第4話:閉ざされた真実
第4話:閉ざされた真実
1997年8月15日。
終戦記念日の朝、街は静まり返っていたが、警察署の奥深くにある取調室だけは、逃げ場のない熱気と殺伐とした空気に支配されていた。
窓のない密室。コンクリートの壁は長年のタバコのヤニで黄ばみ、湿ったカビの臭いと、男たちの苛立ちが混じり合った独特の体臭が淀んでいる。
机の上に置かれた、たった一つの無機質な電気スタンド。その強い光が、パイプ椅子に深く沈み込むように座る松山寛の顔を、残酷なほど白く照らし出していた。
「おい、寛。寝たふりするな。もう一度、最初から言ってみろ」
刑事・佐久間の声が、狭い部屋の壁に跳ね返り、怒号となって寛の鼓膜を叩く。
佐久間は、この道二十年のベテランだった。彼の「実績」は、その強引な手法によって積み上げられたものだ。1997年当時、まだ取り調べの可視化や「録音・録画」といった概念は、警察組織の末端までは浸透していなかった。被疑者の人権よりも「早期の解決」と「自白の確保」が優先される時代。
特に、知的障害を持つ寛のような被疑者は、捜査員たちにとって「手っ取り早く吐かせて終わらせるべき対象」でしかなかった。彼らの目には、寛の怯えた震えも、必死の訴えも、すべて「障害を装った演技」か「知能の低さを利用した言い逃れ」にしか映っていなかったのだ。
「お前、あの子の首を絞めたんだろ? 公園で遊んでて、ついカッとなって、あるいは変な気持ちになって、ギュッとやった。そうだろ?」
寛は、大きすぎる体をパイプ椅子の上で丸め、ガタガタと震わせていた。昨夜から一睡もさせられず、何時間も同じ質問を繰り返されている。彼の思考は、すでに霧の中にいた。
「ちがう……ちがうの。パパ、助けようとしたの。美咲ちゃん、いたいいたいの、してたから……。起きてって、ギュッとしたの……」
「助けようとした? 嘘をつけ! 現場にはお前とあの子しかいなかったんだ。目撃者もいるんだぞ。お前が女の子の手を引いて林に入っていくのを見たってな! お前の服にはあの子の血がべったりついてた。お前の爪の間にも血が入ってた。これはな、お前が殺したっていう動かぬ証拠なんだよ!」
佐久間が、寛の目の前でドスンと机を叩いた。
その凄まじい衝撃音に、寛は短い悲鳴を上げて両耳を塞いだ。彼は大きな物音が何よりも苦手だった。工事現場での仕事でも、大きな音がする機械を扱うときは、いつも誰よりも怖がっていたのだ。
寛にとって、この場所は恐怖の具現化だった。
自分を睨みつける大人の冷たい目。理解できない難しい言葉の羅列。そして何より、最愛の娘・麻子の元へ帰してくれないという事実が、彼の心を絶望の淵へと追いやっていた。
「あさちゃん……。あさちゃん、待ってるの。コロッケ、買わなきゃ……。パパ、おうちに帰るの。あさちゃんに会うの……」
寛の瞳から、ボロボロと大粒の涙がこぼれ、取調室の机を濡らした。その姿は、体だけが大きくなった、迷子の子供そのものだった。しかし、佐久間はその涙に一片の同情も示さなかった。
「帰りたいか? おうちに帰って、娘さんに会いたいか?」
佐久間は、急に声を低くした。怒号よりも恐ろしい、蛇のような冷たい響き。彼は寛の顔に、自分の顔をギリギリまで近づけた。
「だったら、これを認めろ。この紙にハンコを押せば、すぐに終わる。そうすれば、お前はもう怒られなくて済むし、楽になれるんだぞ、寛」
それは、悪魔の囁きだった。
「知能が6歳程度」という寛の特性を、捜査員たちは残酷なまでに利用し始めた。彼らは、寛が「嫌なことから逃げたい」「誰かを信じて、いい子だと言われたい」という子供のような純粋な動機で動くことを熟知していた。その特性を突くことが、自白というゴールへの最短距離だと、彼らは計算していたのだ。
取り調べは深夜から明け方へ、そしてまた翌日の昼へと続いた。
食事はほとんど与えられず、数時間おきに強い光を浴びせられる。睡眠不足で意識が朦朧とする中、寛の防御本能は少しずつ削り取られていった。彼にとって、美咲ちゃんが死んでしまったという悲しい記憶と、刑事から突きつけられる「お前がやった」という言葉が、次第に混濁し始めた。
「これにハンコを押せば……あさちゃんに会えるの? パパ、おうちに帰れるの……?」
寛は、焦点の定まらない目で佐久間を見上げた。その声には、もう何の力も残っていなかった。
「そうだ。いい子だ、寛。これを認めれば、お前はもう悪くない。お前はいい子だ。いい子は、ちゃんとおうちに帰れるんだぞ。麻子ちゃんだって、お父さんが早く帰ってくるのを待ってるはずだ」
佐久間が差し出したのは、あらかじめ警察側が「筋書き」通りに作成した自白調書だった。
そこには、寛が性的な欲求を抱いて少女を追いかけ、抵抗されたために逆上して殺害したという、事実とは似ても似つかぬ、しかし一貫性のある物語が書き連ねられていた。
寛は、差し出された朱肉を、震える右手の人差し指につけた。
漢字も読めず、内容も理解できない。ただ、「これをすれば終わる」「あさちゃんに会える」という、目の前の大人が提示した唯一の希望にすがるしかなかった。
真っ白な書類の末尾に、赤い朱肉の跡が並ぶ。
己の運命を決定づける断罪の印。それを押し続ける寛の背中は、窓から差し込む一筋の陽光さえ届かない場所で、ひどく震えていた。
同じ頃。
ひだまり荘のアパート「202号室」は、重苦しい沈黙と、片付けられた荷物の虚無感に包まれていた。
麻子は、児童相談所の職員である女性に付き添われ、小さなリュックサックに必要なものだけを詰めていた。昨日までパパと笑い合っていた部屋には、もう主の声は響かない。
「パパは? パパはいつ帰ってくるの? お買い物、まだ終わらないの?」
麻子の問いに、職員の女性は悲しげに目を伏せ、首を振るだけだった。彼女にも、この6歳の少女に「お父さんは、人殺しとして捕まったのよ」と伝える勇気はなかった。
玄関先には、昨日二人で水をやったひまわりが、夏の月明かりを浴びて静かに揺れていた。
麻子は、パパからもらった「宝物」の重い鉄のボルトを、ズボンのポケットに強く握りしめた。その冷たい感触だけが、今の彼女にとって唯一、パパと繋がっている証だった。
「パパは、嘘つかないもん。悪いこと、絶対しないもん……!」
麻子は、自分に言い聞かせるように、誰もいない部屋に向かって叫んだ。その声は、虚しく壁に跳ね返るだけだった。
翌朝。
朝刊の一面には、黒々とした太字の見出しが踊った。
『無垢な園児の命を奪った獣――幼児殺害事件、近所の男を逮捕。容疑を認める自白』
新聞には、目を隠された寛が、警察車両に押し込まれる瞬間の写真が掲載されていた。その姿は、世間の人々にとって「正義の鉄槌を下すべき怪物」にしか見えなかった。
こうして、一人の優しすぎる「無垢な父」は、国家という巨大な力の手によって、一瞬にして「凶悪な殺人犯」へと仕立て上げられた。
30年間に及ぶ、果てしない冬。
誰にも信じてもらえない、地獄のような闇の始まりだった。




