第7話:鉄格子の下のバースデー
第7話:鉄格子の下のバースデー
1998年。松山寛が東京拘置所の冷たい壁の中に収監されてから、二度目の夏が巡ってこようとしていた。
街には冷房の室外機の音が唸り、アスファルトからは陽炎が立ち上っていることだろう。しかし、分厚いコンクリートに囲まれた雑居房に届くのは、高い位置に設けられた細長い窓から差し込む、埃の舞う一筋の光だけだった。その光は、かつて父と娘が「ひだまり荘」のベランダで育てていた、あの眩しいひまわりの黄色を、寛に思い出させるには十分すぎるほど残酷な輝きを持っていた。
その日は、寛の36歳の誕生日だった。
もちろん、この絶望が支配する場所で、誰かの誕生日を祝うという概念など存在しない。カレンダーの数字は、ただ刑期を消化するか、あるいは「その日」が来るのを待つための無機質な記号でしかなかった。
しかし、その日の寛は、朝からどこか様子が違っていた。朝食の麦飯を食べる時も、運動の時間に狭い中庭を歩く時も、彼はそわそわとして、時折自分の胸ポケットを外から愛おしそうに撫でていた。そこには、麻子が最後にくれた、あのボロボロの折り紙の「コマ」が隠されている。
「おい、ヒロ。今日はなんだか妙に落ち着きがねえな。ケツに火でもついたか?」
雑居房の主のような存在である大滝が、差し入れの古新聞から目を上げて声をかけた。
収監から一年。寛はこの房の男たちにとって、いつしか奇妙で、不可欠な存在になっていた。最初こそ「幼女殺害犯」として激しい暴力を受け、嘲笑の対象となっていた寛だったが、彼の内側にある「6歳の子供の純粋さ」は、どんな暴力よりも強固だった。
どれほど理不尽に怒鳴られても、食事を奪われても、彼が返すのは「ごめんなさい」という言葉と、困ったような、だが一点の曇りもない微笑みだけだった。男たちは、自分たちのドブ川のように汚れた魂が、寛の澄んだ瞳に映し出されるたび、言いようのない居心地の悪さと、同時に、忘れかけていた「人間らしさ」を突きつけられていた。今や彼らは、この「6歳のパパ」を、自分たちが唯一守らなければならない、聖域のように扱い始めていたのだ。
「あ……あのね、おおたきさん。今日はね、パパが生まれた日なの。あさちゃんがね、いつも『パパ、おめでとう!』って言って、ニコニコしてくれる日なの」
寛が照れ臭そうに、大きな指をモジモジといじらせながら答えると、房内にそれまで漂っていた騒がしい空気が、一瞬にして凍りついた。
誰もが、鉄格子の向こう側に置いてきた自分の過去を思い出した。かつて自分を祝ってくれた誰か、あるいは自分が祝ってやるべきだった誰かの顔が、脳裏をよぎったのだ。ここにあるのは、死を待つか、社会から抹殺された者の成れの果てだ。誕生日の祝いなど、もっとも不似合いな言葉だった。
大滝はゆっくりと新聞を畳み、寛の前にどっかと腰を下ろした。
「……そうか。お前の誕生日か。ヒロ、一つだけ願いを言ってみろ。この場所じゃケーキもなけりゃ酒もねえが、俺たちができることなら、何でも聞いてやる」
寛は驚いたように、殴られた跡がまだ微かに残る目を丸くした。そして、しばらく何かを懸命に考え込んだ後、喉の奥から絞り出すような、震える声で言った。
「パパね……あさちゃんに、会いたい。あさちゃんに会って、『パパ、悪いことしてないよ』って……『いい子にしてたよ』って、言いたいの。それから……あさちゃんの頭、なでなで、したいの」
その願いは、あまりにも切実で、そしてあまりにも絶望的に不可能な望みだった。
死刑確定囚としての厳格な面会制限。そして、世間の目から逃れるために、親戚の手によって所在を隠されている麻子。二人が再会するためのハードルは、この拘置所の高圧電流が流れる壁よりも高く、分厚い。
「会いたいか。……そうだよな。当たり前だ」
大滝は、自分のゴツゴツとした、罪に汚れた手を、寛の震える肩に置いた。
「ヒロ、約束だ。お前がここでずっと『いい子』で待っていれば、お前の娘はお前を絶対に見つけ出す。あの子は、殺人犯の娘として泣いてるようなタマじゃないはずだ。お前のひまわりは、いつか必ず、この鉄格子を突き破ってここへ届く。俺が保証してやる」
寛は、子供のように鼻をすすり、ポロポロと大粒の涙をこぼした。
「うん……パパ、待ってる。あさちゃん、賢い子だから、すぐ来るもんね。パパ、泣かないで、いい子で待ってるもんね」
その夜、雑居房では、看守の目を盗んだ命懸けの「宴」が開かれた。
看守の巡回が遠ざかるタイミングを見計らい、男たちは自分たちの配膳から少しずつ「裏取引」や「貯金」で工面した貴重な品を、寛の前に並べた。
配給のパンから剥ぎ取った「パンの耳」、甘く煮られた「豆」、そして隠し持っていた「角砂糖」。それらが、不格好に、しかし誇らしげに寛の前に差し出された。
「おい、食えよヒロ。誕生日おめでとう。……生きててよかったな、今日は」
「おめでとう、パパさん。これ、俺の一番いいやつだ。やるよ」
寛は、不格好に並べられたそれらの「お祝い」を前に、一生懸命に手を合わせ、震える声で言った。
「みんな、ありがとう。パパ……パパ、今、幸せです。みんな、優しいね」
その笑顔は、鉄格子とコンクリートに囲まれた地獄にあるとは思えないほど、純粋に輝いていた。その光に当てられ、大滝も、詐欺師の男も、強盗犯の男も、みんなが暗闇の中で静かに涙を拭った。
同じ夜。
埼玉県内の、見知らぬ街の、見知らぬ家。
七歳になった麻子は、新しい名字を名乗らされながら、窓のない物置のような自室で、一人机に向かっていた。
彼女の教科書の下に隠された「宝箱」の中には、パパに渡せるはずのない、手作りの「お誕生日カード」が隠されていた。そこには、黄色いクレヨンで力強く描かれたひまわりの絵と、覚えたての漢字で「父へ」と書かれている。
「パパ、お誕生日おめでとう。私は、負けないよ」
麻子は、あの日の夕暮れを忘れていない。パパの手の温もりを、パパが濡れ衣を着せられた瞬間の空気を、魂に刻み込んでいた。
彼女は知っていた。パパが今、世界で一番寂しい場所に、たった一人で囚われていることを。
そして、この世界で自分だけが、その場所の扉を開けられる「鍵」を持っていることを。
麻子は、及川から届いた一通の「公式な通知」を握りしめていた。そこには、父が死刑囚として収容されたことが記されていた。普通の子供なら泣き叫ぶような通知。だが、麻子の瞳には、子供らしい無邪気さは微塵もなかった。
「弁護士になれば、パパを助けられるのかな」
彼女は、図書館で借りてきた難しい法律の本を、辞書を引きながら開き始めた。
七歳の少女の瞳には、国家権力という巨大な怪物を見据える、一人の「闘う者」としての光が、ひまわりのように激しく、熱く灯っていた。
鉄格子の下で泣く父と、月明かりの下で剣を取る娘。
二人の30年にわたる長い戦いの、これが本当の序章だった。




