第5話:引き裂かれたひまわり
第5話:引き裂かれたひまわり
1997年10月。
事件から2ヶ月が経ち、街を彩っていたひまわりはすっかり枯れ果て、頭を垂れて真っ黒に腐りかけていた。かつて父と娘が「お日様みたいだね」と笑い合ったベランダのプランターも、今は手入れをする者もなく、冷たい秋の風がアパートの隙間を寂しく吹き抜けていた。
麻子は、わずかな着替えと、父が最後に描いた「笑うひまわり」の絵を、命綱のように胸に抱えていた。彼女を待っていたのは、これまで一度も会ったことのない遠い親戚の家だった。
「いいかい、麻子。向こうへ行ったら、名字を変えるんだよ。今日からは、お父さんのことはもう忘れるんだ。それがお前の、唯一の生きる道なんだからね」
迎えに来た叔母の言葉は、麻子の幼い心に鋭いナイフを突き立て、抉るような冷酷さを持っていた。
「パパは、悪いことしてないもん! パパは、嘘つかないもん……!」
麻子がどれほど声を枯らして叫んでも、大人の耳には、それはただの「現実を受け入れられない子供のわがまま」としか届かない。彼女を乗せた車が、住み慣れたひだまり荘を離れるとき、バックミラーに映る古びたアパートがどんどん小さくなっていく。麻子は、視界が涙でぐにゃりと歪み、何も見えなくなるまで、ずっと後ろを振り返り続けていた。
その数日後。
浦和地方裁判所(現・さいたま地裁)の1号法廷で、松山寛の初公判が開かれた。
この事件は連日、ワイドショーやスポーツ紙で「純粋な園児を襲った獣」として刺激的に報じられていた。傍聴席は、幼い子供を標的にした凄惨な事件への、行き場のない怒りに燃える群衆で埋め尽くされていた。
被告人通路から、腰縄をつけられ、手錠をはめられた寛が姿を現した。その体は、たった2ヶ月の拘留生活で、見違えるほど細く、小さくなったように見えた。以前の逞しかった肩は丸まり、歩くたびにガチャリと鳴る鎖の音に、彼はびくびくと肩を震わせている。
寛は法廷に入ると、まず周囲をキョロキョロと見渡した。
「あ……あさちゃん。あさちゃんは?」
独房の冷たい床の上で、彼は毎日麻子の名前を呼び続けていた。ここに来れば、あの明るい場所に連れて行かれれば、麻子に会える。彼はそう信じて疑わなかった。しかし、そこに麻子の姿はない。代わりに自分を射抜くのは、数百人もの大人たちの、獣を蔑むような憎悪に満ちた視線だった。
「被告人は、まっすぐ前を向きなさい」
裁判長の冷徹な、血の通わない声が響く。
検察官が起訴状を読み上げ始めた。「被告人は、公園で遊んでいた被害者を、わいせつな目的で誘い出し……」というおぞましい文言。寛はその言葉の一つ一つの意味を完全には理解できなかった。しかし、検察官の口調や、周囲の大人たちが自分に浴びせる視線が、針を突き刺されるように痛いことだけは、本能的に分かっていた。
「被告人、罪状認否を行います。あなたは、間違いなくこれをやったのですか?」
裁判長が問いかける。
寛は、あの窓のない、暗い取調室で刑事が繰り返し、優しく囁いた言葉を思い出していた。
『これを認めれば、いい子だ。いい子は、おうちに帰れるんだぞ』
『あさちゃんが待ってる。パパ、早く帰らなきゃダメだろ?』
彼は、恐怖と期待で喉を痙攣させながら、消え入りそうな声で答えた。
「……はい。パパ、やりました。だから、もう、おうちに帰して……。あさちゃんに、会わせてください。パパ、いい子にするから……」
その瞬間、法廷内は怒号に似た騒然とした空気に包まれた。
「なんて身勝手な!」「娘に会いたいだと? 殺された子の親の気持ちを考えろ!」「反省の色がまったくない!」
傍聴席から罵声が飛び交う。裁判長が木槌を叩いて制止するが、その音に寛は悲鳴を上げて首をすくめ、震える手で自分の膝を強く抱きしめた。
彼にとって、この「告白」は罪の肯定でもなければ、被害者への謝罪でもなかった。それは、ただ、愛する娘の元へ帰るための、刑事から教わった唯一の「魔法の呪文」だったのだ。しかし、その魔法は、彼をさらなる地獄の深淵へと引きずり込んでいった。
判決までの道のりは、あまりにも早かった。
決定的な物証はなく、警察が作成した、知的障害を持つ被告人の矛盾だらけの自白調書だけが唯一の証拠だった。本来ならば、慎重な審理が必要なケースである。しかし、世論という名の荒れ狂う暴風が、冷静な判断を司法から奪い去っていた。「一刻も早く、この怪物を処罰しろ」という声が、裁判官たちの背中を押していた。
わずか数回で結審した裁判。
判決の日、法廷には重苦しい沈黙が降りていた。
「主文。被告人を、死刑に処する」
死刑。
寛には、その二文字が持つ「命を奪われる」という本当の意味が分からなかった。
ただ、自分がもう「あさちゃん」の元へは帰れないということ。そして、大好きだったコロッケを買って帰る夕暮れも、ひまわりの花を一輪ずつ丁寧に育てる夏も、二度と訪れないこと。その「喪失」だけを、彼は冷たい床から伝わる振動のように、本能的に察した。
「パパ……すぐ帰るって……あさちゃんに、約束したのに……。パパ、悪い子なのかな……。あさちゃん、ごめんね……」
警備員に両脇を抱えられ、法廷を去る間際、寛は誰もいない、しかし憎悪だけが渦巻く傍聴席に向かって、力なく、届かない手を伸ばした。
その顔は、35歳の屈強な男のものではなく、夕暮れの迷子センターで、迎えの来ない親を待ち続ける6歳の子供のように、絶望と孤独に歪んでいた。
同じ時刻。
遠く離れた親戚の家の、冷え切った物置部屋。
麻子は、パパからもらった「宝物」の重いボルトを両手で強く握りしめ、窓から見える狭い夜空を見上げていた。
叔母からは「お前の父親は死ぬ。それが世の中のためだ」と聞かされていた。
学校では「人殺しの娘」と指を指され、石を投げられた。
けれど、麻子の心だけは、あのひだまり荘の陽光を忘れていなかった。
ニンジンが嫌いで一緒に泣いてくれたパパ。
ボルトを星だと言って笑ったパパ。
血だらけの手で、それでも必死に誰かを助けようとしていたパパの、あの日の温もり。
「パパ、今、何してるの? 暗いところにいるの?」
麻子の頬を、冷たい涙が伝う。
しかし、その瞳の奥には、周囲の大人たちを射抜くような鋭い光が宿り始めていた。
「パパは悪いことしてない。私が、それを教えてあげる。パパをいじめる人たちを、私がやっつける」
親戚の家の、積み上げられた古い百科事典。麻子はその中から「法律」という言葉を探し、慣れない指先でなぞった。
30年。
一人の少女が、折れたクレヨンの代わりに「法」という武器を手に取り、死刑台へと続く階段を逆送する、孤独で壮絶な闘いがこの夜、始まった。
ひまわりは枯れても、その種は冷たい土の下で、春を待つために牙を研いでいた。




