第2話:ひまわりの背丈、同じ目線
第2話:運命の夕暮れ
1997年、夏。
見上げるような入道雲が、青い空に真っ白な城を築いていた。
埼玉県の外れにある、築40年の古びた木造アパート「ひだまり荘」。西日の当たる外廊下は、熱を含んだ空気にゆらゆらと陽炎を躍らせ、セミの声が降り注ぐ雨のように激しく響いている。その一室から、元気な笑い声が漏れてきた。
「パパ、見て! ちょうちょ、捕まえたよ!」
当時6歳の麻子が、小さな虫取り網を誇らしげに掲げ、畳の上を裸足で駆ける。
「わあ、あさちゃん、すごい! かっこいい! ちょうちょさん、パパにも見せて!」
同じように目を輝かせて拍手を送るのは、父・寛だ。
寛は35歳。現場仕事で鍛えられた肩幅は広く、日焼けした肌に浮き出る腕の筋は、いかにも逞しい大人の男のそれだった。しかし、その大きな身体に宿る心は、驚くほど純粋で、無垢だった。重度の知的障害があり、知能指数は6歳程度。彼は、娘である麻子と、精神的に全く同じ「同い年」の親友だったのだ。
二人の朝は、ベランダのプランターに植えられたひまわりに水をやることから始まる。
「おはよー、ひまわりさん。お水、おいしい? お腹すいてない?」
寛は青いプラスチックのジョウロを持ちながら、一輪一輪に丁寧に、優しく話しかける。麻子も隣で、おままごとに使う小さなコップを使って水を分ける。
「パパ、ひまわりさん、明日はもっと背が高くなるかな? 屋根まで届くかな?」
「うん! あさちゃんみたいに、ぐんぐん伸びるよ。パパも負けないぞー、うーん!」
寛はそう言って、ひまわりの真似をして背伸びをし、自分の身長をさらに高く見せようとする。その仕草があまりに可笑しくて、二人は顔を見合わせてケラケラと笑い転げた。
麻子にとって、父が他人と少し違うことなど、何の問題でもなかった。むしろ、どの友達の父親よりも自分と同じ目線で驚き、喜び、遊んでくれる寛は、世界で一番誇らしい「パパ」だった。
寛の仕事は、近所のプレス工場での単純作業だ。
職人気質の工場長は、言葉のたどたどしい寛を「寛坊」と呼び、我が子のように根気強く仕事を教えてくれていた。
「いいか寛、これはここに置くんだぞ。慌てると危ないからな、怪我だけはするなよ」
「はい、しゃちょーさん! 寛、頑張ります! えい、おー!」
寛は汗を流しながら、鉄の板を運ぶ。単純な繰り返し作業こそ、彼の集中力が最も発揮される場所だった。夕方、仕事帰りの寛の手には、いつも小さな「お土産」があった。
それは、道端に咲いていた名もなき野花だったり、あるいは、工場の隅に落ちていたピカピカのボルトだったりする。
「あさちゃん、ただいま! 見て見て、これ、宝物!」
寛が泥のついた手で誇らしげに差し出す六角形のボルトを、麻子はまるで最高級の宝石でも受け取るかのように恭しく受け取った。
「わあ、光ってる! パパ、ありがとう。これ、私の宝物箱に入れるね」
「うん! パパ、また明日も探してくるよ」
二人の夕食は質素だった。
数年前に亡くなった母が遺してくれたわずかな貯金と、寛が工場で稼ぐささやかな給料、そして行政の福祉支援。決して裕福とは言えない暮らしだったが、小さな食卓にはいつも温かな空気が流れていた。
「パパ、ニンジン残しちゃダメだよ。先生が、ニンジンさんはお目目にいいって言ってたもん」
「うう、ニンジンさん、怖い顔してる……寛、食べられないよ……」
「大丈夫、私が魔法をかけてあげるから。目をつぶって……えいっ!」
麻子がプラスチックのスプーンを杖のように振ると、寛は「わあ、魔法だ! 魔法かかった!」と大喜びで口に運ぶ。その様子は、どちらが親で、どちらが子か、傍目には判別がつかないほどだった。
近所の住人の中には、そんな二人を奇異な目で見たり、露骨に眉をひそめたりする者もいた。
「あんな親に育てられて、あの子は可哀想だ。まともな教育も受けられないだろうに」
「知的障害者に子育てなんて、本来なら無理な話よ。事故でも起きたらどうするのかしら」
そんな心ない陰口が、開け放たれた窓から聞こえてくることもあった。しかし、6歳の麻子にとって、寛は完璧な父親だった。
勉強を教えることはできなくても、一緒に泥だらけになってカエルを追いかけてくれる。
難しい理屈や道徳を説くことはなくても、転んで膝を擦りむいた時には、大きな手でずっと背中をさすり、自分まで泣き出しそうな顔をして寄り添ってくれる。
寛の愛は、言葉による教育ではなく、ただそこに在るという「絶対的な肯定」だった。
「パパ、ずっと一緒にいようね。おばあちゃんになっても、ずっとだよ」
寝る前、使い古された小さな布団を二つ並べて、麻子が呟く。
「うん、あさちゃん。ずっと一緒。パパ、あさちゃんのこと、大好き。世界で一番、大好きだよ」
寛の節くれ立った大きな手が、麻子の柔らかな小さな手をそっと包み込む。
窓の外では、夜の虫たちが静かに、しかし力強く歌っていた。
この穏やかで、陽だまりのような時間が、永遠に続くと二人は信じて疑わなかった。
運命の日。その日は、ことさら暑い土曜日だった。
夕暮れ時、空は燃えるような茜色に染まり、家々の影が長く伸びていた。
寛は麻子と「コロッケ」を買いに、近所の商店街へ出かける約束をしていた。しかし、麻子が急に描きかけの絵を完成させたいと言い出し、寛は一人で買い物へ行くことになった。
「パパ、気をつけてね。車、めっ!だよ」
「はーい、あさちゃん。右見て、左見て、渡るよ。パパ、いい子でお買い物してくるね」
寛はそう言って、お気に入りの黄色いポシェット(麻子からのプレゼントだ)を下げ、鼻歌を歌いながらアパートを出た。
その途中、公園の近くを通った時のことだ。
ベンチの陰で、小さな女の子が一人で泣いているのが、寛の目に留まった。
名前は美咲ちゃん。近所に住む5歳の幼稚園児だった。彼女は母親とはぐれ、迷子になってパニックを起こしていたのだ。
寛の「6歳の心」が、真っ先に反応した。
困っている子がいる。泣いている子がいる。助けてあげなきゃ。あさちゃんだったら、パパに助けてほしいはずだ。
「どうしたの? いたいいたいの?」
寛は美咲ちゃんの前でしゃがみ込んだ。大きな体が怖がらせないよう、できるだけ小さくなって、顔を覗き込ませる。
「……ママが、いないの。おうちに帰りたい……」
美咲ちゃんは、しゃくり上げながら答えた。寛はその言葉を聞いて、ぱあっと笑顔になった。
「おうち! パパ、おうち知ってるよ。あっちかな? 一緒に探そう。パパ、ついてるから大丈夫だよ」
寛は、自分が「パパ」であることを誇りに思っていた。だから、迷子の美咲ちゃんにとっても「守ってくれるパパ」になろうとしたのだ。
「おじいちゃん、一緒に遊ぼう」
そう言ったのは、寛だったか、あるいは不安を紛らわせようとした美咲ちゃんだったか。二人は手を繋ぎ、夕闇が迫る公園の奥へと歩き出した。
しかし、その光景を遠くから見ていた住人がいた。
その住人の目には、ガッシリとした大人の男が、泣きじゃくる幼女の手を引き、人目のない森のほうへ連れ去るという、不気味で危険な「誘拐」の構図にしか見えなかった。
運命の歯車は、ガチリと音を立てて噛み合った。
夕暮れの公園。カラスの鳴き声が不吉に響く中、寛の純粋すぎる善意は、誰にも理解されないまま、残酷な悲劇の舞台へと引きずり込まれていく。
美咲ちゃんがその直後、足を踏み外して斜面から転落し、頭を強く打って息を引き取ってしまうことを、寛はまだ知らない。
そして、冷たくなった彼女を抱きしめて「おきて、おきてよ」と泣きじゃくる自分の手が、返り血で真っ赤に染まっていることが、後戻りできない絶望の証拠にされてしまうことも、彼はまだ知らない。
1997年、夏。
あの日、ひまわりが咲き誇る丘で交わした「ずっと一緒」という約束は、この夕暮れの闇の中に、音もなく消えていこうとしていた。




