父と母と
キーサちゃんが小学校へ入学する前の年のお話。
キセト35歳、亜里沙33歳、龍道17歳、キーサ5歳のころのお話。
ある日、常に優等生であった龍道が上級生に暴力を働いた、と連絡があった。不幸中の幸いにもその電話を取ったのは父親で、母親に知られる前に父親が問題解決にあたってくれた、のだが。
「なぁ、龍道。行為の理由よりも、正しかったか誤っていたか、そこをどう思っているかを聞かせてくれないか」
謝れと、請求された父は決して頭を下げようとしない龍道の代わりに頭を下げてくれた。そのことを責めるでもなく、理由を話そうともしない龍道を問い詰めるでもなく、ただ静かに問うてくる。
「正しかったと思ってるから、頭は下げなかった」
上級学校へ行けば行くほど父の背中が遠く感じた。父はいつも完璧で完全で誰よりも全てをうまく動かせる。そんな父に頭を下げさせたことが悔しかった。自分は間違っていないと思っているからこそ、なおさら悔しかった。
帝国立ラガジ高等学校エリート育成コース上級クラスの首席が起こした問題は一日も立たず学校はおろか、町中に広まり、父と一緒に家に帰った時には母にも知られていた。ただ、龍道が思っていたように怒りはせず、おかえり、と静かに出迎えてくれた。逃げるように自室へ逃げ込んだ龍道はずるずるとその場に崩れ落ちる。
許せなかったかどうかと問われると許せただろう。だが許してはいけないと思った。
まだ後ろから友の静止の声が聞こえる気がする。やめなよ、では無かった。やめておきなよ、だった。その気持ちはわかるけれど、と父を養父として慕う友は言っていた。
相手の言葉の意味は覚えていても、もうその言葉自体は覚えていない。父を貶されたことと、母を貶されたことは明確だ。そして、その言葉が聞くに堪えない汚い言葉だったことも。
相手も反撃していた気がする。腕が痛い。だが、そんなことを周りに思わせないほど、龍道は一方的に追い詰めた。目立つ存在だとは自覚しているため、いつもは抑えているところもある。あの時は頭に血が上っていたのだ。
次の日、普段の優等生としての態度が評価され、登校が許可された龍道はなぜか父と共に登下校の道を歩いていた。
常に視線を集める龍道だが、父と居るときは父が視線を独り占めしている。いい意味も悪い意味も全て父に向けられている。
「普段はとても優秀ですからねー……。相手のご両親も問題にはなさらないと仰っていますし、普段通りに過ごしていただけたらよろしいです」
教師と父が話す声が聞こえた。正しくは父に語りかける教師の声だけだ。父の声は、不思議に聞こえてこなかった。
「父さんは帰るからな。英霊によろしく」
そういって、いつもは頭を撫でる手が龍道の肩を叩く。背を向けて帰っていく父を見送りながら、龍道は初めて自分が親の子ではなく、一人の存在として認められた気がした。大人だな、と言ってもらえたかのような、そのような感覚になった。
父はどこに行っても知られているが、どこに行ってもいい噂はあまりない。今年で十七歳になる龍道の親でありながら、その外見は精々二十五、六歳だ。好奇の目で見られるような実年齢との差ではなくなってきた頃から、気味が悪いといわれるようになった。そして龍道の外見は周りと同じように成長していくものだから、兄弟のようだと言われるようにもなった。
なにより、あの完璧さが人々を遠ざけている。龍道のように、わかりやすい「学校の中で一番」なのではない。どこへ行っても何をさせても完璧にそつなくこなす。誰よりも優秀な成績を残す。誰よりも、そう、何十年も専門職に就いている人も、その道で第一人者と呼ばれあがめられているような人も。誰よりも。
だからその道を極めた人に父はよく嫌われる。何かを教えたわけでもないのに、何十年かけて見つけ出した以上のものを見つけて、見せつけて、そしてすぐに去っていく。完全にしてから、完全にしてしまって終わらせてから、去っていく。
龍道はその父の子なのだ。努力の上で上り詰めた首席の座。もともとその座に座っていた上級性も愚痴をこぼしたくなるだろう。「あいつは化物の子だから」そうだ。たしかに、そう言っていた。
「化物……、なんかじゃない」
父さんは、そう父さんは。
母さんの前では舞い上がってしまって「ありがとう」も噛んでしまうような人だ。一子の父でありながら母と手をつなぐことすらできない人だ。友人にからかわれると意地を張ってしまうような人だ。龍道が質問すると、最善の答えを出してかっこつけたいと思うような人だ。誰よりも正しくあることで、得意な立場に立たせてしまった母や龍道を守ろうと努力する人だ。
化物などではない。
龍道も、化物の子なのではない。
「龍」
はいるぞ、と父の声。
急いで立ち上がり、扉を開けた。父は不器用に微笑みながらも、相談があるんだ、と漏らす。
「父さんが、俺に?」
「そうだ。俺のこの外見に関連したことなのだがな。これから父さんは外出を減らそうと思う。だから買い物とか、そういう面で母さんを助けてやってほしいんだ」
「気にすることないだろ。どこでも行けばいい」
「そうだな、龍道はそう思ってくれるだろう。亜里沙だってそうだろう。だが、そうではない人が俺の行く先に居たら? 不愉快な思いをさせてまで俺が行く用事もないだろう? だから、どうしてもという用事でない限り外出はしない。目立つだろう」
そんな、と言いかけてこういう人だ、と言葉を飲み込む。この人は周りを気遣う人なのだ。そう、自分を化物と呼ぶような、そんな周りを気遣う人なのだ。
「………」
「もちろん用事があれば外出もする。ただ、家事を中心に暮らすことになる。ほら、もともと母さんより父さんのほうが家事は得意だから問題はないだろう。母さんも仕事があるからただ、役割が入れ替わるだけだ」
そういって、三十五歳になる父は微笑んでいる。
本当なら働き盛りではないか。これからではないのか。
「その代り、お願いしたいことがあるんだ。来年からキーサも小学校に入る。授業参観といった親が参加する行事があるだろう。龍道が行ってやってくれないか?」
「えっ、でも、キーサだって父さんや母さんのほうが喜ぶ」
もちろん、かわいい妹は龍道のことも嫌ってはいないだろうが、それでも、その思いは両親に対する思いと比べられるものではない。
「頼むよ、お兄ちゃん」
昔、龍道が小学生だった頃のこと。龍道の友人の英霊は特別学級に通っていた。その時は毎日のように父が送り迎えに行ったという。それが小学生の龍道には羨ましかった。龍道の授業参観に父が現れることはめったになかった。いつも母が微笑んでいてくれたが、やはり、それだけだったことが多い。
「………」
「嫌なら嫌でいいんだ、龍。相談しに来ただけなんだから」
そういって父は振り返って出て行ってしまう。扉を閉めてまた一人になってから、父は今回の龍道の行動の理由を知っているのではないかと思った。龍道の行動が、父にあのようなことを考えさせたのではないか、と。
「それなら、やだな」
正しいと信じている。間違っていないと確認している。
でも正しいと信じる龍道の行動のせいで、父がいらぬ気遣いをしているのなら。それは、嫌だ。
「なんで間違っちゃうんだろう。正しいはずなのにな」
まるで父のようだ。正しいことは正しいことを連れてくるとは限らない。正しいことに間違ったことがセットでついてくることだってある。龍道が正しくあれば、正しい誰かが間違っている誰かにひれ伏さなければならないなんて、そんなこと、正しくない。
父はいつも正しいけれど、だからこそ間違っているといわれている。龍道もそうなろうとしているのかもしれなかった。父の背を追っているのかもしれなかった。
「龍君」
「わっ!? ノックもなしに入らないでよ!」
「ごめんごめん。ねぇ、龍君。実はキーサが散歩したそうなんだけど、お母さん仕事なのね? それにお父さんはお父さんで、あまり気がすすまなそうなの。キーサと一緒に散歩に行ってきてくれない?」
「……わかったよ。どうせ公園に行きたいんだろ」
「ありがとー。あとね、龍君」
「なんだよ、もー」
「ごめんね、こんな家の子供に生んでしまって」
「えっ」
「私たちは龍君がいてくれて嬉しいけど、生まれてきたのが龍君で嬉しいけれど。でも嬉しいのは私たちだけじゃない。龍君に嬉しさを押し付けてはいけないと思っただけ。だから、ごめんなさい。普通の家とやらを、望んでいたのではないかしら?」
「違うっ! そんなんじゃない! 本当に、違うんだ。父さんと母さんが大好きだよ」
「そう、そうなの。ありがとう」
それじゃ、キーサをよろしくね、と母。辛そうに下を向いていた。
「どうして、父さんと母さんが謝るんだよ……」
それがこの家に生まれたせいだというのなら、それなら、少しはこの家を恨みそうだ。父のせいでもなく、母のせいでもなく、家のせいにして。