世は恐怖に再び足の力が抜けた。しりもちをついたまま何とか逃れようと手をついて後ずさりした。だが鬼は歩み寄り、片手で希世の頭を掴もうとした。その時、後方から何かがまっすぐ飛んできて、二匹の生き物の頭と胸に突き刺さった。刺さったものは十次型の鉄製の刃物、手裏剣だった。希世は手裏剣の飛んできた方向を振り返った。
「こちらへ。」
大柄の女性が呼びかけた。黒ずくめの絞った服で頭巾をかぶり口まで覆い、頭には紫色の長い帯を鉢巻のように巻いている。忍者の服装だ。
「経様。」
そこに立っている経は昼間の姿とは違い目元しか確認できなかったが、この姿をしている彼女を希世はよく知っていた。経は希世の乳母でもあり、護衛でもあったのだ。経の短い言葉に希世はひどく安心して力を取り戻し、急いで駆け寄った。鬼は痛さにうめいていた。
「おけがはないですか。逃げましょう。ここはもう危険です。」
経は希世の肩に手を回した。
「何が起きているの」
希世はとにかく知りたかった。
「国に戻ってから説明します。実のところわたくしもはっきりとはわかっていないのです。」
経は希世の手を取って走った。寝室にたどり着くと、角ばったS字の留め具を内廊下側の襖に挟んで、反対側の外に通じる廊下に着いた。途中、経は彼女が使っていた布団の下から長い綱を引っ張り出した。綱の先に曲がった棒状の鉄鉤があり、経はそれを外側の廊下の手すりに引っ掛けると片手で希世を抱き寄せた。
「いいですか。今から飛び降りますから、私の体にしっかりと捕まっていて下さいね。」
希世は経の言葉に驚き、体を捻って下を見た。城から逃げ出る人の姿が、米粒のように見える。
「ちょっと待って。」
希世が覚悟を決めようと深呼吸しようとした瞬間、寝室の戸が大きな音をたてて壊され、先程の二匹の鬼が金棒を振り回して飛び込んできた。
「やっぱり待たなくていい。」
しかし飛び降りる瞬間、上の階から柱をつたって小さな蜘蛛が下りてきて、自分の背中に卵を産み付けたことに、希世は気がつかなかった。なぜならその次の瞬間には、希世は空中へと連れ出されていたからだ。目を閉じると下から吹き上がる強烈な風だけを感じた。落下が止まって目を開けると、まだずいぶん地面から離れたところにいたが、経が綱の持ち手を緩めるとするすると地面に着地した。上を見ると先程の四階の廊下から鬼たちが悔しそうに覗いていた。
「希世様、お早く。」
二人は駆け足で城から離れ、身を屈めて御殿の側を通り、庭を横切った。外はまだ薄暗く、昼間は美しかった庭も今は恐ろしく見えた。大きな松の木は風に吹かれて不気味な音を出していたし、池は真っ黒で底がないように思えた。希世は不安になって経の手をさらにぎゅっと握った。経は相変わらず前だけを真剣に見据えていたが、その手からはぬくもりが伝わった。
しかし、遠くから暗闇を貫いて悲鳴が聞こえる度、希世の心臓に尖ったものが深く突き刺さった。そうでなくても恐れと興奮で、希世は胸が痛かった。何が起こっているのかは分からなかったが、なんとなくそれは想像できた。きっと鬼は他にもたくさんいて、城内の人々はそれに追い回されているんだ。明日も平和な一日がやってくると思って安らかに眠りについていたのに。
二人はまもなく馬小屋に着いた。馬たちは城の騒ぎに起きだしていて、落ち着きなく暴れていた。経はそんな中でただ一匹だけ落ち着いて地面の匂いを嗅いでいる栗毛の馬を選び、希世に乗るように促した。鞍に触った希世の手に、紙のようなものが触れた。何かしらと思っている間もなく、正面から一匹と、その後方から数匹の鬼が現れ、先頭の一匹がこちらを指さして叫んだ。
「ここにも人間がいるぞ。」
経は腰の辺りから鎌を取り出した。鎌の持ち手の先からは鎖が繋がっていて、鎖の先には分銅がついている。鎖鎌だ。経は右手で分銅が円を描くように鎖を回すと、鬼の腕を狙って鎖の持ち手を離した。鎖は鬼の腕に絡みつき、動きを封じた。
「何だこれは。離せ。うわっ。」
経はすかさず右手で鎖につながれた鬼を手繰り寄せて、左手に持った鎌を胸に突き刺した。鎖をほどいた後、経が勢いよく馬を跨いで希世の後ろに乗り込むと、今度は鬼の集団が近くまで来た。経は腰の辺りからこぶし大の木の実のようなものを取り出すと、地面に思いっ切り投げつけた。すると焦げ臭いにおいとともに、木の実は大量の白い煙を吹きだした。辺りはすぐに真っ白な煙に包まれ、何も見えなくなった。
「ひひーん。」
希世は真っ白な景色の中で、経が希世の肩越しに手を伸ばして手綱を引き、馬がいなないて走り始めたのを感じた。希世は慌てて手綱にしっかりと捕まったが、経が後ろでしっかり支えていたので、その必要もないようだった。馬は勢いよく走り去り、混乱した鬼たちを蹴散らし、城門をくぐり左側にまっすぐ伸びる道へ出た。草原に挟まれた道を馬が駆ける頃には、周囲もだいぶ明るくなっていた。馬は希世と経を乗せたまま、白んだ山の際から、わずかに顔を出した朝焼けに向かって走り続けた。