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6歳の父へ『あさちゃんと、約束の空』  作者: 水前寺鯉太郎


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後日談:ひまわりの系譜

後日談:ひまわりの系譜


2026年、春。

東京地方裁判所での無罪判決から一ヶ月。世間を震撼させた「松山寛・再審無罪事件」の熱狂は、依然として冷める気配を見せていなかった。ワイドショーは連日、警察庁元長官・神崎の失脚と、捜査機関による組織的な隠蔽工作を報じ、SNSでは「司法の闇」に対する激しい批判が渦巻いている。

しかし、その嵐の中心にいたはずの松山麻子は、それらの騒音から遠く離れた場所にいた。

彼女は、長年勤めていた大手法律事務所を辞めていた。無罪を勝ち取ったことで、彼女の元には「人権派の旗手」としての高額なオファーや、政界進出の打診さえ舞い込んでいたが、彼女はそのすべてを静かに断った。

麻子が選んだのは、下町の小さな商店街の端にある、古びた二階建ての物件だった。

一階は、地域の人々がふらりと立ち寄れる「こども食堂」を兼ねたフリースペース。そして二階が、彼女の新しい拠点「松山法律事務所」である。

「先生、また今日もコロッケの差し入れが届いてますよ」

事務員として麻子を支えることになったのは、かつて及川が目をかけていた後輩刑務官の娘、佐藤だった。彼女もまた、父から「松山寛という男の真実」を聞かされ、麻子の戦いに心を打たれた一人だった。

「あら、嬉しいわね。今日の晩ごはんにみんなでいただきましょう」

麻子は書類から顔を上げ、穏やかに笑った。かつての法廷で見せた「戦う女」の鋭い眼光は消え、そこにはただ、大切な居場所を守ろうとする一人の女性の顔があった。


一方で、かつて「国家の守護神」とまで謳われた神崎の末路は、あまりにも無惨なものだった。

再審判決を受けて検察庁が動かざるを得なくなり、神崎は「職権濫用」および「偽証教唆」の疑いで逮捕・起訴された。彼が私的に作り上げた「捜査協力金」という名の裏金の存在も明るみに出て、警察組織全体を巻き込む大スキャンダルへと発展した。

拘置所の独房。皮肉にも、かつて自分が寛を閉じ込めた場所と同じ、冷たいコンクリートの四角い部屋に神崎はいた。

面会に訪れた弁護士に対し、神崎は終始、虚空を見つめながらこう呟いたという。

「私は……正義を成したはずだった。あの子の無念を晴らすために、悪を葬ったはずだった……」

彼は今も、自分の犯した罪を理解していなかった。復讐を正義と履き違え、一人の純粋な魂を蹂躙したことへの後悔よりも、自分の築き上げた城が崩れたことへの困惑が勝っていた。

神崎にはもう、彼の名前を呼ぶ家族も、忠誠を誓う部下もいない。残ったのは、冷たい壁と、自分の人生を否定し続ける検察の厳しい追及だけだった。


春が過ぎ、初夏の日差しが街を黄色く染め始める頃。

麻子の娘・ひかりは、学校から帰ると真っ先に一階のスペースへと駆け込むようになった。

「ママ、見て! おじいちゃんのひまわり、こんなに大きくなったよ!」

入り口の花壇には、あの日、丘に植えた種と同じ種類のひまわりが、ひかりの背丈を追い越さんばかりに成長していた。麻子が毎日欠かさず水をやり、ひかりが毎日「おはよう」と声をかけてきた花たちだ。

ひかりは、学校で「おじいちゃんのこと」を作文に書いたという。

かつて麻子が「殺人犯の娘」として石を投げられたのに対し、ひかりの周囲は違っていた。

「ひかりちゃんのおじいちゃんは、ヒーローなんだね」

「火事の中から人を助けたなんて、すごいね」

同級生たちの言葉に、ひかりは胸を張って答える。

「うん。おじいちゃんはね、世界で一番優しくて、ずっと私たちが来るのを待っていてくれたんだよ」

麻子はその会話を台所で聞きながら、静かに涙を拭った。

自分がかつて受けた傷は、もうひかりには届かない。父が守りたかった「麻子の笑顔」は、30年の時を経て、孫であるひかりの代で完全に花開いたのだ。


ある日、麻子の元に一通の手紙が届いた。

差出人は、あの雑居房のリーダー格だった大滝だった。彼はすでに刑期を終え、地方でひっそりと清掃員として働いているという。

『麻子さん。新聞であのニュースを見ました。

ヒロが、ついに自由になったと聞いて、独りで酒を飲みました。

あの時、あいつを独房へ見送った背中が、今でも夢に出てきます。

あいつは最後まで、あんたのことを話していました。

「あさちゃん、コロッケ好きかな」「パパ、いい子にしてるかな」

あいつは死刑囚なんかじゃなかった。俺たちみたいな汚れきった人間の中に舞い降りた、迷子の天使だったんだと思います。

あんたが、あいつを地獄から救い出してくれた。

俺からも、ありがとうと言わせてください。』

麻子はその手紙を、父の遺影の前に供えた。

遺影の中の寛は、あの日、ひだまり荘の近くの公園で撮った、不器用なピースサインをして笑っている。

その笑顔は、今も麻子の心を温め続けている。


夏休みに入り、麻子とひかりは再び、あのひまわりが咲き誇る丘を訪れた。

そこには、及川の墓もある。及川が最期に「松山寛の近くで眠りたい」と願ったため、麻子が尽力してこの丘が見渡せる場所に墓所を構えたのだ。

墓前には、揚げたてのコロッケと、キンキンに冷えた麦茶が供えられた。

「お父さん。及川おじいちゃん。無事に、一回目の法要が終わりましたよ」

麻子は墓石に手を合わせ、心の中で語りかけた。

及川が命を懸けて守った資料。それがなければ、今回の再審無罪はあり得なかった。神崎という巨大な壁に風穴を開けたのは、麻子の執念だけでなく、及川という一人の男の「良心」だったのだ。

及川の墓石には、彼が生前好んでいた言葉が刻まれている。

『真実は、時として遅れてやってくる。だが、必ずやってくる。』

風が吹き抜け、墓地の周囲に植えられたひまわりが一斉に頭を揺らした。

ザワザワというその音は、及川と寛が酒を酌み交わしながら、「よくやったな、麻子」と笑い合っている声のように聞こえた。

6. 30年目の夏休み

丘を下り、二人はかつて「ひだまり荘」があった場所へと足を向けた。

アパートはすでに取り壊され、そこには新しい分譲住宅が建ち並んでいたが、建物の配置や、近くの公園の鉄棒は当時のままだった。

「ママ、ここでおじいちゃんと遊んだの?」

「そうだよ。ここでパパに背中を押してもらって、ブランコを漕いだの」

麻子はひかりの手を引きながら、当時の情景を語って聞かせた。

悲しい記憶だけではない。父と二人、貧しくても笑い転げていた日々。コロッケを半分こにした夕暮れ。折り紙のコマを回して遊んだ夜。

それらすべての「愛されていた記憶」が、今の麻子を形作っている。

麻子は気づいた。

寛が遺したのは、悲劇だけではない。彼がその純粋な魂で麻子に注ぎ続けた「無条件の愛」こそが、彼女が人生の荒波を乗り越えるための最大の糧だったのだ。

「ひかり。おじいちゃんはね、今もここにいるよ。私たちが笑っているとき、おじいちゃんも一緒に笑ってるの」

ひかりは不思議そうに麻子の顔を見上げ、それから嬉しそうに頷いた。


2026年、8月。

丘の頂上は、かつて寛が言った通り、一面のひまわりで埋め尽くされていた。

夏の太陽を真っ直ぐに見つめる数千の花々は、まるですべてが松山寛の化身であるかのように、力強く、そして優しく咲き誇っている。

麻子は、新しく始めた「こども食堂」の子供たちを連れて、この丘にピクニックに来ていた。

「わあ、すごい! 黄色の海みたい!」

子供たちが歓声を上げ、ひまわり畑の中を駆け抜けていく。

その中には、かつての寛のように、少し不器用で、周囲に馴染めない子もいた。麻子はその子の隣に座り、優しく語りかける。

「大丈夫だよ。あなたはあなたのままで、とっても『いい子』なんだから」

麻子の活動は、徐々に実を結び始めていた。

冤罪被害者の支援だけでなく、知的障害を持つ人々が不当な扱いを受けないための法改正に向けたロビー活動。そして、行き場のない子供たちのためのシェルター作り。

彼女は「松山寛の娘」として、父が残した「優しさ」というバトンを、次の世代へと繋いでいた。

夕暮れ時。

子供たちが帰り支度を始める中、麻子は一人、丘の端に立って沈みゆく太陽を見つめていた。

空は燃えるようなオレンジ色に染まり、ひまわりたちがその影を長く伸ばしている。

ふと、背後に誰かの気配を感じて振り返った。

そこには、麦わら帽子を被り、白いシャツを着た大きな体の男が立っているような気がした。

男は困ったように笑いながら、手に持った茶色の紙袋を差し出している。

『あさちゃん、ただいま。コロッケ、買ってきたよ』

麻子は、ゆっくりと目を閉じた。

頬を撫でる風は、あの日、拘置所の面会室で感じた父の手の温もりそのものだった。

「おかえり、パパ」

麻子の唇から、30年越しの言葉が零れた。

その声は、風に乗ってひまわり畑を渡り、空へと溶けていった。

物語は、ここで本当の終わりを迎える。

だが、ひまわりの種は毎年土に還り、また新しい夏に花を咲かせる。

松山寛が守り抜いた純粋な愛は、麻子からひかりへ、そして彼女が救う多くの子供たちへと、永遠に受け継がれていく。

空には一番星が輝き始めた。

それは、かつて寛が「パパがお星様になって見守ってるよ」と言った、あの約束の光のように、今も麻子の行く道を明るく照らし続けていた。

ひまわりの咲く丘に、もう悲しい涙はない。

そこにあるのは、ただ、愛する人を信じ抜いた者たちだけが知る、静かで深い幸福の情景だった。



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