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もしかしたら夢で? 何て淡い期待もしてみたが、その夜は夢らしい夢も見ることはなかった。
「祥太朗、おっはよぅ! なーんか顔色悪いけど、大丈夫?」
登校途中で千鶴に会った。太陽のような笑顔が眩しい。
いつもならそれだけで一日上機嫌なのだが、なんだか身体がだるすぎてテンションが上がらない。
「おはよ。ちょっと寝不足なんだ」
寝不足なのは本当だ。でも、それだけというわけでもない。
あの後、寝転がりながらうだうだと考えているうちに眠ってしまったが、どういうわけか二時間ほどで目が覚めてしまい、ベッドサイドに置きっぱなしになっていたコップの水をぐいっと一気に飲むと、なんだか目が冴えてしまったのである。
せっかくだから絵本をもう一冊読んでみようかと思ったが、未読の本は母の部屋にあることを思い出し、あきらめた。
あと何冊あったっけか。
絶版になってしまったというその絵本達は、大きめの段ボールにぎっしりと詰められてあった。てっきりあともう二、三冊だろうと思っていた祥太朗は、がっくりと肩を落とした。
しかし、気を取り直し、気合を入れて中を確認してみると、どうやら『いだいなる魔法使い』のシリーズはもう何冊もないようだった。
タイトルの上に『いだいなるまほうつかいシリーズ』と書かれているものがそうだろう。
ただ、母の作品はどうもファンタジックなものが多いので、もしかしたら、別の作品の中にもヒントがあるかもしれない。こんなことなら早々に自分の部屋へ運んでおくんだったと後悔した。
とりあえず、優先すべきは『いだいなるまほうつかいシリーズ』だ。それらをすべて読み終えてからまた考えよう。そう思ってベッドから降りた。
飲み終えた後のコップは、朝、起きてから片付けてもよかったのだが、どうせまだしばらく寝られそうにないので、シンクまで運ぶことにした。片付けるのを忘れると、こういうことにはやけに几帳面な佳菜子が、勝手に部屋にまで侵入し回収するのだ。
冷蔵庫の中に何が残っているかは覚えられず、同じ野菜を何度も買ってきたりする癖に、食器類に関しては何が何枚あるのかをきっちり覚えている。だから、コップが一つ無いだけで大騒ぎである。
コップを持って、階段を下りる。リビングのドアが少し開いていて、部屋の明かりが漏れている。リビングの光ではない。奥のダイニングの光が漏れているのだ。まだ二十三時半、きっと佳菜子がまだ仕事をしているのだろう。執筆に集中しているだろうから、大きな物音を立てて驚かせないように、祥太朗はゆっくりとドアを開けた。
キィと小さな音を立ててドアは開いた。そのわずかな音に佳菜子は気付いたようだった。
「誰? 祥太朗?」
誰? という言葉が引っかかった。
この家には母さんと俺しかいないはずだろ? それともやっぱり父さんいるのかよ。
「俺だよ。コップ戻しに来たんだ」
そう言ってシンクの中にコップを置いた。洗い桶の中には布巾が漂白剤に浸けられている。
昔、この中にコップを入れて叱られたことがあるので、洗い桶から少しだけ離して置いた。
「順調? 今度の話は何?」
すぐに部屋に戻ってもよかったのだが、なんだかまだまだ話足りない気がした。
「うーん、まずまずね。久しぶりに父さんの話を書こうと思って。でも、駄目ね。時間が空いちゃうと」
順調に進んでいるのであれば、長居は躊躇われたが、そういうことであれば、と祥太朗はいつもの席に腰を下ろした。
「ねぇ母さん、さっき『誰?』って言っただろ。この家、母さんと俺しかいないのにさ」
「え? ああそうね。でもなんか父さんがいる気がしたのよ。祥太朗も魔法使いになり始めたことだし、もしかしたら母さんにだけは会いに来てくれるかもしれないって思って」
「俺まだ魔法使いじゃねぇよ。失敗だったじゃんか、さっきのコーヒー」
「まぁ、失敗はしてたけどね。でもまぁー及第点なんじゃなーい?」
佳菜子は、頬杖をつき、祥太朗に向けてウィンクをした。
「さっきのコーヒー、しょっぱくなってたわよ」
「は?」
「も~超しょっぱいの~。しょっぱいコーヒーってあれ、拷問だね。あたし割としょっぱいものは好きな方だったけど、コーヒーは駄目だわ」
「そんなわけないじゃん。からかってるんだろ?」
「信じる信じないは任せるけど。ただ、母さん、この件に関しては嘘ついたりしてないからね」
きっぱりとそう言って、また執筆作業に戻る。
いまのやり取りがいい気分転換にでもなったのだろうか。その後は、祥太朗に一瞥をくれることもなく、ただ黙々とパソコンに向かっていた。
今日の話はもう終いだな。そう思って、席を立ち、自室に戻ろうとした。
「コップ、持ってくなら、朝ちゃんと片付けるのよ」
見透かされていた。
本当に味が変わるのか自室で試してみようかと考えていたのだ。でもまだ椅子から立ち上がっただけで、シンクに目を向けてもいないのに。
何だかいつもより勘の冴えている佳菜子が怖くなり、「わかった」とだけ返事をした。
結局、さっきシンクに置いたコップを軽くすすいで使うことにする。
まだ量を増やすことは出来そうにないものの、やはり『もしも』が頭から離れず、水の量は控えめに、コップの半分以下にした。
さっきは確か、増えろ増えろと念じながら右手の指でコーヒーをかきまぜた。 そして、増えろと念じたのに味が変わった。
じゃあ今回も増えろ、と念じればいいのか? 魔法って随分と天邪鬼なんだな。
コップを左手に持ち替え、右手の指先を中に入れる。
ゆっくりとかきまぜながら、増えろ、増えろ、と念じる。
一分くらいはそうしていただろうか。ただの水だし、少しの変化でもわかるだろう、と右手を抜き、指先を舐めてみた。かすかに塩の味がする。
「マジかよ……」
確かに、水道水を汲んで来た。
汲んですぐ戻ってきたから、母さんが塩を入れるはずはないし……。
でも、マジかよ。
もう一度やれば、もっと濃くなるのかもしれない。
祥太朗はもう一度右手を入れた。増えろ、増えろ、と念じ、また取り出して舐める。
やっぱりさっきよりもしょっぱくなった気がする。
いま思えば、このあたりで止めておけばよかったのだ。
でも、なんだか止まらなかった。
楽しかったとかそういうことじゃなく、純粋に面白くて、不思議すぎて止められなかった。
どうなるんだろう、もっとやったらどうなるんだろうって。
で、気付いたら寝てたみたいで朝になってて、母さんに起こされて。コップの水は布団にぶちまけちゃってて怒られて。
身体にもかかってたけど気付かずに寝るなんてよっぽど疲れてたのかな――、俺――……。
「ちょっと! 祥太朗! 大丈夫?」
気付くと、目の前に地面があった。
躓いたかどうにかして転んだらしい。そう自覚すると、強かに打ち付けたらしい額と鼻にいまさら痛みが襲ってくる。
今日の俺はダメダメだなぁなんて思いながら立とうとするが、身体が動かない。
何だ? どうした?
何だか回りがざわついているようだったが、だんだんそれも遠くなり、祥太朗の意識も遠のいた。




