リ・スタート
再スタート
一.プロローグ
『また一人 ちぎれる集団 綿毛かな』
十二月初旬の日曜の午後、福岡で行われている男子フルマラソンのテレビ中継を私は一人で見ていたのだが、中間点を過ぎて余裕の無くなってきた選手が徐々に遅れ始め、二十人程いた集団が少しずつばらけてきた状況を見て、浮かんだ一句である。
アルコールの影響によりボーッとした頭の中で考えていたため、大した句ではない。いや、アルコールが入っていない状態で、頑張ったとしてもこれ以上の句は考えつかないのではあるが・・・。
何故なら、私はもともと言葉で自分の気持ちを表現すること、相手に伝えることが下手であり、会社の上司からも何度となく叱責されたクチだった。
私は数年程前まで、趣味でマラソンを走っていた。市民ランナーとしてはそれなりの成績を残していたのだが、怪我をして思い通りに走れなくなってからは、全く走らなくなってしまった。怪我だけが理由では無かったのだが・・・
ただ、心の奥底にはまだ走りたいという気持ちが残っていたのか、男女を問わずマラソンや駅伝のテレビ中継を見るのは好きだった。スポーツ然り、音楽然り、長年続けてきた事というのは体が自然と覚えていて、そうそう忘れられるものでは無いのだろう。
ただ、実際生のレースが行われているコースにわざわざ出かけ、応援や観戦することまでは気が進まなかった。元気に走る事が出来る人たちが恨めしく、その姿を見るのがとても辛かったから。
マラソンの行われている福岡は、時折小雪が舞っていた。先頭を引っ張るペースメーカーのケニア選手三名は長袖シャツにロングタイツ、ニット帽、手袋を着用して防寒対策抜群だった。一方、その後ろに付く日本選手の集団は、ランシャツ、ランパンの軽装だった。一部選手はアームウォーマーを付けてはいるものの、各選手の吐く息は白い。どんよりした曇りベースの天候も手伝って、福岡の冷気がテレビ画面を通してこちら側にも流れ込んでくる気がした。
私の住まいは東京の西の外れ、都心から電車で一時間程の郊外にあった。この日は朝から北風が強く吹き、かなり寒かったが、福岡とは違って冬晴れであった。午前中、私は一週間の間に散らかってしまった部屋の片付けや掃除と、三日分溜まった家族の洗濯に一人奮闘していた。二時間ほど体を動かし、軽く汗をかいたこともあって、正午から始まったマラソンのテレビ中継に合わせ、私はビールを飲み始めた。
昼に飲むアルコールは、いつも以上に私を酔わすのが早い。ロング缶も二本目が終わり、体の冷えも手伝って、『そろそろ焼酎のお湯割りに代えようか。』と思い、立ち上がった。しかしアルコールの影響で平衡感覚が狂っていた私は、足がよろけ、ガラステーブルの角で左脛をぶつけてしまった。
『また一人 離れて独り 綿毛かな』
脛の痛みに堪えながら頭に浮かんだ一句、に『さっきの句よりこっちの方がロンリーな自分にはお似合いだな。』と思いながら台所に歩きかけた。その時、リチャード・クレイダーマンの“渚のアデリーヌ”のメロディーが聞こえてきた。
「チャララララララ チャララララララ・・・・」
不意をつかれ、酔いが回っている私の頭では一瞬何が起こったか判断がつかなかったが、少し間を置いて、亡き妻の携帯電話の呼び出し音が鳴っているのだと分かった。
二.妻との別れ
八月最後の日曜日、妻は突然この世と決別しなければならなかった。まだ三十八歳の若さだった。
その日の午後、妻は私をジョギングに誘った。妻からジョギングに誘われたのは何年ぶりだっただろうか、本当に久々だった。残暑が厳しく、朝から気温がうなぎ登りに上がり、昼過ぎには三五℃近くになっていた。ジョギングに出かける時点で、既に雲行きは怪しかったが、
「雨が降り出すまでには戻って来よう。」
と私たちは話し合い、家を出た。しかし積乱雲の発達速度が私たちの予想を上回り、家まであと五分というところで土砂降りの雨となった。ギラギラと輝く太陽に、アスファルト道路は熱く熱せられていた。が、雨に降られた道路からは、鼻に長く残る不快な臭いが漂っていた。そして悲劇は起きた。
突然の大雨に慌てた若葉マークの運転手は、パニックになった。そしてハンドル操作を誤り、雨に濡れた路面でコントロールを失った自動車が、私たちに突っ込んできた。車道と歩道を分ける植え込みをなぎ倒した車は、私たちを人形のように軽々と跳ね上げた。歩道に叩きつけられた私と妻は、事故直後に呼ばれた救急車に乗せられ、救急病院に向かった。事故の瞬間、私は柔道の受け身の体勢を取ったため、奇跡的に軽傷ですんだが、頭を打ち付けた妻の状態は最悪だった。手の施しようが全く無かった。
私自らが妻の最後の言葉を聞けた事、最期を見届けることが出来た事は、せめてもの救いだった。
初七日、四十九日の法要と経っても、私はこれからどうすれば良いのか、全く分からない精神状態であった。しかし、納骨を済ませ最後のお別れを行った後は、やっと妻を永遠に失ってしまった現実を受け入れられるようになっていた。
妻は永遠に失ってしまったが、私には小学六年生の双子の息子がいる。二人は来年早々に迫った中学受験に向け、模擬テストに参加するため、今朝は早い時間から塾へ出かけて行った。夕方まで戻ってこない予定であり、今、私が一人で家に居ることは別に特別なことではない。しかし妻の死を境に、子供達の心は私から離れてしまった。
「パパが一緒にいながら、どうして母さんを守ってあげられなかったの?」
二人は泣きながら私を責め続けた。
その日を境に、子供達が家に居たとしても私は独りであった。家族の中で孤独だった。
三.身に覚えのない電話
亡き妻が携帯電話の呼び出し音にしていた” 渚のアデリーヌ”という曲は、妻のお気に入りの曲だった。小さい頃に買って貰ったというピアノを花嫁道具の一つとして持ってきていた妻は、暇さえあれば弾いていた。何度となくメロディーを聴いているうちに、私もだんだん好きな曲の一つとなっていた。
最近、持ち主がいなくなった携帯電話には、電話が掛かってくることが無くなっていた。そのため、今年一杯で解約したい旨、携帯電話会社に話しをつけて来たばかりだった。
その時、残った携帯端末について、『市場価値の高いレアメタルを含むため、引き取らせて欲しい。』と電話会社にはお願いされたのだが、私の希望は妻の残した形見の一つとして手元に残しておくことだった。私から妻へのせめてもの償いだった。
携帯電話の呼び出し音とはいえ、本当に懐かしいメロディーだった。しばらくそのまま聴いていたかったが、気を取り直し妻の遺影のそばに私は向かった。携帯端末は、他の形見と一緒に遺影のそばに並べられていた。呼び出し音のリズムに合わせて、LEDが赤、青、黄、緑色の光りを放っていた。我が家にもクリスマスイルミネーションがやってきたようだった。
十二月に入り、街中クリスマス一色であった。しかし、妻の急死した今年の我が家は、それどころではなかった。昨年までであればきれいに飾り付けていた庭のもみの木の電飾も、今年は影も形もなかった。
私は充電器から携帯端末を外し、フラップを開けた。
液晶画面には、”03××××××××”という見慣れない電話番号が表示されていた。
非通知設定ではないことから、怪しげな電話ではないだろうとボーッとした頭で考えながら、通話ボタンを押した。
「ウエニシ・アキヒコさんの携帯電話で間違いないでしょうか。東京マラソン事務局のものですが・・・」
電話口から、早口でしゃべる男性の言葉が聞こえてきた。
私は一瞬、『なぜ亡き妻の電話番号なのに、私が出ることを知っているんだろう。』と思ったが、
「はい、そうですが、何でしょうか・・・」
とゆっくり答えた。
私が答えるや否や、相変わらずの早口で、
「二月下旬に行われる東京マラソンの出場者に、キャンセルが発生しました。が繰り上げで参加可能ですが、どうされますか?」
と唐突な質問が帰ってきた。
『東京マラソンなんて申し込んだ記憶がないのに、何言ってんだ、この人は・・・』
僅かではあるが休日の大切な時間を邪魔され、ぶつけた左脛が痛むことも手伝って、私は不機嫌になっていた。相手の質問に応えずに、黙って電話を切ろうとした時だった。妻が死ぬ間際、最後に残した言葉が私の頭をふっとよぎった。
少し間があったと思うが、私はゆっくりと答えた。
「参加します。」
電話口の男性は、何か一言二言述べて電話を切ったが、私には全く耳に入らなかった。
鼻の奥がジーンと痛くなり、目からは涙があふれてきた。顔を上げ、妻の遺影を眺めたが、涙でかすんでいた。
四.妻との出会い
私が初めて妻と会話を交わしたのは、十五年ほど前の五月だった。
しかし、実際にはそれよりちょうど一年前に同じ場所で会っていたのではあるが、その時は顔を合わせただけだった。正確に言うと、私から一方的に妻に話しかけただけであった。
その当時の私はというと、走ることに情熱を燃やし、山梨県の山中湖で行われているマラソン大会に参加していた。その大会は山中湖一周一四キロを走る部門と、湖を一周より少し多めに走るハーフマラソンの部に分かれていた。私はハーフマラソンの部、結婚する前の妻は山中湖一周の部に参加していた。ハーフマラソンの部は、一周の部に比べて三〇分も遅れてスタートし、距離も長いため、よほどのことがない限り一周の部のランナーに追いつくことはない。
私は、ジョギングをしていた母親の影響で、小さい頃から長い距離を走るのが好きだった。たしだ、レベル的には県大会の決勝に残れる程度で、全国を目指す力は持っていなかった。そのため両親は、高校卒業後は就職に有利な地元山口の大学進学を熱望していた。しかし私は、正月のテレビ中継の映像から箱根駅伝の虜になってしまっていた。そしてどこからか伝え聞いた『長距離ランナーは努力次第で強くなれる。』という言葉を信じ、親の反対を押し切って、箱根駅伝常連の私立T大学に無謀にも一般入試で入学したのだった。箱根駅伝出場を目指すためだけに。
しかし現実は甘くはなかった。箱根駅伝出場を目指し、日本各地から集結した韋駄天の走力は、私がいくら努力しても追いつけ追い越せるレベルでは無かった。私の努力が足りなかったと言われれば反駁出来ないが、やはり持って生まれた天性の素質には叶わない部分、超えられない壁は確かに存在したと今でも感じている。
結局私は、野球で言えば二軍、いや実際にはそれより更に低いレベルで選手生活を送り、結局箱根駅伝のメンバーに全く絡むことなく、卒業することとなった。
箱根出場という夢は、泡になる前の石けん水の状態で潰えたが、就職に際しては運が良かった。中途半端な学歴と競技実績しかない私であったが、バブルがはじける前であったため、幾つかの会社から内定を貰うことができた。
現在であれば会社が学生を選ぶ時代だが、その当時は学生が会社を選択できる時代であった。就職に苦しんでいる現在の学生には悪いが、そういう時代もあったということだ。だから、会社には色々な人がいる。仕事は出来ても人当たりが悪く近寄りがたい人、仕事の出来は悪いが他人への気配りができて周りに多くの人が集まる人など。
私も本当はバランスの良い人間になりたいのだが、一つの事に没頭してしまうとそこにばかり注意がいって、周りが見えなくなることがある。大学を選択する時もそうだったし、会社の選択もそれに近かった。
私は内定を頂いた会社の中から、東京の郊外、八王子に本社のあるK光学工業を就職先に選んだ。主としてカメラを製造している会社である。決して大きな会社では無かったが、運動系を含むサークル活動が盛んだったことと、何より高尾山、多摩川といった走るには事欠かない自然が近くにあったことが、私が今の会社を選んだ最終的な決め手であった。
会社での私は、当然ランニング愛好会に所属し、それなりに仲間とはうち解け楽しむことができた。しかし、箱根駅伝を目指していた頃の野心的な情熱、強者を倒したいという野望が満たされることはなかった。そして私は、徐々にサークル活動から遠ざかっていき、独りで走る機会が増えていった。
独りで走る時間が増えると、走っている間、自分なりに色々と考えるようになった。
私は箱根駅伝とは無縁だったとはいえ、それなりに陸上競技の長距離ランナーを志した一人として、市民マラソンレベルでは上位を狙えるポジションにはいた。それならば市民ランナーの頂点を極めてやろう。私の情熱は、徐々に市民ランナーのトップを目指す方向へと向かっていった。
会社のサークル活動は盛んであったが、仕事ではなく走ることに重きを置く私に、理解を示してくれない者も中にはいた。会社としては極普通の考えではあるが・・・
ある上司からは、
「君をランナーとして採用したわけではない。走ってばかりで、仕事を蔑ろにするな。」
と個室に呼ばれて説教されたこともあった。
そんな時は、『私がマラソンで頑張れば、会社のいい宣伝になるのに。よっぽどふんぞり返って威張っている部長や課長よりも、会社のためになっているよ』と心の中で叫んでいた。
社会人として一人前になるまでは、会社にとっては給料や年金、福利厚生などで支払う持ち出しが大きい事を、私は頭の中では理解していた。しかし、会社に迷惑をかけない程度の仕事しかこなしていないことについて、会社に悪いとは思いながらも、若い今しか出来ないチャレンジへの情熱を私は抑えられなかった。
市民ランナートップを目指す大会の一つが、山中湖で行われるマラソン大会だった。私と同レベルのランナーが数人出場してはいたが、全く歯が立たない相手ではないと考えていた。入社三年目となっていた私は二五才、体力の衰えはまだ無かった。学生時代に比べてトータルの練習量は減ったが、仕事の合間に行うトレーニングは時間的な制約が大きいため、集中出来ていたのが良かったのだろうか、大学時代の記録を上回るレベルで走力を維持できていた。
一〇キロを三〇分台半ばで走る走力を武器に、自信を持って臨んだその年のハーフマラソンだったが、長い距離への適応が出来ていなかったということだろう、残り三キロで脚がとまり、結局二位に終わってしまった。
この時、同じ時刻にゴールラインをまたいだのが結婚する前の妻だった。ゴール直前、私の眼に映った彼女は、ふらふら蛇行しながら走っていた。明らかに脱水症状だった。
その時、トップでゴールできなかった不満から八つ当たりしたい気分だった私は、『三〇分も早くスタートして、距離も短いのに何やってんだい!』という、勘違いも甚だしい感情が沸きあがってきた。
そしてゴール直後、その場に倒れ込んだ彼女に、
「危ないな。気をつけな。」
とぶっきらぼうに声をかけたが、彼女はそれには何も答えず、意志の強そうな目を私に向けた。いや軽蔑の眼差しと言った方が正しかったと思う。彼女の力強い目に圧倒された私はそれ以上何も言えず、その場を立ち去ったのだが、月日と共に彼女のことは忘れていった。
それから一年後、山中湖の同じ大会に私は参加した。その年は前回の反省からハーフマラソンを回避し、自分のスピードを活かせる距離の短い湖一周の部に出場したのだが、スタートダッシュが功を奏して見事に優勝。私にとって、大きなマラソン大会での初優勝だった。
その後行われた表彰式で、私は運命的な出会いをする。メダルの贈呈を行う大会の重鎮のそばに彼女は立っていたのだ。彼女の視線から感じた、一年前のあの何とも言えない気持ちが私によみがえってきた。
しかし、彼女の目には力強さはあるものの、今回は軽蔑の眼差しではなかった。ひな壇に立つ私たち入賞者を祝福してくれていた。
私が表彰される番になり、彼女と目があった。少し微笑んでくれたが、直ぐに二位のランナーの所に移動してしまった。
『やっぱりしょうがないよね、嫌われたって。一一年前にひどい事言ってしまったのだから。』
頭の中でそんなことを考えながら、表彰式が終わるのを待っていた。
式が終わり、舞台から下りて、帰り支度をしようと歩きかけた時、
「優勝、おめでとう。」
というキーの高い声が背後から聞こえた。振り返ると彼女がそこに立っていた。
私はビックリしたが、ついさっきまで彼女のことを考えていたこともあり、
「去年はひどいこと言ってごめん。」
と反射的に詫びの言葉が口から出てきた。しかしどうして私に声をかけてくれたのか見当がつかなかったこともあり、その後に続ける言葉が直ぐに見つからなかった。
一瞬の間を置いて彼女が切り出した。
「別に気にしていないよ。私のこと思い出してくれてありがとう。どちらかというと、私に新しい目標を立てさせてくれたと感謝していたのよ。」
最初は彼女が何を言っているか、なぜどうしようもない言葉を発した一年前の私に感謝しているのか分からなかったが、色々と話しているうちに、状況が飲み込めてきた。
当時の彼女は、東京都心に事務所を構えるY食品に努めて二年目のOLだった。つまり一年前の大会で出会った時には、まだ入社ほやほやだったわけだ。
聞くところによると、Y食品は山中湖のマラソン大会のメインスポンサーをしていることもあり、新入社員はこの大会に出場することが義務づけられたようだったが、ただ走れば済むというものではなかったらしい。各地で行われるマラソン大会ではスポーツ関連商品を扱う多くのブースがお祭りの屋台のように並ぶが、山中湖の大会会場内ではY食品も自社で製造販売している栄養補助食品などを店頭販売していたことから、新人教育の一環として販売の手伝いもするとのことだった。
走った後の仕事はかなり体に応えると思われるが、当時のY食品の社長が体育会系出身者であり、社会人としてしっかりやっていくには知力だけでなく体力も必要との理念から、この試練が始まったらしい。
体育会系出身の私にはすばらしい社長、すばらしい理念、すばらしい会社と思えたが、学生時代に彼女はもっぱら文化系サークルに所属していたようで、会社を辞めようか本気で悩んだそうだ。しかし彼女の負けず嫌いの性格が弱気の性格に勝り、一か八か大会に出場したということだった。結果は散々、そして私にひどいことも言われてしまった彼女だが、その屈辱が逆にエネルギーとなり、次の大会ではリベンジしたいという強い気持ちに変わったのだという。
どんな努力をしたかまでは”企業秘密”とのことで笑顔を見せながらも教えてくれなかったが、相当頑張ったのだと思った。そして一年間の努力が実を結び、今回の大会でも湖一周コースを走った彼女は去年より大幅にタイムを短縮し、会社の業務として行ったその後の表彰式も余裕を持って役をこなせたのだった。走った後は立っていることもままならず、販売の手伝いをするどころではなかった去年とは大違いの成長であった。
少し会話を交わした後、Y食品のブースに戻らないといけないということで彼女は帰っていったのだが、別れ際、
「運命的な再開を大切にしたい。」
という今まで一度も使ったことがないようなキザなセリフが私の口から出てきた。
『一緒にトレーニングすると苦しさ半分、効果倍増。』などという、体育会系の野暮なセリフは以前使ったことはあったのだが。
そしてお互いの携帯電話の番号を交換し、東京での再開を誓い合った。
五.愛情の芽生え
その後、お互いの仕事の業態が異なることから時間が合わず、なかなか再開は果たせなかったが、梅雨の明けた七月末に、やっと”合同練習”という名目のデートにこぎつけることができた。
当時の私は、勤める会社から走って五分ほどのところにある独身寮に住んでいた。歩いて二〇分といった方が分かり易いのだろうが、もっぱら走って通勤していた私にとっては、この表現の方が距離感を掴みやすい。
一方の彼女は、代々木八幡でアパート暮らしをしながら、三軒茶屋の会社へ電車で通っていた。
私の会社は水曜日が残業無しデーだったため、その日を彼女との合同練習と決めていた。夕方五時の終業のチャイムとともに会社を飛び出し、最寄りの中央線豊田駅から電車に乗って、新宿駅で山手線に乗り換え原宿駅へ。そこで下車して、代々木公園内にある四〇〇mの全天候型陸上競技場へ向かっていた。七時過ぎには仕事を終えた彼女も合流し、ジョギングしたり、スピード練習をしたり、競技場の門が閉まるギリギリまで一緒に練習に励んだ。夜間ということもあり照明下での練習となるが、美しいカクテル光線の下では普段走るよりもスピード感を味わうことができ、『自分が早くなったのではないか?』と錯覚を覚える。また、グランドを照らす強い光が彼女を包み込み、彼女を一層美しく思わせた。
『降り注ぐ カクテルライトに 包まれる
空から天使が 降りてきた』
私の愛情は徐々に深まっていった。
練習後は近くの居酒屋で渇いた喉を潤しながら、お互いの健闘を讃えるとともに、今後の練習プランなどを話し合ったものだった。次の日が仕事のため、八王子に帰らなければならない私は終電の時間に気をつけながらの抑えた飲みであったが、家が近いという安心感があったのだろう、彼女は平日にも関わらずかなりテンション高めで楽しんでいた。
彼女の場合、土曜日出勤が一般的であった。しかし夕方は早めに仕事を切り上げられることが多く、一緒に合同練習を行うことも時々あった。
水曜日と同じく、夕方六時前から代々木公園内の競技場で一緒に練習し、その後は彼女のアパートまで一緒にジョギングして帰るというパターンが多かった。
彼女を家まで送り届けること四、五回目、もうすぐ九月が終わろうとしているのに残暑厳しく、蒸し暑い土曜日だった。その日はあいにく競技場に付設されたシャワールームが点検で使用できなかった。しょうがないのでスポーツタオルで汗を拭って着替えをしたが、絶えずじわじわと汗が出てきて体にまとわりつく嫌な感じがしていた。
私の気持ちはじめじめしていたし、端から見ても気持ちの良いものではなかったと思うが、いつものように会話しながらゆっくり走って彼女のアパートに向かった。そして、いつものようにアパートのエントランスの中に消える彼女を見届けたら、私はそのまま自分の住み処に戻るつもりだった。
しかし私のじめじめした気持ちを彼女は察してくれたのだろうか。
アパートの前に到着し、
「また来週・・・」
と私が言いかけた時だった。
「汗かいたでしょう。良かったらシャワー使っていいよ。」
小さな声でぼそっと彼女は呟いた。周囲には誰もいなかったが、恥ずかしかったのか、いつものキーの高い声ではなかった。
彼女の言葉に私はとても驚いたが、同時にとてもうれしくなり、好意に甘えて初めて彼女の部屋に入れてもらうことにした。さっきまでのじめじめしていた気持ちは、遙か彼方に消え去っていった。
アパートのエントランスは人造大理石張りの床に観葉植物の鉢植えが多数並べられていた。清潔感があり、大都会東京のセンスも感じられた。冷房がほどよく効き、蒸し暑い屋外から来た私にとっては快適極まりない天国、極楽だった。
エントランスを抜け、エレベーターに乗り、5階の彼女の部屋に初めて入った時のことは今でも鮮明に覚えている。料理関係の本が以上に多かった。年頃の女性の部屋にはそれがありふれた光景なのかもしれないが。
彼女は大学で栄養学を学び、その関係でY食品に就職したが、健康に人一倍興味があり、自分で栄養バランスを考えた料理を作るのが趣味だった。
料理の手際も良く、私がシャワーを浴びている間に、ササッとレンコンチップ、金平ゴボウなど2、3品のおかずを作ってくれた。
味も良かったので褒めると、あの自信に満ちた目をこちらに向け、私に寄り添ってきた。その後どうなったか想像にお任せするが、お互い結婚を意識し始めた瞬間であったことは間違いなかった。
土曜日に彼女の家にお泊まりした場合、翌日曜の朝は、代々木八幡からほど近い駒沢公園に向かうことが多かった。朝のすがすがしい空気の中、一周二キロほどのコースを四、五周、一時間ほどかけてゆったりと二人で走った。公園内には多くの木が植えられ、野鳥が豊富なことから、そのさえずりで心が洗われる感じがした。しかし、たわいのない事でも彼女と交わす会話の方が、何十倍も何百倍も私の心、気持ちを純真なものに変えていった。
この公園は近所の人たちにとって大切な憩いの場になっていた。ジョギング、散歩、サイクリングなど思い思いのスタイルで、思い思いの目的を達成するために、人々は集まっていた。日頃のストレスを発散させたい人、ストイックに競技力向上に努める人、健康維持やダイエットしたい人、飼い犬の為に義務的に散歩する人など、目的は十人十色であった。
『大切な人との愛情をもっと深めたい。』
これが私たちの目的であった。
当然同じ気持ちで公園に集う人々はいたであろうが、私たちのお互いを思う強い気持ちは、他の誰にも負けていなかったと今でも誇れると思っている。
お泊まり以外の日曜日でも、彼女と愛情を深める機会は多かった。
ごく普通のカップルであれば、おしゃれに着飾って都心でデートが普通なのだろうが、そんな都会的センスを持ち合わせていない私は、もっぱらアウトドア派だった。アウトドアデートといっても、パラグライダーやカヌーといった他の人に積極的に紹介できる、自慢できるたぐいのものではなく、専らハイキングやサイクリングであった。
自然豊かな山道をゆっくり踏みしめながら歩くハイキング、広々とした河川敷や海岸をすがすがしい風を切って走るサイクリングは地味であり、都会やアミューズメントパークでのデートに比べて五感に対して直接的に働きかける強い刺激は少ない。
しかし、海や空の青さ、木々の緑色など、人工的ではないパステル調の柔らかな視覚的刺激、風の音や木々の擦れる音、岸に打ち寄せる波の音などの優しい聴覚的刺激、土の臭いやほのかに香る花の臭いなどリラックスさせる嗅覚的刺激、運動することで単なる梅干し入りおにぎりがいつも以上に美味しく感じる味覚的刺激、穏やかな風が体に心地よい触覚的刺激は、私の気持ちを穏やかにし、感性を豊かにしてくれた。
遠くまで続く水平線や遠くに見える山々を見ているうち、徐々に私は、大自然の中ではちっぽけな二人だが力を合わせれば大きな困難が出てきたとしても超えられると感じ初めていた。私は彼女とずっと一緒にいたい、この時間を共有したいと強く思うようになっていた。
六.結婚に向けた試練
付き合い始めて一年ほど経った十月初めの日曜日、私たちは高尾山から陣馬高原へ抜けるハイキングを計画していた。京王の高尾山口駅に八時半に待ち合わせした私たちは、おのおのリックサックを背負い、山道を歩き出した。高尾山が世界的に知られる前であり、紅葉にはまだ早かった為、ハイカーはそう多くなかった。
薬王院で道中の安全祈願を行った後、陣馬高原に向けて歩き出した。大きな分岐では案内表示があるため、よほどのことがない限り道に迷うことは少ないが、大小様々な木の根が地面を縦横無尽にはっているため、足下は常に気をつけなければならない。
アップダウンを繰り返し、城山から小仏峠に向かう途中、右側が大きく開けた。この時季にしては空気が澄んでおり、遠く新宿の高層ビル群を望むことができた。私は冬の空気の澄み切った時に一度だけ見たことがあったが、彼女には初めての光景だった。
「ファンタスティック!」
彼女はいつものキーの高い声で叫んだ。しばらくの間、山に反射したコダマが響き渡っていた。
影信を超えるとめっきりハイカーが減ってくる。熊が出没しないように、私たちは大きな声で会話し、時には笑いながら、歩を進めた。
明王峠でお昼になったため、そこで休憩することにした。彼女お手製のおにぎりをほおばりながら、木々の間から見える富士山を見つめた。富士山は大きかったが、雪で白く覆われている部分はまだ少なめだった。
「雪の白と土の黒のバランスは三対七くらいが一番きれいだよね。」
私は自分の感覚で感想を述べたが、彼女は反論した。
「半々くらいの方がバランスいいよ。」
それまで、彼女にムキになって反論されたことが無かったため一瞬たじろいだが、私は、
「そうだね。」
と言葉を濁し、それ以上は何も言わなかった。
明王峠から陣馬高原まではさほど時間は掛からなかった。
さっきの彼女の反論が心に引っかかっていた私だが、高原から遠く見渡せる風景に心が和んだ。
白い馬の像の前で一緒に写真を撮ろうとカメラを持参していた私は、近くにいた初老の男性に写真を撮って欲しいと頼んだ。『OK』の返事は直ぐに貰え、私は相手を待たせては悪いと思い、像の前に早く来るように彼女を促した。少し困ったような、恥ずかしいような顔を見せながらも彼女は私の手を繋いでくれた。
当時はデジタルカメラの出始めであり、フィルムカメラがまだまだ主流であった。私の持っていたカメラも多分に漏れず私の勤める会社が製造しているフィルムカメラであった。デジタルカメラ全盛の今日では、撮ったその場で画像の確認を行うことが極当たり前となっているが、フィルムカメラしか持ち合わせていなかった私は、その場では彼女の表情を確認することは出来なかった。
陣馬高原から長い木の階段を下り、和田峠に出た。くねくね道を下りきった所からはバスに乗り高尾駅へ向かったが、バスの揺れに誘われて彼女はすぐに眠り込んでしまった。疲れていたようだった。
その訳は、二日後、出来上がった写真を見て明らかとなった。笑顔ではあるものの彼女の目にいつもの力が無かったため、私は心配になった。夜遅い時間ではあったが、彼女に体調のことを確認するため電話をかけた。
彼女は先週一週間仕事がとても忙しく、土曜日も遅くまで仕事だったそうだ。確かに前の水曜日の代々木公園の練習にも顔を出せなかった。せっかくの日曜日、本当はゆっくり休みたかったようだが、私に気遣いハイキングにつきあってくれたようだった。
明王峠で反論した彼女に対し、少し疑念を抱いた自分を私は恥じた。
疲れていても私を気遣ってくれる彼女が、とても愛おしく思えた。
彼女のことがますます好きになった。心の底から結婚したいと思った。
「俺で良かったら、結婚しないか。」
電話で伝えるような言葉ではないが、『誰にも渡したくない。早く伝えなければ。』という気持ちが心の底から沸き立ち、思わず私の口から出てしまったのだった。
一瞬の間があり、
「少し考えさせて。今、疲れているから。」
と彼女は静かに言った。
直ぐに即答できる話しではないことは良く分かっていたし、私に動揺はなかった。私は彼女の疲れを少しだけでも和らげようと、茶目っ気たっぷりに、
「急がないよ。でもまごまごしていたら、俺、白髪のおじいちゃんになっちゃうよ。」
と明るく言葉を返した。
彼女は少し笑った後、
「ありがとう。お休み。」
と言って電話が切れた。
七.結婚に向けたアピール
その後はなかなかお互いの予定が会わず、私と彼女が会ったのは十一月下旬のことだった。
栃木県の那須高原の麓で行われるフルマラソンに参加する私の応援に彼女は駆けつけてくれた。初めてのフルマラソンということで、私はとても不安を感じていたが、そんな気持ちを察してか、サポート役を買って出てくれたのだった。
スタートさえしてしまえば後は自分との戦いだが、今回の私には、彼女に良いところを見せるという宿題を抱えていた。このレースの模様は栃木県内ではラジオ放送されるため、先頭近くで頑張っていれば私の名前が紹介されるはずである。名前が紹介されることで、彼女は状況を把握できるだけでなく、私に対する好感度もアップするのではという下心があった。
初めてのフルマラソンでありレース展開は全く読めなかったが、とにかく先頭につけるところまでつくということだけを考えてスタート地点にたった。
ピストルの合図と共に、千人弱のランナーがそれぞれのゴール、目標を目指してスタート。私の目標は、
『実業団所属の選手が多少いるが、それ以外ではトップを取る。そして、できる限り長い時間、名前を紹介して貰えるようにトップに食らいつく。』
だった。彼女の与えた宿題ではない、自らが自分に課した宿題であった。
レースは実業団選手が代わる代わる引っ張り、ほぼイーブンペースで進んだ。徐々にトップ集団の人数は減っていったが、私は後方から他の選手の動きを眺めていた。
レースが動いたのは三五キロ手前だった。道路を左折しやや追い風になった瞬間、持ちタイムが一番良かった実業団選手が一人スパートをかけた。私を含め残り数人は誰も反応できず、赤と白のツートンカラーのウエアがみるみる遠ざかっていった。残り数キロ、私の両脚はふくらはぎ、太ももともかなり疲労がきており、一番苦しい時だったが、
『一つでも良い順位を取りたい。』
という意識だけは持っていた。
後は粘るしかなかった。その後の展開をはっきりとは覚えていないが、
『残り五キロか。これまで走ったのが三七キロだから、えーと、これまでの七分の一から八分の一の苦しさでゴールできるな。』
といった感じで、
『これまでの行程から逆算し、苦しむ時間は残り少ないんだ。もう一踏ん張り。』
と考えていたと思う。もっとも、酸素が足りなくなったためなのか、ただ疲労のためなのか分からないが、頭で考える能力、計算能力は鈍くはなっていたが。
ただ、ゴールの瞬間は今でもはっきり覚えている。五〇mほど後ろに選手がいたが、何とか振り切り、三位でフィニッシュ。タイムは二時間二四分台だった。ゴール後、すぐに彼女は駆け寄ってきた。
「おめでとう、頑張ったね。ご褒美に結婚してあげる。」
彼女のキーの高い声に、私はただただ単純にうれしかった。ただし、オーバーリアクションするほどの体力は残っていなかった。
しかし、走り終わってから少し時間が経ち、意識がはっきりして冷静に物事を考えられるようになってきたところで、彼女の発したシンプルな言葉が、本気だったのかいささか不安になった。
レース後、私たち二人は那須塩原駅から東北新幹線に乗り、帰宅の途についた。その車中で私は、彼女に、
「本当に結婚OKなの。」
と野暮な質問をしてしまった。
彼女はちょっと寂しい顔をしたが大きな目でこっちをじっと見つめ、
「私が結婚したいの。」
と小さく呟いた。
彼女の真意を聞くことができ、私の心配は吹き飛んだ。
「幸せにするよ。じゃあ乾杯!」
のかけ声とともに、彼女が持つ缶ビールの縁に、私の缶ビールの縁をぶつけた。ビールが残り少なくなった缶からは、カーンという乾いた音が響いた。
八.フルマラソンと結婚式
それからは、結婚に向けた準備に忙しかった。お互いの両親への挨拶から始まり、会社や役所への提出書類の作成など細々したことまで、師走は普段でも忙しいが、その年は本当に目が回るほどだった。
ただ、結婚式や新婚旅行をどうするか、考えるのはとても楽しかった。二人で色々話し合ったが、やはり二人の出会った原点がマラソンということで、旅行会社の組む海外マラソンツアーに結婚式も追加しようということになった。彼女の方は、海外ウェディングにマラソンを追加するという気持ちだったようだが。
何処のマラソンにするかと考えた時、
「オリンピック開催が三年後に迫ったオーストラリアのシドニーがいいね。」
と意見は直ぐに一致した。八月開催のためまだまだ先ではあるが、初めてのフルマラソンだった彼女としては、少しでも練習が詰めるので好都合だったようだ。
「ウェディングのケーキカットじゃないけど、二人で一緒にゴールテープを切りたいね。」
私たちは夢を語り合った。
年が明け、すぐに籍を入れたが、妻となった彼女と一緒に住み始めたのは4月になってからだった。私の勤める会社の社宅にそれまで空きが無く、お預けとなっていたのだ。社宅は浅川沿いのサイクリングロードに面しており、中央線の日野駅から歩いて二十分近くかかるところにあった。私にとっては会社までそう遠い距離では無かったが、電車を乗り継ぎ1時間以上かけて三軒茶屋の会社に通勤しなければならない妻にとっては、とても負担が大きかったと思う。帰りも同じ時間をかけて、帰らなければならないのだから。
「会社を辞めていいよ。」
と妻に一度言ったことがあったが、
「大丈夫。」
と意志の強そうな大きな目で言われれば、私からはそれ以上何も言えなかった。
その頃になると、妻の土曜日勤務はほとんど無くなっていた。私たちは共働きのため、ウィークデーにできないことは週末のお休みにまとめて行っていた。私も部屋の掃除をしたり、洗濯干しを手伝ったりしたが、料理だけは妻任せだった。実際には私も一度だけハンバーグを作ったことがあったが、中が生焼けで妻から赤点(不可)の評価をもらった。優、良、とはいかなくても、せめて”可”の評価は欲しいところだったが、妻の料理が美味しいため、『まあいいか』ということで、再チャレンジする機会はその後なかった。
休日の残りの時間は、一緒に浅川や多摩川沿いをジョギングしたりウォーキングしたりサイクリングしたり、高尾山などの山でトレッキングしたりハイキングしたり、シドニーマラソンに向けて充実した日々を過ごしていた。
そして八月、マラソンと結婚式のダブルイベントがやってきた。お互いの両親への感謝を込めた旅行の贈り物ということで、計六名での旅程だった。成田からシドニーに向かう、尾翼にカンガルーの描かれたカンタス航空の夜行便ではあったが、興奮で皆寝つけずにいた。夏休みということもあり、子供連れの家族が多くてワイワイガヤガヤ騒がしかったこともあるが。私たちは、社内サービスのオーストラリア製ビールやワインを飲みながら、これから始まる四日間の楽しい旅に思いを馳せた。
今回の旅行だが、大きなイベントが二つもあるため、四日間では余裕は全く無かった。
早朝にシドニーへ到着したが、その後は、観光バスに乗って郊外のコアラを抱けるという動物園や木々の緑と岩のコントラストが美しいブルーマウンテン、市内のオペラハウスやハーバーブリッジ、シドニータワーといった定番の名所巡りで慌ただしい一日が終わった。
自由行動だった二日目は、お互いの両親とは別行動をとり、私と妻はシドニー市街を歩き回った。一昨日、前日とほとんど走れなかったため、体をほぐして次の日のマラソン本番に備えたかったのだ。日本では人の混み合う都心に遊びに出かけることはほとんどなかったが、今後再び訪れるか分からないシドニーという街を目に焼き付けておきたかったのだ。買ったばかりのビデオカメラを首にかけ、リュックを背負い、雑踏の街を気ままに散策し、日本とは違う異国情緒の雰囲気を楽しんだ。しかし、一箇所だけは目的を持って絶対に訪れてみたい場所があった。ケン・ドーンというアーティストのお店である。そこでお気に入りの絵、シルクスクリーンを見つけるのだ。近い将来、購入を夢見るマイホームのリビングに似合う絵を。
ガイドブックを片手に、ロックスにあるケン・ドーンのお店に着いた頃には、夕方になっていた。大小様々、値段も様々なリトグラフが飾られていた。その中の一つに私は目がとまった。夜のとばりをバックに、オペラハウスとハーバーブリッジが浮き上がっているように見える作品だった。
昨夜ホテルに着いた後、部屋の窓から見えたオペラハウスが最高に美しかったため、全会一致で、とはいっても私と妻の二人だけだが、即決。懐具合とも相談し、縦横四〇センチほどの小さいものを購入した。リトグラフの左端に付与されたシリアルナンバーは53/100ということで、これといった意味は無かったが、その当時の二人の年齢を足した数が五三だと気づいたのは、少し後のことだった。
ケン・ドーンのお店を出た後は、明日のマラソンの活力に、ということで、両親含めた計六名でオーストラリア料理に舌鼓をうった。カンガルー、ワニ、ダチョウなど、珍しいお肉を食べ比べたが、オージービーフが一番美味しかったと思ったのは私だけだっただろうか?
夕食も終わり、ホテルに到着した時には九時を回っていた。マラソンのスタートは明朝七時と早く、四時には起きないといけないため、本来なら早く就寝しないといけないところだが、今回は記録や順位は全く関係なく、二人一緒に楽しくがテーマだったため、多少の夜更かしやちょっとした二日酔いはOKと考えていた。
部屋に戻ると、明日のマラソンの二人の健闘を祈り、近くのスーパーで購入したワインで乾杯した。そして、額に入れたリトグラフを窓に立てかけ、絵の中のオペラハウスと、夜の暗さに負けじとこうこうと光る実物のオペラハウスを見比べながら、
「よく似ているね。」
「ここの曲線がいまいちだけど、見ている角度が違うのかな。」
などとワイン片手に専門家ぶった評論を行ったが、ワインのフルボトルが空く頃には、
「いい絵を選べたね。」
が最終的に二人の一致した結論となっていた。
マラソン当日の朝は、四時を告げるアラームで目が覚めた。カーテンを開け、窓から外を眺めた。まだ空は真っ暗だが、日本で見るのとは逆さまのオリオン座がはっきりと確認でき、天候は問題ないことが分かった。
ツアー会社から配られる簡単な朝食を食べた後、5時半に、スタート地点に向かうバスに乗り込んだ。バスは途中、ハーバーブリッジを渡ったが、まだ早朝ということで車の通行量はほとんど無く閑散としていた。
「ここで本当に数千人規模の大会が行われるのか?」
と私はちょっと拍子抜けしたが、
「あと二時間もしないうちに、ここ走るんだよね。」
と、彼女は目をきらきらさせて話しかけてきた。とても嬉しそうだった。そのお裾分けで、私まで幸せな気持ちになった。
ホテルのある市街地からバスに乗ること二〇分、スタート地点はノースシドニーというダウンタウンにあった。日本と季節が反対のシドニーの八月末というと、やっと冬が終わり春に片足突っ込んだ時季にあたり、朝はまだ肌寒かった。しかしこの日ばかりは参加者の熱気がみなぎり、いつもは静かな早朝のダウンタウンもお祭り騒ぎだった。私たちもお祭りのつもりで参加していたため、目立つ格好を合い言葉に、お揃いのオレンジ色のTシャツと黄色のスパッツという服装だった。
七時のスタートと同時に、各国のオリンピック代表を目指すトップ選手達は、疾走するカンガルーのごとくに駆け出していった。日本からも、男女数名の実業団選手が参加していた。一方の私と妻は、寝起きのコアラのごとく、ゆったりとしたペースで走り出した。初マラソンの彼女の走力を考え、私たちの目標は五時間を切ることだった。
スタートしてすぐにハーバーブリッジを渡ったが、さすがにこの時間は交通量も増え、渋滞していた。私たちは、贅沢にも道路左端一車線分を走らせて貰っているため、止まっている車を尻目に横を駆け抜けていくことができた。
オペラハウス横を過ぎると、ミセス・マックォーリーズの椅子で有名な細長い公園の中を走る。道幅が狭く集団であれば走りづらいが、今回は二人でゆったりと走っているため苦にならない。木々に留まっているであろう鳥の鳴き声を聞きながら、
「聞いたことない鳴き声だけど、何て言う鳥だろうね。」
などと会話が弾んだ。
その後は一旦市街地から遠ざかり、センテニアル公園やランドウィック競馬場といった緑の多い場所を走ることになる。天気が良いため、絶好のお出かけ日和であるが、まだ朝の9時前ということもあり、人はまばらだった。まだ三分の一を過ぎたところであり、妻にも余裕があった。
「こんなに広い公園が私たちの家の近くにもあったらいいのにね。こっちに移住したいくらいだね。」
などと夢の様な話しをするものだから、私も負けずに、
「老後はシドニーズだね。」
などと冗談を言った。ちなみにシドニーズは、ジャパニーズ(日本人)からもじった言葉だった。
マラソンも半分を過ぎると、無機質な単調な景色が続くようになる。アンザックブリッジからは眼下にダーリングハーバーが一望できるなど、風光明媚なビューポイントも所々にはあったのだが。この頃になると、徐々に彼女の口数が少なくなってきた。疲れが出てきたこともあるだろうが、アスファルトの道路から見える風景が単調だったことも理由だったと思う。ただ、時折姿を見せるシドニータワーの美しさには感激した。
『知らぬ間に 遠くで霞む 摩天楼 思えば遠くへ 来たものだ』
遙か遠くに見えることもあり、『こんなに遠くまで来たのか。』と感傷的にはなったが。
景色に飽きてきたところだったが、三〇キロを過ぎると郊外の住宅地に入ってきた。アップダウンがあり、タイムや順位を狙う選手には正念場だったと思うが、緑の木々が美しく、私と妻にとってはホット出来る場所だった。
「もう一踏ん張り。」
私は妻を励ました。それに呼応するかのように、妻は笑顔を見せた。
あとはゴールを目指すばかりだった。目標タイムの五時間は少し超えてしまいそうだが、妻のダメージはそう大きくなさそうだった。挙式が明日に控えていることもあり、それなりに体力を残しておかなければならない。筋肉痛で足を引きずりながらバージンロードを歩くことになっては、彼女にとって一生の汚点になってしまうかもしれないから。
ゴール地点は、二年後に迫ったシドニーオリンピックのメイン会場予定地内にあった。しかし、建設工事はこれからが本番という感じでまだまだ殺風景だった。その中にあって、ぽつんと一つだけ完成していた施設があり、オリンピックではサブグランドとして使用予定と思われる全天候型陸上競技場がゴールだった。だだっ広い荒れた土地に、ぽつんと完成した緑色の芝生が美しい競技場を見て、
「砂漠の中のオアシスのようだね。」
「オアシスがゴールなんて、ちょっとロマンチックね。」
などと話しながら、一緒に手を繋いでゴールテープを切った。
私にとっては走行時間が二倍を超えるゆったりしたジョギングとなったが、その分ゆっくりと回りの景色を見る余裕もあり、コストパフォーマンスの高いマラソンだった。そして何より、彼女とたくさん会話できて満足度は∞だった。
オーストラリア最終日は、彼女のメインイベントだった結婚式だった。昨夜見た月の回りに笠がかかっていたため天候が気にはなっていたが、朝から雲行きが怪しかった。水彩絵の具で描かれた灰色の空のように、色の濃いところ薄いところがまだら模様となっており、もうすぐ雨が降り出しそうであった。
しかしお昼からの挙式には天気は持ってくれた。昨日の妻の頑張りを見ていて、雨が降り出すのを待ってくれたのかも知れないと私は思った。
式場は、真っ白な外壁が美しい小さなチャペルだった。
『妻のウェディングドレスの色がオフホワイトだけど、真っ白がよかったかなあ。』などと思いながら脚を踏み入れたが、チャペルの中に入った途端、私に不思議な感覚が襲った。それまでの浮ついた気持ちが消え、ビシッときれいな折り目がついた白いワイシャツのように背筋が伸びる感じがした。しかし、ほどよい緊張感の中にも清々しさと落ち着いた感じが同居していた。
お互いの両親が参列する中、静かに式が始まった。マラソンの疲れも見せずに一歩一歩バージンロードを歩くウェディングドレス姿の妻は、とても綺麗だった。私も格好良く見せようと、歩調を合わせながらも背筋を目一杯伸ばした。
神父の言葉が何だったか、残念ながら思い出せないが、私たちに語りかける口調はとても優しかった。
問いかけに対し、私と妻はお互いの目を見ながら声を合わせ、
「イエス。」
を何度か繰り返した後、指輪の交換を行い、軽くキスをした。両親とはいえ、他の人が見ている前でのキスは、とても恥ずかしく緊張した。
「人前でのキスは、これっきりにしようね。」
と私がささやくと、妻も小さく頷いた。
結婚式が終わり外に出ると、雨が降り出していた。雨を避けるように扉の前に列席者全員が立ち、チャペルをバックに記念写真を数枚撮り、お開きとなった。
降り注ぐ日差しの中で記念写真を撮影出来なかったため、私は出来映えにあまり期待していなかった。しかし、後日送られてきた写真はしっとりとしたなかなか落ち着きのある仕上がりになっており、細かく降り注ぐ雨の効果だろか、ソフトフォーカス気味の仕上がりに私たちは満足した。
私たち二人には、チャペルからホテルへの移動用に運転手付きのリムジンの中が用意されていた。
車内では脚をゆったりと伸ばすことができ、僅かな時間ではあったが最高の乗り心地だった。
ホテルに着くと、雨足が少し強まっていた。
「雨降って地固まるって、今の二人にぴったりのことわざだね。」
と話した私に、彼女も同感してくれた。
シドニー最期の夜は雨だった。そのため夜景見物に行くことができず、ちょっと残念に思った。しかしその替わりに私と彼女は愛情を十分育むことができた。そして、愛の結晶が誕生したのは、まさしくこの時だったと確信している。私たちへ届いた、神様からの最高のプレゼントだった。
九.新しい家族の誕生
二大イベント終了後は、『私は近くの会社へ仕事に行き・・・』、『妻は電車を乗り継いで都心の仕事場へ向かい・・・』、という極普通の生活が待っていた。
オーストラリア旅行という非日常から、会社勤めという日常に引き戻され、私たちは虚脱感を感じていた。しかし夢のマイホーム購入という目的を達成するためには、前向きに前進あるのみだった。そして、その後しばらくして分かった、この世に生を受けた双子の為にも。
子供達の予定日は六月であった。冬が終わり、何処からともなく漂ってくる花の香りに包まれるようになる頃、サクラの蕾が大きくなるのに合わせて、最初は目立たなかった妻のお腹も大きくなってきた。
妻は法定で認められている産前六週目まで働き、その後産休に入った。
自然の中で体を動かすことがライフワークになっていた妻は、休暇中も負担のない範囲でゆっくりと散歩をしていたため体調は万全であり、お腹の中の子供達も元気そのものだった。
私は妻のお腹に手のひらを軽く当てた。お腹を蹴飛ばす子供達のやんちゃぶりを感じ取ることができ、
「早く我が子の顔が見たいね。」
と私は言った。妻は頷き、お腹に当てた私の手の甲の上に、自分の手を軽く置いた。私と妻、そして生まれてくる子供達、三位一体いや四位一体となった瞬間であった。
初めて授かった子供達に対し、妻はとても気を遣っていた。
『お腹の中の赤ちゃんに声をかけると良い。』と育児書に書いてあればお腹を軽くさすりながら何やらお話をしていた。
『母親の食事がお腹の中の赤ちゃんの栄養となる。』と産婦人科の先生に言われれば、栄養価の高い料理を自分で作り、「これは赤ちゃん達の分ね。」と話しながら自分の口に運んでいたし、苦手な納豆も無理して食べていた。また、『妊娠中のアルコールは赤ちゃんに悪い影響を与える。』と言われれば、ビールをごくごく飲む私を恨めしそうに大きな目で見ながらも、我慢していた。
そして六月中旬、双子を無事出産。妻が健康管理に気を遣ったことが一番の理由だろう、二人とも三五〇〇グラムもある大きな男の子だった。
七月に入ると、四人による新しい生活が始まった。妻は来年三月末までは育児休職制度を利用して会社を休むことになっており、生まれたての我が子に対し愛情をたくさん注ぐことができた。天気の良い日には2Kの狭い社宅を抜け出し、二人の子供を乗せたダブルベビーカーを押しながら、浅川沿いのサイクリングロードを多摩川との合流地点まで数キロ散歩したこともあったようだ。
休日の散歩は私も一緒だった。私がおんぶ紐を使って一人を背負い、抱っこ紐を使ってもう一人を抱き、妻を含め四人で家の近くの川沿いだけでなく、高尾山などの山歩きにも出かけた。まだ小さい子供とはいえ二人の体重を合わせると一〇キロを超すため、重りを担いで歩いているようなものであり、ある意味良い筋肉トレーニングになっていたかもしれない。
その年の十一月、私はかねてから出てみたいと考えていた今は無き東日本縦断駅伝(青東駅伝)に、会社の業務都合で一時期籍を置いた群馬県の一選手として出場するチャンスを得た。青東駅伝は、電青森から東京までの約七〇〇キロを、延べ五〇人余り繋ぐ駅伝であり、一人の選手が二回あるいは三回走ることになる。私はそれまで一週間に三回もレースをこなしたことがなかったが、箱根駅伝経験者や実業団選手のタイムをも一部ではあったが上回れたこともあり、自分の走りに自信と誇りを持つことができた。私のマラソン人生の中で、最も脂の乗った頃だった。
そして、続く十二月のマラソンで私は生涯記録となる自己ベストを出した。
山口県にある私の実家の里帰りのついでに参加したのだが、その気楽さが良かったのだろうか。『二時間二〇分は切れなかったが、子供中心の生活に移ってきたにしては良くやった。』と私は満足し、まだまだ手のかかる息子達を連れて応援にきてくれた妻も私と一緒に喜んでくれた。その時私は、『子供二人が物心つく頃までは走り続けたい。』と思った。
十.妻の変化
家の近くの保育園へ子供達を預けることが可能となった次の年の四月から、妻は会社に復帰した。朝の登園は私の担当だったが、夕方のお迎えは妻が担当した。しかし都心で働く妻は夕方五時前には会社を出なければお迎えの時間に間に合わないため、フレックスタイムを利用し早出をするため、朝の六時過ぎには家を出ていた。子供達が夜泣きでぐずることが度々あり、ほとんど寝ないで出社したこともあったが、弱音を吐かずに頑張っていた。私は申し訳なく思い、子供が夜ぐずる時にはできるだけ面倒をみようと思っていたが睡魔に負け、結局は妻が明け方まで泣く子供をあやすという生活が続いた。
その年の秋ごろから妻の状態に変化が現れてきた。それまでイライラしている妻をほとんど見たことがなかったのだが、私を含む周囲に対し、明らかに不機嫌な態度をとるようになってきた。些細なことで不平不満が口をつき、時には罵声を浴びせることもあった。疲れているのが原因だと思った私は、妻にリラックスしてもらいたくて、以前のように散歩や家の近くにできた日帰り温泉に誘ったりした。しかし妻は疲れていることを理由に、ほとんど出歩かなくなっていた。
私は、以前の明るい妻に戻って欲しいと思っていた。しかし徐々に妻の態度に嫌気がさしてきた私は、だんだん妻を遠ざけるようになっていった。口を聞く機会がめっきり減り、ただ同じ家に居るだけの家庭内別居状態になっていた。しかし妻は、料理など一連の家事はしっかりとやってくれた。負けず嫌いだった妻の意地だったのかもしれない。ただ、美味しそうに見える料理も、独りで食べることが多くなり、心から美味しいとは思えなくなっていた。
そして暮れも迫った十二月中旬の土曜日の夜に事件は起こった。私の発した言葉が発端だったのだが。
その時私たちは、妻の作ったカレーライスを食べていたが、食事中は相変わらず会話が無かった。その日の昼間は保育園のクリスマス会があり、初めて大勢の人前に立って気疲れしたせいか子供達はすでに寝ていた。子供達の初めてのクリスマス会だったため私も見たかったのだが、目前に迫ったコンピューターの二〇〇〇年問題への対応と年末の押し込み仕事で休日出勤しなければならなかったため、妻にビデオ撮影を頼んでいた。
しかし妻の口から息子二人の様子を早く聞きたかった私は、
「子供達の演技はどうだった。」
と質問した。
しかし妻は私の方に顔を向けず、
「撮ってきたビデオを見れば。」
とぶっきらぼうに呟いた。
私はその言葉に、強い怒りを覚えた。そして、その日、その時まで我慢し続け、私の中から面だって出てこないように押さえつけていた憎悪の念を、押さえきれなくなった。
「一緒にいると食事がまずくなるんだよね。」
決して発してはいけない言葉が、私の口から思わず出てしまった。
妻は私をにらんだ。山中湖のマラソン大会で初めて出会った時に見せた軽蔑した目とは比べものにならない、憎悪に満ちた目だった。妻は無言で私が食べていたカレーライスの器を取り上げて台所に持って行き、器ごとゴミ箱の中に投げ捨てた。鍋に残っていたカレールーも同じ運命を辿った。まだ温かかったカレールーからは、ほのかに湯気が立っており、匂いがかすかに漂ってきた。
そして妻は子供達の寝ている寝室に向かい、バタンと大きな音を立てて扉を閉めた。
私はとても後悔した。しかし、『妻が悪いんだ!』と自己弁護するもう一人の自分も私の中にいた。
私の心の中で二つの気持ちがせめぎ合っていたが、妻と初めて会ってからの楽しい思い出をゆっくりと回想するうちに、徐々に後悔の念が強くなっていった。
『妻がここまで追い詰められてしまったのは、私がしっかりしていないからだ。自分のことばかり考えないで、私も家族の為に犠牲にすべきことがあるはずだ。走ってばかりいては駄目だ。妻に謝ろう。』と思った私は、妻の寝ている部屋に向かった。
内側から鍵がかけられていたが、扉の向こうにいる妻に向かい、
「ごめん、俺が悪かった。」
と謝った。ありふれた言葉だが、私としては心の底から謝ったつもりだった。それに対する妻の返事はなく、シーンと静まりかえっていた。
次の日の日曜日、私は妻に対する懺悔の気持ちから、二人のかねてからの夢だったマイホーム購入の第一歩として、分譲住宅巡りに行くことを提案した。妻の方は、『昨夜の行為をやり過ぎた』と反省していたのかどうかは分からなかったが、一応承諾してくれた。
妻と出かけるのは、本当に久しぶりだった。私は以前から新聞の折り込みチラシで住宅情報は入手しており、妻が通勤可能な場所で、かつ私たちでも手の届く物件は把握していた。
社宅から車で三〇分、八王子郊外の新興住宅街が私の目をつけていた物件だった。JR横浜線で橋本駅あるいは八王子駅まで出れば、都心への通勤は可能であり、私の会社も車で三〇分ちょっとで通える場所にあったが、駅近くの物件は高価なため、バスで一〇分ほどの閑静な住宅街が目当てだった。
この地区では五〇坪以上の土地に住宅が建てられており、室内も広々していた。子供二人をのびのびと育てるには、広い場所が良いと私は考えていた。
妻には特に行き先を告げず、目的の場所に車を走らせた。
「この辺りだよ。」
私が言うと、妻の表情が明らかに変わった。それまでの暗い表情、疑心暗鬼の目から、大きく見開いた目には生気が感じられた。『ここに住みたい。』との妻の直接の言葉は無かったが、『ここに決めよう。』と私は思った。
その日以降、二人の会話が少しずつ増え、妻は元気になったように思えた。そして次の週も、また次の週も購入予定の住宅街に足を運び、幾つかの物件を内覧した。その中から、富士山の見える物件に決定した。二人の意見が久しぶりに一致した瞬間だった。
一一.新しい生活
四月より新しい家での生活が始まった。それに合わせて子供達の保育園も変えなければならなかったが、まだ小さかったこともあり、『前の保育園がいい!』と駄々をこねることもなく、新しい場所にすぐ慣れてくれた。新興住宅街ということもあって同年代の子供を持つ家族が多く暮らしていたため、両隣ともすぐに仲良くなれ、生活する上で気苦労は少なかった。
しかし、相変わらず妻は朝早く会社に出て行く生活が続いていた。『念願のマイホームを購入した以上、共働きで頑張っていくしかない。』と妻は考えていた。
徐々に子供二人に手はかからなくなってきてはいたが、私は妻の体調を気遣い、出来るだけ早く会社から帰るよう努力していた。
子供達が四、五才になる頃には、妻の仕事はかなり忙しくなっていた。二、三日の泊まりがけ出張が二ヶ月に一回ほどはあったが、どんなに忙しい時でも妻は私と子供達のために必要な食事を作り置きしてくれたため、インスタント食品に頼らずに済んでいた。栄養学を学んだ彼女としては、体の健康に良い食べ物にこだわりがあったようだし、何より仕事のせいで家族の生活が乱されてはいけないと考えていたようだった。
妻の貫く信念には本当に驚かされていたが、私は『仕事も大切だが、自分の体を大切にして欲しい。』という気持ちを常々持っていた。
現在であればワーク・ライフ・バランスという言葉が広く知られている。そんな言葉がまだ広く知られていなかった頃だったが、私からはかなり無理をしているよう思えた妻に対し、ワーク・ワイフ・バランス、つまり働く妻としてのバランスをうまく取って欲しいと思っていた。
『頑張る妻に対して私ができることは何か?』と考えた時、ストレス発散の一助になればとの思いで、休みの日には出来るだけ妻を散歩やサイクリングへ誘った。体を動かす楽しさを分かってもらおうと、まだ小さい息子達も一緒に連れて。
少し離れたお店まで美味しいケーキやアイスクリームを食べに出かけたり、時には一時間以上もかけてお気に入りのラーメン店まで歩いたこともあった。でもその道程では、四つ葉のクローバーやつくしなど色々な発見をすることで、長い距離がとても短く感じられた。まだ小さい子供達にとっては、ちょっと大変だっただろうが・・・
十二.走れなくなった私、
走らなくなった理由
走る時間を削るようになってから練習量が減ったことで、緩やかに私の走力は落ちていった。しかし、会社の昼休みの三〇分間のスピード練習と会社帰りの約一〇キロのジョギングだけは続けることで、フルマラソン二時間三〇分以内は辛うじて維持していた。この二時間半というタイムは、国内の主要なマラソン大会に参加するための最低限の参加標準記録であり、その中の一つ、東京国際マラソンへの連続出場が私の当面の目標であった。
その目標達成の過程の中で、私は三六才の時に年齢別の年間マラソンランキングでトップを獲得した。一〇年以上前に立てた『市民ランナーのトップを狙う』という大きな目標に比べれば小さな称号かもしれないが、自分の置かれている現状の状況を客観的に考えた場合、それなりの達成感を感じたのも事実だった。
東京国際マラソンへの出場は、子供二人が小学校に入学した年まで続いた。以前私が掲げた『子供達が物心つく頃までは走り続けたい。』という目標は達せられた訳だが、走る時間が惜しくてストレッチングや筋肉トレーニングを怠ってきたツケが回ってきていた。
実は次の年も東京国際マラソンから鞍替えになった第一回東京マラソンのエリートの部にも参加したのだが、過去二年間の間に出したマラソンの記録が有効なためにたまたま出場できたに過ぎず、私よりも年配の男性の他、何人かの女性ランナーにも歯が立たず、全くレースにならなかった。
三〇才台後半から脚の故障のために全力で走れなくなっており、スピードを上げると左太ももの軽い肉離れが繰り返し起きていたため、徐々に走るのが怖くなっていた。そういう状況だったため、散々な結果も想定できたはずであったが、格好悪い姿を妻だけでなく子供達にも見せることになってしまい、
「パパ、遅すぎだよ。」
という悪気の無い素直な言葉に父としての威厳が失われたと私は感じ、かなり落ち込んだ。そしていつの間にか、全く走ることを止めてしまった。
当時の私は、『妻の体調のことを考えず、自分の思うように時間を使うことが出来れば、怪我をせずにもう少し長くマラソンが続けられたのに。』とフッと思うことがあった。
そう思っている時には妻とうまくいくはずもなく、不満を持った私と仕事に疲れた妻との間で、口喧嘩が何度となく繰り返された。そんな時、徐々に成長している子供達が間を取り持つこともあったが、多くは私と妻の当事者同士で、関係の修復が行われていった。私と妻それぞれの理性がお互いを思いやることを思い出させるのだろう、どちらからともなく声をかけ、愛情を確かめ合い、いつの間にか仲の良い二人へと自然に戻っていた。悪い関係を断ち切った後は、免疫を獲得した体のように、お互いの絆は強まっていたと思う。
『喧嘩は悪いことばかりではない。相手を思う気持ちを、もう一度見直す機会になれる。』私だけの自己満足かもしれないが、そう感じていた。
十三.最後の試練
子供達の成長を見守りながら、私と妻の愛情も育まれていったと思うが、六年生となった子供達の進路が私たち二人にとっての最後の試練となった。『近所の公立中学にそのまま進めば良い。』と主張する私に対し、妻は頑として私立の中高一貫校にこだわった。
二人の塾にかかる費用だけでなく、塾への送り迎えへの負担など私は総合的に考え、働く妻への負担が増すことを私は恐れていた。
しかし妻は、
「子供達の将来のことを考えた場合、一貫校の方がメリットが大きい。スポーツを六年間続けられるし。大学の附属校なら、勉強も頑張っていればそのまま大学に入学できて、トータル一〇年間もスポーツに打ち込めるのだから。」
と私の心配は意に介さなかった。
「どうなっても知らないからな。」
私は強い口調で妻に言い放った。妻は大きな目で私を見つめ、悲しそうな顔をしたが、何も言わなかった。一五年以上前に初めて妻と出会った時、私は自分の感情を抑えきれずに妻に対して暴言に近い言葉を吐いてしまったのだが、その時にシチュエーションがとても良く似ていた。
中学受験を目指す子供達は、通常であれば三、四年生の頃から準備にとりかかる。息子達が塾に通い始めたのは、夏休みの夏期講習からであった。時期が時期だけに受け入れて貰える塾はなかなか見つからなかったが、個人経営に近い小規模な学習塾に空きがあり、そこで何とか面倒を見ていただけることになった。かなり遅すぎた参戦ではあるが、子供達本人も本気で中高一貫校に入学することを目指して日々頑張っていた。
今回の一件後、しばらくの間、私は妻と口を聞くことがなかった。ただ私一人になって冷静に考えると、『最近走ることが好きになってきた二人の子供が、中学から陸上競技に打ち込み、勉強も頑張って箱根駅伝常連の大学まで入れたら、自分としても、走る姿を見せ続けた甲斐があるのではないか。双子のマラソンランナーが活躍することもあるし・・・』と考え始めていた。
しかし強い口調で言ってしまった手前、私は妻に謝るタイミングを計りかねていた。
そして八月最後の日曜日、妻の方から私に声をかけてきた。
「子供達は夏期講習の追い込みで夕方まで帰ってこないから、たまには一緒に走ろうよ。今日は暑いし、走り終わった後のビールは最高だよ。」
私は妻の方から声をかけてもらえ、とても嬉しかった。振り上げた腕を降ろせずにいた自分に気を遣ってくれたのかと思うと、とても自分がちっぽけな人間に思えた。
私は妻をますます好きになれる気がして、久しぶりに二人でジョギングに出かけた。しかしその後、あの忌まわしい事故に遭遇したことで、私の愛情を妻へ捧げることは永久にできなくなった。
私の方から先に妻に謝ってさえいれば、妻がジョギングに私を誘う必要も無かったのだ。今更後悔してもどうしようもないのだが、悔やんでも悔やみきれない自分がいつまでもいた。
私は妻の死ぬ直前まで、雨で濡れ冷たくなった妻の顔、手、脚、体をさすりながら、しっかりするように一心不乱に声をかけ続けていた。
救急車に乗り、どれくらい経っただろうか。
それまで弱々しく開いていた妻のまぶたが一瞬大きく開き、大きな目を私に向けた。サイレンを鳴らしながらスピードを上げて走る救急車の車内はかなり騒々しかったと思うが、私には周りの喧騒は耳に全く入ってこなかった。
妻の最後の言葉だけが、私の耳を通して脳に響いてきた。キーの高い本来の妻の声ではない、途切れ途切れのか細い声だったが、
「一緒・・・に、東京・・・マラソン、走り・・・た・・・かった・・・」
と、私にははっきり聞き取れた。続けて、
「子供たち・・・」
と言ったところで、妻はゆっくり目を閉じ、息を引き取った。
十四.妻の仕掛けたサプライズ
福岡のマラソンでトップ選手がゴールする頃には私は冷静さを取り戻していた。レース後半の展開がどうなったか、誰が優勝したのか、私の頭の中には全く記録されていなかったが、東京マラソン事務局の男性からの突然の電話により心を大きく乱されてしまった今の私にとって、興味も無かったし意味もなかった。
私の頭の中に残っている断片的な記憶を組み合わせた時、私に対する妻の愛情が徐々に再認識されてきた。私を驚かそうとした仕掛け、いや私に与えてくれようとしたビックなプレゼントのことを思うと、胸が張り裂けそうなほど切ない気持ちになった。そして亡き妻のことをますます愛おしく思った。
息子達の中学進学問題で関係がギクシャクしていた私と妻の関係を修復させるため、この夏、妻はサプライズを仕掛けていたのだ。
八月最後の日曜日の午後、私に気遣いジョギングに誘ってくれたのが、サプライズを成功させるために仕掛けた最後の仕上げだったのだろう。
妻の本当の目的は、東京マラソンへの出場だったのだ。そのため、私の知らないところで東京マラソンへの参加申し込みもしていたのだ。
私が走ることを辞めてしまった原因の一つである東京マラソンに、再チャレンジして欲しいという願望もあったのかもしれない。
そして、『一緒に走りたかった』という妻の最後の言葉を考えると、妻も一緒に申し込みをしていたのだろう。妻は抽選から漏れ、私は復活当選した。
東京マラソン事務局からの突然の電話は、覇気のない私に喝をいれるため、天国の妻が掛けさせたものかもかもしれなかった。あるいは、私へのちょっと早いクリスマスプレゼントだったのかもしれない。
私は、シューズロッカーの奥にしまってあったジョギングシューズ取り出した。夏の忌まわしい事故以来履いていなかったため、埃だらけだった。屋外に持っていって埃を掃った後、私は久しぶりに足を通した。そして靴紐を結ぶと、気持ちがビシッと引きしまるのが分かった。たまのスーツ姿で、ネクタイを締める時のように。
突然掛かってきた電話により、酔いがさめた私は、その日からトレーニングを開始した。まずは散歩から。そして東京マラソンへの出場に向けて走り始めた。
十五.妻の伝えたかったこと
年が変わり、子供達の中学受験まで一ヶ月、私の東京マラソン挑戦まで二ヶ月を切った。新しい年を迎えるにあたり、受験を控えた子供達に私はエールを送った。
「お前達の闘っている中学受験というマラソンレースは終盤戦、ゴールまで一ヶ月を切った。この一ヶ月の頑張りで、順位が大きく変わる。入賞出来るか出来ないか、メダルを貰えるか貰えないか。二人とも志望校合格という目標としている順位で笑ってゴールテープを切れるように、残り一ヶ月、死にものぐるいで頑張りなさい。最後の最後までどうなるか分からないのがマラソンであり、試験も同じ。ライバルが、もしかすると最後にスタミナ切れで失速するかもしれないし、突然体調が急変するかもしれない。しかしお前達は、小さい頃からたくさん歩き、自転車に乗り、体を動かしてきたから体力的には問題ない。風邪など引いて小学校を休んだことは一度も無い。これまで皆勤賞だ。だから前を走っている選手を一人でも追いつき追い越せるよう、ラストスパートをかけなさい。そして最後の一分一秒まで、諦めずに粘って粘って粘り通しなさい。ママも天国から応援しているんだから。」
亡き妻の話が出たところで、私なりに解釈した妻の遺言を、子供達に伝える時が来たと思った。
「父さん、ママの死に関してはお前達に本当に悪い事をしたと本当に思っている。でも、あの日あの時ママが何を思っていたか、何を望んでいたか、父さんだんだん分かってきたつもりだ。だからそれに向かって父さんは今年頑張る。それがママへの償いだと思っているから。お前達には黙っていたけど、二月末の東京マラソンに出るつもりだ。マラソンまでの時間はほとんど無いが、できる限り体力を戻せるようにベストを尽くしている。でも父さん、本当に今苦しいんだ。昔のように走れなくて。昔の気持ちでスピードを上げて走ると、すぐに昔痛めた太ももが痛んで、思うように走れないんだ。今苦しいのはお前達だけではないのだから、あと一ヶ月粘って踏ん張って頑張って、父さんと一緒に苦しみを乗り越えよう。」
私は東京マラソンの参加証を子供達に見せながら、話を続けた。
「ママはお前達に、『パパもママも東京マラソンに向けて頑張っているのだから、中学受験本番に向けて一緒に頑張ろう。苦しいのは一緒だよ。』と伝えたかったんだと父さんは思う。今となってはママの本心がどうだったか分からないけれども。お前達の受験のことで父さんとママは喧嘩ばかりしていただろ。仲直りのつもりでマラソンを申し込んだのかなと最初は思っていたけど、ママの遺影を見ているうちに、ママが最後に言いかけたことがはっきり聞こえてきたんだ。『子供たち・・・に頑張っている姿を見せたかった』と。」
子供達は泣いていた。そして私に抱きついてきた。私は両手で二人の背中を優しく抱いた。三位一体、久しぶりに家族が一つになった。
十六.もう一つのサプライズ
それからというもの、二月初めの中学入試に向け、子供達は本当に頑張った。夜遅くまで塾で勉強し、疲れて体力が落ちているはずであったが、風邪も引かなかった。『小さい頃から体を動かし、体力をつけていて良かった』と私は思った。子供達の頑張りに触発され、私も少しずつではあったが走る距離を伸ばし、二時間程度ならゆっくりと走り続けられるようになっていた。
そして子供達の中学受験を明日に控えた一月末日、妻の仕掛けた最後のサプライズが訪れた。
子供達は最後の追い込みということで塾に出かけていたのだが、早めに家に戻ると聞いていたため、私は普段より早めに会社を出た。とはいっても家に着く頃には真っ暗になっていた。玄関横の郵便受けを開けると、新聞の夕刊の他に、二つの封筒が入っているのが見えた。歩道の街灯を頼りに封筒の表紙を確認したに私は、印刷された文字を見て驚いた。二通とも、差出人は青梅マラソン事務局となっていた。家に入るとすぐに、私は封筒の端をハサミで切り落とした。二通とも中身は同じ、青梅マラソン一〇キロの部の参加証だった。私と妻、二人分の・・・
妻はここまで準備していたのだ。そして逝ってしまった。
東京マラソンは大人気のため、一〇倍を超える抽選倍率がある。妻は抽選に漏れた場合の保険として、青梅マラソンも申し込んでいたのだ。いや、もしかすると、三〇キロではなく一〇キロの部に申し込んでいることからすると、東京マラソンの最後の調整のためにと、一週間前に開催の青梅マラソンにエントリーしたのかもしれない。
どちらにしても、生前に妻の蒔いた種は、半年経って実を結んだ。私は妻の遺影を見つめた。部屋は暗かったが、仏壇のボンヤリした明かりで遺影の妻は優しく輝いていた。今回の件でも私は、涙を流さずにはいられなかった。
少しして、子供達が塾から戻ってきた。三人で夕食を取りながら、私は青梅マラソンにも妻が申し込んでいた話をした。二人ともびっくりして泣き出すかもしれない、試験本番前に動揺させるのは良くないかもしれないと私は思ったが、予想に反し二人とも明るい笑顔で返してくれた。そして、
「何事に対しても、いつも頑張っていたママらしいね。せっかくマラソンの練習をしていても、抽選で漏れてしまったら頑張ったかいがないから、保険をかけたんだね。」
と長男が言うと、次男も、
「それに加えて、僕とお兄ちゃんは明日の中学試験を頑張るというのに、ママもパパもマラソンで頑張らないと、僕たちに対して示しがつかないと思ったのかもしれないね。」
と続けた。
『二人とも立派に成長たな。』と私は思った。そして、とても嬉しくなった。
次の日、私は子供達それぞれに、青梅マラソンの参加証をお守り代わりに持たせた。その参加証には四つ葉のクローバーを貼り付けておいた。数年前、家族四人で散歩した時に見つけてずっと大切に保管しておいたものだった。『四枚の葉一枚一枚が家族の一人一人に当たるよね。これから先、家族の誰かが何か困難に直面した時とか、家族の力が必要になる時があったなら、この四つ葉のクローバーを見て絆を強めよう。家族で力を合わせれば、どんな困難だって乗り越えられるのだから。』四つ葉を見つけた日、妻の言った言葉に私も同感だった。
亡き妻も含め四位一体となって立ち向かった中学受験では、長男、次男それぞれが持つ力は、実力通り発揮されたはずである。
後日、私が走った青梅、東京、二回のマラソンでも、四つ葉のクローバーは遺憾なくその力を発揮してくれた。ズボンのポケットに忍ばせて走ったが、苦しい時にクローバーを手に取って見ると、亡き妻や子供達の姿が頭に思い浮かび、自然と体の中から力が沸いてきたのだった。
十七.エピローグ
子供達の中学受験の結果、そして私のマラソンの結果については、特に書くことも無いだろう。
『結果が全てだ。』という人は多かろうが、まだわずか十年ちょっとしか生きていない子供達にとっては、本人が『頑張った。ベストを尽くした。』と思えればそれで良いと私は思う。若い子供達にはこれからいくらでも挽回のチャンスがあり、今はまだ頑張った過程が大事だと思うから。
今回の私のマラソンについていえば、あくまで、家族の絆について改めて考える、家族の絆を強くする、子供達に頑張ることの大切さを教えるために必要な一アイテムにすぎなかったと思う。若い頃であれば、ただがむしゃらに結果を求め続けてきたが、その時その時で、マラソンの目的も、意味合いも変わるものだと素直に思った。
しかし、亡き妻がこのチャンスを与えてくれなければ、私は一生それに気づかずにいたかもしれない。そして『また走りたい。』と一生思わなかったかもしれないのだから。
私はこれからも走り続けるだろう。単に。『そこに道があるから』ではない。自分の意志で、妻の遺志で。
「本当にありがとう、リエ。」