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6歳の父へ『あさちゃんと、約束の空』  作者: 水前寺鯉太郎


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第6話:雑居房の子供

第6話:雑居房の子供

1997年、冬。

木枯らしが吹き荒れる街の喧騒から隔絶された、冷たいコンクリートの要塞。死刑判決を受けた松山寛は、東京拘置所の深い闇の中へと放り込まれた。

本来、死刑確定囚や重大事件の被告人は、その特殊な立場と精神状態への配慮から独居房(一人部屋)に収容されるのが通例である。しかし、この時期、折からの施設の老朽化に伴う大規模な改修工事と、年末にかけての収容者の急増という不運な重なりが起きていた。空室が一つもないという異常事態の中、拘置所側は苦肉の策として、寛を一時的に雑居房(多人数部屋)へと収容することを決定した。

「おい、新入り。挨拶はどうした。耳が聞こえねえのか、あぁ?」

鉄格子の重い扉が、胃の奥に響くような鈍い音を立てて閉まった瞬間、寛の鼓膜を震わせたのは、地を這うような低い、地鳴りのような声だった。

わずか六畳ほどの狭い雑居房。そこには、寛とは全く質の異なる、本物の「毒」を孕んだ男たちがいた。窃盗を繰り返す粗暴な男、詐欺で多くの家庭を破滅させた冷徹な男、そして傷害事件で幾度も服役を繰り返す筋金入りの無頼漢。彼らにとって、連日ワイドショーを騒がせている「凶悪な幼児殺害犯」である寛は、もっとも忌み嫌われ、同時に格好の「おもちゃ」となる標的だった。

「ひ……ひ、ひろしです。パパ……あさちゃんの、パパです」

寛は、看守に渡された薄い毛布を抱きしめ、膝をガタガタと震わせながら、部屋の隅の、トイレに近い最も冷え込む場所にうずくまった。その体躯は大きいが、縮こまった背中は驚くほど小さく、頼りなげに見えた。

「パパ? 何寝ぼけたこと言ってやがる。お前、自分の欲望のためにガキを殺したんだってなぁ? 新聞に書いてあったぞ。この野郎……どのツラ下げてここに来やがった」

一人の男が立ち上がり、寛の胸ぐらを荒っぽく掴み上げた。三十五歳の屈強な男の体格を持ちながら、恐怖で目に涙を溜め、まるで迷子になった幼児のように震える寛。その「異質さ」と、あまりにも不似合いな純粋さが、男たちの卑屈な嗜虐心を猛烈に煽った。

「やめて、いたい……。パパ、悪い子じゃない、いい子にするから……」

寛のその言葉は、男たちをさらに苛立たせた。

雑居房での生活は、寛にとって地獄そのものだった。

毎食のわずかなおかずを奪われ、理由もなく足を引っ掛けられ、看守の目が届かない死角で拳を叩き込まれる。夜は冷たい床の上で、自分の体温だけを頼りに震える。それでも寛は、決して怒ることはなかった。ただ、激しい痛みに耐えながら「ごめんなさい、ごめんなさい」と、かつて取調室で刑事から教え込まれた、唯一自分を守ってくれるはずだった言葉を繰り返すだけだった。

しかし、ある凍えるような深夜のこと。

同房のリーダー格で、かつて組織の幹部として多くの修羅場を潜り抜けてきた初老の男・大滝が、暗闇の中で寛が何かを大切そうに、祈るように握りしめているのに気づいた。

大滝は、この雑居房の中で唯一、寛に対して暴力を振るわず、静かにその挙動を観察していた男だった。彼はこれまでの人生で、多くの「悪人」を見てきた。虚栄心に満ちた男、狂気を隠した男、そして自分を棚に上げて他者を罵る男。しかし、この寛という男からは、そのどれもが感じられなかった。

「おい、寛。何を隠してる。飯の残りか」

「あ……これは……。大滝さん……これ、宝物……」

寛が、殴られた傷跡で赤く腫れた震える手を開いた。

そこにのっていたのは、ボロボロになり、あちこちが破れかけた一枚の折り紙で作られた「コマ」だった。麻子が施設へ連れて行かれる直前、及川刑務官の目を盗んで、震える手で父に渡した唯一の、そして最後の手作りのプレゼントだ。

「これ……あさちゃんが、くれたの。パパ、いい子にして、あさちゃんに会うまで……これ、守るの。あさちゃんと、約束したから……」

寛の瞳は、激しい暴力によって腫れ上がっているにもかかわらず、月明かりの下で驚くほど澄んでいた。

そこには、自分を虐げる男たちへの恨みも、不当な判決への憎しみも、社会への殺意もなかった。ただ、一筋の、ダイヤモンドよりも硬く純粋な「愛」だけが、一点の曇りもなく宿っていた。

大滝は、言葉を失った。

多くの人間の本性を見抜いてきた彼の直感が、叫んでいた。

この男は、人を殺せるような人間ではない。それどころか、罪を憎むことさえ知らない、ただの「愛の人」なのだと。この泥沼のような、人間の屑が溜まる場所で、誰よりも「人間」として清らかで、美しくあり続けていることに。

「……寛。お前、本当にやったのか? あの女の子を、殺したのか?」

大滝の、今までになく静かで真剣な問いに、寛は力なく、しかし真っ直ぐに首を振った。

「パパ、助けようとしたの。でも……美咲ちゃん、いたいのいたいの……パパ、治せなかったの。パパ、魔法使えないから……ごめんね、美咲ちゃん……」

そう言って、寛は子供のように、声を殺して泣いた。

その夜、雑居房の空気が一変した。

大滝は翌朝、寛を小突こうとした他の囚人の腕を鉄のような力で掴み、静かに、しかし有無を言わさぬ威圧感で言い放った。

「今日から、こいつには指一本触れるな。……分かったな」

男たちがたじろぐ中、大滝は続けた。

「こいつは、俺たちの誰よりも『外の光』に近い。俺たちが忘れた、まともな人間の心を、こいつだけが持っているんだ。……寛は、俺たちが守る」

その日から、雑居房は奇妙な「家族」のような場所に変わっていった。

男たちは、言葉の不自由な寛に、平仮名を教え、絵の描き方を教えた。寛の純粋な笑顔は、荒みきった犯罪者たちの心に、いつの間にか小さな灯火を灯していた。死刑台を待つ場所で、彼らは初めて「誰かを守る」という尊さを学んでいたのだ。

一方、遠く離れた親戚の家。

麻子は、パパの名字を名乗ることを許されず、「佐藤麻子」という偽りの名を背負わされ、新しい環境への「矯正」を強要されていた。

「殺人犯の娘」であることを隠すために、声を潜め、色を失ったような毎日。

しかし、彼女の教科書の隅、ノートの端には、いつも小さな、力強いひまわりの絵が描かれていた。

そしてポケットの奥には、あの日パパからもらった「宝物」のボルトが、いつも体温で温められていた。

「パパ、待っててね。パパが言った通り、私、いい子でお留守番してるよ。……でも、いつか必ず、私がパパを迎えに行くから」

雑居房の冷たい壁に寄り添い、麻子からもらったコマを胸に抱いて、パパの温もりを夢見る父。

新しい名前を押し付けられながら、心の中で一度も絶やすことなく父の名を呼び続ける娘。

二人の心の絆は、司法の無慈悲な断罪も、刑務所の厚い鉄格子も、そして世間の残酷な偏見さえも、決して分かつことはできなかった。

それは、暗闇の中で静かに、しかし確実に芽吹こうとしている「希望」の種だった。

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