第3話:運命の夕暮れ
第3話:運命の夕暮れ
1997年8月14日。
その日は、朝からねっとりと肌にまとわりつくような湿気が街を覆い、息苦しいほどの熱気が立ち込めていた。空は不気味なほど青く、どこまでも高く澄み渡っていたが、地上ではセミの鳴き声が、まるで何かの終わりを告げる悲鳴のように激しく響き渡っていた。
ひだまり荘の2階、風の通りにくい六畳間では、寛と麻子が夏休み恒例の「大作戦」に没頭していた。
「パパ、見て! 今日は『黄色いひまわりの写生大会』だよ!」
麻子が意気揚々と新しい画用紙を広げると、寛は目を細めて「わあ、かっこいい名前だね!」と歓声を上げた。彼は、昨日近所の文房具店で一緒に買った新品のクレヨンを、色鉛筆を並べるように一本ずつ丁寧に、几帳面に並べていく。
寛の手は、日々の過酷な現場仕事で節くれ立ち、指先は固く荒れていた。しかし、クレヨンを握るその仕草は、まるで壊れやすい宝物を扱うかのように慎重で、優しさに満ちていた。彼は自分の知能が娘と同じであることを自覚してはいなかったが、「あさちゃんと過ごすこの時間」が人生で最も尊く、欠かすことのできない儀式であることを、魂の深いところで理解していた。
「あさちゃん、パパも描くよ。パパ、ひまわりさん描くの、とっても上手なんだから。見ててね」
寛が握った黄色いクレヨンが、画用紙の上を踊る。彼が描く花は、遠近法も写実性も無視していた。茎は少し右に曲がり、大きな花びらは、太陽というよりは太陽に向かって大笑いしている巨大な笑顔のように見えた。
「パパのひまわり、笑ってるね。お口があるみたい」
麻子がクスクスと笑うと、寛も誇らしげに胸を張った。
「うん! ひまわりさんも、あさちゃんとパパが大好きだから、笑ってるんだよ。お日様に向かって、あははーって言ってるんだ」
そんな無邪気な会話を、開け放たれた窓から吹き込む熱風がさらっていく。カーテンが力なく揺れ、風鈴がチリンと寂しげな音を立てた。
この時、アパートから数キロ離れた場所にある「みどり公園」では、一人の少女が母親の目を離れ、木陰のベンチでポツンと座り込んでいた。近所に住む5歳の幼稚園児、美咲ちゃんだった。彼女の頬には涙の跡があり、迷子になった不安で小さな肩が震えていた。
午後4時。
西日が部屋の奥まで差し込み、畳が熱を帯びていた。
「あさちゃん、パパ、ちょっとお買い物行ってくるね。今日の夜ごはんは、あさちゃんの好きなコロッケだよ。お肉屋さんの、揚げたてのやつ」
寛は、麻子が誕生日に贈った古びたがま口財布をしっかりと握りしめた。
「私も行く!」
そう言って立ち上がった麻子だったが、ふと描きかけのひまわりの絵に目を落とした。どうしても、花びらの中心の茶色を完璧に塗りたかった。
「……やっぱり、お留守番してる。この絵、パパが帰ってくるまでに完成させるね」
「そっか。じゃあ、パパ、急いで行ってくるよ。コロッケ、熱々だよ」
「パパ、気をつけてね。車、めっ!だよ。右見て左見て、だよ」
「はーい! パパ、ちゃんとするよ。あさちゃん、いい子でお留守番しててね」
寛は玄関の三和土で、麻子の頭を大きな掌で優しく撫でた。
その掌の厚み、少し汗ばんだ温もり。それが、自由な身である父から直接受け取ることができる最後の温もりになるとは、6歳の麻子には知る由もなかった。
寛は鼻歌を歌いながらアパートを出た。
商店街への近道として、彼はいつもショートカットのために「みどり公園」の中を通り抜ける。セミの時雨が降る公園は、夕暮れ時ということもあり人影もまばらだった。
砂場の隅に、一人で泣いている小さな影を見つけたとき、寛の足は自然に止まった。
彼にとって、泣いている子供を放っておくという選択肢は、この世に存在しない。なぜなら、彼自身も転べば泣き、道に迷えば怯え、誰かに優しくされることでようやく救われる「子供」の心を持っていたからだ。
「どうしたの? いたいいたいの?」
寛は美咲ちゃんの前にゆっくりとしゃがみ込んだ。身長180センチ近い自分の大きな体が、小さな女の子に恐怖を与えないよう、できるだけ背中を丸め、視線を同じ高さに合わせる。
美咲ちゃんは、しゃくり上げながら顔を上げた。
「……おうちに、帰りたいの。ママが、いなくなっちゃったの」
「そっか、そっか。迷子さんだね。よし、大丈夫だよ。パパと一緒に、ママを探そう。パパがついてるから、もう怖くないよ」
寛は、自分が「パパ」であることを誇りに思っていた。麻子の父親であるという事実が、彼の唯一のアイデンティティだった。だから、困っている子がいれば、自分が麻子のパパであるように、その子の無条件の守り手になろうとしたのだ。
「あっちかな? こっちかな?」
寛は美咲ちゃんの小さな手を、包み込むように優しく引いた。美咲ちゃんも、寛の穏やかな、まるでお日様のような笑顔に安心したのか、その大きな、節くれ立った手をぎゅっと握り返した。
しかし、運命はあまりにも残酷な悪戯を用意していた。
二人がママを探して歩き出した先には、うっそうと茂る防風林と、その先に続く、整備されていない急な斜面があった。
「あっちに、お花がいっぱい咲いてるよ。あっちにママいるかな?」
寛が指差した、少し遠くの草むらを見ようとしたその時だった。美咲ちゃんが足元の濡れた落ち葉でサンダルを滑らせた。
「あ!」
「あぶない!」
寛は咄嗟に手を伸ばした。しかし、重い資材を運ぶために鍛えられた彼の大きな体は、反射的な機敏な動きには向いていなかった。指先が美咲ちゃんの服をかすめたが、力は届かなかった。
美咲ちゃんの小さな体は、あっという間に斜面を転がり落ちていった。
「まって! まって!」
寛は必死で斜面を駆け下りた。自分の足がもつれ、転倒しながらも草をかき分け、崖の下にたどり着いた。
そこには、突き出た岩に頭を強く打ち、血を流してピクリとも動かなくなった美咲ちゃんの姿があった。
「……おきて? おきてよ」
寛は震える手で、美咲ちゃんを抱き起こした。
「たいへんだ、おきてよ、美咲ちゃん」
パニックに陥った寛は、彼女を助けようと必死に体を揺すり、強く抱きしめた。彼の白いTシャツに、少女の赤い血がべったりと付着していく。
寛の思考は完全に白濁した。
どうすればいいのか分からない。救急車を呼ぶという知識も、公衆電話を探して110番するという判断も、今の彼には出てこない。
ただ、腕の中で冷たくなっていく少女を抱きしめ、「ごめんね、パパがついてるのに、ごめんね」と子供のように泣きじゃくることしかできなかった。
その頃、アパートの部屋で帰りを待つ麻子の元へ、遠くからサイレンの音が聞こえてきた。
最初は小さく、次第に空気を切り裂くような鋭い音となって。
一台、また一台。
赤い警告灯の光が、窓の外の電信柱や隣の家の壁を不気味に照らし始める。
「パパ、遅いなあ。コロッケ、売り切れちゃったのかな」
麻子は、ようやく描き終えた「笑うひまわり」の絵を、畳の上に置いて眺めていた。
パパに見せて、褒めてもらいたい。「あさちゃんは天才だね」と言って、あの大きな手で、また頭をぐしゃぐしゃに撫でてほしい。
しかし、玄関のドアを叩いたのは、父の優しいノックではなかった。
暴力的なまでの、重苦しい衝撃音。
「……松山寛さんのご自宅ですね?」
ドアが開くと同時に、重苦しい汗の匂いと、鉄のような冷たい気配を纏った、黒い制服の男たちが土足同然に部屋に踏み込んできた。
「パパは? パパはどこ? コロッケは?」
麻子の幼い問いに、大人たちは誰も答えなかった。彼らの目は冷たく、まるで「汚いもの」を見るような軽蔑が混じっていた。
一人の刑事が、部屋の隅に置かれた麻子の絵を、土足の革靴で踏みつけるようにして通り過ぎた。
警察車両の無線から流れる無機質な合成音声が、パパのいない静かな部屋に、残酷に響き渡った。
『――容疑者の身柄を確保。現場付近で返り血を浴び、逃走を図ろうとした男を発見。被疑者は知的障害を有する松山寛。現行犯で連行する』
その夜、麻子の描いたひまわりの絵は、踏みにじられた跡がついたまま、主を失った畳の上に放り出された。
外は、真っ黒な闇がすべてを飲み込もうとしていた。そして、麻子にとっての「正義」だった父は、一晩にして「凶悪な殺人犯」へと作り変えられていった。
30年に及ぶ、果てしない冬の始まりだった。




