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絵本研究についてはとりあえず一段落ということにして、最近ちょっと苦味が癖になってきたコーヒーでも飲もうかと、祥太朗は自室を出た。右手の指を左手で握ったりさすったりしながら階段を下りる。
ダイニングでは、佳菜子が一足先にコーヒーを堪能しながら仕事をしていた。食卓の上で執筆するのが佳菜子のスタイルである。「これなら仕事の気分転換に料理が出来るでしょ」と得意気に話してくれたが、ノートパソコンを開いたまま料理をし、キーボードを小麦粉まみれにしたり、牛乳をこぼしたりしておじゃんにしてしまったことは一度や二度ではない。
内容は、先日話していた、全エピソードをまとめるってやつか?
祥太朗は、小気味よいタイピングの音が止まるまでソファに腰開けスマートフォンをいじりながら待つことにした。
カタカタ、という音が止まり、佳菜子の大きな欠伸が聞こえて来た。
「母さん、ちょっといい?」
「なーに? 夕飯ならまだだけど」
佳菜子は、首だけを祥太朗の方に向けて言う。
まぁ、用があるのはこっちだし、自分から出向くのが筋だよな、そう思ってダイニングへ向かう。右手を差し出して「ちょっと、俺の指先、握ってみてほしいんだけど」と言った。
「何よ、ドッキリなら嫌よ」
そう言いつつも、祥太朗は自分と違ってそんなつまらないドッキリも仕掛けないかと思い直し、素直に指先を握った。
「アンタ……この指……。いつから?」
「いつからかはわかんないけど、気付いたのはさっき。なぁ、父さんの手もこんな感じ?」
佳菜子は何度も何度も優しく祥太朗の指先を握った。
「そう、このしゅわってする感じ。父さんにそっくり。懐かしいわ」
「絵本、続き一冊だけ読んでみたんだけどさ。あれもノンフィクションなんだよな。父さんの姿って……」
ヒノキだったりタンポポだったりって……。
「最初に見た時はでっかい木だったの。でもあたし、しばらく失明してたし、何の木なのかまではわからなかったのよね。そしたら『これはヒノキの木だよ』って」
「最初は木だった、って……。どういう感じなわけ? 完全に木? それとも木っぽい人間みたいな感じ?」
「いや、木よ。完全に木。でも、それじゃ自分だって気付いてもらえないと思ったんじゃないかなぁ? すぐにぼわーっと人型になってくれたわよ。第一、人の形にならないと目を作れないじゃんない」
「その辺は知らないけど、俺。でも、確かにそうだな。でもさ、母さんは自分の結婚相手が見知らぬ魔法使いでよかったわけ? すげー悪いやつかもしれなかったじゃん。まぁ、結果オーライだったけど」
絵本だから、細かいところは省略されてるんだろうけど、それでもなんでこの二人がいきなり夫婦になったのか疑問だった。だって父さんからしたら盲目の少女だし、母さんからしたら得体のしれない魔法使いだ。昔の人はお見合い結婚が一般的で、結婚式で初めて相手に会うってパターンも少なくなかったって聞いたことはあるけど、それでもなんらかの情報は与えられているもんだろう。
「うーん、なんかね。ビビッと来ちゃったっていうか。声がよかったのよねー。あとは、母さん、あの時、死のうかと思ってたところだったから」
「はぁ? なんかいきなり重たい話なんだけど!」
「だってねぇ、目は見えないし、両親も兄弟もいない、友達もできなくて、遠縁のオジサンの家に預けられたはいいけど、厄介者扱いでしょ。このままずーっとおんなじ日々を送り続けるんだろうなって考えたら、もうどうでもよくなっちゃってね。だったらなんとか歩いて海まで行けないかと思ったの。そしたら父さんに声をかけられたのよ」
海か。そういえば母さんは海のそばで育ったって絵本に描いてあったな。
「父さんはね、母さんの目を作ってくれた後、すぐに海へ連れてってくれたの。とってもいい声で、本物の海と偽物の海、それから借りてきた海のどれがいい? って聞くのよね。そしたらやっぱり本物の海がいいじゃなーい?」
そりゃあ、その三択なら本物がいいに決まってるけど……。偽物と借り物の海って、何だ?
「母さん、偽物と借り物の海って、何なの?」
「ああ、それはね、川とか湖とか、なんならコップの水とかでも、基本の材料があれば偽物の海を作れるのよ。借り物ってのは、そのままよ。本物の海からちょっと海水を借りてきて即席の海を作るのね。もちろん、借りた後は海に返すのよ」
それが魔法の力なんだろう。材料を使って何かを作る、みたいな……。それから、そのものの量を増やすことも出来るのか……。だから母さんの目を作るために人型になって自分の目を使ったのか。
絵本の中にもあったな、吐いた息が竜巻になったり、ろうそくの火が大きな竜の形になったり、コップの水が溢れたり……。近くにその材料がないと駄目なのか。
腕を組んでなにやらぶつぶつ言い始めた祥太朗を、佳菜子は不思議そうに眺めている。
「祥ちゃん、どうしたの?」
「なんとなく魔法のことがわかってきたよ。ただ、問題はさ、どうやったら使えるのかってところなんだよなぁ」
「あらー、なんとなくでももうわかったの? さっすが父さんの子ねー」
「なんか他にヒントないのかよぉ~。なんか呪文とか、魔法の杖とかそういうのなかった?」
そう言うと、ぬるくなったコーヒーを一気に飲んだ。
「ヒントねぇ……。でも確か父さんは道具を使ったりはしてなかったわね。それに呪文? そういうのもなかったわね。さっと触ったり、かきまぜたり、指をはじいたり、なんかそんな感じ。で、『はい、もういいよ』って。ほんっと、いい声だったわぁ」
佳菜子は遠くを見つめながらうっとりとしている。
もしかして、その視線の先に父親がいるのかと思ったが、普通の人間である佳菜子に父親の姿を見つけることは出来ないのだ。夫婦の絆というものが確かにあるとしても、この部分においては効力が無いのだろうか。佳菜子はきっと、記憶の中の父を思い出しているのだろう。
「触れて念じてみたらいいんじゃない? 例えば、ほら、母さんのコーヒー、もうそろそろ無くなっちゃうのよ。もう少し飲みたいから増やしてよ。なーんて」
「記念すべき魔法の第一発目が母さんのコーヒーかよ!」
「あら、父さんは人の役に立つためにしか魔法を使わなかったのよ。母さんの役に立ってよ。コーヒーもう一杯飲まないと仕事が出ー来ーなーいーのーっ!」
途中からはもう駄々っ子のようだった。父は、この成長の止まった少女のような女をどう思っていたのだろう。
そういえば、父は一体いくつなんだろう。それに、名前……。小学生の時に病死(これは自分の勘違いだったわけだが)と言われ、なんとなくそれ以上父のことを聞けなくなってしまったのだ。それはたぶん、父のことを聞こうとすると、いつも明るい母が悲しそうな顔をしてしまうからだと思う。
母さんにこんな顔をさせたら駄目だ。僕が母さんをずっと笑わせてなくちゃ。
そんな殊勝な気持ちがあったのだ、当時は。それに俺、一人っ子だしな。
で、まぁ結局は生きていたわけだけど。でも、生きてるとはいえ、目の前にはいないのだ。
もちろん、会話も出来ない。嬉しかったことを話したり、辛いことがあっても相談することだって出来ない。母には父と俺以外に家族はいないのに。同じ景色を見ている、ただそれだけで、この寂しさを埋められるのだろうか。